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1.解脱

解脱とは

写真:サーンチー第一仏塔(インド)

解脱[げだつ]」とは、一つには、際限なく生滅[しょうめつ]を繰り返す輪廻転生[りんねてんしょう]から抜け出す事であり、もう決して再び生まれなくなることを意味します。

また、みずからを苦しみに導く種・原因であるみずからの愚かさを知って、それに打ち勝ち、再び愚かな行いをなさなくなることも解脱と言い得ます。

この意味では、悟りとも言いますが、この場合、一回解脱すれば良し、悟ればお仕舞いなどといった、お手軽なものではありません。

常日頃みずからを律し、苦しみの原因となる悪しき行為、愚かな行いをなさないよう、よく気をつけて怠ることなく生活したならば、その日々の中にこそ解脱があって、それは一回こっきりのものではないのです。ある程度、高い境地に至るまでに、「もうこれくらいで良いだろう。充分だ」と、それまで怠ることがなかった生活を放棄してしまえば、ただちに元の木阿弥[もくあみ]になってしまいます。

よって、この意味での解脱とは、なにかとてつもなく高邁[こうまい]で達しがたい、不可思議で神秘的な体験や境地などではなく、私達の努力次第で現実に達し得る、とても現実的なものです。

悟りへの階梯

解脱、悟りというのは現実的なものですから、伝統的に、悟りへの階梯が定義されています。そして、小乗と大乗とでは、その階梯の数が異なります。

小乗では、四双八輩[しそうはっぱい]あるいは四向四果[しこうしか]と言って、4つあるいは8つの階梯を立てています。大乗では修行者の境地に対して、十地[じゅっち]と言って10の階梯を立てます。ここには、先に挙げた小乗の四双八輩という階梯が含まれています。

あるいは、大乗ではまた別に、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の52の階梯が立てられています。この52の階梯は、『華厳経』「入法界品」に説かれるもので、菩薩はこの52の階梯を踏んで仏陀(仏陀を合わせて53の階梯)となります。この数は、東海道五十三次の由来ともなっています。

ところで、仏教を信仰し、悟りを求めて冥想を深めていく過程で、冥想修行者は尋常ならざる不可思議な体験をする場合があります。そして、これを「解脱体験である」という人があります。しかしそれは、冥想を深めていく過程で経験する一現象であって、解脱などでは到底ありません。そして、そのような現象について、心を寄せるべきではありません。そのような不可思議な現象に執着するのは、いわゆる魔境[まきょう]でしかなく、悟りなどとはほど遠いものです。

悟りを「気づき」である、とした場合、道を求めて経論を読み、戒を守って冥想する仏教修行者は毎日悟ること出来るでしょう。そして、悟りへの階梯を一歩一歩登っていくのです。

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2.涅槃

涅槃とは

写真:釈尊涅槃像(インド・クシーナガル)

涅槃[ねはん]とは、先ほどの解脱とほぼ同じ意味で用いられる場合がありますが、第一義としては、みずからの貪り・怒り・愚かさという、三つの根本的煩悩[ぼんのう]が、まったく制されて止滅[しめつ]した状態、その境地をいう言葉です。

涅槃とは、どこかに遠くにある、永遠の安楽を受ける死後の世界などを指す言葉ではありません。基本的に生きた人間が、あらゆる迷い、愚かさから完全に解脱した状態を涅槃と言います。

もっとも、そのように完全に心を束縛する煩悩から解脱した聖者[しょうじゃ]が、死去・入滅することを「完全な涅槃」と言ったりもします(これを伝統的に般涅槃[はつねはん]あるいは無余依涅槃[むよえねはん]と言います)。

葬式によって死者が救われることはない

ただ普通に日常を生活していた者が、病気や事故や老衰などで死んだとしても、それによって解脱あるいは涅槃、ましてや成仏など、決してすることはありません。その人がいかに「良い人」であったとしても、涅槃にはいること、成仏することもないのです。

また再びその者個人の生前の行いの如何[いかん]によって、あくまで自業自得で、六道のどこかに生まれ変わり、この苦しみの世界を生き続けることになります。ある人は天に、ある人は地獄にゆくでしょう。

いくら遺族たちがねんごろに葬式を挙げ、真心から供養したからといって、死者が涅槃を得ることなど到底出来ません。葬式とは、死者のための儀式などではなく、残されたも者のための、多分に社会的な儀礼でしかありません。死者のために、葬式や法事をいくら丁寧に、莫大な費用をかけて行ったとしても、死者のためという点ではほとんど意味はないのです。

死者のためになにかしたい、と思うのであれば、その人が死者となる前になにかをしてあげるべきだったでしょう。しかし、もはや死者となった後では後の祭りです。

自分自身も、死に際して「我が人生に悔いばかり」であったと後悔する前に、生きている間にこそ行動しておく必要があります。

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3.成仏

成仏とは

写真:釈迦牟尼降・魔成道像(ブッダガヤ大菩提寺本尊・インド)

成仏[じょうぶつ]とは、文字通り「仏陀に成る」ことです。

では仏陀とはなんでしょうか。仏陀は、仏教の教主であることは言うまでもないでしょう。しかし、仏教には、小乗と大乗という、二つの立場。二つの教えの流れがあります。

それぞれが仏陀という存在をどう見るかの解釈を異[こと]にしていますので、なかなかこの説明は容易ではありません。そこで、小乗と大乗とで共通して言える、「仏陀」という言葉と、その存在についての説明をいたしましょう。

仏陀という言葉

仏陀とは、「目覚めた人」を意味する、インド古来の聖なる言語サンスクリットで、あるいは南アジアや東南アジアに伝わった仏教が使用しているパーリ語という言葉で使われていた、Buddha[ブッダ]という言葉を、中国でその発音だけを漢字の読みに当てて写しとった言葉です。これを音写[おんしゃ]と言います。

少々込み入った話になりますが、サンスクリットのBuddhaという言葉は、「目覚める」「気づく」という意味の動詞√budh[ブドゥ]に、過去完了を示す接尾辞-ta がくっついて出来ているものです。(√budhtabudhta―[音変化]→Buddha

また、Buddha[ブッダ]」の音写語である仏陀の、「仏」という漢字は、本来は「佛」の字を用います。これは、ブッダという言葉を音写するときに初めて造られた漢字です。偏の「人偏」は、文字通り「人」を意味します。旁[つくり]の「弗[ふつ]」は、「非」と同じで「否定」を意味します。

このことから知られるでしょう。佛あるいは仏とは、「人に非ず」という意味の漢字であることが。

仏教が伝来した当時の中国では、ブッダを「人とは違う存在」と捉えていたことが、この文字に現れています。もっとも、Buddha[ブッダ]を、その原意どおりに「目覚めた人」と漢訳した、覚者[かくしゃ]という言葉もあります。

ブッダという存在

ブッダとは、先に示したように「目覚めた人」という意味の言葉ですが、何に目覚めた人なのでしょう。それは、「真理に」目覚めた人であったからです。

では、すると、その真理とは何か、という事が問題になるでしょう。それは、一応まで簡単に言うならば、「すべては数々の原因と条件によって形づくられた不安定で不完全なもの。不変なモノなどなにもない」という真理です。しかし、それは、このような簡単な言葉で語り尽くせるものではないので、あくまで「一応」の説明です。伝統的には、十二支縁起を悟った、空を完全に理解した、などと言われます。

さて、ブッダという存在は、まず仏教の教主です。ブッダは、「モノの真の姿、うつろいゆく世界の真相をはっきりと観て、完全なる智慧を獲得し、迷いと執着を断ち切って苦しみを滅ぼした聖者」であり、その智慧に到る術、「苦しみ」を滅する道を、広く人々に開示した存在です。よって、仏教の教主として尊敬され、偉大な智慧の人として崇拝されています。

仏教は、救い主などの絶対的存在としての神を否定し、あくまで「自分自身が自分自身を救う道」を説く宗教です。しかし、時として、ブッダを、キリスト教など一神教における全知全能の神・救い主の様に考え、信仰している人も僧俗問わずにあります。

仏教者であると言っていても、その実、仏教についてほとんど知らない、などと云う人は日本に限らず世界各地に大変多く存在しています。どこの国においても、人の願うことなど自分や家族の健康・富・名誉、それに死後の安楽くらいに集約されるでしょうが、それらの獲得を熱心に仏陀に祈る人々は、これは大乗も小乗も関係がなく、世界中の仏教国にたくさん存在しています。

しかし、仏陀は、そのような人の願いを叶えてくれる存在などではありません。

救わないブッダ

仏陀とは目覚めた人であり、救いにいたる道を開示した人です。そして、その道は、自分自身が生きている時にこそ歩み、達成されるものです。

よって、ある人が死んだ後、遺族によって葬式を挙げられたり、仏壇や墓石の前に供物をあげて読経したり、何事かの儀式をされたりしても、その人が救われること、成仏することなど決してありません。ブッダが人を、直接救うという事は、決してないのです。そのようなことは仏陀自身の言葉によって、否定されています。

しばしば、霊能者と称する人、もっとも最近では「スピリチュアル・カウンセラー」などといった横文字に変わって、その怪しげな語感を誤魔化してしまったようですが、彼らによって「あぁ、あなたのご先祖さんは成仏していないですね。あなたのことを大変心配なさっています。墓参りと仏壇での供養を欠かしてはいけません」、「大丈夫、毎日仏壇の前で手を合わせ、墓参りなどしなくとも、あなたが毎日を感謝の心をもって、懸命に生きていれば、成仏していないご先祖さんも、安心してきっと成仏します」などと、それぞれが好きなように言っているようです。

断言します。そういうことは決してありません。

巷間、しばしば耳にする「仏様が見守って下さる」「仏様がバチを当てる」などということも、ないのです。ただ、なにか崇高なものの存在を信じて日々生活し、それによってその人の行いが善くなるのであれば、そう考えれば良いでしょう。時として、仏菩薩の威光によって、仏の教えの力によって、あるいはその人の積んだ功徳によって、何か不可思議にして好ましい結果が得られることもあるでしょう。しかし、それに救いを求め、祈りすがっただけでは、仏教が言うところの本当の救い、輪廻からの解脱ということが得られることは、決してありません。

ただ、そのような行いを否定する必要など全くありません。ある人には、また普段はそうでない人でもある場合には、それらはとても必要で、大事なことであるからです。それ以外に仕様がない場合や境遇が、人によっては冷酷な現実の前に、厳然としてあるからです。それらをむきになって否定しようとする人が中にはありますが、そのようなことをするのは愚かなことです。

人は我が祈りの為とて

この世に救い主の存在、絶対的・超越的な存在など認められない、というのが仏教です。そのような世界において、自分がいかに正しく生き、そして自身の努力によって自分を救わんとするのが、仏教です。そしてそれは、仏教に依らなければ出来ない、というのも仏教です。

「祈りは尊い」「念ずれば花開く」などという言葉を、無批判に良いもの、正しいものとして受け止めている人は多いようです。しかし、祈りそれ自体は、決して尊いものではありません。人類の歴史を見れば、どれだけ多くの人が祈りつつ殺し、祈りつつ残虐な行為の限りを尽くしてきたか。そして、それらを、どれほど祈りによって正当化してきたか。このようなことから、祈りそれ自体が尊い、ということは言えないでしょう。

念じなくても原因と条件さえ整えば、開く花は開きます。その原因と条件のなかに、「祈り」などありません。

この世に救い主としての「全能の神」など存在しない。そして、ブッダは生きとし生けるものを導かれる偉大な存在ですが、直接誰も救いません。いや、他人を救うことなど誰も出来ないのです。ブッダは、ただ平安への道を説き示されました。そして、その道の導きは、いまだこの現代にまで開示はされています。その道を行くのか行かないのかを決めるのは、結局、自分自身です。

もしその道を行こうと決心したならば、ただ、すべての生命の幸福を願いつつ、日々みずからを律して正しくあろうと行動することから、その第一歩は踏み出されるでしょう。

(関連コンテンツ”明恵上人『阿留辺幾夜宇和』「人は我祈りの為とて」”)

法楽寺 WEB SITE 管理者:沙門 覺應

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