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‡ なぜ酒を飲んではいけないのか(序)

なぜ酒を飲んではいけないのか(序)
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1.飲酒戒

飲酒戒とは

ここでは、仏教の戒律の中でも、特に飲酒戒[おんじゅかい](不飲酒戒・不飲酒)について説明しています。

飲酒戒とは、在家信者の保つべき「五戒」「八斎戒」などのうちの一項目、あるいは出家修行者の律の一条項で、穀物種であれ果実酒であれどのような酒類でも、これを飲むことを戒めたものです。ちなみに、出家修行者の場合は、戒められているのではなく、禁止されています。

仏教徒であれば、酒は飲むべきものではなく、僧侶であれば、決して飲んではならないものです。

酒の過失を説き戒める仏典に直接ふれる

巷間、具体的な典拠なくして、漠然としたイメージや根拠の無い俗説によって、「仏教における飲酒」を語る人が多いようです。どこかでなんとなく聞いた話や拾い読みしたことを、その根拠を確かめずにそのまま語っている場合がほとんどのようです。また、自分勝手な解釈をふるってなんとか飲酒を、「仏教的に」正当化しようとする人も、大変多いように感じます。

しかし、「仏教における云々」を語る場合、何よりもまず仏典に基づいて具体的に論じるのが第一であり、それが道理というものでしょう。

もっとも、これはすでに、支那は唐代の西明寺道世によって編纂されて以来、すぐれた書として支那・日本で用いられてきた、『法苑珠林[ほうおんじゅりん]』においてなされています。この書は、全100巻からなって項目別に100668部に分けられており、仏教の術語や思想について、諸経論からの典拠をいちいち挙げて示している、まさに仏教大百科事典です。

これはまったく偉大な仕事で、日本でも過去多くの学僧がこれを参照して用いていた事が知られます。いまだ現在もなお、これを優れて貴重な書として用い得ます。しかし、今やそれを読む者は極めて稀で、この書の存在をすら知る者すらほとんど無いようです。

そこで、『法苑珠林』など先蹤に習い、ここで改めて逐一仏典の原文を挙げ、訓読文と現代語訳を併記して、仏教がなぜ飲酒を戒めるかの証を示します。

もっとも、ここで紹介しているのは、飲酒の過失を説き、戒めている仏典などの、ごくごく一部の比較的名の知られているものに過ぎません。『阿含経[あごんきょう]』や『梵網経[ぼんもうきょう]』、『四分律[しぶんりつ]』・『大智度論[だいちどろん]』などがそれです。さらにまた、日本仏教の祖師や高徳と言われる人々の著作や伝記からも、飲酒に関連した文言を、若干ながら引用してその補助としています。

性戒と遮戒

さて、まれに、いや往往にして、「不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し、悪を行うことを戒めているのだ。よって多少ならば良い」という者があります。が、これは詭弁です。

たしかに、飲酒という行為自体が悪である、酒という存在が罪である、などということはありません。

戒律の分類法の一つに、仏教で戒める行為のうち、その行為自体が本質的に罪であるから戒められた性戒[しょうかい]と、悪を引き起こす可能性が高いから戒められた遮戒[しゃかい]という、大まかな区別をするものがあります。この分類法によると、五戒でいうならば、殺生戒や偸盗戒、妄語戒、邪淫戒は性戒であり、飲酒戒は遮戒であるとされます。

しかし、ここで性戒と遮戒という戒の分類は、遮戒であれば犯しても良いなどと勧めるためのものでも、その根拠になりうるものでもありません。その分類とは一体如何なるものかを知れば、「遮戒であるから犯しても良い」などという事は出来ないでしょう。

よってやはり、上の如き言は、詭弁です。

(性戒と遮戒とについての詳細は”五戒-戒律講説-”を参照のこと。)

なぜ酒を飲んではいけないのか

そもそも、仏教ではなぜ、「酒を飲んではいけない」と説くのでしょうか。

その答えを、きわめて簡潔に言ってしまえば、「自分の為にならないから」の一言につきます。

仏典では、様々にその具体的理由を挙げていますが、それらはいわゆる宗教的な、あるいは俗に言うところの「抹香臭い」ものばかりではありません。「世間での評判が落ちる」「健康を害する」「財産を損減する」などといった、社会的なものも多く含まれています。

(具体的理由は、以下に挙げた飲酒を戒める仏典を参照。)

人は飲酒せずとも、軽重問わず多くの「あやまち」を犯すものです。飲酒することによって、意図的にその要因を増やすのは愚かなことである、というのが仏教の見解です。

酒にルーズな日本社会

古の歌人、大伴旅人[おおとものたびと]はこのような歌を『万葉集』に遺しています。

生者つひにも死ぬものにあれば 今の世なる間は 楽しくをあらな

どうせ死ぬなら、生きている間は、楽しくやらねば

『万葉集』「酒を讃むる歌」

これは酒について歌われたもののようで、日本でも万葉の昔から、酒は人に愛好されてきたもののようです。

また同時に、日本では古来、酒が社交の中で必須のものとなっており、酒に関して非常に寛容な、ある意味においては非常にルーズと言える面をもった文化を形成しています(もっとも、アングロサクソン全般ならびに朝鮮の飲酒文化、慣習も相当にひどいものと言えますが)。

これによって、さきに酒を飲んではいけない理由として「自分の為にならないから」と言いましたが、日本ではむしろ酒を飲まなければ社交上「自分の為にならない」ではないか、と思う人もあるでしょう。

「自分の為にならない」と言っても、そこにはレベルがあります。ただ社会的、健康的な意味で自分の為にならない、とだけで受け止めるならば、多少は酒を飲んでも良いことになるかもしれません。「常識的な範囲なら、自分の為にならないことはない。むしろ為になることのほうが多い」というのが、これは太古の昔から同様のようですが、一般的な見解でしょう。

「常識」はルールではない

世間には、なにごとにつけ「常識だ」・「常識ではこうだ」・「非常識だ。けしからん」と、それが明確にして絶対的権威をもったものかのような物言いをする人があるようです。

たしかに、人が、たとえそれが曖昧模糊としてはいても、「世間の常識」などというものをある程度意識し、ふまえなければ社会生活において様々な不都合が生じてしまうでしょう。しかし実際のところ、世間の「常識」などといわれるものなど、ずいぶんといい加減で、決して確たる基準になどなり得ないものです。

「常識」などというものは、時として、経済的利潤を獲得するためや、政治的目的によって、何者かによって恣意的に作られさえするものでもあります。

また、であるからが故に、常識はルールではありません。このように言うと「いや、ルールを守ることは常識だ」と言う人もあるでしょうが、また同時に「例外のないルールは無い、というのも常識だ」などと言う人もあるでしょう。結局、人や場合によってどうとでも言えてしまえるのが「常識」のようで、やはり常識はルールにはなり得ません。

そもそも、仏教は「世間の常識を説く教え」などではありません。

そもそも、仏教がそのような内容のものならば、仏陀がわざわざ説いてまわる必要の無かったものでしょう。仏教は、世間で一般的に言われるものをある程度肯定するものの、しかしその根幹においては、世間の常識などと言われるものを時としてまったく否定し、覆すことすら説く教えでもあるのです。

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2.日本仏教界と酒

般若湯?

日本仏教界では、僧侶であれば厳に禁じられているはずの飲酒を、ある人は「この世の習い」として容認。あるいは般若湯[はんにゃとう]などという隠語でもって暗に、または公然と用いてきた歴史があります。もっとも、厳密には般若湯は日本酒を意味するため、面白いもので、近年はビールを麦般若[むぎはんにゃ]と名づけるなど、工夫が加えられています。

そして今も、なんだかんだと理由を付けて、どうにか飲酒を「仏教的に」正当化しようとする仏教徒は跡を絶ちません。いや、日本のあらゆる集まりがほとんどそうであるように、いわゆる「お坊さん」の集まりにおいても、酒は必須のものです。酒が出ない集まりなど、まず考えられません。

得度式や授戒式などのあと乾杯。法事のあとで乾杯、葬式のあとで乾杯、晋山式のあとで乾杯、就任式のあとで乾杯などなど。

酒は「お坊さんのたしなみ」であり、飲まなければダメ、飲まない奴はダメなどという認識は、昔ほどではないにしろ、日本仏教界に強く残っています。

お坊さんと酒

その様な僧侶の集まりにおいて、同じオボウサンから「どうだ一杯」とすすめられた折、「わたくし、宗教上の理由で酒は一切飲みませんので」などと、少しばかりひねって断ってみるのもいいでしょう。

日本では、「健康上の理由」はままあるとして、「宗教上の理由」をたてに酒を断る人はまずいませんから、これをあえて口にするのも面白いものです。しかし、たいていの場合、相手はキョトンとして呆けた表情を返してくるのみで、その意味が通じることは少ないようです。

けれども「いや、私は仏教徒ですから」などと率直に断ろうものなら、こうしたことには実に敏感なもので、そこに含まれる批判の意をただちに嗅ぎ取り、「何ぃ!? おい、貴様ァ、不飲酒とか言うの守ってんのか?不愉快だ。やめろ、そんなもんここで今すぐ破れ!!!」などと恫喝[どうかつ]されてしまう場合があります。よって、この方法はおすすめできません。

恫喝されないまでも、「ほぉ、私の酒が飲めない?ふぅん、ずいぶんとお偉いことですなぁ」などと揶揄[やゆ]されたり、「青臭いことをいっちゃいかん。檀家さんはな、ボンサンと一緒になって酒を酌み交わすことが、亡き人の供養になると思っとる。わしらが酒をこうして飲むことで、彼等のご先祖さんは報われるんぢゃ。なにより檀家さんもよろこぶ。酒も菩薩の方便なのぢゃ」などと、だらしない赤ら顔から、世間にただ迎合することを良しとする妙ちくりんな説教を長々とされたりしてしまいます。

「浪花節的飲酒のススメ」と言ったところでしょう。これは田舎の人によく見られる言です。

そこで、そういう場合、「いやぁ、ワタクシ最近ちょっと飲み過ぎで色々と数値があがってまして、医者からきつく止められてしまったんですよ」などと言ってみれば、「なになにそうか。いや、私も通風やら糖尿やら高血圧やらで苦労しとるんや。最近流行のメタボちゅう奴や。しかし、酒はやめなきゃいかんと思っても、飲んじゃいかんと言われても、やめられんしな。えぇ?あんたも本当はイケル口なんだろ?でも若いのに大変だな。あぁ、こりゃお互い様か。ワハハハ」と、丸く収まるようです。

しかし、このような嘘を一度つけば、ずっとつき続けなければならないことになるでしょう。飲酒戒をまもる為に妄語戒を犯す、というのでは本末転倒で、結局自分の為にナリマセン。

もっとも、忌憚なくその実情を開陳すれば、「へぇ、これはもったいのうございます。いや、いただきます。よろこんで頂戴します」と言って、「キュッ!プハー」と飲んでしまい、つづけて「最近どうですか?今度、いいところ連れて行って下さいよ」などと返すのが、日本仏教界における模範的応対と言えるでしょう。これこそ、日本仏教界全体に通じてみられる僧侶の一般的態度、処世術であると言えます。

これが当たり前に出来るようになると、世間を知っている大人、一人前の僧侶であると、大体において日本仏教界では見なされます。

どうしても酒を飲みたい人々

どうしても酒を飲みたい人々、仏教が酒を戒めている事自体が気にくわない人々、飲酒をなんとか「仏教的に正当化したい人々」などから、先ほど述べたように、「酒自体が悪いわけではない。過ぎた酒によって、好ましくない事態が引き起こされることが悪いのである。つまり、適度な酒ならば問題ないのだ。世間でも酒は百薬の長と言われている。一滴も飲まないというのも、飲み過ぎるというのもいけない。お釈迦様の調弦の喩えがあるだろう。何事も適度に」、あるいは「お釈迦様は、中道、ということを言われたように思う。一滴も飲まないのも極端。飲み過ぎるのも極端。楽しく飲むのが真ん中の道。ガハハ」という趣旨の言葉が放たれる事があります。

あるいは、「飲酒戒は、酷暑の地インドで制定されたもの。インドで酒に酔えば、その暑さから意識ももうろうとし、下手をすると命にも関わろうが、支那・日本などは寒暖ゆるやかな地。いや、厳しい寒さに耐えねばならない土地もある。そこではむしろ、寒さに対して大いに役立つ薬ともなる。それぞれ気候風土が異なれば、酒の効用も異なり、よって彼の地の規制をこの地に当てはめるのは不合理」などと、したり顔で主張する者もあります。

また、仏教者であるならば第一の根拠とすべき仏典の所説はすべて無視し、ただ自身が所属あるいは信仰する宗派の「お祖師さま」の、酒に関する寛容な発言や態度を引き合いに出して、飲酒を正当化しようとする人もあります。

それにかこつけて「多少なら酒を飲むほうが良い」と言い、しまいには「人間だもの」などと開きなおる人さえあるようです。

人の性

まず、酒を好む者に「適度」を知る者など、果たして存在するのかどうか、甚だ疑問を感じる所ではあります。酒に限らず、一つ許せば、二つ許せ三つ許せと求め、「たまには良いだろう、今日くらい良いだろう、明日で終わりにしよう」などと、結局は際限が無くなっていくのは、人の性でしょう。

また、仏典を直接まともに読めば理解できることですが、仏教が酒を戒めることに、インドだから、チベットだから、東南アジア、日本だからなどという、気候・風土の違いなど関係ありません。ずれにせよ牽強付会[けんきょうふかい]の説と言えます。

仏教の説く道、悟りを求める者には、酒は不要であり、害毒でしかありません。ただ耳で仏教を聞いて頭であれこれ考えるだけの輩はともかく、戒・定・慧の三学を踏んで悟りを目指さんとする仏教の本道を行く者にとって、飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏道の核心に大きく差し障る行為です。

そもそも、世間がどう言ってみたところで、仏教が酒を戒め、また具体的に禁じていることに変わりはないのです。「人は弱く、そして酒はあまりにウマく、魅惑的だ」としても、いかに「酒文化」などというものが形成されていようとも、いくら社交の場において酒が必須のものであったとしても、仏教の範疇においは、酒は害毒です。

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3.仏道と酒

二者択一

「私は仏教徒だ。しかし、自分にとって、酒は大好きで止められない楽しみの一つであり、止めるつもりもない。けれども同時に、仏教を実践して、少しでも悟りの境涯に近づいていきたいとも思っている。その場合どうすれば?」と言う人が大変多くあります。

また、「酒を飲むなと言うのはあくまで戒であるし、他にも大事な、本質的な事があるだろう。世間でそんなことを言っても通用しない。それに仏教は慈悲の教えでもあろう。酒を飲むななどと、細かくうるさい事をいうのは仏教の本道から外れている。お釈迦様はもっと優しい、おおらかな人であったはずだ。教条的に戒を説かれたはずもない。お釈迦様は死ぬときに些細な戒律は廃止して良いと言い残されたのだろう?だいたい、私の懇意にしているオボウサンは酒が大好きだし、飲酒をイカンなどと堅苦しいことは言わん。私は、彼のような「人間らしい人」にこそ親しみをおぼえ、信頼する」などとまで強弁する者も稀にあります。

結論から言うと、酒を断って悟りを目指すか、酒を飲んで悟りをあきらめるかの二者択一です。(出家修行者・僧侶をのぞく)在家信者であれば、どちらを選択するかは個人の問題であり、自由です。あくまでその天秤を握っているのは自分自身。どちらが大切か、どちらに価値があるかを、仏典をしっかりと読んだ上で、自分自身で選べば良いでしょう。

ただし、酒を飲むことを自身が選んだとしても、「仏教的に飲酒は可である」などと、苦しい言い訳をすることは控えねばなりません。悟りを求めることを選ぶ、というのであれば、酒を断つようにすれば良いのです。いきなり完全に断つ事は難しいというのであれば、あらゆる努力を払い、さまざまな工夫をして、徐々に断てば良いでしょう。

酒を飲み、酔うこと。繰り返しますが、これは「仏道の核心に大きく差し障る行為」です。しかし、これもまた繰り返しになりますが、在家者であれば、飲酒するしないは、あくまで自分自身の問題です。

仏教はファンタジーではない

「人間は愚かで弱い。飲酒戒にしろ殺生戒にしろ妄語戒であろうと、戒を守る守らないなどと言う話よりも、まず仏様のお導き、お救いを信じる事こそが大切」などといった、「夢のある」主張をする人もあるようですが、論外です。仏教はファンタジー(幻想)や浪漫ではありません。そのような幻想・妄想を断たんとするのが、仏教です。

悟りの楽しみと、酒の楽しみの両方を得ることは、決して出来ません。もっとも、酒をやめただけで悟りに至るなどという事もまた、決してありはしません。

他に最低限やめるべきこととして、「殺生」や「盗み」、「ふしだらな性関係」、「虚言を吐くこと」があります。さらに自身を磨いていこうとするならば、これだけの戒めではとても足りません。そしてまた、戒めを保った生活を送った上で、正しく冥想することにより、自分で「悟り」を体得していかなくてはならないのです。

人は完全ではない

もっとも、言うまでも無く、人は完全ではありません。

ですから、いくら「もう二度としない」「決してしない」とどれだけ固く決意したところで、また同じことを繰り返したり、あやまちを犯してしまう事もあります。ときとして取り返しの付かないことすらしてしまうでしょう。しかし、それでも、そのたびに決意して、少しずつでもそれらの行いから離れていけば良いのです。

ブッダによって示された悟りを、みずから求めるというのであれば、それまで自分が楽しみとしていたものを犠牲にしたり、習慣としていたものを捨てなければならなかったり、我慢しなければならなかったりと、最初は苦に思うことがたくさんあるかもしれません。

しかし、戒を保ちつつ冥想を深めていく事によって、「なぜ~してはならないのか」を理解し納得すれば、あるいは「なぜ私は~を欲して止まなかったのか」を理解出来るようになれば、「我慢してやめる」などということはなくなって、おのずからその行為から離れていく事でしょう。

不完全なモノが、いきなり究極の完全を目指して努力してみたがとても無理、だから努力などしても無駄だと、すべてを放り投げる人もあります。いきなり完全など無理です。ゆっくりでも、しかし決して諦めずに、少しずつ改善していけばいいでしょう。

捨てていくことによって得られるモノは、大変大きく、安楽なのです。

解了は妄想を長ず

ここで注意すべきは、これらを観念的に捉えてはならないということです。また、妙な思い入れ・感情移入をして捉えようとするのもいけません。

当サイトで紹介している慈雲尊者の言葉に、「多聞[たもん]は労して功なし。解了[げりょう]は妄想を長ず」(『慈雲尊者短編法語集』)あるいは「多聞[たもん]は生死[しょうじ]を度せず」というものがあります。

仏教は実践しなければ理解出来ません。実践することなしに、経験することなしに、観念的に理解してわかったつもりになっても何の意味もなく、むしろ弊害こそあります。いたずらにただ知識としての仏教を詰め込んでいては、仏教を理解する事など決して出来はしないのです。

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4.飲酒を戒める仏典

Suttanipāta, Dhammikasutta(『スッタ・ニパータ』 ダンミカ経)

Suttanipāta[スッタ・ニパータ]とは、東南アジアにて行われてきた上座部が伝える、パーリ語で書かれた経典の一つ。蛇品・小品・大品・義品・彼岸道品の5章からなる。「ダンミカ経」は、小品に収録されている小経で、出家・在家のいずれもが、その立場に応じた戒律を守るべきことが説かれる。

Dhammapada, Malavagga(『ダンマパダ』汚れの章)

Dhammapada[ダンマパダ]とは、上座部が伝える、パーリ語で書かれた経典の一つ。経題は「真理の言葉」の意で、全26章からなる。疎い離れるべき悪しき行いついて説かれるMalavagga(汚れの章)はその第18章。漢訳に『法句経[ほっくぎょう]』がある。また他に、伝来の系統が異なるが、ほぼ同内容の『出曜経[しゅつようきょう]』がある。

『長阿含経』「善生経」

「善生経[ぜんしょうきょう]」とは、三十の比較的長い経典の集成である『長阿含経[ぢょうあごんきょう]』の中の十六番目の経。「なぜ酒を飲んではいけないか」を、六つの具体的な過失を挙げ簡潔に説いている。別訳経に『優婆塞戒経[うばそくかいきょう]』がある。

『梵網経』酤酒戒(十重禁戒)/飲酒戒(四十八軽戒)

支那・日本における最も有名な大乗戒・菩薩戒を説く『梵網経[ぼんもうきょう]』における、酒に関しての戒。酤酒戒[こしゅかい]とは、「酒を販売することの戒め」。梵網経では、これを最重罪の一つであると規定し、厳に戒めている。飲酒戒も併せて説かれるが、これを相対的に「軽戒」とし、酒を販売すること自体を戒めることが特徴。

『正法念処経』

多く地獄や餓鬼、畜生の悲惨な様相を説き、ひいては六道輪廻からの解脱を説くことから、浄土教信徒に引用する者が多い、『正法念処経[しょうぼうねんじょきょう]』にある飲酒の過失と飲酒から離れることの勧め。飲酒をもって地獄への因とする。

『四分律』飲酒戒(波逸提法 第五十一)

支那・日本における僧侶の法律書、『四分律[しぶんりつ]』の飲酒を禁止する条項。僧侶が酒を飲む事をなぜ禁止するようになったかの経緯と、酒の十の過失、もし犯した場合の罰則、例外事項とその条件などが説かれている。

『大毘婆沙論』

説一切有部[せついっさいうぶ]の論蔵所収の論書である、『発智論[ほっちろん]』の注釈書『大毘婆沙論[だいびばしゃろん]』に伝えられる、飲酒戒がなぜ遮戒とされるのか、なぜ飲酒戒が制定されたかについての仏典の根拠と、当時の学僧諸師の見解が示される。

訶梨跋摩『成実論』

支那南北朝時代以来、仏教の基礎学として盛んに学ばれ、日本でも三論宗[さんろんしゅう]の基礎学として、平安初期まで比較的盛んに学ばれた、経量部の訶梨跋摩[ハリヴァルマン]著『成実論[じょうじつろん]』における、飲酒についての見解。飲酒戒がなぜ遮戒とされるかを説く。

龍樹『大智度論』尸羅波羅蜜義

宗派を問わず漢語仏教圏における必読の書、龍樹[ナーガールジュナ]菩薩が著した『摩訶般若波羅蜜多経(大品般若経]』の注釈書である『大智度論[だいちどろん]』が示す、酒の35の過失。仏教者がなぜ酒を飲んではいけないか明快に説かれる。

最澄『根本大師臨終遺言』

日本天台宗の祖、最澄が、その臨終に際して弟子達に残した十ヶ条の遺言。その第二ヶ条にある、飲酒を戒める簡単な文言。最澄も空海に同じく、おそらくは律蔵の所説に基づいて、「薬としての酒」ならば用いてもよいと認識していたことが知られる。死に際してわざわざ言わなければならないほど、飲酒戒を守らない弟子が多かったのであろう。

空海『御遺告』第十九

しばしば真言宗徒が、弘法大師空海の言葉として口にする「塩酒一杯はこれを許す」という言葉の典拠。彼等はこの一文を根拠とし、さらに「一杯は一杯でも、お大師様はお猪口かバケツで一杯かは言われていないのだ」などと放言して、ウワバミの如く酒を飲む。しかし、実際はこの書の中で、空海阿遮梨は飲酒を厳に戒めている。

法然『百四十五箇条問答』

しばしば酒好きの浄土教関係者が引用する、法然[ほうねん]が飲酒を容認した言葉。法然にとって不本意であるかも知れぬが、この「日本人らしい」彼の一言が、彼の追従者たちに、はなはだしい悪影響を与えつづけている。

喜海『栂尾明恵上人伝記』

鎌倉初期になされた戒律復興の一端を担った明恵[みょうえ]上人が、酒について徹底した厳しい態度を示しということを伝える伝記。明恵上人が真の求道者であり、「人間というもの」を知った智慧の人であったことが、よく了解されるであろう。

慈雲『十善法語』

十善を「人たらしめる道」とし、十善戒の戒相を仏教からだけでなく儒教・道教など様々な方面から説き示した慈雲尊者の主著『十善法語[じゅうぜんほうご]』に見られる、飲酒について。尊者は、在家の「十善の人」であれば、通過儀礼において酒を用いることを容認していたことが知られる。

貧道覺應 拝識
(horakuji@gmail.com)

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