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1.仏教の前提

輪廻転生・因果応報

写真:仏足蹟(パキスタン・ラホール博物館所造)

近世より現代に至るまで、日本人には、儒教的(朱子学的)世界観あるいは自然科学的世界観、はてまたは共産主義に基づく唯物論的世界観を持つ人が多ようです。

しかし、仏教を学び、理解するにあたっては、それを信じる信じないは別としても、どうしても最初に知っておかなければならない、いくつかの前提があります。それは輪廻転生[りんねてんしょう]・因果応報[いんがおうほう]等の、仏教の世界観です。

では、まず「世界観」とは何か、ということから説明しなければならないでしょう。それは、「世界はこのようなものであって、そこで生命や物はこのように存在し、その中で人はこのように生き、死ぬものである」といった、世界や人生に対する見方をいう言葉です。よって、世界観とは、人の価値観の根底、思考の基盤とも言って良いでしょう。

時としてそれは、人が日常の生活で目にしたり耳にしたりする、我々の経験的世界や科学で説明されている世界とは異なったものを説いている、と思われるような場合もあります。

輪廻転生とは

さて、仏教の説く輪廻転生とは、箇条書きにすると以下のような内容のものです。

・世界(宇宙)は、唯一絶対の神によって創造されたものではなく、また唯一絶対の神など存在しない。
・世界(宇宙)は、神などといわれる何者かの仕業によって造られたものではなく、造られたものではないから、世界には始まりが無い。そしてまた、終わりもない。
・世界(宇宙)は、あらゆる生命による「行い」によって、生成・維持・変化・消滅、そしてまた生成というサイクルを無限に繰り返す (宇宙自体も生滅を繰り返している)。
・そのような世界(宇宙)の中で、我々生物もまた、みずから真理に気付くことのない愚かさと、愚かさに基づく行いを止めない限り、苦しみの生存を、永遠に繰り返し続ける。

それはまるで一つの同じ輪の中をグルグルと廻り続けるように、無限に生死を繰り返すことから、輪廻転生と言われます。

因果応報とは

因果応報[いんがおうほう]とは、「すべての行いは、必ずその報いとして、それに応じた結果がもたらされる」という考え方です。これを多少詳しく言うならば、「善い行いは結果として楽をもたらす」という善因楽果[ぜんいんらくか]ならびに「悪い行いは結果として苦しみをもたらす」という悪因苦果[あくいんくか]となります。

あくまで、みずからの過去の行いによって現在の自分の苦楽があり、みずからの現在の行いの善し悪しが、未来の自分の苦楽を決定するのです。自業自得[じごうじとく]とは、まさにこれを意味する言葉で、現在の苦楽は全く自分自身の過去の行いの報いであって、自分以外の誰かのツケを払っているのでは決してない、という見方です。

例えば、これは非常によく耳にするのですが、「自分が不幸なのは先祖の悪い因縁のせい」などというのは、仏教からすればまさに、責任転嫁[せきにんてんか]の極みであると言えます。

輪廻転生などない!と主張する仏教者(?)達

仏教の説く教えの一部は充分に納得出来、受け入れられるとしても、因果応報ならびに輪廻転生などに関する教説は到底信じられない、受け入れがたい、という人は多いことでしょう。いや、因果応報に関しては、物理学や化学などと矛盾するものでないと解釈出来ても、輪廻転生は非科学的に過ぎ、信じがたい。前時代的にすぎる妄説だ、不合理に過ぎる、と言う人もあるでしょう。

西洋教育を受けた現代の仏教学者のほとんど、さらには大乗・小乗いずれの僧侶の中にすら、「輪廻転生などない!」と公言してはばからない者があります。これは仏教本来からすると驚くべきことで、そのような思考・思想を、仏教では邪見[じゃけん]と呼び、そこから離れ修正すべきものと見なされます。これは仏教の修道における大原則(八正道)の一つです。

しかし、彼らの多くは、自分たちの信奉し敬愛する「合理の人、人間ブッダ」が、輪廻転生などという非合理な、非科学的な説を唱えていたはずがない。それらは後代のブッダを神格化した人々によって、仏典の中に挿入されたのだ。または、当時の社会常識としての輪廻転生を、それが妄説であると知りながら人々を導く為の方便として、ブッダは説法に使用されたのだ、などと主張することが多いようです。

あるいは、明治の日本政府が、神道をして「宗教などという低級で不合理なものではない。それは万世一系の皇統に基づく、科学的な道徳の体型である」などと無理矢理位置づけたのと同じような思考でしょう。しかし、自分は合理であって、不合理ではないこと、つまり自分が正しいことを、自分の信奉する思想の内容をねじ曲げてまで表現したいというならば、(その行為がすでに不合理であって)本末転倒の極みです。もっとも、意外にもこの思想は、当時の福沢諭吉など知識人らにすんなり受け入れられています。

仏教はDharma[ダルマ]である

彼らは、西洋教育をうけ、自然科学の知識を「ある程度」備えた身で、それによって説明の付けられない事柄を受け入れることは出来ないのでしょう。この延長で、つねに不合理の香りのつきまとう「宗教」という範疇に十把一絡げに入れられるのも気に入らないのか、先ほど触れた国家神道の人々と同じように、ついには「仏教とは宗教ではない。思想・哲学である」あるいは「科学である」と主張しだす人もあります。

実際、この様な言をふるう人は、何も日本人に限ったことではなく、海外にも大変多く存しています。むしろそのような海外の人々の影響をうけ、日本人もかく言い出したと見たほうが良いかもしれません。

確かに、仏教は一思想であり、そして仏教には「哲学的」側面があって、「科学的」側面があります。しかし、仏教は哲学ではなく、科学でもありません。宗教です。もっとも、仏教を信じ行っている者からすれば、仏教が宗教であろうが科学であろうが何でもいい、と言えるのですが、少なくとも科学などではなく、その全体・総体として見た場合、やはり宗教というのが妥当でしょう。

哲学的側面、科学的側面があるから、それを哲学や科学そのもののように主張するのは妙な話だと思われます。そして、そもそも仏教には、いわゆる科学、つまり自然科学を生み出し、育んできた歴史などありません。現在に発達してきた科学は、(それへの反発・反動を含めて)様々な意味でキリスト教、あるいはその土壌から生まれてきたもので、仏教が生みだしたものでも発達させたものでもありません。

宗教という言葉に附随する一般的イメージがどうしても気に入らず、仏教を宗教とするなら受け入れられないなどとまで言う者があるならば、仏教とはDharma[ダルマ](あるいはDhamma[ダンマ])である、と言えば良いでしょうか。

Dharmaとは、インド古来の聖語サンスクリットの言葉で、大変多くの意味をもっています(Dhamma[ダンマ]はパーリ語で、意味はまったく同一)。その意味は、「慣習」・「正義」・「美徳」・「方法」・「宗教」・「法」・「自然」・「本性」・「(実体としての)モノ」など、多岐にわたります。このように多くの意味を持つ言葉ですから、仏教が中国に伝来し、インドや中央アジアの言葉から中国語に翻訳した僧達は、ある一つの言葉に訳してその意味を限定させないようにと、「法」という訳語をつけた他に、ただ達磨[だるま]とただ音写して伝えたのでした。

業と輪廻-この見がたい、証明不可能なるもの-

さて、ここに重ねて言いますが、まず知っておいて欲しいのは、輪廻転生・因果応報など、これらを信じる信じないかの判断は個人に委ねるとして、仏教がこれらを自明のこと、言うまでもない前提としていることです。信じられない、というならそれも良いでしょう。おそらく、それが現代では一般的な感覚でしょう。信じられなくとも、仏教をある程度まで知ること、実践していくことは可能です。

しかし、それはあくまで「ある程度」です。

最初は信じられなくとも良く、それが現代ではむしろ当然だと思いますが、最後まで信じられないというのでしたら、その最後は大変中途半端な理解に留まったものに過ぎません。何故か。それは冒頭少し触れたように、仏教の修道法の根幹である、八正道の第一の正見ならびに十善業道(十善戒)の第十の不邪見に関わることであるからです。ここは現代の個人がどう思おうが、どのように否定を試みようが変わるもの、動くものではありません。

業と輪廻を、「科学的に証明」あるいは「客観的に立証」することなど出来ません。これはすでに、仏陀自身によって、不可能だと言われています。それは、修行によって高い境地に到達した者に見え、完成した者にのみ完全に理解できることであると。そしてそれは、立証できるものではないと。また、これを理解出来る境地に達せぬ者が、無理矢理考え抜こうとすれば、ついに狂ってしまうだろう、とすら説かれています。

業と輪廻、これを抜きにしては理解し得ない仏教は、科学的な思考がその内容に見られるとしても、先進科学の諸学説との類似性がその教義の中に確認できたとしても、その歴史や目的、出自が全く異なる「科学」などではありません。業と輪廻については結局、修行によって高い境地に至るまでは、受け入れるしかないのです。

それは、仏教を信じ実践していくうちに、ただ「自覚」されていくものです。

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2.六道輪廻

六種の生命のありかた

仏教では、我々は因果応報・自業自得の規則によって輪廻転生している、と世界を観ています。そして、その世界での生命のあり方を、地獄[じごく]・餓鬼[がき]・畜生[ちくしょう]・修羅[しゅら]・人[にん]・天[てん]の六種類、ときとして修羅を除く五種類に分類。それを、六道輪廻[りくどうりんね]あるいは五趣輪廻[ごしゅりんね]と言っています。

地獄とは、非道の数々を行ってきた者、怒り盛んな者が生まれ変わる場所で、数々の恐ろしい責め苦を味わう世界といわれ、ただいつつきるとも知れない苦しみが続く境涯です。餓鬼とは、非常に醜い姿で、常に極度の飢餓状態にあり、なにか食物を得たとしても寸前のところで食しえず、満足などというものからほど遠い、悲惨な生存状態といわれます。

死者の世界はない

ところで、よく誤解されているのですが、地獄も餓鬼も、死者の世界やその境涯などではありません。そのあり方が異なり、現代での「生物」の定義とは異なるものの、人間や動物たちと同じく、れっきとした命をもつ者の境涯であり、当然そこには寿命もあります。

その意味で、おどろおどろしい死者の世界はないのです。「おどろおどろしい」ならばましでしょう。それよりも、まったく「むごたらしい」生物達の世界があるのみです。

次の畜生とは鳥獣虫魚、いわゆる動物や虫全般のことです。常に食と性にのみ生きる、食うか食われるかの生存競争がすこぶる激しく、厳しい境涯です。修羅とは、その持てる力は天にほぼ等しい存在であるにも関わらず、常に天との争いを求めてやまない好戦的な存在とされる、神々と同じく霊的な存在です。常に怒りと嫉妬にかられて、それに酔い、またそれに打ちのめされる境涯です。

人とは言うまでも無く、人間のことであり、天とは神のことを指します。ここで注意しなければならないのは、神と言っても、それはキリスト教やイスラム教などに言う、唯一絶対で全知全能の神などではありません。

日本の伝統霊能(!?)

時として、「では世間でいう幽霊は、六道輪廻のうちどれにあてはまるんですか?」などと聞かれる人があります。仏教者の中でも、これは意見が分かれますが、ある人はそれを餓鬼だと言い、ある人はそれを単なる幻・世迷言と言います。しかし、これはある意味でどちらも正しいといえます。

まず、仏教が前提するところの六道の中、餓鬼や悪鬼(天の一種)や低級な神々の一部は、我々人間の世界と生活の場を等しくしており、ある種の人はそれを認識出来る、ということは仏典にも記され、認められていることです。

そしてそれは、ある時は朽ち果てた死体の姿を、ある場合は苦しみもがく醜い姿などをしている、などとも言われています。故に仏教では、それらの苦しみを和らげるため、あるいはそれらの境涯での寿命が一刻も早くつきて良い境涯へ生まれ変わるようにとの、施餓鬼供養や神供などを行うことによる利他行、あるいは世間的な功徳を期待することが可能となります。

餓鬼とは、サンスクリットでPreta[プレータ]あるいはパーリ語のPeta[ペータ]の訳語なのですが、その原意は「死者」のことです。よって言葉の原意から見れば、仏教言う餓鬼とは、世間でいわれる幽霊のことだと言えるかもしれません。が、しかし、やはりそれは「死者」などではなく、「生物」だというのが仏教の見解です。あるいは、人の死後、次の転生先に赴くまでの四十九日以内は、その人の意識の連続体が、その人の縁の地をさまようとする説も仏教にはあり、これが大乗では主流の説です。その説によれば、それは普通目に見えないもののはずなのですが、もしこれを認識出来る人があったとしたら、「幽霊」と認識しえるかもしれません。

しかし、世間を見ていると、自分たちが単に理解不能な現象、それによって恐怖を呼ぶ現象や存在全般を「幽霊」と呼んで納得する人、あるいは自分にとって悪しき現象・出来事が多発した時などや、自分の生まれてからの(だいたい不遇なる)境遇を、世に言われる「幽霊」あるいは「怨霊」のせいに違いない、としてある意味納得している人が多いようです。一見したところでは到底「わからない不思議なもの」を、単純に「幽霊」の仕業としてしまう人が多いようです。このようなものは、多くの場合、単なる幻・世迷い言だと言えるでしょう。「幽霊」とは実に便利な言葉です。だからこそ、これに乗じた「ビジネス」で一儲けする輩がたくさん出てくるのでしょう。

さて、これは日本古来の宗教観に基づく、きわめて日本人として伝統的な由緒正しい思考であるとも言えます。しかし、自分たちがわからないもの、不気味なモノ、正体がわからないが故に恐怖を呼び起こす存在を、(ここでその原因を「存在」と見ることから誤りが始まっている、と仏教では考えるのですが、)すべて「幽霊」あるいは「怨霊」だとし、いろいろな出来事、現象をそのせいにするなどというなら、愚かなことです。

いずれにせよ、これは経験的に言えることですが、「幽霊の存在」など、別段気にする必要の無いことです。それが人を取り殺した、八つ裂きにして無残にも命を奪った、などということは、未だかつてないことです。あまり深入りしないのが賢明です。ここに深入りすると、大体がおかしくなって戻ってこれなくなってしまうようなので、気にしないのが一番良いでしょう。

死すべき神 -天人の五衰-

さて、仏教では、先ほど申しましたように、唯一にして全能絶対なる神の存在を否定します。しかし、神の存在を否定といっても、それは「唯一にして全能絶対なる神」の存在を否定しているのであって、仏教も「霊的存在としての神」の存在を認めています。

仏教がいう神とは、多数存在していて、人より格段に優れた力があり、安楽も多い存在です。しかし、全能などではなく、神によっては強い欲望や迷いがあり、非常に長くはあってもやはり寿命があって、いつか死すべき存在に過ぎません。前世で善い行いをなした、その報いとして、生まれ変わる境涯の一つに過ぎないのです。

しかし、「楽あれば苦あり」。安楽が多くて強い分、その楽を失っていく苦しみ、その寿命が尽きるときに受ける苦しみは甚大であると言われています。

1.頭の華冠[けかん]が萎[しぼ]む。
2.天衣[てんね]が塵垢にまみれる。
3.脇の下から汗を出す。
4.目がくらむ。
5.天界の安楽な生活をまったく楽しめなくなる。

これを「天人[てんにん]の五衰[ごすい]」と言います。地獄のそれも比ではない程の、大変な苦しみであるとされています。しかし、この天人の五衰というのを聞いても、これが果たして苦しみなのかと、ピンと来ない方も多いでしょう。この程度のことが苦しみだとはまったく理解しかねる、と。

例えば、人がそれほど裕福でないにしても、様々な、日々あたりまえのように享受している楽しみや娯楽、あるいは健康など、それまで享受している全ての豊かさを、徐々にでも、しかし一日一日と間違いなく失っていく恐怖感、喪失感、絶望感を想像してみたならばどうでしょう。あるいは理解できるかもしれません。

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3.すべては苦しみ

三途の川

下は地獄から上は天まで、これらが輪のようにつらなっており、自らの生前の行いの如何[いかん]によって、何処かの境涯に生まれ変わると考えるのです。

特に地獄・餓鬼・畜生の三つは、三悪趣[さんなくしゅ]といって、苦しみ多大なる、忌むべき境涯として捉えられます。いわゆる世間に言うところの、「三途[さんず]の川を渡る」というのは、特に苦しみの深い「三悪趣に生まれ変わらない」という意味であって、成仏することとは全く別です。

しかし、何も忌むべき境涯は、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣だけではありません。これは仏教を理解する上でとても重要なことなのですが、輪廻転生という生命のあり方自体が、畢竟[ひっきょう]苦しみでしかない、と仏教では否定的に捉えるのです。

もっとも、この世を否定的に捉えるのは、なにも仏教だけに限りません。キリスト教もイスラム教も、この世を、人間を神に比してまったく不完全のものと見、故に否定的に捉えられています。ただし、生命を否定的に捉えることはありません。

四苦八苦-生きることは苦しみ-

「この素晴らしい人生を何度も経験できるなんて素敵」と思う人もあるでしょう。しかし、それは非常に幸運な恵まれた人生をこの世で謳歌している、ごく稀な人が言いえる台詞です。

仏教ではそうは考えません。生命が個としてもっとも回避したい事態、それは死です。その「死」を、永遠に、無限に繰り返さなければならないというのは、これ以上無いほどの苦しみであると捉えるのです。六道輪廻の中のいかなる境涯であれ、死すべき者であり、無限に生まれ変わり死に変わりするということは、様々な苦しみを際限なく受け続けていくことに他ならない、と考えるからです。

いや、どのような境遇であれ、「なにをしてもどうせ死んでしまう」この有限にして空しい人生を、無限に繰り返さなければならないなどということは、考えただけで恐ろしいことだ、と考えるのです。死を無限に繰り返すことだけが、苦しみなのではありません。そのような世界に生まれいずること、老いさらばえていくこと、病むことも苦しみです。そのような人生において、憂い、悲しみ、(肉体的)苦しみ、愁い、悩みは不可避です。

総じて「人生は不如意」であり、なにものも我がモノとして意のままにすることは出来ません。それは、すべてが「変わりゆくモノ」「変化するモノ」「滅亡するモノ」であるからです。自分も変わり、世界もすべてが変わりゆく不安定・不完全なものだからこそ、私たちはナニモノも意のままにすることが出来ないのです。

四つの聖なる真理-四聖諦-

仏陀は、全てが苦である、ということをまず第一に説かれました。

そして、仏陀は全てが苦であること、を説かれ、そこからその苦の原因と、苦を滅することが出来ること、そしてその脱却方法、その道を示されたのです。ここからも、生きることが苦しみであることを知ること、これは仏教を実践するにあたって、まず第一に必要なことと言えます。

とはいえ、生きることが苦しみ、この世のすべてが苦しみであると示されたからといって、悲観的になってしまうようでは、この意味を誤解しています。実際に、しばしば仏教はペシミズム(厭世主義・悲観論)であると見なされることがあります。確かに、仏教には厭世的傾向があり、この世は疎うべきものであることを説きます。

しかし、やはり仏教はいわゆるペシミズムではありません。何故か。仏教の説くが如く、この世のすべてが苦しみであることを知ることは、仏教の言う「楽」すなわち「苦の無いこと」に至る門ですから、むしろ明るくなるはずだからです。

これは面白い矛盾と言えるでしょうが、すべてが苦である、ということを知れば知るほど、人生が楽になっていくのです。ここで言われる「苦を知る」というのは、ただ精神的・肉体的に苦しいことを知る、ということだけではありません。なぜ苦しく感じるのかの原因を知る、つまりすべてが不安定で不完全である、大乗の言葉で表現すると「すべてが空であることを知る」という意味が含まれます。

よって、「すべては苦である」「空である」ということを、本当に知ったとき、その人はすでに最高の悟りを得ていると言えます。

さて、仏教では生きること自体が苦しみとしますから、その意味においては、生命は決して賛美され、肯定されるものではありません。そして、仏教はそのように世界を観るからこそ、その苦しみの世界を抜けださんとして解脱[げだつ]・成仏[じょうぶつ]・涅槃[ねはん]などといった、苦しみが滅した状態、苦しみ生存が続く輪廻から脱することを、その最高の目標として掲[かか]げるのです。

法楽寺 WEB SITE 管理者:沙門 覺應

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