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‡ なぜ酒を飲んではいけないのか -訶梨跋摩『成実論』

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1.訶梨跋摩『成実論』に説かれる飲酒の過失

不善の門

中インドのバラモン出身の僧、訶梨跋摩[かりばつま](Harivarman[ハリヴァルマン])によって著された『成実論[じょうじつろん]』五戒品では、飲酒戒とはどのような性質なものであるかを、簡単に論じています。

「飲酒という行為は、その行為自体が悪と言えるのかどうか」との問に対し、訶梨跋摩は答えます。「悪ではない」と。そして、「飲酒という行為自体が生き物を苦しませることはない」と、その理由を述べています。しかし、訶梨跋摩は続けて言います。「だが飲酒は悪の原因となる。人が酒を飲むことは、それが不善(十悪)へと誘うものである。よって、他人に酒を勧めて飲ませることは罪となる。人の様々な善を遮るという点で」と。そして、酒を飲む行為自体は悪ではない。しかし、酒を呑むことによってなされる行為の数々、それは往々にして不道徳・悪であるため、仏陀は飲酒戒が制定されたのである、としています。飲酒は不善の門である、と。

訶梨跋摩は、五戒のうち殺生・偸盗・邪淫・妄語は、その行為自体が悪であるのに対し、飲酒は実罪ではない。けれども、飲酒という行為を原因として、その人の諸々の善行・功徳、言い換えれば積み重ねてきたものを失わさないようにするために、飲酒戒は必要なものである、と説きます。人が果樹を植えたならば、その果樹が獣や盗難などに遭わないよう、垣根で囲ってこれを守るようなものである、という譬喩によって飲酒戒についての説明を終えています。

酒も麻薬も本質的には同じ

酒は、世界中ほとんどの社会において許容され、またそれぞれの地において酒文化というべきものを形成しています。美味なる甘露、人間社会の潤滑液、日頃の憂さ晴らしなどとして酒を愛好することは、ある意味、たしなみとして世間に受け入れられています。

しかし同時に、酒で身を持ち崩す者、酒で取り返しの付かない惨事を引き起こす者は跡を絶たず、酒が人間を狂わせるものであるとの認識はもたれています。酒が物理的身体的な中毒性を有し、理性を損ない、健康を害し、病を進行させるものであることも、もはや常識的に知られていることと言っていいでしょう。それ自体に中毒性が無かったとしても、人間はそれこそ何にでも依存し中毒に自らなれるものですが、酒は、人を酔わせ楽しませるものであることと、物理的な中毒性をもっていることにおいて、その害の程度はありますが、麻薬と本質的に変わりないものです。酒も麻薬も、用い方一つで毒にも薬にもなるものですが、医療に関わる用途は別として、日常的に薬として用い得る人などほとんどいないでしょう。

むろん、麻薬と一口で言っても、それは多種多様であって一概に言えたものでは決してありません。酒は良いが麻薬は駄目というのも、歴史的・社会的・風土的背景があってのことでしょう。よって、これについては国や地域によって認識が異なってしかるべきであり、実際異なっています。いずれにせよ、世界の大勢としては、「要はバランスである」(酒を禁止するとその弊害は大きい)という認識によって、酒文化は保たれているようです。

しかし、悟りを求める者、苦海からの解脱を求めるの輩、真理を探求する人には、酒は不善の門であり、害毒でしかありません。

もっとも、酒を飲まなければ、麻薬をやらなければ人は悪をなさない、などということは決してありません。飲酒が「不善の門」であるのと同様、酒を飲まないことは善である、といのではなく「善の門」に過ぎません。酒は飲まない、麻薬はやらないけれど、殺人・窃盗・不倫・虚言する人など、それこそゴロゴロいるでしょう。飲酒だけしなかったとしても意味はありません。飲酒戒を守るのは、他の四つの戒を守るためであり、今まで自身が積み重ねてきた福徳を守るための術です。そして、自身が善を行なおうとするための条件です。

自身を仏教徒であると考え、あるいは五戒などを優れた道徳の道であると考える人で、飲酒から意図的に離れる人は、自分がなぜ酒を飲まないのか、ということを考え意識していなければ、飲酒戒はたちまち意味の薄い、いわゆる「教条的」なものとなってしまうことを忘れてはならないでしょう。

『成実論』とは

『成実論』は、冒頭触れたように、中インドのバラモン出身の僧、訶梨跋摩[かりばつま](Harivarman[ハリヴァルマン])によって、西暦3-4世紀頃に著された書です。

梵本(サンスクリットあるいはその他インド語による原本)はもとより、チベット語訳も伝わっておらず、ただ鳩摩羅什[くまらじゅう](Kumārajīva[クマーラジーヴァ](344-413)によって訳された、この漢訳本だけが伝わっています。現在、仏教学者などによって、その原名は、邦語では「真実を成就する論」となる、Tattvasiddhi-śāstra[タットヴァシッディ・シャーストラ]あるいはSatyasiddhi-śāstra[サティヤシッディ・シャーストラ]ではなかったか、などと推測されています。

鳩摩羅什によって漢訳がなされると、この書は盛んに研究され、成実宗なるこの書を専門に研究する学派まで生まれています。しかし後代、この書が他宗の学僧などから小乗の書で一段低いものであるなどと位置づけられるようになって衰退。複数著された注釈書も今や散失し、現存していません。故に、この書をいま一一理解していくには、多少の困難が伴うことがあります。また本書の内容からして、これを理解するには、まず四阿含の経典に親しみ、他部派の教義、特に説一切有部の典籍にある程度通じていることや、外道論師の諸説など広く知っている必要もあります。

なお、成実宗は、日本にも奈良時代に伝わっています。いわゆる南都六宗の一つ、鎌倉後期の凝然大徳『八宗綱要』にて挙げられた日本の伝統宗派の一つです。もっとも、日本でも成実宗は、三論宗(中観派)の寓宗というべき位置(そもそもが今言われるような「宗」と言うよりもむしろ「学派」あるいは「科目」のようなもの)となり、鎌倉期において完全に消滅しています。

しかしいずれにせよ、宗としては現存していなくとも、『成実論』は、漢語仏教圏において、小乗の諸部派ならびに大乗を学ぶ上で不可欠である書であることは、現代にいたるまで変わりありません。

『成実論』の内容

『成実論』は、ある立場から仏教の根幹・精髄たる四聖諦[ししょうたい]を説き明かした綱要書と言えるものです。

その内容から、小乗十八部派(あるいは二十部)のうち、経量部[きょうりょうぶ]の立場から著されたものであると見られています。経量部は、法の三世実有を説く説一切有部に対し、現在にのみ法の有体を主張して、過去・未来における法の実在を否定したことで知られる部派です。この書の中で訶梨跋摩は多く「空」を説いており、大乗との親和性が古来論じられています。最終的には、大乗の諸学僧によって小乗の教と位置づけられていますが、しかし南山大師道宣などは「分通大乗(大乗に通じる教え)」であると依然評価しています。

この類の書は、現代で言うならば想定問答集と言ったところのもので、決まって問答体で著されると言えるのですが、やはりこの書も同様に全編が問答体にて綴られています(このような形式はインド以来、チベット、中国そして日本に引き継がれます)。

さて、この書では、さまざまな立場に立つ仮想問者が登場し、次々と設問あるいは論難を展開。答者(著者)がこれに一々答え、自身の依って立つ見解を明らかにしていきます。議論される内容は、四聖諦をより具体的に、戒・定・慧の三学に開いて説いており、実に幅広いものです。設定される問者として、説一切有部といった仏教の部派だけではなく、外教であるニヤーヤ(正理学派)やサーンキャ(数論派)、ヴァイシェーシカ(勝論派)などのインド哲学派と思われるものも登場しています。

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2.訶梨跋摩『成実論』対訳

福徳から離れるのを守るため

原文
問曰。飮酒是實罪耶。答曰非也。所以者何。飮酒不爲惱衆生故。但是罪因。若人飮酒則開不善門。是故若教人飮酒則得罪分。以能障定等諸善法故。如植衆果必爲牆障。如是四法是實罪。離爲實福爲守護故。結此酒戒

訓読文
問うて曰わく。飲酒は是れ実罪なりや。答えて曰わく非なり。所以者何[ゆえいかんとなれば]、飲酒は衆生を悩まさざるが故に。但だ是れ罪の因なり。若し人酒を飲まば則ち不善の門を開く。是の故に若し人に教えて飲酒せしめれば則ち罪分を得。能く定等の諸の善法を障るが故に。衆果を植えるに必ず牆を障とするが如し。是の如く四法は是れ実罪なり。実福を離れるを守護するが為の故に、此の酒戒を結す。

現代語訳
問い:飲酒は実罪(本質的に悪)であろうか。答え:実罪ではない。なぜならば、飲酒自体は生きとし生けるものを悩ませることはないからである。ただし飲酒は罪の原因となるものだ。人が酒を飲むことは、つまり不善(十悪)の門を開く行為である。このことからもし他人に勧めて酒を飲ませれば、それは罪となる。飲酒が禅定など様々な善法を妨げるからである。果樹を植えたならば、(果実を害獣や盗難から守るための)垣根を造って囲いをするようなものである。このように(殺生・偸盗・邪淫・妄語の)四法は実罪である。(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語を実行することによって得られる)福徳を失わないように、この不飲酒戒が制定されたのである。

『成実論』五戒品 (大正32, P300中段)
[訳文:沙門 覺應]

沙門 覺應 (horakuji@live.jp)

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