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支那・日本における僧伽分派に対する見解

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1.説一切有部の伝承

説一切有部が伝える部派分裂

『異部宗輪論[いぶしゅうりんろん]』とは、説一切有部[せついっさいうぶ]の四大論師の一人に挙げられる世友[せう](Vasumitra)尊者によって、1-2世紀頃に著されたと思われる書を、玄奘三蔵によって唐代(西暦662年)に漢訳された書です。

仏滅後の僧伽が分裂してさまざまな部派を形成した経緯と、それぞれの部派の教義の要を、説一切有部の立場から記されたものです。

(原題はおそらく、Samayabhedoparacanacakra。)

世友尊者の生涯についてはよくわかっていません。ただ、インドから帰国した玄奘三蔵の直弟子であり、この書の注釈書『異部宗輪論述記』を著した法相宗開祖の慈恩大師基[き]法師(現在一般に窺基[きき]と通称されるが本当は誤り)は、師からその伝承を聴いていたのでしょう、仏滅後四百年に出生した人と伝えています。

実際、この書は、仏滅後四百年以前の仏教教団が如何に分裂したかの様相を伝えています。

『異部宗輪論』の他に、先行して漢訳されたものとしては、真諦訳『部執異論[ぶしゅういろん]』があり、これは六世紀中頃に訳されたものです。現在、いずれもサンスクリット原典は伝わっていないものの、チベット訳が伝わっています。

さらに、これに類する書として、鳩摩羅什三蔵によって4世紀頃訳された『文殊師利問経』(ならびに真諦訳『十八部論』)があります。これは表題からわかるように、説一切有部に属するものではなくて、むしろ大乗の典籍です。

部派の分裂過程について、上に挙げた二書とは若干異なる点もありますが、部派の名の由来をも併せて伝えており、参考となるものです。

また『異部宗輪論』では、部派がいかに分裂したかを記したあと、続いてそれぞれ部派の特徴的見解・教義を簡潔に記しています。それぞれの部派が主張している見解の特徴が、その是非を言うこと無く淡々と語られています。

故に、これは特に偏見を交えていないと思われる、いたって客観的なものだといえます。これによると、必ずしも全ての部派がそれぞれ別々の教義を擁していた訳ではないようで、その部派の本拠地や主導者による名前の違い程度のものもあったようです。

しかしながら、それらの部派の典籍など、ほとんど全く伝わっていませんので、これを確かめることなど全く不可能のことです。

故に、今にまで伝わっている説一切有部と分別説部の典籍はまったく貴重なものです。分別説部などは、部派として残存した唯一のものであって、この意味でこの派は特別です。しかし、それと正統・純粋云々とは、現存する諸伝承からしても、全く別の話となります。

なぜ僧伽は分裂したのか -大天の五事-

『異部宗輪論』が伝えるところの、仏滅後はじめてサンガが分裂した原因。それは、仏滅後116年を経て、摩竭陀(Magadha)国の無憂(Aśoka)が即位。その治世にて、当時その学徳の高さを讃えられている大天(Mahādeva)という名の比丘が、阿羅漢についての五つの事項を唱えたことに起因するといいます。

これを「大天の五事」といいます。

さて、ではその五事とは何であったか。

『異部宗輪論』では「餘所誘無知 猶豫他令入 道因聲故起 是名真仏教」と、大天によるという頌によって簡潔に伝えるのみです。しかし、これでは簡潔に過ぎて何のことか全く不明です。けれども同じく説一切有部の論蔵の一つ『発智論』の注釈書、玄奘三蔵訳『阿毘達磨大毘婆沙論』(以下『婆沙論』と略記)には、その内容と経緯が非常に詳しく説かれており、これを参照して記せば以下のようなものとなります。

大天の五事
No. 五事 内容
1 餘所誘 阿羅漢でも、天魔の仕業によって夢精することがある。
2 無知 阿羅漢にも、世間的な事柄に関する無知はある。
3 猶豫 阿羅漢にも、いまだ心に疑惑がある。
4 他令入 阿羅漢には、自らでは阿羅漢となった事を認識できぬ者がある。
5 道因聲故起 「苦しい」「苦なり」と口に出すことによって、全き悟りを得る。

これらの五つの点について、大天は「真の仏教である」と主張したことが知られます。

なお、ここで言及されている阿羅漢[あらかん]とは、サンスクリットArhant、あるいはパーリ語Arahanなどの音写語で、修行を完成してもはや再び輪廻・再生を繰り返すことのなくなった者、小乗における修行の実質的な最終目標となる聖者を示す言葉です。

『大毘婆沙論』が伝える分裂の経緯

『婆沙論』によれば、まずそもそも大天とは、末土羅国(マトゥラー)の商人の息子として生を受けた者であり、しかし成長してのちにまず父を殺害。そして罪の発覚をおそれて阿羅漢を、さらにまた逃亡中の諍いから母をすら殺して、いわゆる五逆罪(五無間業)のうちの三つをなした者であったとしています。

しかし、そのみずから為した悪業を恐れ、五逆罪を犯しているため本来は出家不可能であるのに、これを秘し欺いて出家。

もともと聡明であった大天は、出家してたちまち三蔵に通じて高名となり、自ら阿羅漢だとも称していたといいます。

そして次に、そのような大天が、何故このような五事を主張するにいたったか。

それは、大天がある日、不正な夢を見たことによっておぼえず夢精してしまい、弟子にその衣を洗濯させたときのことでした。その弟子からの質問がきっかけであったといいます。

すでに触れたように、大天は当代きっての高僧として世間に認められ、みずからを阿羅漢であると称していました。そこで弟子は、「阿羅漢はすべての煩悩を滅しているはずですが、なぜ阿羅漢たるあなたが夢精などするのですか?」という、いわば至って素朴な問いを発したのでした。

(律蔵には人が夢精するのは念を失するからである、とあって、故に阿羅漢ならば夢精はしない、と説かれています。あるいは当時、律蔵にはそのような記述など無く、ために弟子はこのような問いを発したのかも知れません。でなければ大天はこれを主張し得なかったでしょう。その記述は、大天の五事が非法とされて以降の結集などにおいて挿入されたのかも知れません。)

『婆沙論』の所伝によれば、大天のこの「餘所誘無知 猶豫他令入 道因聲故起 是名真仏教」という一偈によって示された説は、そのようなやりとりの中で弟子への答えとして出されたものです。

そして、それが初めて言い出されてからしばらくの間があったようですが、やがて大天は、この偈頌をアショーカ王の寄進によって建てられた鶏園寺における布薩のおり、その壇上で公然と説いたと言います。

布薩に参加していた聴衆のうち、阿羅漢など聖者衆や長老たちは驚愕し、「大天とはなんという拙い説を唱える愚か者であろうか。そんな説は三蔵においていまだかつて聞いたこともない」と、ただちに大天の唱えた偈を「餘所誘無知 猶豫他令入 道因聲故起 汝言非仏教」として返します。

しかしながら、諍論は拡大して夜通し翌朝まで続き、ついにパータリプトラの王城に住まう民をも巻き込んだものと大きなものとなったといいます。

やがて、事がより深刻となっていったため、アショーカ王はひとまず大天の衆と長老たちとを別住させたといいます。

そして、アショーカ王もまた、(あるいは大天の説が正しいのかも知れないと)どちらの説が正しいか疑いを抱くようになり、ついに大天のもとに行ってどのようにこの諍論を決着させれば良いのかを聞きます。すると大天は、律が規定する(最後の)諍論解決方法である「他人語毘尼」(要するに僧伽の成員全員による多数決)によるべきと提案。これを開催したといいます。結果は大天側が過半数でした。

しかしそれで諍いはやまず、ついに大衆部と上座部とにサンガが分裂。

阿羅漢や長老たちは、もはやこの地にはいられないと覚悟。ついに鶏園寺つまりは王城パータリプトラを棄て、西北のカシミールへと神通力によって飛び去った(阿羅漢は遠いところまで歩いていったのでは格好がつかないので「飛ばなければならない」)。

アショーカ王は諸大徳が王城から去ったことによって、その処置を後悔して都へ戻ることを要請するも聴き入れられず、そこでカシミールに寺を建立したとしています。

このようなことから、この地(カシミール)で今も仏法は盛んなのである、と『阿毘達磨大毘婆沙論』卷九十九は伝承しています(T27, P511b-P512a)。

ここで『婆沙論』は、上座部という部派そのものが移動した、とは言わず、ただ阿羅漢や長老たちがカシミールに移った、とだけいっていることは、一応注意すべきことです。

そして、根本分裂にて別れた本上座部というのが、『異部宗輪論』において雪山部と呼称されていることも、また見るべき点の一つです。

二人の大天

『異部宗輪論』では、根本分裂の原因を「大天の五事」とするだけで、その経緯の詳細は伝えていません。上にその概要を示したように、説一切有部では、この大天の説を悪見(邪説)であるとし、大天に反する立場を採っていますので、大天の説を支持したの比丘達が、大衆部を形成したということになります。

とは言え、しかし『異部宗輪論』によれば、いきなり大衆部と上座部とに僧伽が大分裂した、などというわけではないようです。

これは分裂の前段階ということになるのでしょうが、僧伽中にて、大天の五事について意見が不同であったという四衆、すなわち四つの集団(チベット訳では三つ)の存在が伝えられています。これについて、『大毘婆沙論』ではまったく触れられていません。

大天五事について意見不同であったという四衆
No. 『異部宗輪論』 『部執異論』 チベット訳
1 龍象衆 大国衆 Gmas-brtan-klu(龍象衆)
2 辺鄙衆 外辺衆 Śar-phyogs-pa(東方衆)
3 多聞衆 多聞衆 Maṅ-du-thos-pa(多聞衆)
4 大徳衆 大徳衆 -

これはただその名称が伝わるのみで、その集団がいかなるものであったのか、いずれの集団がいかなる見解を大天の五事について持っていたかなどの詳細は、『異部宗輪論』では明らかでありません。

しかし、これはまったく蛇足・不要の私見ですが、単純に考えたならば、これら名称はある程度その集団がいかなるものであったか想像することを許すものです。

たとえば龍象衆とは、龍象とは普通コブラあるいは象を意味するnāgaの訳で、仏典では仏陀あるいは偉大な徳ある僧などを指して言われるものですから、修行を完成した阿羅漢など聖者衆のことでしょうか。チベット訳はこれを支持するものです。

しかし、『部執異論』には大国衆とあるので、あるいは単に都市部に住する比丘衆のことかもしれません。

辺鄙衆は辺地の比丘衆、多聞衆は多聞すなわち経典に通じた比丘衆、大徳衆は法臘を重ねた長老比丘衆あるいは徳高き聖者等、といったことを予想させます。

これについて慈恩大師基の『異部宗輪論述記』ではどのように説いているか。基法師はこれについてまず自らの見解(A)を述べ、次に他の釈(B)を紹介、そしてある僧の唱えている説(C)を挙げるなど、三つの説の紹介しています。

『異部宗輪論述記』における四衆についての解釋
四衆 基法師の伝える三つの説
1 龍象衆 (A) 龍象のごとく勢力あって調伏しがたい大天の僧衆
(B) 持律峻厳であって故に龍象の如く畏れるものなき聖・凡の僧衆
(C) その破戒の所行が龍象の如く恐るべき僧衆
2 辺鄙衆 (A) 無徳で理が通じずないことを例えて辺鄙なる大天の門徒衆
(B) 無知・破戒の僧衆
(C) 耳無し口無しの如く理の通じぬ僧衆
3 多聞衆 (A) 多聞博学・持戒の、聖者衆を助け従う凡夫僧衆
(B) 多聞の経師・阿難の聖・凡の学徒衆
(C) 聞いた教えに従って持戒し修行する凡夫僧衆
4 大徳衆 (A) 四向四果の聖者衆
(B) 諸々の論師・阿毘達磨の学徒・満慈子(プールナ)尊者の学徒衆
(C) 四向四果の聖者衆

以上のように、龍象衆がいかなるものであったかについて以外は、おおよそ同じようなものとなっています。あくまでこれは支那において述されたものですが、一応参考にはなるものでしょう。

私見では、根拠は龍象という言葉の解釈だけによるものですが、第二説(B)を支持したいところです。また、阿毘達磨の学徒を、インド西方の教化に一大功のあった富楼那(プールナ)尊者の学徒としているのは一つ興味深いところです。

『異部宗輪論』が伝えるこの記述は、僧伽が分裂して部派などというものを形成する、その前段階の様相を伝える大変重要かつ貴重なもので、注目すべきものです。これは根本分裂を理解する鍵となりえるものでしょうが、慈恩大師が釈を残しているとはいえ、詳細は不明です。

さて、また『異部宗輪論』では、仏滅後二百年が過ぎた頃、同じく大天という名の外道を信奉していた者が、大衆部にて出家受戒し、制多山(Caityaśaila)にあって修行に励んでいたが、やがて先の大天と同じく五事を審にして提唱。これによって、大衆部からさらに三つの部派が形成されたとも伝えています。

ただし、チベットの伝承では、二度目に五事を提唱したのは大天ではなく、大天の支持者。また、『部執異論』では、三部ではなく二部が別れたとし、しかし数としては大天による一つの部派として数えています。

いずれにせよ、大衆部が短期間の間にさらに三つに別れたのは、最初に僧伽が分裂したのと同じ理由であったとされています。

十八部派の成立

大衆部は、仏滅後早くても116年から200年までの間に四から五回の分裂を繰り返し、計九の部派を形成(『部執異論』では七)。対して上座部は、仏滅後200年を過ぎるまでは結束をたもっていたものの、実に些細なことから分裂したといいます。

この「些細なこと」と言うについて、『異部宗輪論述記』ではこのように述べています。仏滅後200年初め、迦多衍尼子(Kātyāyanīputra)が生を受け、上座部にて出家。それまで上座部が三蔵の序列を経律論としていたのを、論経律と変えたのが諍論を起したのであると言っています。

迦多衍尼子とは、説一切有部の創始者であると言われている人です。

あるいは別の釈として、その時まだ迦多衍尼子は生まれておらず、ただ上座部内で、大天五事のように教学の解釈をめぐっての争いによって分裂し説一切有部が生じた、との説をも挙げています。

上座部が雪山部とも別称されるのは、説一切有部が起こって以降、説一切有部の勢力が強まるのに比して上座部の勢力は漸く弱まり、ついにカシミールから雪山(ヒマラヤ)に写り去ったということに依るとされます。つまり、最初からこの呼称があったわけでは無い、とされています。

いずれにせよ、やがて上座部も、大衆部と同じく分裂に分裂を繰り返すこと七、八回し、仏滅後300年を過ぎた頃までに計十一の部派を形成。ここにサンガは、最終的に上座部系と大衆部系で合わせて二十(『部執異論』では十八)の部派を形成したといいます。

これが玄奘訳『異部宗輪論』が伝える、説一切有部のサンガ分派説です。

インドとセイロンとで異なる伝承

ここで一応、インドの説一切有部の伝承とセイロンの分別説部の伝承とが、いかに相違してるかの大きな点だけを整理しておきます。

まず、セイロンでは僧伽分裂の原因を、仏滅後ちょうど100年、毘舍離(ベーシャリー)という土地でヴリッジ(ヴァッジ)族の比丘たちが起した律の規定に関する十項目の異見「十非事」であったと伝承しています。諸律蔵の概ね最後に説かれる七百結集がこれに該当し、その直後に僧伽の分裂が起こったとしています。

説一切有部の律蔵である『十誦律』にも、まったく同じようにこの事件が説かれてはいるのですが、説一切有部ではここで僧伽が分裂したとはしていません。

実際、双方の律蔵、いや現存する諸律蔵においても、それは「解決された事項」として扱われており、僧伽の分裂などという大事件に触れている記述は律蔵に全く見られません。

この点、セイロンの分別説部とインドの説一切有部との伝承では大きく異なっています。なお、『十誦律』では七百結集は仏滅後110年に行われたと伝えています。

余談ながら、大天が唱えたという五事とまったく同じ五つの事柄に関して、分別説部の阿毘達磨七論書の一つ、Kathāvatthu[カターヴァットゥ](『論事』)にて取り上げられており、やはりこれを非法であると否定しています。ただし、そこでは五事を挙げ連ねて非法である、と言うだけで、大天が云々という記述はありません。

そしてまた、やはりかなり双方異なっている点が、アショーカ王の仏滅後の即位年代です。『異部宗輪論』の異訳本『部執異論』では仏滅後116年としているのに対し、4-5世紀に著されたセイロンの史書『島史』では仏滅後218年として、102年のズレがあります。

あるいは、これも一応勘案しなければならないのですが、『部執異論』でも新しい版である元版ならびに明版では160年とされています。より古い宋版などは116年としている為、やはりこの説を取るのが順当のところです。

しかし、同じく160年説を伝えるものに、6世紀に活躍した中観派の偉大な学僧Bhavya[バヴィヤ](清辨)のNikāyabhedabvibhaṅgavyākhyāna(『部派分派解説』)のチベット訳があり、そこでは上座部がアショーカ王即位仏滅後160年説を伝えていることを記しています。

当時のインドではセイロンと異なった説が行われていたのかもしれません(上座部などといってもインドのそれとセイロンの分別説部が自称するそれとは異なる可能性が大。あるいは雪山部のことか)。

さらにまた、以下の点も相当大きく異なっています。説一切有部では、アショーカ王の治世において、先に述べた大天の五事が主張され、これに関して僧伽内で意見が対立し、ついに一味和合の僧伽が破れて上座部(Sthavira)と大衆部(Mahāsaṃghika)とに初めて別れたとしています。

(アショーカ王の治世に僧伽内で争いが起こったのは確かとして、分裂が王の在位中に起こったかどうかは『異部宗輪論』の記述からは不明確。ただし『大毘婆沙論』では、初めの分裂は王の在世中に起こったとする。)

これに対し、セイロンの分別説部では、アショーカ王が即位した時にはすでに僧伽は十八にまで分裂が完了しており、各々独自の教義をすでに保持していたとしています。根本分裂どころか枝末分裂まで終わっていた、としています。

(アショーカ王の当時に僧伽が分裂し、しかも十八もの部派が存していたとは、アショーカ王石柱の法勅文などからしても到底思われません。ただし、僧伽内で何らか重大な争いがあったことは知られ、しかもそれを王が憂慮していたことが知られます。僧団内にて行事を別にする者ら、いわゆる破僧が起こっていたようですが、このことから王の治世において、僧伽が部派なるものを形成するにはいたってはいなくとも、分裂の危機にあったことは間違いありません。)

そして、セイロンでは、アショーカ王の治世において王の支援のもと法と律との結集、いわゆる第三結集を行ったとしています。しかし、説一切有部のみならず、他の部派の典籍でもこの結集についてまったく伝えていません。セイロンだけで言われている伝承です。

またアショーカ王が師事したという長老の名についても、説一切有部では Upagupta[ウパグプタ](憂婆麹多[うばきくた]) 、分別説部ではMoggaliputta Tissa[モッガリプッタ ティッサ] と、互いに異なる名を伝えています。もっともこれに関しては、その人物の伝承に似通った点が多いことから、互いに同一人物を指している可能性が一応あります。

(ウパグプタ等の相承系譜については“大衆部所伝の僧伽分派説”を参照のこと。)

いずれにせよ、『異部宗輪論』は説一切有部による部派分裂を伝える書であり、(自派こそが正統云々などとはまったく主張していないのですが)その正統性を言うためのものであると見るべきものです。

故に、その正統性の主張を激しくする分別説部が依用する『島史』などと同じく、全面的にその記述を信頼することは出来ず、実際双方が異なったことを主張しているのですが、僧伽がなぜ分裂したかについて、多くの有益な事柄を伝えている貴重な書の一つとなっています。

余談ながら、根本の上座部が分裂して雪山部(本上座部)と説一切有部とになったというときの、雪山部とは、いま世間で上座部と通称されているセイロンの分別説部とは異なったものです。それは、『異部宗輪論』などの典籍に記述されている、諸部派の教義の綱要によって知ることができるでしょう。

また、セイロンの伝承をみると雪山部とは、僧伽が十八部派に別れたあと、アショーカ王の即位以降にさらに分裂したものとされています。

当時はそれほど込み入ったものではなかったかもしれませんが、今や部派分裂はまったく込み入った難解な歴史となって、我々がその真相を伺うことを容易に許さないものとなっています。

(詳細は“セイロン所伝の僧伽分派説”を参照のこと。)

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2.説一切有部所伝の僧伽分派説図

『異部宗輪論』所伝の僧伽分裂説図

以下、『異部宗輪論』の所説に基づき、僧伽がいかに分裂したかの経緯を出来るだけ忠実に、そして誰でもこれを明快に理解できるよう図表としたものを示します。

もっともその中には、閲覧者の理解に資するよう、十事非法にたいして行われた結集やアショーカ王の即位などの、説一切有部における仏滅後年代も挿入しています。これによってある程度、説一切有部における部派分裂の過程についての伝承が、明瞭になると思われます。

また、この図表に続けて『異部宗輪論』とその異訳本である『部執異論』、さらに『十八部論』に見られる大衆部系ならびに上座部系の諸部派の漢訳名(あるいは音写名)を列挙し、最後に推定されるサンスクリットの原名をも図表にして示しています。『十八部論』の項にては、併せて『文殊師利問経』に説かれるそれぞれ部派の名の由来を、括弧内に引用して示しています(それが長い場合は抄訳した)。

図表:説一切所伝(『異部宗輪論』)の僧伽分派説図
大衆部(Mahāsaṃghika)系部派 諸説
No. 『異部宗輪論』 『部執異論』 『十八部論』
(『文殊師利問経』)
[名称の由来]
推定
Sanskrit名
1 大衆部 大衆部 摩訶僧祇部
[大衆老少同会共集律部]
Mahāsaṃghika
2 一説部 一説部 執一語言部
[所執與僧祇同故云一]
Ekavyavahārika
3 説出世部 出世説部 出世間語言部
[称讃辞]
Lokottaravādin
4 鶏胤部 灰山住部 高拘梨部
[出律主姓]
Kaukuṭika
5 多聞部 多聞部 多聞部
[出律主有多聞智]
Bahuśrutīya
6 説仮部 分別説部 Prajñaptivādin
7 制多山部 支提山部 只底舸部
[出律主居]
Caitika
8 西山住部 Aparaśaila
9 北山住部 (北山部) 北山部
[律主居]
Uttaraśalia
10 東山部
[律主居]
Pūrvaśalia
上座部(Sthavira)系部派 諸説
No. 『異部宗輪論』 『部執異論』 『十八部論』
(『文殊師利問経』)
[名称の由来]
推定
Sanskrit名
1 説一切有部
(説因部)
説一切有部
(説因部)
一切語言部
[律主執三世有故]
Sarvāstivādin
(Hetuvādin)
2 本上座部
(雪山部)
雪山住部
(上座弟子部)
雪山部
[律主居]
Haimavata
3 犢子部 可住弟子部 犢子部
[律主姓]
Vātsīputrīya
4 法上部 法上部 法勝部
[律主名]
Dharmamottarīya
5 賢胄部 賢乗部 賢部
[律主名]
Bhadrayānīya
6 正量部 正量弟子部 一切所貴部
[律主為通人所重]
Sammatīya
7 密林山部 密林住部 芿山部
[律主居]
Ṣaṇṇagarika
8 化地部 正地部 大不可棄部
[母不能殺律主故]
Mahīśāsaka
9 法蔵部
[目蓮之法系]
法護部
[目蓮之法系]
法護部
[律主名]
Dharmaguptaka
10 飲光部
(善歳部)
善歳部
(飲光弟子部)
迦葉比部
[律主姓]
Kāśyapīya
11 経量部
(説転部)
[阿難之法系]
説度部
(説経部)
修妬路句部
[律主執経義]
Sautrāntika
(Saṅkrāntika)
12 - - 體毘履
[長老出律部]
Sthavira

小苾蒭覺應 敬識
horakuji@gmail.com

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