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1.十重四十八軽戒とは

大乗菩薩戒

画像:菩薩戒

十重四十八軽戒[じゅうじゅう・しじゅうはちきょうかい]とは、『梵網経[ぼんもうきょう]』という大乗の経典に説かれる、犯すべからざる重大な十項目とそれに比較したならば軽罪となる四十八項目の戒の総称です。すなわち、戒の重・軽あわせて合計五十八の行為についての戒を指して言う言葉です。

十重四十八軽戒は、『梵網経』所説の戒であることから、梵網戒などとも呼称されます。

あるいは、このうちの十重を特に取り沙汰して、十重禁戒[じゅうじゅうごんかい]あるいは十重禁[じゅうじゅうごん]とも言う場合があります。

(十重禁と言われるものには他に、支那で撰述された密教の授戒についての典籍である『無畏三蔵禅要』において説かれるものがあってその内容はまったく異なります。それについては別項“三昧耶戒”において詳説。)

『梵網経』では、所説の戒について以下の如きものであると説かれています。

爲此地上一切衆生凡夫癡闇之人。説我本盧舍那佛心地中初發心中常所誦一戒光明。金剛寶戒是一切佛本源。一切菩薩本源。佛性種子。一切衆生皆有佛性。一切意識色心是情是心皆入佛性戒中。當當常有因故。有當當常住法身。如是十波羅提木叉。出於世界。是法戒是三世一切衆生頂戴受持。吾今當爲此大衆重説十無盡藏戒品。是一切衆生戒本源自性清淨

「この地上の一切衆生・凡夫・愚かなる人々のために、私は根本たる盧遮那仏の心地中の初発心の中にあって常に誦すところの一戒、光明金剛宝戒を説こう」
「(これは)一切の菩薩の本源であり、仏性の種子である。一切衆生には皆、仏性がある。すべての意識・色・心、この情、この心ある者は皆、仏性戒の中に入るのである。 各々の未来に常有の因があるがために、各々の未来に常有の法身がある」
「この十波羅提木叉は世界に示された。この法戒は三世の一切衆生が頂戴し受持すべきものである」
「私は今、まさにこの大衆のために重ねて十無盡蔵戒品を説こう。これは一切衆生の戒の本源であって、自性清浄である」

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1003c
[現代語訳:沙門覺應]

このように、『梵網経』自身は所説の戒をして、光明金剛宝戒であるとか仏性戒、法戒であるとも説き、「一切衆生の戒の本源」などと説いています。特に(『涅槃経』のいう)仏性とこの戒とを合一して示している点、特種であると言えるかもしれません。

さて、梵網戒は、出家者にしか適用しえない条項、あるいは反対に在家信者にのみ適用し得るものがいくつかあります。故に梵網戒は、その授戒対象者として出家者・在家者を問わず、特に大乗を奉じる者ら、いわゆる菩薩に対して説かれたものです。

そのことから梵網戒はまた、菩薩戒とも言われます。

たとえば実際、『梵網経』では以下のように説いています。

是諸佛之本源菩薩之根本。是大衆諸佛子之根本。是故大衆諸佛子應受持應讀誦善學。佛子諦聽。若受佛戒者。國王王子百官宰相。比丘比丘尼。十八梵天六欲天子。庶民黄門婬男婬女奴婢。八部鬼神金剛神畜生乃至變化人。但解法師語。盡受得戒。皆名第一清淨者

「これは諸仏の本源であり、菩薩の根本である。これは大衆たる諸仏子の根本である。この故に大衆たる諸仏子はまさに受持しなければならず、読誦し善く学ばなければならない」
「仏子よ、あきらかに聴け。もしこの仏戒を受ける者は、国王・王子・百官・宰相であれ、比丘・比丘尼であれ、十八梵天・六欲天子であれ、庶民・黄門〈性的不能者〉・婬男・婬女・奴婢であれ、八部鬼神・金剛神、畜生および变化人であれ、ただ(戒を授ける)法師の語る言葉を理解できるのであれば、悉く戒を得るのである。これを第一清浄者と名づける」

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1004b
[現代語訳:沙門覺應]

このようなことから支那以来、日本においてもまた、梵網戒は大乗戒あるいは菩薩戒・大乗菩薩戒などとも呼称され、その受者の出家・在家を問わずに行われてきました。

なお、この大乗菩薩戒を説く『梵網経』の他に、同じく『梵網経』と一般に言われる経典が存在しています。

仏陀釈尊ご在世の当時にあった、様々な外道の諸見解を挙げ連ねている『仏説梵網六十二見経』です。これと大体は同じ内容の経典が『長阿含経』に「梵動経」の経題で収録されており、パーリ大蔵経の長部(Dīgha Nikāya)にも対応する経典Brahmajāla-suttaが伝わっています。

大乗の『梵網経』のサンスクリット原典での題目がなんであったか、正確には不明です。

(そもそも、『梵網経』の原典なるものが存在したのかどうか自体、甚だ怪しまれたものなのですが、これについては後述します。)

が、日本の空海は、その著『梵網経開題』においてサンスクリット原題として悉曇文字で記しており、今それは「ボラカンマチハラバソタラム ルシャノウボダハシャボウジサトバシツタハリチビハリバリタ」などという、はなはだ酷い読みで訓じられ、伝えられています。

おそらく、そのうちの「ボラカンマチハラバソタラム」というのはBrahmajāla-sūtraのことでしょうから、大乗の『梵網経』も、パーリ大蔵経に所収のBrahmajāla-suttaと題目としては同じであったようです。

ただし、これら大乗と阿含とのそれぞれ『梵網経』の内容は、ただ題目が似通っているというだけで、何一つとして関連するものはありません。その両者はまったく違う経典です。

ちなみに空海は、「『梵網経』とは『十万頌金剛頂経』の一部であって、密教経典のうち浅略なものである」としていたという大広智三蔵(不空)の伝承を、前掲の著のなかで伝えています。

菩薩波羅夷罪

具体的な戒条については後述しますが、十重禁戒を犯すことは、一般的な意味での戒とは異なり、菩薩波羅夷罪[ぼさつはらいざい]すなわち菩薩として許されない重大な罪であると、『梵網経』では強く断罪されています。

(戒の一般的意味については“戒とは何か”を、その仏教的伝統的定義については“戒の伝統的定義”を参照のこと。)

波羅夷とは、サンスクリットまたはパーリ語pārājikaの音写語です。漢語では不応悔罪[ふおうけざい]あるいは断頭罪と訳される語です。それは、「懺悔しても許されない罪」・「死罪」を意味するものです。

しかし、これはもともと律の用語です。

本来の、律蔵における波羅夷罪とは、男性の場合、相手の男女・神・動物などを問わない性交渉・自殺教唆を含めた殺人・世間で死刑とされるほどの重大な窃盗・「菩提を得た」・「聖者・賢者の境地に達した」・「私は神々・精霊らと会話できる」・「餓鬼を見た」などの(自身の状態や事実と異なる)宗教的虚言の四つに限っていわれるものです。

これらの内いずれか一つであっても、正式に具足戒を受けた仏教の正式な男性出家者である比丘が犯したならば、その者はただちに僧侶としての資格を失います。

そして、僧団から追放に処せられ、二度と比丘になることは出来なくなります。

(ただし、婬戒のみについては、婬を犯して後ただちに後悔しサンガに告白懺悔したならば、二度と比丘とはなれなくなるものの、沙弥としてならば出家者として残留することが一応可能。)

(しかし一般に、そのような状態でサンガに残留するのは極めて不名誉なことであって、現代の南方でもそのような人は存在しない。なお、現代のタイ王国の場合は強制還俗の上、逮捕され投獄される。)

波羅夷罪が、「懺悔しても許されない罪(不応悔罪)」もしくは「僧侶としての死罪(断頭罪)」と訳される所以です。

(律については別項“律とは何か”を参照のこと。)

さて、『梵網経』では、その詳細は後述しますが十項目の重戒を挙げ、それを犯すことは「菩薩の波羅夷罪」であると断じています。

そもそも律ではなく戒について波羅夷ということを言う時点でおかしな話なのですが、それほど仏教徒とくに出家者にとって甚だ重大な意味をもつ波羅夷という言葉を使うことによって、十項目の重戒というものが文字通り重い意味をもつものであることを示しているのでしょう。

同様に戒について波羅夷という言葉が用いられるのは、密教徒にとって甚だ重要な戒である三昧耶戒においても同様です。それは『大日経疏』という『大日経』の支那で撰述された注釈書において用いられています。

(詳細は別項“三昧耶戒とは”を参照のこと。)

『梵網経』は十重戒を犯した者にはどのような報いがあるかについて、以下のように説いています。

善學諸仁者。是菩薩十波羅提木叉。應當學。於中不應一一犯如微塵許。何況具足犯十戒。若有犯者不得現身發菩提心。亦失國王位轉輪王位。亦失比丘比丘尼位。亦失十發趣十長養十金剛十地佛性常住妙果。一切皆失墮三惡道中。二劫三劫不聞父母三寶名字。以是不應一一犯。汝等一切諸菩薩今學當學已學。如是十戒應當學敬心奉持。八萬威儀品當廣明

「善く戒を持して修行する諸々の仁者らよ、これは菩薩の十波羅提木叉である。まさしく修行するべきである」
「この十重禁について、一つとして微塵も犯してはならない。ましてや十戒すべてを犯すなどあってはならない。もしこれを犯すことがあれば、(その者は)現身に菩提心を発すことが出来ない。あるいは国王の位・転輪王の位を失い、あるいは比丘・比丘尼の位を失い、十発趣・十長養・十金剛・十地・仏性常住の妙果を失うであろう。全てを失って(地獄・餓鬼・畜生の)三悪道に堕ち、二劫・三劫の間、父・母・三宝の名をすら聞くことが無いであろう。そのようなことから一つとして犯してはならない」
「汝らすべての諸菩薩で、まさに今こそ修行し、これから修行し、すでに修行している者らよ、これら十戒をまさに敬意をもって奉持し、修行するべきである」

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1004a
[現代語訳:沙門覺應]

このように、十重戒を犯した者が国王であればその地位を、比丘や比丘尼であればその地位(資格)を失い、あるいは『梵網経』の上巻で説かれる十発趣などの菩薩の高い階梯に登っていた者はその境地を失って仏果を得ることが出来ない。そのうえで来世は三悪道に転生して、父・母・三宝の名を聞くことすらも叶わなくなる、などと説いています。

就中、「比丘・比丘尼であればその地位・資格を失う」としている点。まさしく前述した律における波羅夷罪と同様ではないか、と思われるでしょう。

しかし実際は、『梵網経』でこれらの戒を破ることを、律と同様に「懺悔しても許されない罪」あるいは「(出家としては二度とやり直しのきかない意味での)死罪」としているかというと、これが違います。

『梵網経』ではこれらの罪について、礼拝や読経、仏名を称えて賛嘆するなど繰り返すことによる懺悔[さんげ](悔過[けか])を行い続け、その期間に何事か吉祥なる現象に、これを「好相」というのですが、遭遇したならば許されるとしているのです。

もっとも、それはあくまで「菩薩として」の話です。戒条によっては、それ以前の僧すなわち比丘という立場は、いかなる懴悔によっても回復しません。

たとえば、もし菩薩比丘すなわち大乗の出家修行者たる者が、後述する十重戒の、律で言われる四波羅夷すなわち「婬・重窃盗・殺人・大妄語」と重複している条項を一つでも犯した場合、比丘としての立場はただちに失われます。しかし、正しく懺悔したならば、菩薩としては許され得る、ということです。

さて、十重戒を犯した場合、その者はどのようにしなければならないかを『梵網経』は以下のように説いています。

若有犯十戒者應教懺悔。在佛菩薩形像前。日夜六時誦十重四十八輕戒。若到禮三世千佛得見好相。若一七日二三七日乃至一年要見好相。好相者。佛來摩頂見光見華種種異相。便得滅罪。若無好相雖懺無益。是人現身亦不得戒。而得増受戒。

「もし十戒を犯した者があれば、彼に教えて懴悔させなければならない」
「仏・菩薩の形像の前において、日夜のうち六回にわたって十重四十八軽戒を読誦させ、さらに三世の千仏〈三千仏〉を礼拝させ終わったならば、好相を得させなければならない。(その懴悔が)あるいは七日間、十四日間、二十一日間、四十九日間、乃至一年間に至ろうとも、必ず好相を得なければならない」
「好相とは、仏陀が己のところに現れ己の頭頂を撫でたもうたり、光を見たり、華を見たりするなど、様々な異相のことである」
「(好相を得たならば、十戒を犯した)その罪が滅したこととなる。もし好相が無ければ懺悔したとしても意味など無く、戒を失うこととなる。ただ、そのようにして好相が得られなかった場合は、あらためて再び戒を受けることは出来る」

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1008c
[現代語訳:沙門覺應]

経説に見る好相とは、以上のように仏陀が現れて摩頂[まちょう]する、すなわち受者の頭頂にその右手を当てる等の、いわば見仏[けんぶつ]のことです。

一般的には、就寝中の夢あるいは白昼夢にて、仏陀や菩薩・高僧などが現れて何事かを示したり語るなどしたり、一般に吉相とされる事象が起こったりしたことをもってもいわれます。その昔の日本であれば、紫雲がたなびいた、どこからともなく妙香が漂ってきた、突如として白蛇・白鵬があらわれた等々も好相として受け止められたようです。

好相

この好相を得るということについて、たとえば日本では鎌倉期初頭では叡尊律師らが、そして慶長年間の明忍律師らが戒律復興するために、礼拝行を修し終わってから、この好相を期して瑜伽など行じ、それがどのようなものであったかは秘密ですので知られませんが、実際に得て初めて、自誓受戒を行ったとの記録があります。

また、現在でも比叡山の授戒の前には『梵網経』の所説に従い、また最澄の所言(『山家学生式』)に基いて、必ず三千仏礼拝行すなわち過去・現在・未来の各千の仏の名を唱えながらの五体投地が行われています。

その受者には、肉体的に非常な苦しみを伴う礼拝行(言うなれば、より負荷の高いスクワット三千回)を行っている時、「ホトケサマの声を聞いた☆彡」「ホトケサマが現れた♪」などと軽薄に言い出す(往々にして拝み屋がかった)者が稀にあらわれるようです。『梵網経』によれば、見仏するのは三千仏礼拝を修了して後の行に於いてなのでありますが。

いずれにせよそれは、忌憚なく言ってしまえば、ただの妄想、幻影や幻聴に過ぎないものであります。

いや、見仏ということについていうならば、それはやはり畢竟じて妄想ではあるのですが、単純におしなべて「狂者の妄想」と断じ切ることは出来ません。

なんとなれば、たとえば般舟三昧[はんじゅざんまい]など、行者が修禅中に仏陀の姿を見ること、あるいは積極的に入定中に観仏すること。それは、浄土教に限らず密教においても、自心の状態を量る徴であったり自心を陶治する一手段であったりするためです。

また修行者にとって過去に罪を犯したことへの罪悪感や強い後悔の念、ひいてはその「悪業」やその業果への恐れは、修行するにあたって強い障害とされるもので、排除すべきものです。

その故に、真摯なる懺悔の念をもって行われた行の果てに得た「好相」なるものであれば、その行者にとってそれら障碍が解消されたとの一大根拠・確信となるものでもありました。

なお真言宗でも、高野山などでは僧職者らの受戒において礼仏行を行っています。

これは『梵網経』の所説に従っているということもあるのですが、元々は仏名会という、年末十二月に行われていた過去・現在・未来の三千仏の名号を称える悔過の法会で今は行われなくなったのを、近現代になって受戒前の悔過として授戒の法式の中に組み入れたものです。

しかし、どうしたわけか何の根拠もなく、十分の一に圧縮した三百回のみを一応程度に行っているため、「ホトケサマ♪」とやらが出てくる余地すらなく終了とあいなります。

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十重禁戒 ―十波羅夷罪

さて、十重禁戒の戒相を要約すれば、以下の内容のものです。

十重禁戒(菩薩波羅夷罪)戒相
No. 戒相(抄)
1 殺戒 いかなる生き物でも、これを故意に殺傷してはならない。他人に行わせてもならない。
2 盗戒 一草であっても、与えられていない物を盗んではならない。他人に行わせてもならない。
3 淫戒 相手を問わず、いかなる性行為も行ってはならない。他人に行わせてもならない。
4 妄語戒 「禅定を得た」・「聖者の境地に達した」と虚言してはならない。他人に行わせてもならない。
5 酤酒戒 酒を販売してはならない(酤は「売る」の意味)。他人に行わせてもならない。
6 説過戒 仏弟子の罪過をあげつらってはならない。他人に行わせてもならない。
7 自讃毀他戒 自身の徳を賞讃して、他者を謗[そし]ってはならない。他人に行わせてもならない。
8 故慳戒 いかなる物(財施・法施)でも物惜しみしてはならない。他人に行わせてもならない。
9 故瞋戒 殊更に怒り、それを悔いないことがあってはならない。他人に行わせてもならない。
10 謗三宝戒 いかなる場合でも、三宝を謗ってはならない。他人に行わせてもならない。

なお、ここに挙げた戒の呼称は、支那の華厳宗第三祖たる、賢首大師法蔵[ほうぞう](643-712)による梵網戒の注釈書『梵網経菩薩戒本疏』によっています。

他にも梵網戒についての注釈書は非常に数多く有ったようですが、その中でも最も著名な注釈書の一つに、支那の天台宗第三祖たる智者大師智顗[ちぎ](538-597)によって著されたと伝説される『菩薩戒経義疏』があります。

そこでは第六重戒が「説四衆説過戒」、第八重戒が「慳惜加毀戒」、第九重戒が「瞋心不受悔戒」と名づけられているなど、戒の呼称について法蔵のものとは若干の相違があります。けれども無論、それはただ戒の条項それぞれについての呼称が異なるだけであって、まったく別の戒であるというわけではありません。

ただし、これは後述する四十八軽戒については特に、経文における戒の内容の記述に不明瞭であったり曖昧であったりする点が見られるために、法蔵と智顗とではかなり異なる解釈がされ、戒の具体的内容が若干相違して示されている場合もあります。

十重禁を説く典籍には、前述したように天竺僧善無畏三蔵によって口説され、支那僧一行阿闍梨によって筆記されたという『無畏三蔵禅要』があります。しかし、いま挙げた十重禁とは、その内容に重複するものは全くありません。

(詳細は別項“三昧耶戒とは”を参照のこと。)

ただし、他に『梵網経』とほぼ同内容の十重禁を説く経典があります。それは『菩薩瓔珞本業経(瓔珞本業経)』です。

不殺不盜不妄語不婬不沽酒不説在家出家菩薩罪過不慳不瞋不自讃毀他不謗三寶。是十波羅夷不可悔法。

①不殺生・②不偸盗・③不妄語・④不婬・⑤不酤酒・⑥不説在家出家菩薩罪過・⑦不慳貪・⑧不瞋恚・⑨不自讃毀他・⑩不謗三寶、これらが十波羅夷不可悔法である。

《伝》竺佛念訳『菩薩瓔珞本業経』卷下 釈義品第四(T24. P1022c
[現代語訳:沙門覺應]

画像:日本仏教点描

さて、十重禁戒の戒相で、五戒や八斎戒などと比較してみた場合に大きく異なるのは、まず第五番目の酤酒戒[こしゅかい]でしょう。

五戒や八斎戒では、「酒を飲まない(飲酒戒)」です。しかし、上に示したとおり、梵網戒では「酒を販売してはならない(酤酒戒)」となっています。

では、梵網戒がただ酒の販売を厳しく禁じているだけで、酒を飲むことを禁じていないかというと、もちろん禁じています。しかもかなり厳重に。

梵網戒において飲酒戒は、後述する「四十八軽戒」の中に含まれ、厳しく「酒を飲むこと・飲ませること」を禁じているのです。

(飲酒については別項“不飲酒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか”を参照のこと。)

酤酒戒は、十重禁戒と戒相を同じくする『瓔珞本業経』にも説かれているのはもちろんのこととして、また『優婆塞戒経』においても説かれています。

『優婆塞戒経』とは、特に大乗の在家信者に対して一般的な五戒を解くのに併せ、大乗独自の戒やその行うべき徳行を説く経典です。いわば阿含における「六方礼経」や「善生経」と基本的に同内容ながら、六方に六波羅蜜を掛けて説いているため、その大乗版とでもいうようなものです。

『梵網経』などでは、これはすなわち支那・日本における大乗においては、と換言できるでしょうが、酒を飲むことを不善とすることはもちろんながら、酒を飲む原因を造ることをよりずっと悪しき行為であると見ています。

酒を飲むことよりも売ることのほうがずっと重い罪であり、大乗を奉じる徒であるならば、酒を飲まないことはもちろんとして、酒の販売に決して携わってはならないし、人にさせてもならない、と説いているのです。

さて、一般的に、梵網戒を受持する者は在家者であるならば五戒や八斎戒、出家者ならば十戒または二百五十戒を持っていることを前提としています。よって、この梵網戒を受持すれば五戒や八斎戒などは不要、ということは決してありません。

あくまでもそれぞれの立場に相応した戒を受け保った上で、大乗の志ある者は梵網戒を受ける、ということが古来、支那・日本においても多く行われてきました。

ただし、日本の天台系の宗派では、最澄以来この点について世界的に見ても例を見ない、非常に特種な理解をし実行してきたため、日本では必ずしもそのとおりに行われてはいません。これについてもまた後述します。

なお、これは「梵網戒とは僧俗に通じて説かれた戒である」が故の事態なのですが、十重禁戒のうちの第三重戒の「淫戒」は、出家者の場合と在家信者との場合で、その内容が異なります。

出家者の場合は上に説明したとおりで、律とまったく変わりありません。すなわち「相手が同性であれ、異性であれ、動物であれ、神であれ、口・性器・肛門などいかなる方法でも性交渉してはならない」となります。

しかし、在家信者の場合は邪淫戒、すなわち「不適切な男女関係を結ばない。不倫・売買春しない」で、五戒や十善戒とほぼ同様のものとなります。

もっとも、それは『梵網経』で「在家の場合は不邪淫」などと説かれていることではなく、そのように古来解釈されてきたことに過ぎません。故に、この婬戒については、出家在家を問わず、文字通り一切の性行為を禁じたものであるとして理解した人も過去にあったようです。

四十八軽戒 ―大乗戒はおおらか???

次に、十重禁戒の他に併せて説かれる四十八軽戒について示します。

先ほどの十「重」に対して四十八「軽」戒という語感から、四十八軽戒はそれほど重要な戒めでは無いと捉えられがちであるでしょう。けれども、『梵網経』において一々の戒条について説かれる内容を見た時には、それが決して「軽い」ものではないことが知られるでしょう。

世間では、「大乗戒は小乗戒に比べてユルく、おおらかである」などという甚だしい誤解を抱いている人が比較的多いようです。しかし、実際にこの四十八軽戒の逐一を見たならば、その認識がまったく誤っていたことを知るでしょう。

大乗戒と一口にいっても、『瑜伽師地論』・『菩薩地持経』所説の具体的な内容を備えた(抽象的なものではない)三聚浄戒と、この梵網戒とはまったく別系統のものであるため、一概に言うことは出来はしません。

しかしながら、少なくとも支那以来日本における「大乗戒の代表」とでも言うべき梵網戒は、「大らかである」とか「寛大である」とか言い得るものでは到底ありません。

さて普通、戒とは「~してはならない」というものです。いわば止悪、すなわち悪をなさないための行動規範です。

しかし、この四十八軽戒では、「~してはならない」という禁則を挙げつつ、併せて「~しなければならない」との行動規定が、しかも多岐にわたってなされている場合が多くあります。

それはいわば修善、すなわち善を積極的になすための行動規定となっています。

実際、四十八軽戒の中には、かなり具体的な行為について言及している項目が多くあります。また四十八軽戒には、一つの戒条として説かれている中に、複数の戒として別出しえるような、しかも互いに関連性の全然認められないような内容が説かれています。

梵網戒が一般的な意味での戒と、はなはだしく異なっている点であり、その正確な理解を困難にしている点の一つでもあります。

さて、四十八軽戒の内容を概説すれば、以下のものとなります。

四十八軽戒 戒相
No. 戒相
1 軽慢師長戒 仏弟子が国王・大臣・官役に就くときには先ず菩薩戒を受けなければならない。そのとき和上・阿闍梨や同行の人を軽んじてはならない。
2 飲酒戒 自らの意思で、酒を飲んではならない。酒を人に与えて飲ませてはならない。その相手が神や動物であれ、酒を飲ませてはならない。
3 食肉戒 自らの意思で、それがどのような種類(鳥・肉・魚)のものであれ、肉を食べてはならない。
4 食五辛戒 大蒜・革葱・慈葱・蘭葱・興渠の五辛*を、自らの意思で食べてはならない。(*五辛が具体的に何を指すか諸説あって不明瞭)
5 不挙教懺戒 諸々の戒を犯した者を見過ごし、その罪を教えて懴悔・悔過させないことがあってはならない。
6 不敬請法戒 大乗の法師、客比丘の来訪があった時、これを種種にもてなし、その説法を請わないことがことがあってはならない。
7 不聴経律戒 何処であれ比丘が律蔵や経典を講説をしていたならば、その場所に行ってそれを聴聞しないということがあってはならない。
8 背正向邪戒 大乗常住の経律に背いて(大乗は)仏説では無いと言って、声聞・縁覚や外道の、誤った禁戒や経律を受持してはならない。
9 不瞻病苦戒 病に苦しむ者に出会ったならば、これを仏の如くに供養しなければならない。怒りなど悪心をもって、助けぬ事があってはならない。
10 畜諸殺具戒 刀や槍、弓矢、鉾や斧など戦闘のための武器を所有してはならない。および生類を殺傷するための道具を蓄えてはならない。
11 通国入軍戒 自分の利益や悪人の為に、国の使者となって軍隊の陣に出入りしてはならない。軍を動かし、大量殺人の助長をしてはならない。
12 傷慈販売戒 人身や牛・馬・犬・羊・豚・鶏など家畜の販売をしてはならない。および人の遺体を納める棺などを販売してはならない。
13 無根謗人戒 悪心に基いて、根拠無く、善人や法師・師僧・国王・貴人など他者が七逆・十重を犯したなどと、誹謗してはならない。
14 放火損焼戒 悪心に基いて、山林・広野を四月から九月の間、火を放って焼いてはならない。および他家や田畑、官庁、神を焼いてはならない。
15 法化違宗戒 仏弟子や外道、親戚や善知識に大乗の経律を教えず、悪心に基いて、声聞・縁覚の経論や、外道の論書を教えてはならない。
16 惜法規利戒 大乗の経律を求め来る新学の者には、まずその身や腕、指を焼かせて諸仏を供養しなければならない。そして、利養のためにその問いに答えず、大乗を誤って教えてはならない。
17 依官強乞戒 自らの名聞・利養の為に、国王や大臣など権力者におもねり、さまざまにその権勢を頼みに利益を求め収得してはならない。
18 無知為師戒 戒を学び読誦する者は、常に菩薩戒を憶持してその義利と、仏性とを解しなければならない。しかるにそれを解せずに偽って解すといい、他者の師となって戒を授けてはならない。
19 闘謗欺賢戒 持戒の比丘が菩薩行を行じているのを見て、悪心をもって、彼らが相争うようにしたり、嘘言して悪行を行っていると謗ってはならない。
20 不能救生戒 六道の衆生は、生死輪廻の中、ことごとく我が父母であったものである。囚われた畜生があれば放生し、また父母兄弟の命日には、法師を屈請して菩薩戒経を講説せしめなければならない。
21 無慈酬怨戒 怒りに対し怒りをもって返し、危害に対して危害をもって報いてはならない。たとえ父母・兄弟・親戚を殺害されたとしても、復讐してはならない。
22 慢人軽法戒 出家して間もなく、いまだ理解していないところが多くあるのに、己の才覚や出自・財産を誇り、先学の法師であるけれども出自が悪く、あるいは年下であると蔑んで、教えを受けないことがあってはならない。
23 軽新求学戒 仏滅後、菩薩戒を受けようと志す者で、親しく面前に授戒しえる師がいない場合は、仏・菩薩像の前で七日以上および一年間、好相を得るまで懺悔しなければならない。そこで、新学の菩薩が来たって様々な質問をされた時、軽蔑や慢心、悪心に基いて、それに答えないことがことがあってはならない。
24 背大向小戒 大乗の正法を、学び修習する価値の無いものとして捨て、むしろ誤った声聞・縁覚や外道、俗典や阿毘達磨、書法や数学などを学ぶことは、道の障害となるものである。学んではならない。
25 為主失儀戒 仏滅後、能化や禅師・威儀師となるならば、慈心をもって僧達の争いを鎮めず、三宝物を管理して私物化してはならない。
26 待賓乖式戒 客比丘の来訪があったならば、これを迎えて様々にもてなし、送り迎えしなければならない。施主があって衆僧を供養する時には、客比丘をその招きから外してはならない。
27 受別請戒 施主があって特定の僧に対する供養の招き(別請)があったとき、これを受け、あるいは受けた布施を衆僧に分かたず、個人のものとしてはならない。
28 故別請僧戒 僧であれ俗であれ、僧に布施をするのに際しては、特定の僧を指定して招いてはならない。
29 悪伎損生戒 悪心によって、利益を得るために、売春したり、調理したり、男女の占い、夢の占い、呪術、書画・彫刻に携わったり、鷹匠の法を学び行ったり、毒薬を調合したり、金属加工に関わったりしてはならない。
30 違禁行非戒 悪心によって、三宝を謗っていながら表面的には敬意を示したり、口だけで空を説きつつもその行いは有に執していたり、在家の男女に交際を薦めて淫行に及ばせ、六斎日・三長斎月に、殺生・偸盗など破斎・犯戒させてはならない。
31 見厄不救戒 外道や悪人・盗賊が、仏・菩薩像や経律を売り、比丘・比丘尼を売り、または大乗の菩薩を売って奴隷とされていたならば、それらすべてを慈心をもって買い取らないことがあってはならない。
32 畜作非法戒 刀や槍、弓矢などや、不正な秤や重りを販売してはならない。権力を傘にきて人の財産をかすめ取ったり、捕縛したり、失脚させてはならない。猫・狸・猪・犬を飼ってはならない。
33 観聴作悪戒 悪心によって、いかなる種類のものであれ、男女の諍い、戦争、盗賊の争いを観たり、音楽を鑑賞してはならない。囲碁・将棋・サイコロ・鞠・投石・投壺・髑髏などによって、占いをしてはならない。盗賊の使いをしてはならない。
34 賢持守心戒 固く禁戒をまもり、常に戒を誦しなければならない。自らを未成の仏、諸仏は已成の仏であると知って菩提心を発し、一瞬たりとも忘れてはならない。一瞬たりとも、声聞・縁覚や外道を求めてはならない。
35 不発大願戒 常に誓願を立てなければならない。父・母・師僧・三宝に従い、師・同朋・善知識が、自分に大乗の経律と十発趣・十長養・十金剛・十地とを教えて悟りに導いて、法に違わず修行し、戒を持って、命に変えても捨てないという願いを持たないことがあってはならない。
36 不起十願戒 十大願を立て、仏陀の禁戒を持ったならば、以下の願を立てなければならない。
①むしろこの身が猛火・深坑・刀山に墜ちるとも、三世諸仏の経律を損って、どのような女性とも性交しない。
②むしろこの身に灼熱の鉄の羅網が千重にも巻きつくとも、破戒の身でありながら、信者からの衣服(などの布施)を受けない。
③むしろこの口に熱い鉄玉や溶鋼を呑んで、百千劫を経るとも、破戒の口でありながら、信者からの飮食を受けない。
④むしろこの身が猛火の羅網・高熱の鉄板に臥せるとも、破戒の身でありながら、信者によって設けられた座に着かない。
⑤むしろ三百の鉾によって貫かれ、一劫二劫を経るとも、破戒の身でありながら、信者からの医薬を受けない。
⑥むしろこの身が高熱の鉄鍋に落ち、百千劫を経るとも、破戒の身でありながら、信者からの建物・園林・田地を受けない。
⑦むしろこの全身が鉄槌によって打ち砕かれるとも、破戒の身でありながら、信者からの尊敬・礼拝を受けない。
⑧むしろ百千の熱鉄の刃物で両目をえぐられるとも、破戒の心をもって、他の好ましき物を見ない。
⑨むしろ百千の鉄錐で鼓膜を突き刺され、一劫二劫を経るとも、破戒の心をもって、好ましい音を聞かない。
⑩むしろ百千の刃物で、鼻を削ぎ落とされるとも、破戒の心をもって、好ましい香りを嗅がない。
⑪むしろ百千の刃物で、舌を切り落とされるとも、破戒の心をもって、他からの食事の布施を食しない。
⑫むしろ鋭利な斧で、身体を切り刻まれるとも、破戒の心をもって、好ましい肌触りの衣類を着ない。
⑬願わくは、一切衆生を悉く成仏に導かん。
これら十三願を発さないことがあってはならない。
37 故入難処戒 (比丘は)春・秋は頭陀行を、冬・夏には坐禅し、雨季には如法に安居しなければならない。常に楊枝・澡豆・三衣・瓶・鉢・座具・錫杖・香炉・漉水囊・手巾・刀子・火燧・鑷子・縄床・経・律・仏像・菩薩像の十八物を用いなければならない。これらは頭陀を行ずる時は必ず携帯しなければならない。月二回の布薩の日には、各自三衣をまとい、十重四十八軽戒を誦しなければならない。ただし布薩に何人集まろうとも、誦すのは一人でなければならない。頭陀を行ずる時は、どこであれ危険や困難ある難処に入ってはならない。
38 衆坐乖儀戒 先に受戒した者は前に、後に受戒した者は後ろにと、(布薩など儀式が行われる時には)席次を守って如法に坐らなければならない。年齢の老少、比丘・比丘尼、国王・王子など貴族、性的不能者や奴隷など、その社会的地位や出自等によって席次を決めてはならない。
39 応講不講戒 一切衆生を教化し、僧坊を建て、山林や田園地帯に仏塔を建立しなければならない。冬・夏の安居や坐禅処など、すべての修行の場にて、それは行われなければならない。そこで一切衆生のために、大乗の経律を講説しなければならない。様々な苦難・危機の時や、家族・和上・阿闍梨が亡くなった日や四十九日までの七七日の節目にも、貪・瞋・癡が盛んなる時、多病なるときにも、大乗の経律を読誦・講説しないことがあってはならない。
40 受戒非儀戒 人の為に授戒する時は、その受者の、社会的地位や出自、神や悪鬼、不具などを問うて拒絶せず、ことごとく授戒しなければならない。ただし、七逆を犯した者には、戒を授けてはならない。(出家者が)身に着ける袈裟・座具などは、(くすみ濁った)青・黄・赤・黒・紫などの壊色としなければならない。袈裟衣は、その土地独自の衣服があったとしても、かならずそれらと異なった(如法の)ものでなければならない。出家者は、国王・父・母・親族・鬼神を礼拝してはならない。法を求め来る者があるのに関わらず、悪心によって、誰であれ戒を授けないことがあってはならない。
41 無徳詐師戒 人を教化して信心を起こさしめ、戒を授けるために、人の教誡師〈教授師〉となる時は、和上と阿闍梨とを請わさせなければならない。和上と阿闍梨とは、受者に七遮〈七逆を犯した過去の有無〉を問わなければならない。もし十重禁戒を犯していたのであれば、戒を誦させ、また三千仏を礼拝させて、その上で好相を得るまで懴悔させなければならない。四十八軽戒を犯していた場合は、対首懴〈僧侶に面と向かって罪を告白し、懺悔すること〉にて出罪させる。大乗の経律など諸々の教えを理解していないにも関わらず、名聞利養を得ようと求めるが故に、理解していると詐り、人に戒を授けてはならない。
42 非処説戒戒 利養を得る目的で、いまだ菩薩戒を受けていない者や国王を例外として、誰であれ外道・悪人・邪見の人の前で、この菩薩戒を説いてはならない。
43 故毀禁戒戒 信心を起こして出家し、仏の正戒を受けておきながら、意図的に聖戒を犯したならば、いかなる信者からの供養も受けてはならない。また国王の土地を通行し、国王の水を飲んではならない。五千の大鬼が常にその前を遮って、鬼から「大賊め!」と言われるであろう。すべての世俗人は罵って「仏法中の賊である」と言って、見ることすら厭うであろう。犯戒の人は畜生、木頭と異ならない。正戒を(意図的に)犯してはならない。
44 不敬経律戒 常に大乗の経律を受持・読誦しなければならない。その(自らの)皮を剥いで紙とし、その血をもって墨とし、その髄をもって水とし、その骨を割いて筆として、仏戒を書写せよ。木皮・穀紙・素絹・竹帛にも、戒を書いて持たなければならない。様々な宝などで納める箱を作り、経律を納めて如法に供養しなければならない。
45 不化衆生戒 常に大悲心を起こし、どのような場所であれ一切衆生を見たならば、「汝ら衆生、ことごとく三帰十戒を受けよ」と唱えなければならない。牛・馬・猪・羊などあらゆる畜生を見たならば、「汝は畜生であるが、菩提心を発せ」と、心に思い、口に言わなければならない。どこにあっても、菩薩は、一切衆生をして菩提心を発させるべきである。衆生を教化しないということがあってはならない。
46 説法乖儀戒 常に教化を行じ、大悲心を起こして、信者や貴人の家など人々に交わった時、立ちながら在家信者の為に説法してはならない。在家人の前で説法などする時には、高座の上に坐ってなさなければならない。法師の比丘は、比丘・比丘尼・在家男・在家女の四衆の為に説法するときには、法師は高座に座して如法に説法し、四衆は地に座って法師を香華などで供養しなければならない。
47 非法立制戒 国王・王子・百官、あるいは(比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼、もしくは出家・在家の)四部の弟子であろうとも、自らの権勢を傘にきて、仏法の戒律を改変し、新たな禁則事項を作って四部の弟子を管理し、出家・修行などしてはならない。また、仏像・仏塔を建立し、経律を印刷することを制限したならば、破三宝の罪となる。行ってはならない。
48 自壊内法戒 好ましい動機によって出家したにも関わらず、むしろ名聞利養を目的として、国王・百官の前で七仏戒を説いて(仏弟子の罪過をあげつらい、)菩薩たる比丘・比丘尼を逮捕・拘束させることは、獅子身中の虫に等しい。もし仏戒を受けたならば、その仏戒を護持することは「我がひとり子」を護るように、父母に仕えるようにしなければならない。外道や悪人が、仏戒について誹謗中傷するのを聞き放しにしてはならない。自身が誹謗中傷することについては言うまでもなく、また人に教えてさせてもならない。

四十八軽戒のその他の戒条には、律蔵の中で禁じている行為や規定している行為をそのまま言っているようなものもあります。また逆に、律蔵の規定からすれば完全に非法となるような行為をむしろ推奨している場合もあります。

そして前述したとおり、記述の明瞭さに欠け、解釈する人によって相当にその内容が変わりうる点も多くあります。

あるいは逆に、たとえば第八条の背正向邪戒など、これを「文字通り理解」した時には、外道に対してならば理解できますが、声聞・縁覚という二乗いわゆる小乗に対しても極めて排他的なあり方が要求されたものと捉えられます。

それはまた、「三宝」ということについての混乱を生じさせるものであり、また当時の支那においても甚だ非現実的な条項でもあります。

たとえば、一世紀中頃に仏教は支那に伝わっていたとはいえ、六世紀頃から七世紀にかけてようやく請来・整備され、出家者に必須のものとして行われていた、律(具足戒)との整合性が全然とれなくなる規定となってしまうのです。

あるいは、『大智度論』にならんで極めて重要な大乗の論書たる『瑜伽師地論』における戒(三聚浄戒)や律についての所説とも、大きく矛盾する規定ともなります。

また他の問題点として、四十八軽戒の中には、ほとんど理不尽もしくは極端と思える事項が義務として説かれている箇条もあります。たとえば、第十六条の惜法規利戒や第四十四条の不敬経律戒などです。

もっとも、そのような「自身を損ねることによって諸仏を供養すること」を賛嘆するのは、たとえば『法華経』においてなされていることです。

若有發心欲得阿耨多羅三藐三菩提者。能燃手指乃至足一指供養佛塔。勝以國城妻子及三千大千國土山林河池諸珍寶物而供養者。

「もし無上正等正覚を得たいと思う者があって、みずからの手の指および足の指を燃やして仏塔を供養したならば、それは国や城や妻子、および三千大千国土の山・林・河・池や諸々の珍しき宝物を供養する者に勝るのであろう」

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』薬王菩薩本事品第廿三 (T9. P54a
[現代語訳:沙門覺應]

しかしながらこれは、いわゆる「捨身飼虎」の本生譚とは全然本質を異にするものです。また、譬喩など表現上のこととしてならば兎も角として、実際にそのような行動をなすことは、律からすればあきらかに非法(突吉羅・悪作)であって、出家者のなすべきでない行為です。

その故に、『梵網経』の所説が仏教としてあれこれ自己撞着したものとならぬよう、そして現実的に解釈する必要性が生じてきます。

ただ単にわかりにくいというだけで注釈が必要であったわけでもなく、むしろ文字通りに理解してしまうと重大な矛盾をきたしてしまうためにも注釈が必要となったのでしょう。そこで結局、過去の支那ひいては日本の比丘達はどうしてきたのかというと、これは必然的というべきか、むしろ律の所説を優先し、インド以来のあり方を踏襲しています。

また、それは日本の僧尼に対する世法たる『僧尼令』においてもまさしく禁止されている行為でもありました。

凡僧尼不得焚身捨身。若違。及所由者並依律科断。

(第二十七条)
僧尼が身体の一部を燃やして仏陀・経典への供養としたり身を捨てて供養とすることは出来ない。もし違反すれば、違反者は法律によって処罰される。

「養老律令」 令第三 僧尼令
[現代語訳:沙門覺應]

現代的見方からして「理不尽」「極端」と思えるわけではなく、それは千年以上昔の支那や日本でも同様であったようです。そしてそのような過激な行動を実際に行うものは、社会や人心を惑わし不安にさせるものであったのでしょう。であるからこそ、世法としてわざわざそれを明文化し、禁止したのでありましょう。

そのように『梵網経』に説かれているからと言って、それすべてがそのまま文字通りの意味で、支那でも本邦でも古来行われたわけではありません。

ただし、惜法規利戒や不敬経律戒について言えば、これは比較的最近の元朝以来の新しいことのようですが、支那では現在も実際にこれを行う習慣がいまだあります。戒疤(香疤)です。

また、日本の江戸期にも、実際に指や身のどこかを炎で焼かせなければ受戒させないなどという僧(秀嵓)が実際にあったようです。

もっとも、そのように梵網戒の戒条の一々の細部まで見ていけば色々と問題がありはしますが、それらにかまけて梵網戒の底に通じて流れる一つの徳を見逃してはならないでしょう。

それは「慈悲」であります。

あくまで輪廻を前提とし、生きとし生けるものが生まれ変わり死に変わりする様を大なる苦しみと見、しかもそのように生死流転する中で、互いに父母となり子となってきたこと。

それを真であるとするからこそ、すべての生けるものに対して慈悲を持って対することを説き、そこから脱する道をその対象を問わず広く示すこと。それがまさに孝であると説かれていることです。

慈悲とは、単純に言えば「怒らず、害さないこと」であります。が、しかし、ただ単に「やさしくて朗らかであること」ではありません。ある場合、ある観点からすれば、それは非常に厳しい態度が求められるものでもあります。

(「僧侶と在家信者」という場合とは異なり、僧伽内においては、年長と年少の比丘同士、あるいは比丘が年少の沙弥に対する「教育」という面では甚だしく厳しい、キツイ態度でなされることが、これは南方においてもチベットにおいても見られます。)

しかし、その内容に差異こそあれ、すべての仏教に通じて説かれる、どうしても人が解脱に達するのに必要な徳であります。それが『梵網経』の根底に流れていることを、見逃してはなりません。

(慈悲など四無量心についての詳細は、別項“四無量心”ならびに“四無量心観”を参照のこと。)

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戒の功徳 ―受戒と持戒

ところで、上述した十重禁戒など大乗の戒を受け、そしてまた護持することについて、『梵網経』はいかに説いているのか。

一切有心者 皆應攝佛戒 
衆生受佛戒 即入諸佛位 
位同大覺已 眞是諸佛子

一切の意識を有する者らは、皆まさに仏戒を摂めるべきである。
衆生が仏戒を受けたならば、すなわち諸仏の位に入るであろう。
その位が大覚と同じならば、まことにその者は諸仏の子である。

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1004a
[現代語訳:沙門覺應]

以上のように『梵網経』はその偈文の中で、衆生(人)は戒を受けることによってこそ諸仏に等しい者、すなわちそれは完全な覚りを得るに至りえることを明かしています。

仏教には大乗小乗の別あって、また諸宗諸派並び立って様々に見解を異にしているとはいえ、「戒」を第一とする戒・定・慧の三学を修めることを必須とすることで通じています。大乗においては、その三学もさることながら、六波羅蜜をその行の本質・核としており、そこに持戒波羅蜜が含まれています。

その故に、逆に「戒を軽視」もしくは「戒を不要」として「信こそ重要」あるいは「信心を持ち続けること戒である」等と喧伝する輩があって、それを「真の仏教である」「まぎれもない仏教の一派」などと謳っていても、もはや仏教とは到底言えぬものです。

ここで『梵網経』もまた、戒を受けることをその因(起点)として、人は覚りに至り得ることを説いています。

しかしさて、支那並びに日本において大乗戒を説く経典として『梵網経』以外にまた重要な経典として用いられてきた『瓔珞本業経』においては、少々毛色の違った一説が見られます。

『瓔珞本業経』では、前述したように『梵網経』と全く同内容の十重禁戒が説かれ、また『梵網経』では一語として言及されない三聚浄戒について、十重禁戒が関連付けられて説かれています。

(梵網戒を理解しようと望む者は、『梵網経』自体には三聚浄戒など一切言及されず、関連付けられてもいない点について、十分留意する必要があります。)

そこでまた特に「大乗戒を受けること」自体について、一見すると非常に特異と言える説が示されているのです。

佛子。若過去未來現在一切衆生。不受是菩薩戒者。不名有情識者。畜生無異。不名爲人。常離三寶海。非菩薩非男非女非鬼非人。名爲畜生〔中略〕
又復法師能於一切國土中。教化一人出家受菩薩戒者。是法師其福勝造八萬四千塔。況復二人三人乃至百千。福果不可稱量其師者。夫婦六親得互爲師授。其受戒者。入諸佛界菩薩數中。超過三劫生死之苦。是故應受。有而犯者勝無不犯。有犯名菩薩。無犯名外道。

「仏子よ、もし過去・未来・現在の一切衆生で、この菩薩戒を受けない者など、知性ある者であると言えない。畜生に同じであって、人とは言えないのだ。常に三宝という海から離れているならば、菩薩でなく、男でもなく、女でもなく、鬼〈死霊・餓鬼〉や神でもない。畜生である。〔中略〕」
「また、法師がいかなる国においてであろうとも、一人の出家者を教化し、菩薩戒を授けたならば、この法師の功徳は八万四千の仏塔を建てることに勝るであろう。その受者が二人・三人および百千人ならば、その功徳は計り知れないものとなる」
「この十重戒〈十無尽戒〉を授けるのには、夫婦など六親眷属が互いに師〈授者〉となり受者となるも可である」
「(十重戒を)受戒したならば、諸仏界の菩薩衆の中に入り、三劫に生死流転する苦を超過するであろう。そのようなことから(十重戒を)受けるべきである」
「戒を受けていながら十重戒を犯す者は、戒を受けていなくとも(十重戒の禁ずる行為を)犯さない者に勝る。戒を受けて戒を犯す者を菩薩といい、戒を受けない者を外道という」

《伝》竺佛念訳『菩薩瓔珞本業経』卷下 釈義品第四(T24. P1021b
[現代語訳:沙門覺應]

以上のように、『瓔珞本業経』においては、戒を授受する両者に大きな功徳があるといい、特に「戒を受けること自体」を最重要視しています。

「菩薩戒を受けていない者に知性はない。畜生と同じであって、人ではない」などという過激な文言は、それを表するのに余りあるものです。いや、実は『瓔珞本業経』においては、破戒を推奨するような文言こそありませんが、そもそも持戒することに全然重きが置かれていません。

常識的な見方からすれば、今ここに示した一節だけを見れば、途方も無いことを主張しているものです。就中、上に太字にして示した最後の一節など文字通り理解したならば、それはあまりに驚くべき、常軌を逸したものと言って過言でないでしょう。

この一文は、やはり支那の諸大徳も注目したようで、たとえば法蔵はその注釈『梵網経菩薩戒本疎』において、菩薩戒の功徳の重大なこととそもそも戒がいかに重要であるかの典拠として挙げています。

また他方、日本天台宗の第三代となった円仁(794-864)は、その著『顕揚大戒論』において、以上の一説をまさしく憑拠として以下のように理解するに至っています。

菩薩戒有受法而無捨法。有犯不失盡未來際。

菩薩戒には受法はあるけれども捨法は無い。もし(菩薩戒を)犯すことがあっても、(その戒・戒体は)未来永劫に失うことは無いのだ。

円仁『顕揚大戒論』卷第四 菩薩受戒法式篇七(T74. P702b
[現代語訳:沙門覺應]

このような理解は、そもそも支那の天台宗においてなされていたものではあります。

法才王子及涅槃中退轉菩薩。從初已來歸依一體三寶熏修戒善。有受法無捨法。心無盡故戒亦無盡。一切戒善爲此所熏。

法才王子〈文殊師利〉および涅槃における退転菩薩は、その(発心の)始めより、一体三宝に帰依して戒善を薫修してきた。(大乗戒には)受法は有るけれども捨法は無い。心が無盡であるから戒もまた無盡である。すべての戒善は、そのようなことから薫じえるのである。

智顗『摩訶止観』卷第三之下(T46. P35b
[現代語訳:沙門覺應

やがて日本でも広く、天台宗にとどまらず菩薩戒について「一得永不失」すなわち「一度得たならば永久に失うことはない」との理解が、『瓔珞本業経』の一文などを根拠として生じていくこととなります。

そしてまた、時代が下って中古天台ともなると、その僧徒には自身らの甚だしく堕落したあり方を肯定し得るものとして、非常に魅力的な一文として受け止められていきます。

実際、この一連の一節は日本の中古天台の僧徒をはじめ、やがてはその影響を受けた律宗の者にまで珍重されるようになっていきます。

たとえば、「無戒の比丘より破戒の比丘」などということが平然と言われるようになり、さらには平安後期から世に流行を見だした末法思想、浄土教の流行も手伝って、「むしろ破戒して可なり」となっていくのです。

受戒すること自体が非常なる功徳あるものであって、受戒しただけで「諸仏界の菩薩衆の中に入り、三劫に生死流転する苦を超過する」あるいは「戒を受けていながら十重戒を犯す者は、戒を受けていなくとも(十重戒の禁ずる行為を)犯さない者に勝る」などと『瓔珞本業経』では断言されており、持戒の意義や価値には全然言及されていないのだから。

ただし、『瓔珞本業経』が説いているのは菩薩戒(十重戒)に限ったことであって、また菩薩戒を受けただけで僧侶になり得る云々など一切説かれていません。

画像:呪術としての授戒

さらにまた、平安中期頃からは巷間において、といっても主として貴族らの間ですが、この一節を根拠として「菩薩戒を受けること自体」が違った形で流行していきます。病気になったならば平癒を願って受戒、身重となったならば安産を期して受戒。けれども受けた戒など守るつもりなど端から毛頭無いし、実際守らない、ということが行われていくのです。

受戒すること自体が、世間において現世利益を願い叶え得る「アリガタイもの」と見なされるようになり、いわば呪術的・祈祷的性格色濃い儀礼となっていったのです。

この極めて愚かで浅ましい理解は、しかし、現在にいたるまで脈々と受け継がれています。おそらくはまったく無意識的に。

事実、現在の多くの総本山といわれる大寺院や地方寺院などにおいて、常時あるいは時々行われている在家信者・檀家相手の「お授戒」なる儀式など、現実的に戒が行われることなど期待してもされてもおらず、受けるだけで「アリガタイ, アリガタイ, ナムナム」「イミ? ムズカシイコトハ, ワカラン」以上のものでありません。

ある場合には現世利益などすら期待されたものもないでしょう。そもそも、その正体が一体何かもわからずに行っているのだから。

それはただ、暇を持て余している地方の高齢者、いわば仏教などほとんど知らず関心もなく、しかしただ因襲的に祖霊崇拝の装置として檀家寺との関係はもってきた高齢者らをのみ対象とした、宗教的風味ただよう気晴らし(リクリエーション)となっている、と言って過言でないでしょうか。

さて、日本仏教の各宗派それぞれが、戒律についてそれぞれ独自の所見をもってはいるでょう。

とは言え、しかし、そもそも総じてどの宗派に属する者であれ、「戒律?時代が違う」・「そもそもインドなど南アジアとは気候風土習慣が異なるのだ」・「そんな前時代的・不合理な規定にかまけるよりも重要な事があるだろう?」等といった釈明をする者はあっても、結局のところまるで戒も律も守るつもりも守ることも皆目ない点では、全く同様でありましょう。

これは高野山や比叡山に限らず、ほとんどすべての(今や律宗・真言律宗をすら含めた)日本仏教の宗派に言えることですが、もはや日本仏教における授戒(受戒)などと言うものは、その授受する両人とも誰一人として一つ一つの儀式・儀礼の由縁も意味もわからぬまま行う、単なる通過儀礼に過ぎなくなっています。

しかし、寺を継がなければならない者、あくまでも「日本のオボーサン」をやりたい者は、これを受けておかなければ「宗門が与える僧侶という職業資格」が得られないために、どれだけ嫌であってその意味もわからないし、その意義もまるで無いことを分かっていても、皆必ず受けなければなりません。

世間の人々は、そのような従来の寺院・僧職者のあり方について、多くの疑問や嫌悪感すら感じるようになり、それは年々多く、そして強くなっていっているようにすら感ぜられます。

そのような現状にあって、そのような僧職者らが、「営業時間内」だけ袈裟衣をまとって取り澄ました顔をしながら、「日本は大乗であるから大乗戒をこそ」だとか「これはアリガタイ大乗戒であるから、受けるだけで意味があるのデス」などと力んで宣伝してみたところで、それを一体どうしてどのような形であれ現実的価値あるものとして、社会が望み、人々が受けいれることがあるでしょうか。

これは、現代の葬儀につきまとう「戒名」(そして「戒名料」)という、受ける側(すなわち死者とその親族)は大した意味も価値も見出せない、どこまでも不合理としか思えぬ習慣にも、大いに関連する問題でもあります。

さて、ではここでまた翻って、そもそも菩薩戒を説く中心的・根本的な経典として奉じられてきた『梵網経』では、どのように持戒について説いているのかを示します。

佛告諸佛子言。有十重波羅提木叉。若受菩薩戒不誦此戒者。非菩薩非佛種子。我亦如是誦。一切菩薩已學。一切菩薩當學 一切菩薩今學。已略説菩薩波羅提木叉相貌。是事應當學敬心奉持

仏陀は諸々の弟子に告げられた。
「十重波羅提木叉がある。もし菩薩戒を受けていながら、この戒を誦さない者は菩薩ではなく、仏種子ではない。私もまた同じく誦すのである。すでにこの戒を修行している一切の菩薩、これからこの戒を修行せんとしている一切の菩薩、まさに今修行している一切の菩薩らよ、すでに略して菩薩波羅提木叉の相を説いた。これをまさに学び、敬して奉持せよ」

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1004b
[現代語訳:沙門覺應]

『梵網経』では、先に「受戒によって諸仏の位に入る」との一説を示しましたが、「受戒自体が尊い」などということはまったく意図されていません。

むしろ受けていながら誦さない者は、この「誦さない」というのはただ単に「『梵網経』を読誦しない」というだけではなく「戒を持さない」ということが含意されているのですが、菩薩ではなく仏種子でもない、と断じられています。

上に示した四十八軽戒のいくつかの戒条でも言及されているように、『梵網経』が破戒を非常に厳しく諌めていることは明白です。

最澄によって大乗の徒には至高の戒を説くものとされた『梵網経』には、先に示した『瓔珞本業経』の一説とはまるで逆のことが説かれているのです。

そして、その最澄自身にもやはり、『瓔珞本業経』が言うような「受戒自体に価値があるのだ!」などといった主張は見当たらず、また破戒を容認するような所言もありません。

画像:『末法燈明記』の一説

(ただし、最澄に仮託され捏造された『末法灯明記』をして最澄の真撰であると強弁するならば、彼はむしろ持戒を否定していたことになるでしょうけれども。いや、実際それを真撰であると真に受け、新たな宗派を打ち立ててその教学に組み入れてしまった者らがありました。浄土真宗と日蓮宗です。)

故に、最澄の主張の是非は今は置くとして、彼の立てた日本天台宗徒ならびにそこから派生していった諸宗派は、彼らがその伝統や宗義を今も奉じているのであれば、そのような『梵網経』の意をこそ汲んで奉じるべきであったでしょうし、今もそうあるべきでしょう。

実際、口では「伝教大師以来の伝統」であるとか、「大乗の真面目」だの「我が宗の護持する戒は仏祖正伝菩薩戒である」といった類の言を弄する者は、今も昔もありはします。

が、現実は全然そうでなかったし、今もそうありはしません。

現実問題、そもそも人が戒を受けたからと言って、その戒条にもよるでしょうが、それらを完璧に守っていくことなどほとんど出来かねることです。

これは戒であろうと律であろうと同様のことで、律の伝統を堅持してきた上座部を信仰する南方の国々における比丘らも、その受持する律をすべて完璧に守っているなどということは決してありません。

そして、律をどの程度厳しく守っているかも、国や地域そして派の異なりによって、相当の違いが見られます。

実際、比丘が細かい戒条を守っていないことで「破戒僧だ!」などということはありません。これは律というものの制度や構成を知ったならば容易に理解できることです。

例えば、現代社会において、制限速度60キロのところを80キロで走ったり、歩行者が赤信号を無視して渡ったならば、それはもちろん道路交通法違反ですが、それで「犯罪者!」と言う人は普通無いでしょう。それと同じように、律にも罪の軽重・優先度の高低といったものが存しています。

そしてまた、その条項すべてを守りきることなど出来なかったとしても、戒や律が「重要なもの」「護持すべきもの」として存在すること自体にも意味があり、それに対する理想と敬意とを持つことは、すこぶる必要なことであります。

そこで問題となるのは、「そもそも保つべき規定自体が存在していない」場合や「あったかもしれないが知らないし、守る気も無い」場合。あるいは「細かい点は守っていても、しかし重罪とされる条項を完全に破っており、やはり守る気もない」場合などです。

『梵網経』においてもそう説かれているように、やはり「戒は受けただけで良い」などということは決して無く、十全とはいかなくとも努めて守ろうとしなければ意味などありはしません。

分受

ここで余談、といっても十重禁戒のうち特に「婬戒」に関連する話となりますが、その昔の日本の天皇や公家らで敬虔な(?)仏教徒らが、どのように菩薩戒を受けていたかについてです。

先にも述べたように、梵網戒すなわち十重四十八軽戒は、僧俗に通じて説かれた戒であって、大乗を奉じる者であるならすべからく受けたもつべき、菩薩戒であるとされたものです。

その中でも十重禁戒の一々は、もっとも厳重に守るべき戒として示されています。

しかしながら、往古の天皇や公家などは、習慣としてまたは立場としても、複数の女性と関係を結ぶことがごく当たり前になされていたため、在家信者としての天皇などであったとしても「婬戒(邪婬戒)」を守ることが端から無理である場合がありました。

ではその場合、特に大乗を志向する仏教徒として、天皇や貴族らはこの十重戒とどう向き合い、どう折り合いをつけたのか。

天皇などが受戒する際、最初から婬戒などを除いて僧侶は授け、天皇も婬戒を除いて受けたのでした。これを日本では「分授(分受)」などと名づけ、しばしば天皇や公家など権力者に行っています。

では、その分受ということを可能にする根拠は何であったか、その発想は何に由来するものあったのか。

『梵網経』にその根拠を求めることは出来ません。それは先程から幾度か言及してきた『瓔珞本業経』の以下の一説に依るものでした。

有而犯者勝無不犯。有犯名菩薩。無犯名外道。以是故。有受一分戒名一分菩薩。乃至二分三分四分。十分名具足受戒。

「戒を受けていながら十重戒を犯す者は、戒を受けておらず十重戒も犯さない者に勝る。戒を受けて戒を犯す者を菩薩といい、戒を受けない者を外道という」
「そのようなことから、一分の戒を受けた者は一分の菩薩と言い、ニ分・三分・四分についても同様で、十分と全て受けることを具足受戒(完全な受戒)と言うのである」

《伝》竺佛念訳『菩薩瓔珞本業経』卷下 釈義品第四(T24. P1021b
[現代語訳:沙門覺應]

『梵網経』が菩薩戒として総じて説いている十重禁戒ということからすると、『梵網経』自身からすれば、「分受」ということはおそらく認められないでしょう。

しかしながら、このように『瓔珞本業経』がその根拠として挙げられ実際に分受ということが行われたのは、仏教を真摯に(?)信仰する者として、少なくとも守り得ることは守ろうとする苦肉の策でもあったのかもしれません。

もし、梵網戒が、五戒や八斎戒・十善戒などと同様の、本来的な意味での戒と同質のものであったならば、「折り合いを付ける」などといった必要は無いのでしょうけれども。

たとえば、釈迦牟尼ご在世の当時、その信者としてAmbapālī[アンバパーリー]というその美貌で知られた裕福な芸者、今でいう高級娼婦がありました。彼女は仏法僧の三宝に帰依した者として、やはり五戒を受けていました。

彼女は娼婦であったために、五戒のうち邪淫戒を守ることは出来なかったでしょう。

しかし、だとしても、それを問題視する者など誰もおらず、五戒いずれかを保てなかったとて、それで「仏教徒としての波羅夷罪である」などと断罪されることもありません。五戒を犯したことによって仏教徒として他の仏教徒から罰せられるなどということも無く、また「ホトケ樣がバチを当てる」などということも決して無く、あくまで自業自得です。

例えば、もし在家の仏教信者が殺人を犯したとしたならば、世法によって裁かれ、またその果報を自身が受けるのみのことです。それで仏教徒でなくなる、教団から排除される等ということはありません。

(ただし、出家者の場合は殺人は律における最重罪まさしく「波羅夷罪」であって、ただちに比丘としての資格を失い僧団から排斥されます。そして二度と比丘となることは出来ません。もっとも、それで仏教徒でなくなるということはありません。)

仏教において受けた戒を守る、守らないということは、あくまでその本人の意志によるものであって強制されるものではありません、本来ならば。

しかしながら、繰り返しますが、梵網戒においてはそうではありません。むしろそれを知っていたからこそ、往古の天皇や公家たちは、分受ということを行ったのかもしれません。

それにしても『瓔珞本業経』は、日本の僧俗によって、良くも悪くも便利に都合よく使われてしまうことが多かった経典でもあったようです。

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2.『梵網経』について

『梵網経』の真偽問題、いまむかし

『梵網経』所説の戒である梵網戒は、支那から日本にかけてもっとも一般的な大乗戒・菩薩戒として通用してきたものです。

もっとも、大乗戒と言われるものには他に、弥勒菩薩『瑜伽師地論』(『菩薩地持経』・『菩薩善戒経』)所説のものがあります。それは『梵網経』所説の戒とは戒相も構成もほとんど共通しない、まったく別系統のものです。

また、これはその対象が在家信者に限られたものではありますが、『優婆塞戒経』所説のものもあります。

むしろこれらの経論に説かれる戒こそが、本場インドの大乗で(その程度はどれほどのものであったかは知られぬものの)行われていたようです。

いや、そもそもインドやチベットなどインド亜大陸の大乗が信仰され行われた諸地において、『梵網経』が流布し、また梵網戒が行われていたという痕跡も全くありません。それは『梵網経』が偽経であるとされる根拠の一つでもあります。

さて、実際この『梵網経』は、支那でも古くは訳者不詳、いや偽経の疑い濃厚のものと見られていました。誰に由って支那へ請来され訳されたかもわからぬ、あるいは何者かによって捏造された経典かとの強い疑いがかけられていたものであったというわけです。

たとえば隋代の開皇十四年(594)に法経と廿人の学僧らによって撰述された訳経目録たる『衆経目録』いわゆる『法経録』では、以下のように記載されています。

梵罔經二卷諸家舊録多入疑品
右一戒經依舊附疑

梵網経二巻諸学者・翻訳家の旧録では多く(偽経かとの)「疑品」に収録されている。
 右の一戒経〈梵網経〉は、従来の見解に従って(偽経であろうと)疑われるものである。

法経等『衆經目録』卷第五(T55. P140a
[現代語訳:沙門覺應]

少なくとも594年以前までの支那では、『梵網経』が相当にその出自と真偽が疑われてきたものであったことが、ここから知られます。

ところが、何を根拠とし何故そのようにしたのか全く知られませんが、わずかその三年後の開皇十七年(597)に彦琮[げんそう]によって著された新しい『衆経目録』いわゆる『彦琮録』では、ごく簡単に鳩摩羅什(Kumārajīva, 344-413)が後秦の代( 西暦400年頃)に訳出したものと言い出しています。

梵網經二卷 後秦世羅什譯

梵網経二巻…後秦の世における鳩摩羅什による翻訳である。

彦琮『衆經目録卷』第第一(T55. P153a
[現代語訳:沙門覺應]

以来、つぶさにはその前後に鳩摩羅什訳であると仮託されたのであろうことを物語る典籍が色々あるのですが、『梵網経』は鳩摩羅什の訳経であるとされてきました。

その故に、古来現在にいたるまで日本仏教の各宗派でも鳩摩羅什訳として用いられています。

もっとも、現存する最古の注釈書『菩薩戒経義疏』が、その伝説通りに真に天台の智顗[ちぎ](538-597)によるものであるならば、智顗は従来の諸々の訳経僧・学僧らによる疑いを無視し、これを鳩摩羅什による訳経であると断定して、これを著したということになるでしょう。むしろその故に、『彦琮録』において鳩摩羅什訳であるとされた、ということがあったのかもしれません。

いずれにせよ、そのような支那における『梵網経』の受容以来、日本においても同じく『梵網経』はまぎれもない仏説であって偽経ではない、いや、むしろ大乗戒を代表する得難い経典であって、大乗の人はすべからく受持すべきであると理解されてきました。

それは、詳しくは後述しますが、『梵網経』所説の梵網戒をもたらされた道璿律師や鑑真大和上に由来するもので、日本におけるおよそほとんどの僧俗は梵網戒を「大乗戒である」、「仏説である」、と受容してきたのです。

さて、しかしながら現代、知恩院の門跡を勤めた浄土僧にして仏教学者であった望月信亨博士が『梵網経』は偽経であることを文献学的裏付けをもって主張。

以来、現在の仏教学者・文献 学者等もまた、やはり訳者は鳩摩羅什などでは決してなく、またその内容などからして、五世紀中頃の支那で撰述された偽経であると見ています。それはもはや学会では定説となっています。

ところで、『梵網経』以外にもまた他に、支那・日本で重要視されてきた大乗戒を説く経典として『瓔珞本業経』があります。先に触れたように、たとえば十重禁の戒相など、この経典と『梵網経』には多く共通・連絡するものがあります。

しかし、この経についてもやはり望月博士が、『梵網経』に同じく妄説の偽経であるとの説を初めて主張。

以来、『瓔珞本業経』偽経説は、今の文献学者らにいたるまで、五から六世紀の支那において先行する『梵網経』の影響を受けて撰述された偽経であると、完全に確定されるまでには至っていませんが、おおよそ承認されています。

特に『瓔珞本業経』は、先に若干触れましたが、その内容にその他多くの経典と比してもかなり特殊な文言も見られます。この経が文献学者らがいうように偽経であるならば、これを撰述した輩は、先行する『瑜伽師地論』や『梵網経』を説を統合しつつその上を行って注目されようと、より特種で過激な説を、大乗経典の名のもとに捏ち上げたのでありましょう。

いずれにせよ、支那・日本において行われてきた大乗戒・菩薩戒を知り、また学ぶには『梵網経』と『瓔珞本業経』、そしてもう一つ加えたならば『占察善悪業報経(占察経)』が必須の経典です。

特に『瓔珞本業経』は、『梵網経』では一切言及されていない三聚浄戒を梵網戒と絡めて理解するための重要な根拠の一つ、日本における菩薩戒への特殊な理解の論拠の一つともなっています。

また『占察経』は、正規の戒律を伝えられた鑑真和上渡来以前の、日本の僧侶らがその立場を保証する主たる典拠としていたものであり、また鎌倉初期に叡尊・覚盛律師らが戒律復興を成し遂げるのに、その典拠の一つとしたものです。

孝名爲戒 ―孝を名づけて戒とす

『梵網経』が支那撰述の偽経であるとするその根拠の一つとして、また『梵網経』の所説の一大特徴として、しばしば取り上げられるのが以下の一節です。

爾時釋迦牟尼佛。初坐菩提樹下成無上覺。初結菩薩波羅提木叉。孝順父母師僧三寶。孝順至道之法孝名爲戒亦名制止。

 その時、釈迦牟尼仏は、初めて菩提樹下に坐して無上菩提を成じ、そこで初めて菩薩の波羅提木叉を制定されたのである。父・母・師僧・三宝に孝順し、至道の法に孝順せよ。「孝」を名づけて戒とし、また名づけて制止というのである。

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1004a
[現代語訳:沙門覺應]

まず、この一節では『梵網経』所説の菩薩戒は、釈尊が菩提樹下で成道された直後に説かれたものであるといいます。続いて最も注目される点が、「父・母・師僧・三宝に孝順し、至道の法(大乗)に孝順であれ」といい、「孝は戒であり、孝は制止である」などといっている点です。

就中、「孝名爲戒(孝を名づけて戒となす)」などという、ことさらに特異と言える点。

それはまさしく支那の儒教思想をそのまま仏教に紛れ込ませた証である、支那の民衆に仏教を根付かせるため、あるいはしばしば軋轢のあった仏教と儒教との融和のために、儒教思想を仏教にねじ込んで捏造した経典の証である、と学者らに見られているのです。

もっとも、ただ単純に「孝」という言葉・思想があるから仏教では無い、偽経であると言われているわけではありません。

たとえば、先に示した四十八軽戒のうち、惜法規利戒や不敬経律戒などを現実に行うことは、純然たる「孝」を尊ぶ支那人からすれば、仏教の出家者が頭髪を剃ることや、死者の亡骸を荼毘に付すことすら「孝に反する」などと激しく批判した支那人らからすれば、到底受け入れられないものであったでしょう。

なんとなれば、儒教でいう「孝」とはそもそも以下のようなものであるから。

身體髪膚。受之父母。不敢毀傷孝之始也。

身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。

『孝経』

「孝」の語を用いてその意義を仏教的に換骨奪胎し、支那の人々を仏教側に引き寄せようとしたものにすぎないと言えばそれまでです。が、『梵網経』には部分的に支那人にとって相当強烈であろう内容が説かれているのです。

さてまた、父母や親族・師・三宝など敬うべきを敬って養うこと、恭順すべきこと。

それは、その他の経典、たとえば現代の仏教学者によって初期経典などといわれることがあるMaṅgala sutta(吉祥経)やSiṅgālovda sutta(『六方礼経』・『善生経』)などでも、それこそ「孝」という言葉が使われているわけではありませんが、説かれ推奨されていることです。

儒教の言う「孝」そのままではないにしろ、相似する内容の行為を徳行・善行であるとする思想は古くインドにもありました。

けれどもしかし、全体として『梵網経』を見た時には、やはり現代の仏教学者がそう見る通り、それが支那において『華厳経』や『涅槃経』そして既存の戒経の思想を部分的に取り入れて造られた偽経であろうとの嫌疑がかけられることが免れられないような、支那的内容をもっていることは事実です。

また、その内容が支那的であるというだけではなく、まともに読もうとすればするほど、その記述が非常に曖昧模糊としたり雑然としたりしているなど、理解し難い記述が散見されもします。

『梵網経』が偽経では無く確かに翻訳されたものとしても、しかしその訳文には問題が少々ありすぎます。これをその所説の通り大乗の戒として真摯に、現実にたもたんとする者には混乱をもたらしかねない、杜撰で厄介なものであるとすら言える点が存しているのです。

ただし、それが現代の見方からすれば明瞭に支那的臭いのただよう、儒教思想が強く織り込まれたものであったとして、当時はあくまでこれをまごうことなき仏説である、インド伝来の経典であるとして受け入れられています。その故にこそ、華厳宗の法蔵や天台宗の智顗などは『梵網経』に対する詳細な、そして従来の戒律と撞着・衝突をきたすことのない解釈をするために、注釈書を著したのでありましょう。

支那仏教史上の巨人とも言える彼ら両人は、共に生粋の支那人ではあります。かといって、彼ら大徳らが、儒教のいう「孝」思想そのままでもって、「孝名爲戒」のいう「孝」を解釈していたのかといえばそうではありません。

それぞれがあくまで仏教者として、時に儒教的な「孝」思想とはまったく反した形で、これを理解していたことが知られます(他に注釈書を残した支那僧・日本僧の中には、まるきり儒教的「孝」によってこれを理解した者もありますが)。

そして事実、『梵網経』の説く「孝」は、儒教の説く「孝」と同じではありません。

しかしながら、やはりその内容に不明瞭な点が多いことから、時に大きくそれぞれの解釈が異なっていたことが、彼らの遺した注釈書によって知られます。

いずれにせよ支那以来、日本の仏教史上においても、『梵網経』はどこまでも仏説の大乗戒を説くものとして奉持され、さまざまな祖師といわれる人らによってもやはり同様に重要視されています。

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日本における『梵網経』(梵網戒)の嚆矢とその位置付け

画像:梵網経

日本において『梵網経』がいつごろ請来され、行われだしたかははっきりしていません。

しかし、遅くとも天平五年(733)には『梵網経』に伝わっていたことを知りえる資料が存しています(『大日本古文書』編年文書)。

鑑真大和上が渡来するに先んじて懇請され、天平八年(736)来朝し大安寺に止住していた道璿[どうせん]律師は、いつのことであったかは知られぬものの、『梵網経』下巻の注釈書三巻(『註菩薩戒経』)を著しています。

それが律師が『梵網経』を自ら日本で普及させようと努めて著したものであったか、日本の僧俗に求めに応じて著したものであったかは不明です。いずれにしても、現在その注釈書は現存せぬものの、現在知れる限りではそれが日本において初めて著された『梵網経』の注釈書です。

(日本人僧による初めてのものはやや後代に善珠が著した『梵網経略抄』。)

道璿律師の立場を考えると、ただ注釈書を著したというだけでなく、実際に『梵網経』の講説が開かれて日本の僧尼らがこれを学んだということは十分考えられることでしょう。とはいえ、『梵網経』所説の菩薩戒の授受が道璿律師によって実際に行われたという当時の記録はありません。

しかし、最澄は、自身で唐より伝えて開宗した天台宗の法脈を示そうとして顕された書『内証仏法相承血脈譜』において、最澄はその師であった行表の師として道璿律師を挙げ、その行跡について若干の伝承を記しています。

大唐大光福寺道璿和上日本國大安寺西唐院
天平寶字年中。正四位下太宰府大貳吉備朝臣眞備纂云。大唐道璿和上。天平八歳。至自大唐。戒行絶倫。教誘不怠。至天平勝寶三歳。聖朝請爲律師。俄而以疾退居比蘇山寺。常自言曰。遠尋聖人所以成聖者。必由持戒以次漸登。和上毎誦梵網之文。其謹誦之聲。零零可聽。如玉如金。發人善心。吟味幽味。律藏細密。禪法玄𣸧。遂集註菩薩戒經三卷。非我輩之所逮。更何得以稱述。自餘行迹。具載碑文。其前序云。昔三藏菩提達磨。天竺東來至於漢地。傳禪法於慧可。可傳僧璨。璨傳道信。信傳弘忍。忍傳神秀。秀傳普寂。寂即我律師所事和上也。本在嵩山。流傳禪法。人衆多歸。故有勅請入東都。常在華嚴寺傳法。故曰華嚴尊者。璿和上四季追福文云。春季三月内。奉爲達磨和上。乃至第七華嚴和上。及陽澤和上。並十方法界無邊三寶。滅除根本無明十地罪障。一切微細所知煩惱。夏季六月内。奉爲無始時來一切師僧。乃至禪河和上。及并府三師七證。并盡未來際。十方法界一切師僧善友。一日一夜。供禮盡法界。虚空界一切三寶。永斷身口七支破戒。及三業毀破三聚淨戒之罪。秋季冬季二節。如願文説。天平寶字三年三月二十五日。峰林下發願也。謹案。璿和上書云。又吾院堂内所供之燈。自今已後。至禮佛時。加炷令明。禮佛了。即唯留一莖燈心也。如是可得免燻佛像之罪過也。行表。數數自親看檢之也。付法之文。具如遺言。

大唐大光福寺 道璿和上日本国大安寺西唐院
 天平宝字年中、正四位下太宰府大弐であった吉備朝臣真備の纂にはこうある、「大唐道璿和上は、天平八年に大唐より来朝された。戒行絶倫であって、教誘怠ることがなかった。天平聖宝三年、朝廷の要請によって(僧綱に任ぜられて)律師となった。しかし突如、病に見舞われたために比蘇山寺に隠居されたのであった。(道璿和上は)常に自ら言われていた。「遠く聖者の聖となる所以は何かと尋ねたならば、それは必ずまず戒を持つことであって、そうして初めて次に(定と慧とを修めて)漸く(聖者の高みへと)登るのである」と。和上は毎に『梵網経』を読誦されていた。その謹誦される聲は、零零として聞き惚れるものであって、それはまるで宝玉のような、黄金のような、聞く者をして善心を生じさせるものであった。(仏法において)吟味幽味にして、律蔵について非常に詳しく、禅法にも深く通じ達していた。遂には『註菩薩戒経』三卷を著されたが、それは我輩など到底及べるものではない優れたものであって、それ以上何も付け加える必要など無いものであった。(道璿和上の)その他の行跡については、詳しく碑文に載せている。その冒頭の序にはこうある、「昔、三蔵菩提達磨が天竺より東来して漢地に至られ、禅法を慧可に伝えられた。慧可は僧璨に伝え、僧璨は道信に伝え、道信は弘忍に伝え、弘忍は神秀に伝え、神秀は普寂に伝え、普寂はすなわち我が律師が仕えた和上である。本は嵩山にあって禅法を伝え広め、多くの人々が帰依した。そのようなことから、皇帝の勅によって東都に入ることとなり、常に華厳寺で仏法を伝えていた。このことから、華厳尊者と称された」と。
 『璿和上四季追福文』にはこうある、「春季三月のうちは、達磨和上 乃至 第七華厳和上、及び陽澤和上、並びに十方法界無辺の三宝の奉為に、根本無明・十地罪障・一切微細の所知煩惱を滅除せん。夏季六月のうちは、無始以来の一切の師僧、乃至禅河和上、及び並びに府の三師七證、並びに盡未來際十方法界の一切の師僧・善友の奉為に、一日一夜、盡法界・虚空界の一切の三寶を供養・礼拝し、永く身・口七支の破戒、及び三業によって三聚淨戒を毀破した罪を断ずる。秋季・冬季の二節は、願文に説いたとおりである。天平宝字三年三月二十五日、峰林の下にて發願する」と。
 謹んでこれを考えてみると、『璿和上の書』にはこうある、「また、我が院の堂内に供するところの燈明は、今より以降、仏を礼拝する時には、灯心を加えてより明るくし、仏を礼拝し終わった時には、唯だ一茎の灯心のみを残すようにすること。そのようにすれば、仏像を(ススで)燻じてしまう罪過を免れることが出来よう」と。(我が師たる)行表はしばしば自ら親しくこれ〈『璿和上の書』〉を開き見られていた。付法の文は、詳しくは遺言のとおりである。

最澄『内証仏法相承血脈譜』(伝全 Vol.1, P211-213
[現代語訳:沙門覺應]

道璿律師の行業について詳しく伝えるものは決して多く残っておらず、この最澄の筆による伝承は、その点非常に貴重であると言えるものです。

また、これは鎌倉期という相当後代に著されたものではありますが、おそらくこの最澄の『内証仏法相承血脈譜』あるいはここに言われる「吉備真備の纂」に直接基づき、虎関師錬は道璿律師について以下のように伝えています。

釋道璿唐國人。居東都大福先寺。留學普照榮叡諭誘赴東。天平七年來。敕館大安寺西唐院。璿善禪律。于時本朝乏戒學。朝廷請爲戒師。璿不倦授受。嘗曰所以成聖必由持戒。常誦梵網。其音清亮如出金石。聞者感動。

 釈道璿は唐国の人である。東都の大福先寺に居していたのを、留学していた普照と栄叡の懇請によって東国(たる本朝)に来たのである。
 天平七年736、勅によって大安寺西唐院に住された。道璿律師は禅と律とに通じていたが、当時の本朝では戒学を欠いていたため、朝廷の要請により戒師となり、(戒を人々に)授受するのに倦むことがなかった。
 当時(道璿律師は)「聖者(の境地)に至るのには必ず持戒に由る」と言われ、常に『梵網経』を読誦していた。その声はどこまでも清涼で、まるで金の石が現れるかのようであり、聞く者をして感動させたものである。

虎関師錬『元亨釈書』巻第十六
[現代語訳:沙門覺應]

道璿律師の来朝後、時を経ること十八年の天平勝宝六年(754)、ようやく鑑真大和上が来朝。ついに正規の律(『四分律』による南山律宗すなわち道宣律師系統のもの)が請来され、ここに晴れて日本仏教にも正しく「僧宝」が備わることとなります。

画像:唐招提寺蔵 鑑真和上坐像(国宝)

鑑真大和上はただ律のみを伝えて出家者に授け、正規の仏教僧(比丘)を日本でも誕生させ得るようしたというだけではありません。

また同時に『梵網経』所説の十重四十八軽戒をその一環とした菩薩戒(三聚浄戒)を、聖武上皇(沙弥勝満)と光明皇太后、そして孝謙天皇を初めとする僧俗およそ440名に、東大寺大仏殿前に一時的にしつらえた戒壇において初めて授けられています。

支那においては、天台宗の智顗や華厳宗の法蔵などの大学匠、そしてまた天台の学僧でもあった鑑真大和上もまさしくそうであったように、沙弥出家したものが別に菩薩戒を受け、また進んで具足戒を受けてはじめて仏教の正式な出家者たる比丘となることが一般的でした。

そもそも、大乗の僧侶が菩薩戒と具足戒を別個に受けて菩薩比丘となることは、(その仔細についてはあれこれあるものの)インド以来のいわば伝統的・正統的なことであって、特別なことではありません。

(三聚浄戒の内容についての詳細は、別項“三聚浄戒”を参照のこと。)

その後、朝廷はただちに東大寺大仏殿の西側の空地に、常設の戒壇を設置した戒壇院を建立。以降、仏教僧となる者はすべて、必ず例外なくこの戒壇院で具足戒(律)を受けなければならないことが、国家として定められます。

これによって、日本に仏教が伝来しておよそ二百年余りを経てようやく、正しく日本に仏・法・僧の三宝が現実のものとして成立したのでした。

その後には、西方の僻地にある者のために筑紫の観世音寺、東方の僻地にある者のために下野の薬師寺それぞれに戒壇が建立され、併せて「天下の三戒壇」とされるようになります。

当時の戒壇院は、境内に回廊を巡らせ講堂や僧坊などがある、ただ具足戒を受けるための戒壇があるだけではなくて新学の受者らの居住・修学のための施設を備えた、現在残っているもの(今の戒壇堂)よりずっと規模の大きなものでした。

さて、鑑真大和上の渡来後程なくして、聖武上皇の皇太夫人藤原宮子が崩御していますが、ここで注目すべき法会が創始されます。

太皇太宮藤原宮子
聖武天皇之母也神亀元年二月天皇即位為大夫人三月為皇大夫人贈正一位太政大臣不比等之女也勝宝六年七月十九日壬子崩平城宮佐保山西陵兆域東西十二町南北十二町守戸五烟国忌於戒壇院修之梵網会是也

太皇太宮藤原宮子
 聖武天皇の母である。神亀元年724二月、聖武天皇が即位したことによって大夫人となり、三月には皇太夫人となる。贈正一位太政大臣・藤原不比等の娘〈長女〉である。
 天平勝宝六年754七月十九日壬子、平城宮にて崩御し、佐保山西陵に葬られる。その兆域は東西十二町・南北十二町1.69㎢。守戸〈墓守〉として五烟〈五家〉が置かれた。その国忌は東大寺戒壇院において行われたが、それが梵網会[ぼんもうえ]である。

『東大寺要録』巻第四
[現代語訳:沙門覺應]

それまでの太上天皇が崩御した時など、七大寺などに『華厳経』や『涅槃経』等の経典を七日毎などに誦経させ、その死を悼み後生を祈ることはされていました。が、それは決して『梵網経』ではありませんでした。

何故に聖武上皇の母君の国忌として、戒壇院が完成するのは翌七年(755)のことですが、俄然としてしかも殊更に、『梵網経』を講讃する法会たる「梵網会」が行われたのか。

聖武帝は、そもそも『華厳経』をこそ最も重要な、国家を治め民を安んずるための根幹の経典とし、さらに大乗小乗すべての経律論等を転読・講説すべきことの詔をすら出していました。天平勝宝元年(749)五月のことです(『続日本記』巻第十七)。

そのようなことから、おそらく東大寺の毘盧遮那大仏も『華厳経』所説のものであろうと推定されています。

国家経営の思想基盤として『華厳経』がその根幹に据えられ、また護国の経典として『仁王般若経』・『金光明経』、あるいは『大般若経』や『大集経』、『法華経』などが頻繁に転読されていました。

しかし、母御の藤原宮子が崩御するまさにその年の初め、国家としても待望のことであった、鑑真大和上によって正統な律が伝来されます。そして、その中に『梵網経』所説の十重四十八軽戒を含む三聚浄戒が、菩薩戒として併せて受戒されるようになり、また上皇自身もその菩薩戒を改めて受けていました。

それは聖武上皇にとって、国の長たる公人としてだけではなく個人として、非常に大きなことであったのでしょう。

梵網会が初められたのは、まさに自身が受けた梵網戒の所説に従わんとした、その意志の表れでもあったのでしょう。

けれども、ではなぜ『梵網経』を講説する法会が、特に「死者の追福」として行われたのか。

それは、先に触れた『梵網経』が「孝を名づけて戒とす」と説いているような経自体の説も、その根拠の一つではあるでしょう。しかし、そのより具体的な根拠が、まさしく『梵網経』下巻に説かれる四十八軽戒の内にあります。

若父母兄弟死亡之日。應請法師講菩薩戒經福資亡者。得見諸佛生人天上。若不爾者犯輕垢罪。

 もし父・母・兄弟が死亡した日には、法師に請願して菩薩戒経〈『梵網経』〉を講説してもらい、その福徳によって亡者を助けて諸仏に見[まみ]えしめ、ついに人または神の世界に転生させようとしなければならない。もし、これを行わなければ軽垢罪となる。

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1006b
[現代語訳:沙門覺應]

これは上に示した四十八軽戒の第廿条「不能救生戒」が説かれている経文の一節です。

ここでは、一周忌などの命日ではなく、父母など家族が死んだまさにその日に、法師に依頼して『梵網経』を講説してもらい、それをもって死者の(「ジョーブツ」などでは決して無い)より良い後生の助けとすべきことが説かれています。

死者の追福のため、法師に経の講説をしてもらうことが、義務として、「戒」として説かれているのです。

もっとも、この戒の主要部分は、法蔵による「不能救生戒」という戒の呼称にも表れているでしょうが、「生きとし生けるものすべては、無始輪廻の中で父母であったものであるから、もし捕われるなど苦しみの渦中にある動物にあったならば、これを救って放生[ほうじょう]しなければならない」ということにあります。

今の日本にも、それほど多くは無いようですが放生の習慣が残っていたり、「放生池」という名の池があったりするのは、この仏教の放生という行、『梵網経』に説くところに由来するものです。

さて、「過去世において屹度、父あるいは母であったに違いない、囚われの苦しみにある鳥獣を助けて放て」というのがこの戒の主旨であって、決して「死者の追福のために『梵網経』を読誦・講説し、その追福とせよ」ということを主としたものではありません。

いずれにせよ、「した方が良い」と推奨しているのではなく「しなければならない」と義務として説き、「しなければ罪である」と説いている点、注意しなければなりません。先ほど述べたように梵網戒が、五戒など一般的な戒とはまるで性質の異なっている点です。

あるいはまた、四十八軽戒には以下のような戒めも存しています。

若疾病國難賊難。父母兄弟和上阿闍梨亡滅之日。及三七日乃至七七日。亦應讀誦講説大乘經律。《中略》 而新學菩薩若不爾者。犯輕垢罪。

 もし疾病・国難・賊難に遭い、あるいは父・母・兄弟・和上〈師僧〉・阿闍梨〈先生・教授〉が死亡した日、および死後三七日〈二十一日〉乃至七七日〈四十九日〉においても、またまさに大乗経律〈『梵網経』〉を読誦し、講説しなければならない。《中略》 しかるに新学の菩薩で、もしこれを行わなければ軽垢罪となる。

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1008b
[現代語訳:沙門覺應]

これは第三十九条「応講不講戒」が説かれている経文の一節です。

この戒の主旨は、「僧坊や仏塔を処々に建て、生きとし生けるものために大乗の教えや戒を講説して教化しなければならないこと」です。法蔵による「応講不講戒」なる戒の名称は、それを正しく言い表すものでありましょう。

しかし、その副次的なものとして、人あるいは国家が諸々の困難・災厄に遭遇したときにはその除災を期して『梵網経』を読誦し講説し、もしくは家族や自身の師僧または先生が死去したならば、やはりその追福を祈っていわゆる四十九日の間、『梵網経』を読誦し講説しなければならないとあるものです。

家族や師僧、先生などが死去した時、その厚恩に報いようと、「生きているものが生きているもののためになす大乗戒の読誦・講説・持戒による功徳」によって、その後生の安楽の助けとすること。

それは、まさしく「孝」を実践する方法の一つであって、それがまさに戒(の一部)となっているわけです。

ところで、人が死して後に転生する期間については、仏教諸派において一定していません。

画像:DVD『チベット死者の書』

ある派(分別説部など)においては、死後一瞬の間をすらおかずただちに転生する、とされています。

しかし、支那・チベット・日本に伝わった仏教(説一切有部そして大乗諸派)では、人は死後四十九日を限度として、転生するまでその意識が彷徨うとされます。その期間(あり方)のことを中有[ちゅうう]あるいは中陰[ちゅういん]と言います。

今の日本でも、人が死してその死後四十九日を迎えることを満中陰[まんちゅういん]と言い法事を行うのは、そのような仏教の生命観・世界観に基づくものです。

もっとも、大乗が依拠する説一切有部における中陰の有無とその期間についての主流の説は、実は「中陰はあるけれども、特に四十九日と限ったものでなく、しかしかなり短い」というほどのものです。

故に、現代における日本の無知無学なる僧職の人々が言うような「亡き人の霊は四十九日にわたってご遺族の近くにあるのですよ」などということは決してありません。誰も彼もが律儀にその死後四十九日きっかりと微細な意識となって、これを意成身[いじょうしん]というのですが、漂うとされるわけではないのです。

ある場合には、たとえば生前は非常に怒りの強い人であったり、その行いが総じて悪しき者であったりすれば、死後間を置かずしてただちに地獄に転生、ということがあるとされています。

そのようなことから仏教では「最後の一念」、すなわち「死を迎える瞬間の心の状態」・「己が死をいかに迎え入れるか」も非常に重要であるとされます。

いずれにせよ、死者が(一応、餓鬼を除く)いずこかに生まれ変わってしまえばもうどうしようもありません。

その故にこそ、死者が次に転生するまでの、いわばその猶予期間である中陰の間(最長で死後四十九日間)に、追福のために「菩薩戒を講説し読誦し、実際に受持する」という法事を設け、死者のより良い後生を願うということが為されている次第です。

裏を返せば、四十九日を過ぎて後に行う法事のあれこれは、たとえば一周忌や三回忌・七回忌などなどは、生きている人間が死者に対するただ敬意・敬慕から人情として行うもの、あるいは儒教思想の影響から行ったり社会的必要から行ったりするものであって、それで死者がどうこうなるとかいうものでは決してありません。

例えば、巷間よく法事などの場で言われる、「みんなこうして集まって、きっとあの世であの人も喜んでいる」だの「先祖が喜ぶ」「天国で見守ってくれている」だのいうことは、仏教からすれば絶対にありえないことです。

さて、天平勝宝八年(756)五月二日、聖武上皇は崩御されます。

すると、その実娘たる孝謙天皇もまた同様に、亡き父聖武上皇のため、皇太子や殿上人らを東大寺を始めとする諸大寺に遣わして『梵網経』を講讃させています。さらには、六十二部を写経して全国六十二カ国にても講説させることを、これも国家として行っています。

己酉。 勅遣皇太子。及右大弁従四位下巨勢朝臣堺麻呂於東大寺。《中略》講梵網経。講師六十二人。其詞曰。
皇帝敬白。朕自遭閔凶。情深荼毒。宮車漸遠。號慕無追。万痛纏心。千哀貫骨。恒思報徳。日夜無停。聞道。有菩薩戒。本梵網經。功徳巍々。能資逝者。仍寫六十二部。将説六十二國。始自四月十五日。令終于五月二日。是以。差使敬遣請屈。願衆大徳。勿辞攝受。欲使以此妙福无上威力。翼冥路之鸞輿。向華藏之寶刹臨紙哀塞。書不多云。

(天平勝宝八年756十二月)己酉〈三十日〉
(孝謙天皇の)勅により、皇太子および右大弁従四位下巨勢朝臣堺麻呂を東大寺に遣わし、《中略》『梵網経』を講じさせた。その講師は都合六十二人。天皇の詞に曰く、
「皇帝敬って白す。朕、閔凶[みんくう]〈親の死〉に遭い、その心痛は荼毒[だどく]よりも深い。(父の命を載せた)宮車は次第に遠のいて、(亡父を)慕って叫べどもこれを追うことは出来ず、耐え難き痛みが心を覆って、尽きぬ哀しみが骨を貫く。ここに(亡父の)徳に報いようとの思いが常にあって、日夜に止めることは出来ない。聞くところによると、菩薩戒は『梵網経』を本とするものであり、その功徳は高大であって、よく死者に資するものであるという。そこで(『梵網経』を)六十二部写経して、まさに六十二国において講説させようと思う。四月十五日より初めて(父の一周忌にあたる)五月二日までの間である。このようなことから使いをやって、(諸国の諸大徳を)敬って屈請したい。願わくは諸大徳らよ、我が願いを固辞されること無きように。この(『梵網経』の)妙福にして無上の功徳力をもって、(亡父・聖武上皇の)冥路の鸞輿〈天皇の乗る輿〉を助け、華蔵の寶刹に向かわせたいと切に望むのである。今、紙面に対して我が悲哀を書き連ねようとしているが、それを十分に書き表すことなど出来はしない)」と。

『続日本紀』巻第十九
[現代語訳:沙門覺應]

父を失った強く深い哀しみに満ちた孝謙天皇の言葉を伝えるものです。

ここで孝謙天皇自らが言及しているように、『梵網経』を講説の法会を設けることは、亡者の追福、より善き後生の資助となることが明瞭に期待されてのものでした。それは先程示した『梵網経』の所説に、孝謙天皇も受けていた梵網戒にまさしく従ってのことです。

孝謙天皇もまた聖武上皇に同じく『梵網経』の所説を固く信じ、実際に行ったのでありましょう。これはやはり鑑真大和上の渡来と、その活動による影響が大きいに違いない。

さらに孝謙天皇は明けたばかりの翌年、天平宝字元年、全国の国分寺において『梵網経』を講説させる勅令を出しています。

甲寅。 勅。始自來四月十五日。至于五月二日。毎國令講梵網經。

(天平宝字元年757正月)甲寅〈五日〉
勅により、きたる四月十五日より五月二日までの間、国〈国分寺・国分尼寺〉ごとに『梵網経』を講説させる。

『続日本紀』巻第廿
[現代語訳:沙門覺應]

さて、ここで『梵網経』は、いわゆる追善・追福のための法要、今の俗間に言うところの「法事」を営む根拠としても用いられ、国家としてこれが執り行われました。

国家として行われたという点、そして、東大寺大仏建立などその背景や周辺には様々な問題が惹起されたということがあったにせよ、その後の日本仏教に少なからぬ影響を及ぼした聖武上皇によってそれが創始されたという点で、後代に及ぼした影響は甚大であったでしょう。

日本において、『梵網経』は、大乗を奉ずる者にとって重要な菩薩戒の典拠というだけではなく、またこれはその戒に直接関連したことでありますが、死者に良い後生をもたらしえる経典としても受け入れられていったのです。

現代における多くの人がその根拠と意義などほとんど知らず、またその必要性も見いだせず、しかし社会的習慣として惰性的に行われている、今の「法事」なるものの淵源は、これは私見ながら、いま上に述べたような天平の昔の聖武上皇、そして『梵網経』にあると思われます。

故実先例に倣うことを良しとした朝廷や公家、そして武家らの習慣が、様々な風習や信仰を巻き込みながら、時代とともに民衆に降りていったのでありましょう。

いや、そもそも日本人の精神性自体が、奈良・平安時代からほとんど変わっていないようにすら、私には思われます。一般的な組織・体制のあり方については、江戸幕府の官僚制から旧日本軍などのそれから、一歩も出ていないようにも思えますが。

しかし、だからといって、現代の寺院・僧職者らが人々に勧め、また地方の人らが因襲的に自らすすんで行っている法事の内容やその意義の可否はまったく別問題であって、それで単純に「だから法事はするべきなのだ!」などとは決してなりはしません。

たとえば以前、以上のような『梵網経』と法事についての私見を、とある地方の年配住職に話しついでに語ったところ、彼はたちまちその話をもって以下のように改変し、あろうことか彼の檀家らの前で得意げに披露していました。

「最近は法事をする人が減ってけしからんことです。亡くなった人たちはあの世で泣いている。いや、法事をすることはホトケ様の戒でもあるのです。そして、それは聖武天皇以来の伝統・文化であって、日本のココロ!ご先祖様も喜ぶ。あの世にいる人々への恩に報いるためにも、法事を欠かしてはいけないのです!」

その住職は意図的にそのように改変した、というよりも彼はそのようにしか理解できなかったのでしょう。けれども、私からすればまこと不本意にも、その住職のいわば「営業の口上」に都合よく用いられてしまったので非常に情けなく、げんなりとして居たたまれなくなった経験があります。

法事など、寺家からすれば「お商売」以外のなにものでもないのです。

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最澄 ―追いつめられていった迷導師

画像:娑婆世界

鑑真大和上渡来以降、ついに日本にも正規の仏教の出家修行者たる比丘を誕生させうる、インド以来の正統な出家法(三師七証・別受)が導入され、国家としてこれを管理運営するための法(僧尼令)も施工され、兎にも角にもようやく宗教的・政治的な制度が整いました。

もっとも、制度が完備されたからといって、それで途端にすべての出家者が「純粋無垢でその行業極めて尊し」となることなど無論ありません。

為政者からの帰依を受けたことによる権力・財力など影響力の増大に伴う宗教者の堕落・頽廃、そして宗教者同士の醜い権力争いなど、宗教の別も古今東西人も問わない世の常というもの。

仏教は本来、そのような世俗的社会や為政者らから一定の距離をおいた出家社会に身をおき、解脱を目指して修行することが第一義のものです。為政者からの帰依や寄進を受け、またその相談者となっていたとして、それで「血みどろの権力争い」といった事態に陥ることは、出家者が律を守っている限りは生じ得ません。

しかし、特に日本の場合、いわばエリートとして活躍する諸大寺の学僧のほとんどが、藤原氏などの貴族階級の次男以下であるなど、彼らのいわば処世・渡世の受け皿となっていた側面があったのです。

その故に、いくら具足戒を皆が受けるようになっていたとしても、本来は決して持ち込んではならないはずの出家以前の出自や門閥がそのまま出家社会に持ち込まれてしまった、あるいは朝廷が高位の出自の僧を配慮・優遇するといった事態がおこっていたため、なおさら政権との癒着や寄進の集中などといった傾向が強くなってしまったようです。

時代はずいぶん下る鎌倉中期に書かれたものではありますが、多くの出家者が以下のように揶揄される様態を見せていたのは、奈良後期・平安期も変わりありません。

遁世[とんせい]の 遁は時代にかきかへむ 昔は遁 今は貪

(出家)遁世の「遁」の字は、時代を経て書き換えられてしまったようだ。
昔は「(俗世から)遁れる」だったが、今は「(俗世を)貪ぼる」と。

無住『沙石集』三
[現代語訳:沙門覺應]

(※遁と貪、その音読みは同じく「とん」。)

そして、孝謙天皇の次なる淳仁天皇の治世には、恵美押勝の乱が勃発。ついに孝謙天皇は称徳天皇として重祚するなど政変があって、その政権の中枢に僧ながらも道鏡が坐すなど異例の体制となります。

けれども、結局は道鏡は失脚して、称徳天皇も崩御。

次の光仁天皇代の朝廷では、血なまぐさい権力争いにあけくれ、それに基づく恐れから御霊信仰もますます盛行。諸大寺院の権力・財力は大きくなりすぎてもいました。

そのような娑婆における、人のおぞましき性が遺憾なく発揮される中、期せずして帝の地位に登ったのが山部親王、すなわち桓武天皇でした。

桓武天皇は、そのような行き詰まりと政変次々と勃発する朝廷のありかたを打開し、また強大になりすぎた南都仏教界の影響から逃れ、またそれを弱めるため、朝廷を平城京から長岡京、そして平安京へと遷します。

画像:一乗寺蔵 最澄像(国宝)

そこで、奈良のいわゆる南都六宗とは異なる、新たな都における政権を支える新たな仏教の担い手として桓武帝から期待された人、それが最澄でした。

最澄は、桓武帝の内供奉十禅寺にも抜擢されるなど桓武帝に寵愛・期待されていました。ついには、桓武帝の肝いりで留学期間二年間の還学生に選抜され、遣唐使として渡唐。

そこで最澄は、以前より志向していた、『法華経』をこそ至高のものとし『法華経』を核心とする仏教理解・教義体系を構築した天台宗を、天台山にて実地に学び受け、ついに支那から日本へと伝えます。

しかし、最澄帰朝後二年ほどで最大の後ろ盾であった桓武帝は崩御。

最澄は唐で満足に学ぶことが出来なかった密教について、空海にその経論を借用し、また愛弟子泰範[たいはん]を送り出すなどして学習しようとしていました。しかし、最終的に空海に拒絶されて袂を分かち、また泰範は空海のもとからついに帰ってきませんでした。

そのような中、最澄はことさら『梵網経』所説の戒をして特別視・絶対視した主張を展開するようになっています。

それは、支那の天台宗の大成者であった天台大師智顗[ちぎ]が、梵網戒を特別重視していたことももちろんその理由の一つではあります。

が、現実問題として最澄がそうした理由の大きな一つは、天台宗が朝廷に認められてようやく立宗されたばかりであったにもかかわらず、年々その徒弟(年分度者)として出家して増加していくはずの僧徒の多くが、すぐさま南都の法相宗や三論宗などに転向・離散してしまう(一部は比叡山で病死)という、重大な存続の危機を迎えていたことです。

鑑真大和上以来、どの宗派において出家する者であっても、正統な出家者(比丘)として認められるためには、やはりどうしても奈良の東大寺戒壇院(もしくは筑紫の観世音寺戒壇・下野の薬師寺戒壇のいずれか)に行って具足戒を受け、さらに一定期間(半年間)はそこで律の基本的事項について修学する必要がありました。

最澄自身、彼もまた数え年二十のおりに戒壇院で具足戒を受けて比丘となっていたのであり、もちろん新立の天台宗の徒であっても例外ではありませんでした。そこで、天台の年分度者らもやはり南都に具足戒を受けに赴いていました。しかし、行った者が比叡山に帰ってこない、などといった事態が頻発していたのです。

最澄は、天台宗がそのような惨状・窮地にあることを朝廷に訴えています。

自去大同二年至于弘仁十一年。合一十四箇年。兩業度者二十八口。各各随縁散在諸方。住山之衆。一十不滿。

 去る大同二年807より弘仁十一年820に至るまでの、あわせて十四年間、(止観業と遮那業との)両業の年分度者は二十八人であった。しかし、それぞれがなんらかの原因で諸方に離散してしまい、いま比叡山に残っている者は十人にも満たない。

最澄『上顕戒論表』(伝全Vol.1, P256
[現代語訳:沙門覺應]

これは相当に深刻な事態です。

天台宗開宗後十四年、その年分度者として僧となった二十八人中のうち、たった十人未満しか天台宗に残留していなかった。若干名が病死したのを除いても、その約七割が他宗に転向していたという事実。

この残留率30%強というあまりに低い数字。ここで引き合いに出すのはいささかナンセンスですが、軍隊であれば間違いなく「全滅」とされる数字でありましょう。それは、その組織の発展・拡張など期す以前に、維持していくことも困難となる数字であるといって過言ではない。

当時の僧を志した者にとっては、新来の天台宗に特に力があるわけでも比叡山に南都のような整った伽藍があるわけでもなく、特別魅力あるものでもなかったのかもしれません。しかし、天台宗が新興であったが故に、法相宗や三論宗よりもその年分度者に比較的なりやすかったということがあって、最初から転向する心づもりの者もあったかもしれません。

あるいは、この残留率のあまりの低さが示しているのは、最澄自身の「教育者としての人格」「一宗の長としての人徳」にかなり問題があった、というようなことも意味しているのかもしれません。

少なくとも、「最澄は優れた教育者であった」などと評価できるような数字では全然ない。最澄自身がこぼしているあまりに少ない残留率をして、「教育的に優れていた」などとはどうやっても言うことは出来ないでしょう。

そこで最澄は、そのような離散・転向した自宗の僧徒らについて、以下のように批判しています。

乃山家度者不愛山林競發追求。已背本宗跉●[足+屏]貧里。又不顧眞如。不畏後報。爲身覓財。爲名求交。

 比叡山の年分度者になっておきながら山林〈比叡山〉(に住すること)を好まず、(都会的・快適な環境を)追い求める心を起こす者らがある。すでに本宗〈日本天台法華宗〉に背いて貧里〈仏教修行に関係しない場所〉を徘徊し、また真如を顧みることなく、後報〈後生〉を恐れず、物資的財を求め、名声のために社会と交わろうとしている。

最澄『顕戒論』下巻(伝全Vol.1, P181
[現代語訳:沙門覺應]

そのような状況にあった最澄にとっては、依然として強大な力を持ち、壮麗な伽藍の甍を並べる絢爛豪華で魅力的な南都諸大寺からの、そして伝統的な戒律観を持つ者には最大の権威であったとすら言える東大寺戒壇院からの影響を、「制度として完全に断ち切ること」は、天台僧徒の離散問題の解決策であったのでしょう。

最澄はその方策として、いわば三国以来の伝統的な戒律観を恣意的に改変するべく、さまざまな典籍を駆使してその論拠としながら、それこそが大乗本来の正統なる戒律観であるなどと主張。

そこで最澄は、伝統的な戒律そのものや戒律観に対して『梵網経』の優位性を主張し、これを圓戒(円戒)すなわち「完全無欠なる戒」などと言い換え、称しています。

そして彼は、驚くべき行動に出たと言われています。

以九年暮春《中略》自今以後。不受聲聞之利益永乖小乘威儀卽自誓願棄捨二百五十戒已

 弘仁九年818の暮春、《中略》「今より以後、声聞の利益を受けず、永遠に小乗の威儀にそむく」と自ら誓願し、二百五十戒〈律・具足戒〉を捨て去ったのである。

釈一乗忠『叡山大師伝』(伝全Vol.5, 附録P33
[現代語訳:沙門覺應]

これは最澄自身の著作にある言ではなく、その伝記にあるものでその真偽・正確性は定かではありませんが、最澄は弘仁九年に具足戒を自らすすんで放棄したとされています。

これは、言うなれば堂々たる(?)「比丘をやめる宣言(沙弥になる宣言)」もしくは「還俗宣言」なのですが、彼の実際の言動からすると、全然そう考えてはいなかったようです。

画像:「比丘をやめるぞ!」、と独り気炎を吐くサイチョ

そしてこれはある意味、後代の鎌倉期にあらわれた、最澄の末流の一端ともいうべき真宗の開祖親鸞が主張した、「非僧非俗」なる意味不明の立場の萌芽でありましょう。

そこで同時に、天台宗で出家した者が、それまでのように簡単に他宗へ離散しないようにするための教育課程、要するに強制的に徒弟を長期間拘束して洗脳教育する期間を独自に設けることを発案しています。

いわゆる十二年籠山行の嚆矢です。

この消息は最澄が朝廷に奏上した一連の『山家学生式』に述べられています。たとえば最澄は、そのはじめの「六条式」においてこう述べています。

凡法華宗天台年分。自弘仁九年。永期于後際。以爲大乘類。不除其籍名。賜加佛子號。授圓十善戒。爲菩薩沙彌。其度縁請官印
凡大乘類者。即得度年。授佛子戒爲菩薩僧。其戒牒請官印。受大戒已。令住叡山。一十二年。不出山門。修學兩業

(第一条)
 法華宗天台の年分度者は、弘仁九年818より永く後世のために、これを大乗の類とする。その本籍の名を除かずに、仏子としての名前をあたえ、圓の十善戒を授けて、(まずは)菩薩沙弥とする。その度縁〈度牒〉には、官印を請うこと。
(第二条)
 大乗の類とは、すなわち得度の年に仏子戒を授けて菩薩僧とし、その戒牒には官印を請うこと。大戒〈梵網戒〉を受け終わったならば比叡山に住させ、十二年間、山門から出させること無く、(顕教と密教の)両業を修学させる。

最澄『天台法華宗年分学生式(山家学生式・六条式)』
[現代語訳:沙門覺應]

(さらなる詳細は、別項“最澄『山家学生式』”を参照のこと。)

画像:最澄真筆『山家学生式』

それは具足戒を受けず、菩薩戒(梵網戒)だけを受けることによって、出家・比丘としての地位(比丘性)が成立するという主張です。正確に言えばそれは、具足戒など受けなくとも大乗の比丘になることは出来るけれども、十二年間比叡山に閉じこもって修学が終わった者のみが、東大寺戒壇院にて具足戒を「仮受」すれば良いというものでした。

『山家学生式』は、随所に「先帝(桓武帝)の遺志である」などと亡き桓武帝の威光をちらつかせつつ、その動機はあくまで国家・天皇・人々のためとしながら、それを具体的に云々することを書き連ね、それを国家として保証し制度化してほしい旨を上申したものです。

が、それもこれも上記の如き「背に腹は替えられない事態」が生じていたためになした強弁であったと見ることを、当時打ち立てたばかりの彼の天台宗が迎えていた危機的状況は許しています。

つまるところ、それは純粋に彼の宗教的信条から言い出されたことだとは決して言えず、以上のような現実的で、相当に切実な大問題を最澄が抱えていたという背景があってこそのことであったのでしょう。

事実、そもそも天台の実質的開祖たる智顗[ちぎ]および湛然[たんねん]の戒律観とその実際と、最澄の主張とは到底同じとは言えない、まるで異なったものです。

たとえば、入唐した最澄の天台教学の師となった道邃[どうすい]と行満[ぎょうまん]の師であった、天台宗第六祖たる湛然は、智顗の『菩薩戒義疏』冒頭の一文を引きつつ以下のように述べています。

戒序云。聲聞小行尚自珍敬木叉。大士兼懷寧不精持戒品。今戒爲行本猶是小乘。棄而不持大小倶失。

 (智顗の)『菩薩戒義疏』にこうある、
「声聞の小行すら、なお自ら波羅提木叉[はらだいもくしゃ]〈二百五十戒・具足戒〉を珍敬して(受持して)いる。大士〈菩薩〉の兼懐であれば、なおさら戒品〈波羅提木叉〉を厳しく受持しないということがあろうか」と。
 今、戒を行の本としてなお是れを小乗と言い、棄てて持たざれば大乗・小乗ともに失うであろう。

湛然『止観輔行傳弘決』(T46. P162b
[現代語訳:沙門覺應]

最澄の主張は、むしろ最澄が至高とした本家の天台宗における最も重要な諸典籍によって破綻します。

以上挙げた他にも、最澄の主張を真っ向から否定するような大乗の典籍は枚挙に暇がありません。

しかし、最澄は以下のようにも主張しています。

凡佛戒有二一者大乘大僧戒 制十重四十八輕戒。以爲大僧戒二者小乘大僧戒 制二百五十等戒。以爲大僧戒
凡佛受戒有二一者大乘戒 依普賢經。《中略》 今天台年分學生。并回心向大初修業者。授所説大乘戒。將爲大僧二者小乘戒依小乘律。師請現前十師白四羯磨。請清淨持律大徳十人。爲三師七證。若闕一人不得戒
今天台年分學生。并回心向大初修業者。不許受此戒。除其久修業

(第三条)
 仏教の戒には二種ある。一つには大乗大僧戒、十重四十八軽戒を制し、これを以って大僧戒とする。二つには小乗大僧戒、二百五十等の戒を制し、これを以って大僧戒とするのである。
(第四条)
 仏教の受戒には二種ある。一つには大乗戒、『普賢経』にしたがって三師証等を請じるものである。《中略》 
 今の天台年分学生ならびに回心向大の初修業者は、すでに説いたところの大乗戒を授け、まさに大僧とするのである。二つには小乗戒、小乗律に従い、(師として現前の十師を請じて白四羯磨[びゃくしこんま]によるものである。小乗持律の大徳十人を請じて、三師七証とする。もし(十人のうち)一人でも欠ければ受戒は成立しない。
 今の天台年分学生ならびに回心向大の初修業者には、この(小乗の)戒を受けることを許さない。ただし(十二年籠山を終えた)久修業の者は例外である。

最澄『天台法華宗年分度者回小向大式(山家学生式・四条式)』
[現代語訳:沙門覺應]

先に挙げた『六条式』における「十善戒でもって沙弥出家させる」というのも、常識外れで根拠も無く、当然前例も無いことでありますが、この「四条式」においても最澄の大なる誤解を見ることが出来ます。

いや、これはむしろ最澄の意図的な詭弁・強弁であったと見たほうが自然でしょう。智顗の『摩訶止観』にしろ湛然の『止観輔行傳弘決』にしろ、彼は間違いなく読んで、いや、読み込んでいたのであるから。

(さらなる詳細は、別項“最澄『山家学生式』”を参照のこと。)

もっとも、最澄がいう「仏教の戒には、大乗大僧戒と小乗大僧戒がある」などということについて、その内容はともかくとしても、ただ言葉として言うのであれば根拠がまるでないわけでもありません。

たとえば、仏教の戒に大きく分けて二種あることについて、大乗の『涅槃経』において、戒には声聞戒と菩薩戒とがあることを説いています。

戒復有二。一聲聞戒。二菩薩戒。從初發心乃至得成阿耨多羅三藐三菩提。是名菩薩戒。若觀白骨乃至證得阿羅漢果。是名聲聞戒。若有受持聲聞戒者。當知是人不見佛性及以如來。若有受持菩薩戒者。當知是人得阿耨多羅三藐三菩提。能見佛性如來涅槃。

「戒にはまた二種がある。一つは声聞戒、二つには菩薩戒である」
「初めて菩提心を発してからついに阿耨多羅三藐三菩提を得るに到るのを名づけて菩薩戒という。白骨を観じてよりついに阿羅漢果を証得するのを名づけて声聞戒という」
「もし声聞戒を受持すれば、まさに知るべし、その者は仏性および如来を見ることがない。もし菩薩戒を受持すれば、まさに知るべし、その者は阿耨多羅三藐三菩提を得て、よく仏性と如来と涅槃を見るであろう」

曇無讖訳『大般涅槃経』巻第二十八 獅子吼菩薩品(T12, P529a-b
[現代語訳:沙門覺應]

ここで『涅槃経』は、それら声聞戒・菩薩戒の内容を明かしていません。いや、戒の内容の異なりで小乗・大乗の違いがあるというのではなく、その修行(菩提心の有無・六波羅蜜の有無)と見解の内容によって、小乗と大乗との異なりがあることを言っているに過ぎません。

結局、最澄の言う「小乗大僧戒」とは完全に異なった「大乗大僧戒」なるものの根拠は、最澄はそれを『梵網経』に求めているようですけれども、どこにもありはしないのです。

最澄は天台教学に基いて「法華一乗」を標榜していたものの、この点について全然、本来の天台的でもなく一乗でもない、むしろ一向的態度を採っています。戒律についての彼の主張にはまともな根拠などなく、印度・支那以来の慣習としての前例などもなく、また本家の天台教学からしても完全に逸脱したものとなっているのです。

結果的に、釈尊誕生の地インド以来、世界に仏教が伝わり信仰された国は数あれども前代未聞のことを、最澄は「三国伝来」だとか「インド以来の正統なるあり方」などと懸命に主張してはしますが、最澄は発案したのでした。

いずれにせよ、それを現実に成し遂げるためには、当時の日本という国家の制度を変え、比叡山上に国家認定の「純然たる大乗戒壇」なるものを建立する必要があって、其の故に朝廷のあれこれと要望したのでした。

けれどもそれは、再三の言となりますが、けっして大乗を純粋に希求する心情などといったものから為されたものでは到底ありません。それは、国・地域を問わず、また大乗・小乗の別も問わず、「仏教の伝統的ありかた」からして極めて異常な、いわば非法の極みとも言えるものでした。

朝廷は、最澄からの要望について処遇に迷い、その是非を僧綱[そうごう]に尋ねます。

僧綱とは、治部省内玄蕃寮隷下の官職です。時代に由って異なりますが、三人から四人ほどの学僧が朝廷から指名され、就任していました。僧正・僧都・律師はその官位です。

(しかし、律令制が崩壊し僧綱もその機能を失うとただの名誉職となり、さらに時代が下って近世以降は金銭で買われる名誉称号となっています。今も各宗派で独自に行われている「大僧正」などといった称号は、年寄りの僧職が扇子料などといった名目でおよそ100から200万円ほどの金額で宗団から購入する、芭蕉の如き中身の無い虚栄虚飾に過ぎません。)

(宗団からその本人へ、そのような虚飾を得る資格があることの通知が出されるのですが、わざわざ自ら申請して「扇子料」を上納しなければこれが与えられることはありません。所詮、大僧正などという称号を持っている僧職の老人は、そういうものを好む人であると思ってまず間違いないでしょう。)

すると、これは当然の事と言うべきか、その最澄の要望・主張は、僧綱職にあった南都の学僧らから激しい批判と反発にさらされます。そこで最澄は、それに詳しく反論すべく『顕戒論』を著し、自身の主張に正当性があることを重ねて主張していきます。

現在の天台宗では、最澄は『顕戒論』によって僧綱らの反論を完全に論破したことになっています。

しかし、それは事実と異なります。

むしろ南都の僧綱らは、そのような最澄の要望を斥くべく、彼と直接対論する場を設けてその是非を決着するよう希望していました。

しかしながら、最澄は、そのような僧綱からの直接対論することの要請を、『顕戒論』において「文字上のやり取りだけで充分」と拒否。

そして結局、この問題について旗色の非常に悪かった最澄のいわば公式敗北を危惧した朝廷の配慮によってか、それはついに実現されませんでした。

実際問題、もし天皇の御前など宮廷において、この問題について最澄が僧綱との対論で敗北してしまったならば取り返しがつかないことになり、最澄の天台宗は文字通り「終わっていた」でしょう。

朝廷としても、亡き桓武帝の肝いりで天台宗が立宗されたという、その遺志を承知していた手前、それは避けなければならない事態でした。

結局、最澄はその論争の決着をつけることも出来ず、また朝廷からの許しが降りることもなく、不遇な晩年を過ごし、ついに死を迎えています。おそらく、この問題は最澄の生前には、どうしても決着出来なかったのでしょう。

そもそも最澄の主張に仏教としての正当性があったならば、最澄は苦労して『山家学生式』や『顕戒論』など次々著す必要もなく、その主張の勅許は得られていたでしょう。しかし、「仏教としての正当性」「まともな根拠」など無かったからこそ、彼が生きているうちには勅許が得られませんでした。

それはむしろ彼が死んだからこそ、そのような仏教としての正当性の有無について僧綱に眼をつぶらせ、天台宗を立宗させた故桓武帝の遺志の配慮によって、ようやく許されたのでした。

実際、『顕戒論』を読んでも、最澄の主張に理のある点もありますが、しかし引用のこじつけや論点のすり替え、そもそも最澄自身が大いに誤解している点などが非常に多く、これでその主張の正当性を論証して、僧綱らを論破したとするのにはあまりにも無理があります。

画像:大乗戒壇問題についてのアレな団塊世代的理解の構図

この最澄の大乗戒壇論争について、現代において理解されている構図は、おおかた「南都諸宗の利益代表ともいうべき僧綱は、戒壇という権威・既得権益を、新興勢力の天台宗(最澄)に奪われるのを防ごうとし、最澄は自らの信念を貫き、あくまでそれに抗[あらが]って革命を起こそうとした」などという、いわば「権力者・既得権益者(悪) 対 孤軍奮闘する革命者(善)」といった、まことお粗末で短絡的な団塊世代的左巻き思考によるものが多いようです。

しかしながら、この大乗戒壇についての論争の争点は、権威だの既得権云々だのではなく、あまりに無理のあった最澄独自の戒律観に基づく主張です。

さて、最澄の晩年は、僧徒の離散問題からの大乗戒壇問題についての僧綱との論争もさることながら、法相宗の徳一菩薩などとの論争、いわゆる三一権実諍論に明け暮れており、決して平穏で恵まれたものではありませんでした。

現在の天台宗では、この最澄と徳一との論争についても、彼の著『法華秀句』によって「勝利したのだ!」「オソシサマが論破した!」ということにしてしまっています。

しかし、それもやはり事実と異なります。

まず、そもそもの争点がインド以来のことであって、そうそう簡単に決着するような内容でありません。双方の主張が共に経典・論書に根拠のあることであって、その故にどこまでも平行線を辿ってしまう内容のものです。

そして実際、やはり両人だけの間ですらも平行線を辿ってその決着は着かず、最澄は死去しています。いや、最澄は『法華秀句』によって論争が一方的に終わったことにしてしまった翌年、彼自身の人生も終わってしまったのでした。

ところで、司馬遼太郎の発言や著作の影響にも依るのでしょうが、現代の巷間では、平安初期の仏教を代表する両巨頭として、ただ天台宗の最澄と真言宗の空海とが挙げられるのみです。が、これにはどうしても法相宗の徳一も加えなければなりません。

頭脳明晰・行学兼備で常に頭陀を行じていたという徳一は、空海に対しても『真言宗未決文』を提出して、その主張の根拠不明あるいは矛盾・不明瞭な十一点を挙げ連ねるなど、慇懃ながらもするどく指摘しています。

対する空海は、徳一にほとんどまともに応答せず、いや、まともに反論できなかったのでしょう。ついにウヤムヤにしてしまっています。あるいは空海の主著の一つ、『弁顕密二教論』がそれにたいする回答であったか、とも現代言われていますが、だとしても徳一の指摘に全然回答しきれていません。

けれども空海は、最澄が徳一を不倶戴天の論敵として悪しざまに罵り合ったのとは異なり、その後の徳一と非常に良好な関係を築いています。空海は社交上手でもあったのでしょう。

空海のそのような性格・行業については、民俗学者の山折哲雄に言わせると、「空海は国家と入我我入したのである」となるようですけれども。

または、「すべての人は等しく同様に救われなければならないし、そうあるべきだ」という現代人の単純な思い込み、ともすると浅薄な平等思想からして一乗をこそ優れ尊ぶべきものだと考え、『法華経』に基づく一乗思想・女人成仏思想を日本に請来した最澄は優れ、法相の三乗(五性各別)思想に依拠した徳一は、旧態依然で頑迷固陋な劣った人というような見方を、戦後の「進歩的文化人」などといった人々はしていたのかもしれません。

そのような人々からすれば、徳一の主張はあくまで伝統的であって、その意味では真新しさが全然見られない、旧来の宗派の人であるという点、そしてその著作がほとんど現存しておらず、まともな伝記も無いということでも、徳一は評価され得ないのでしょう。

けれどもしかし、彼徳一菩薩を抜きにしては平安初期の日本仏教史、ひいては最澄・空海を語れないほどの人であったことは間違いありません。

さて、結局、最澄の朝廷への懇願は、その死後一週間のこととなりますが、当初は桓武帝に期待されながらも不遇な晩年を過ごした最澄に同情し、また亡き桓武帝の遺志にも配慮したと思われる朝廷が、国家としてこれを承認。最澄の遺志を継いだ光定によって実行されることとなります。

といっても光定は、最澄は「具足戒を仮受する」としていたのを仮受する必要すらもないとして、結局ただ梵網戒だけ受けるようにしてしまっています。

しかし、光定によってなされた具足戒を仮にでも受けることをすら放棄し、ただ菩薩戒だけを受けることによって比丘と名乗ることは、それ以降、あたかも仏教として根拠あり、正式に承認されたものであるかのように、天台宗ひいては後に天台から派生した宗派で当然のように継承されていくようになっています。

なお、以後の朝廷・貴族らが、後に比叡山がいわば宗教ゴロの巣となって度々京都ひいては国家を脅かしていたにも関わらず、その無理難題に配慮し譲歩を重ねたのは、なにも彼らの武力を恐れただけでも宗教的恐れからだけでもありません。

比叡山が桓武帝の肝いりで開山されたものであったこと、さらには桓武帝が平氏・平家の祖であったことも、その大きな要因の一つであったようです。

実際、比叡山はそれをネタにし、しばしば朝廷や貴族たちを恫喝しています。

先祖返り? ―大天(Mahādeva)に比せられた最澄

さて、先に「前代未聞のこと」などと言いましたが、見方を変えたならばそれは、日本に鑑真大和上が律を伝えた以前の、むしろ仏教として未開・不完全なる状態への「先祖返り」であった、とも評しえることでもありました。

実は、鑑真大和上の渡来と正統な戒律の伝来は、それまでの日本における仏教界すべての僧徒から、諸手を挙げて歓迎されたわけでもありませんでした。

朝廷としても念願であった、鑑真大和上が渡来され具足戒を伝えられたことを契機に、朝廷は従来のすべての僧侶はすべからく具足戒を受けて正式に比丘とならなければならないとの沙汰を下そうとしました。

ところが、それまで日本の僧界で高位にあった人々は素直にそれに従おうとしなかったのです。

彼らは、それまで自身たちが受持していた『占察経』に基づく自誓受戒によって「僧侶たりえているのだ!いまさら具足戒など不要である!」とゴネにゴネたのです。

まず彼らには彼らなりの自負心もあったのでしょう。けれども、彼らにとって深刻であったのは、ここで戒を受け直すことは、僧の序列を唯一決定する「法臘(戒臘)」がまたゼロから始まることを意味し、彼らの既存の地位が失われる可能性があったことでしょう。

結局、聖武上皇の強い意向もあり、自身らの地位を保証する約束を取り付けたことから、しぶしぶながら彼らは受けることとなったのですけれども。 

最澄が圓戒であると称した梵網戒は、次世代の徒弟によって、さらに圓頓戒(円頓戒)[えんどんかい]すなわち「完全無欠で(菩提を)たちまちに証する戒」などと呼称され、特に天台系統の宗派の徒によって、今も一般的に用いられています。

さて、最澄の主張が朝廷に認められ、現実に行われたことは、それ以降に天台から派生していく諸宗だけではなく、従来の南都六宗や真言宗など日本仏教全体へ(総じては悪しき)影響を及ぼし、しかもそれは甚だ大きなものとなっていくこととなります。

律(具足戒)を放棄あるいは等閑視して戒(梵網戒)のみで良しとした結果、その戒すらもまるで守る者が無くなっていったのです。

それは仏教教団(僧伽・サンガ)としての規律の放棄、すなわち僧伽の崩壊を意味し、その故に僧侶としての自浄作用も喪失して、本来的理想的「あるべき姿」を失ってしまったに他なりません。

要するに、日本の僧侶らは、ただ形ばかり名ばかりのものとなって、その実際は在俗信者になんら変わりなくなってしまったことを意味します。

面白いことに、最澄による一連の『山家学生式』によって惹起した大乗戒壇問題について僧綱から激しい批判を受ける中、最澄は僧綱から大天(Mahādeva)と同一視されています。

開示叡山不類大天明據十一
僧統奏曰昔依大天。部分二十。佛法因斯。遂令衰滅。今比叡山。部判人法。則知。是滅法之先兆也。已上奏文
論曰。滅後大天者。有犯過人罪。像末叡山者。無犯過人罪。昔五事者欺誑弟子。故令佛法衰滅。今四條者。依經引導。故令佛法中興。僧統卜兆。不足可信也。《中略》
明知。大天五事。爲隱己過。叡山四條。爲傳圓戒。五事之僞。出於胸臆。四條之式。據於聖典。回小向大。一乘正義。執三謗一。諸佛不印。耆年上座。順理小衆。少年大天。違理多衆。遂使少年乘船。百妄頓絶。耆年移國。一眞來今也。

「比叡山〈最澄〉は大天に類したものでないことの明據の開示 十一」
 僧統〈僧綱〉が(天皇に)奏上して言うには、「その昔、大天Mahādevaによって(僧伽が)二十にまで分裂しました。仏法はこれを契機として、ついに衰滅してしまったのです。今、比叡山は(大天のように)人と法とを判別して(これを決定的に分裂させようとして)おります。これによってすなわち知られるのです、これはまさしく滅法の先兆であると」 已上奏文とのことであります。
 (私最澄はこの僧綱の奏上について)反論して申し上げます。仏滅後の人である大天は、過人の罪〈大妄語。達していない境地に達したとの宗教的嘘言。波羅夷罪。大天は自身を偽って阿羅漢であるとしていた〉を犯していました。しかし、像法・末法の世にある比叡山〈最澄〉は、過人の罪など犯してはおりません。その昔、(大天が主張した)五事は仏弟子を欺誑し、その故に仏法は衰滅しました。今、(私最澄が先に奏上した)四条〈『法華宗年分度者回小向大式(四条式)』〉は、諸経典に基いて(仏弟子を)引導せんとするものです。その故に(私最澄の主張は)むしろ仏法を中興するものです。僧統の卜兆〈占い。僧綱の上奏を「占い」の類の怪しげなものと揶揄し批難した言〉など、信ずるに値しないものであります。《中略》
 明らかに知られるのです、大天の主張した五事とは、彼自身の過失を隠そうとするためのものであったことが。比叡山が主張するところの四条とは、円戒を伝えんがためのものであります。五事という虚偽は(大天の)胸臆〈思惑。根拠なき感情的意図〉から出たものであるのに対し、四条の式は聖典に依拠したものであります。(私最澄の主張する)「回小向大」は、一乗の正義であります。(僧綱〈特に法相宗〉の主張する)「執三謗一〈三乗に執着して一乗を謗ること〉」は、諸仏が意図されたことではないのです。(出家して年を経ており仏意を心得ていた)耆年の上座僧らは、理に順じたものでありましたがその数は少なかったのです。しかし(出家して間もなく仏意も知らぬ)少年の大天らは、理に違うものでありましたがその数が多かったのです。(それはまさしく比叡山の天台宗と、南都の法相宗・三論宗らとの勢力差が同じような状況であるかのようなものです。)
 遂に(仏意を知らぬも大勢であった)少年〈南都諸大寺の学僧、僧綱ら〉を船に乗せて遠くに遣ってしまえば、(法相宗・三論宗らの宗義たる)「百種の妄教」はたちまちに絶えることでしょう。対して、(仏意を知るも少数である)耆年〈私最澄が主張する天台宗〉が国を移ったならば、一乗の真実が今に実現するのであります。

最澄『顕戒論』上(伝全Vol.1, P59
[現代語訳:沙門覺應]

ここに言及されている大天とは、仏滅後百二十年ほどのインドに実在した僧侶の名で、それまで一枚岩のごとくであった僧伽(サンガ)を大分裂にいたらせた張本人とされる者です。

大天は、五逆罪といわれる仏教における大罪の一つである「破僧」を行ったとされる者で、支那・日本に伝わった仏教においても、ほぼ通じて「大悪人」と認識される悪名高い人なのです。

しかし平安の当時、その大天にこそ、まさしく最澄は比せられていました。

それがどれだけ重い意味をもつことであるかは、推して知るべしでありましょう

(大天がどのように僧伽を分裂させるに至ったかは、中略しましたが上に示した『顕戒論』でも最澄によっておおよそ示されています。これについては、別項“部派仏教について ―説一切部の僧伽分派説”にて触れているため参照のこと。)

無論、最澄はそのような僧綱の批判に、上記のように「私は大天などと同様では決してない」と猛反発しています。

しかしながら、最澄からすればまさに不本意極まりないことになるでしょうけれども、その主張が現実化した結果、日本仏教がどのような状態となっていったかを見たならば、僧綱の学僧らが最澄を大天に比していたのは、まさしく炯眼であったと言うべきでしょう。

いや、ある意味、最澄の主張とその影響は、日本という極東の僻地に限ったものではあったにしろ、大天のそれをさらに上回って次元すら異なった、はなはだ悪しきものとなってしまったともいえます。

日本仏教における、戒律についての世界にも例を見ない特殊な(異常な)思想とあり方の元凶は、まさしく最澄にこそ帰せられると断言しても可なるものではあります。

事実、そのような見方は、何も仏教学・文献学の成果に基づき得る今であるからこそ持ち得るような、特殊なものでもありません。

先程から述べてきたように、往古の日本においても最澄の梵網戒の位置づけ、梵網戒単受で比丘となり得る、などという主張の異常性を見抜く人があったのです。

また、これはすでに平安期が終わり鎌倉期初頭におけることでありますが、やはり最澄の主張に基づく梵網戒の位置づけ、ありかたについて、以下のような見解を持つ僧侶もあったことが知られます。

頃有大徳自看讀戒藏云。山門別授菩薩戒非正。破云。遠截七佛遺流等云云。親聞此言。哀慟無極。其人已堕魔網。千佛無能救乎。其人欲生般若。還燥般若種子。尤可悲矣。學般若者。惡尚不可憎。況善哉。凡觀達迷中是非。是非倶非。夢裏有無。有無倶無。其是般若也。何況如來説教區區。大士弘經品品也。傳教大師別授菩薩戒。有何過失哉。我大師若建立別授菩薩戒者。此土末代無持律人。因何結戒縁哉。況彼時。賢人名匠。乏其人哉。何況別授菩薩戒。特有由乎口訣有別。 《中略》
自今已後。只守汝自情。莫説伝教大師別授菩薩戒之正否矣。大師已逝。誰會汝謗難哉。汝破大師云。截七佛遺流云云。予代大師救汝云。開三惡之門戸。可哀可哀。善戒經文有會釋。如別文。異梵網經意也。

 最近、ある大徳がみずから戒蔵を研究して、「山門〈比叡山・天台宗〉で別授にて行われている菩薩戒は正統なものではない」とし、これを批難して「往古からの七仏の伝統を断じたものである」などと言われていた。
 私はこれを直接(彼から)聞いたのだが、あまりの哀しみに衝撃を受けたほどである。その人は、すでに魔網に絡み取られてしまったようである。千人の仏陀によってしても救うことなど出来ないであろう。その人は、(自ら)般若〈智慧〉を生じようとしながら、むしろ般若の種子を乾かしてしまっている。もっとも哀しむべきことである。
 般若を学す者は、悪をすら憎むべきではない。善については言うまでもない。およそ「迷いの中の是非」を達観したならば、是非は共に誤りなのである。たとえば夢の中の有無は、有無ともに無なのであるから。そのような認識が般若というものである。ましてや如来の教説はまちまちであって、菩薩の弘経〈大乗経典〉はさまざまであることは言うまでもない。
 伝教大師の主張された別授の菩薩戒に、一体どのような過失があるというのか。我が大師がもし別授の菩薩戒を創始されていなかったならば、この日本における末代において、持律の人など無かったであろう。(彼は)何の由縁で戒縁を結ぶことが出来たというのか。ましてや彼の時、賢人・名匠がその人の周りに乏しかったわけでもなかろう。
 言うまでもなく、別授の菩薩戒が創始されたのには、特にその由縁があってのことなのである口訣が別にある。《中略》
 今より以降、ただ汝の自情〈自宗の領分?〉を守り、伝教大師が創始された別授の菩薩戒の正否を論じてはならない。大師はすでに逝去されているのである。一体誰が汝の誹謗について反論しえるであろうか。
 汝は大師を批難して「往古からの七仏の伝統を断じたものである」云云と言った。私栄西は、大師に代わって汝を救うために言おう、「(そのような言は)三悪の門戸を開くものである」と。哀れむべきことである、哀れむべきことである。『善戒経』にある一節会釈有り。別文に同じは、『梵網経』の意図することとは違うのである。

栄西『出家大綱』
[現代語訳:沙門覺應]

ここで俎上に載せられている「ある大徳」。その人は具体的に誰であるか不明であるものの、当時高名であって戒律に通じた人であったに違いありません。

同時代に戒律に通じた高徳で、栄西禅師との交流があったであろう人としては栂尾明恵上人、そして交流があった「かもしれない」人で実際に戒律復興運動の礎を築いた解脱上人貞慶が今によく知られる方々でありましょうが、やはり具体的に誰かは不明です。

さて、最澄が主張したところの梵網戒理解とその位置づけに対する批判は、上に述べているようにむしろ最澄生前の当時から公的になされていたことであって、その「ある大徳」は、いわばそれをなぞったに過ぎないものかもしれません。

もっとも、いくら時を経て時代が変わろうとも、根拠がないこと、合理性が無いことが有るように変わりはしません。その根拠を捏造でもしない限りは。

実際、現在においてもなお、仏教における戒と律との大原則やその歴史など伝統をまもとに学んだならば、やはり最澄の主張がいかに常軌を逸したものであって、栄西禅師が憤った「ある大徳」に同じく、「七仏の伝統を断つものである」との結論に達することでしょう。

けれども、そのような主張は鎌倉期初頭にもなると、特に天台宗の流れにある人にとっては、むしろ逆に極めて非常識な「とんでもないこと」として見られ、決して受け入れることなど出来ない言となっていました。

実際、そのような見解を持つ「ある大徳」に対し、栄西禅師はかなり感情的に、言を極めて批判しています。そして、彼に対しては「伝教大師の主張された梵網戒の授受については決して、一言も批判してはならない」と、むしろそれがために説得力がないのですが、やはり随分と感情的な主張を展開しています。

鎌倉期初頭、古巣でもあった比叡山天台宗の僧徒らをするどく批判し、対立すらしていた栄西禅師にしても、最澄とは絶対的な権威者であって、その主張や行業を「批判するなど以ての外である」という認識にあったことが知れるのです。

実際、平安中後期には、高野山の弘法大師空海と比叡山の伝教大師最澄とは、日本仏教界における大巨人である、聖者であるとして、これは宗派を問わず一般社会にも広く認識されていました。

ここにあるように、禅師にとって最澄は「我が大師」でやはり特別な存在であり、「(間違っているのはあくまで現在の天台宗徒であって、)最澄は特殊な理由からこれを創始されたのである」と理解しているのです。

もっとも、皮肉なことに、『興禅護国論』における栄西禅師の主張と最澄のそれとを精細に見た時には、むしろ禅師は最澄を無意識的にしろ厳しく批判しているに等しいとも言えるのですけれども。

ただし、現実として戒律が無視され放棄されていった原因のすべてが最澄にあるわけでは無論ありません。戦乱や動乱、政治体制や社会の価値観の大きな変化が生じた時など、時時の時代背景によるところも大であります。

しかしながら、それでも以降の日本仏教史において、その刷新や復古を志したすぐれた僧は、特に時代の変化の最中、またはそれがある程度落ち着き、あるいは社会全体の経済に余裕が出てきた時にこそ少数ながら幾人か現れ、しかし後代に大きな影響を残しています。

けれども、そのような中、最澄を宗祖とする日本天台宗からは、浄土教や日蓮教などしばしば「仏教ではない」「新仏教」などと言われる者らこそ次々排出しているものの、ただ一人としてその契機となった者が現れなかったのは、その故無きことではありません。

それを強いて好意的に見、旧弊を打ち破ったとか、大乗の真面目であるとか、革新的な一大功績であったとか、人間主義的であったとか賛嘆する人もあるのでしょう。

しかし、それを契機として現実に何が日本仏教において起こり、日本史上その「人間主義的・核心的な人々」が何を起こしてきたのか。もう一度よく確認をする必要があるでしょう。

かこつける人々

画像:「やれやれだぜ」空条承太郎氏

最澄の死後100年もしないうちから、おそらくは最澄が夢にも思わなかったほどに比叡山は荒廃し、その僧徒ほとんどが堕落の極致へと突き進んでいます。

最澄は天台と密教を同列においていたものの、最澄亡き後の天台宗では、天台よりもむしろ密教をこそ価値あるものとして重視し、その完成を求めて、最澄の法嗣たる円仁・円珍らが次々と入唐。空海の伝えたのとはやや異なる密教を学び伝え、安然に至って大成しています。いわゆる台密です。

しかしその頃、なんとしたことか、いや、娑婆では珍しくもない話となりますが、比叡山では円仁と円珍との門弟らは門閥争いによって対立を深めていました。

円珍が延暦寺第五世座主となって以降、第十五世に至るまで、その座主職はほとんど皆が円珍の門流の者で占めており、いわば円仁の門流は権力の座から排され不満が高まっていたのです。

そんな中、比叡山には一部の学生[がくしょう](学僧)を除いた堂衆[どうしゅ](行人)などといった者の中に、僧の衣体を纏いつつ鎧を着し、麻の白袈裟(裹頭袈裟[かとうげさ])で顔を隠しながら刀杖を携えて武装した暴力集団、いわゆる僧兵が誕生しています。

特に、彼らが好んで携帯・愛用していた薙刀[なぎなた]は非常に強力・効果的な武器で、都の検非違使など武士らに畏れられていたといいます。

ここで、日本天台宗独自の制度としてそれを受けるのみで僧たりえるとしたその梵網戒においては、武装するということについて、いったいどのように戒めているかを確認してみましょう。

若佛子。不得畜一切刀杖弓箭鉾斧鬪戰之具。及惡網羅殺生之器。一切不得畜。而菩薩乃至殺父母尚不加報。況餘一切衆生。若故畜一切刀杖者。犯輕垢罪。

 仏子は、いかなる刀・杖・弓・箭・鉾・斧など戦闘のための道具を所有してはならない。および(漁猟・狩猟のための)悪しき網羅など殺生を目的とした道具など、すべて所有してはならない。
 菩薩たる者、もし父母を殺されたとしても、決して報復してはならない。一切衆生は言うまでもない。もし故意にいかなる刀杖でもこれを所有したならば軽垢罪となる。

《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
T24. P1005c
[現代語訳:沙門覺應]

いくら国を挙げて仏教、特に大乗を信仰していたとは言え、そのような徹底した非武装あるいは貧弱な軍事を国家次元で実行したとしたらトンデモないこと、国の滅亡を見ることになってしまうのは、毛沢東率いる共産党軍に無残にも蹂躙・侵略されたチベットを見たならば明らかでありましょう。

実際、歴代の天皇・上皇、貴族たちが梵網戒を受けていたとは言え、日本が国として実行するなどという愚かなことは、事実一度としてありませんでした。故に、現実にはこれはあくまで個人レベルの戒となるのですが、漁民や猟師などには到底受け入れられないものであるでしょう。

さて、梵網戒を至高とし、純大乗であると謳った最澄の門流からそのような輩が次々生まれてきたのは、最澄からすれば不本意極まりない事態であったでしょう。

最澄の理想は、「大乗戒のみによって僧となった純然たる菩薩僧によってこそ、国家も人々も安泰となり、あちこちにひそむ悪僧は駆逐されて、大乗の教えがいよいよ盛んとなるに違いない」というものでした。

事実、最澄は生前、このように朝廷に訴えています。

誠願先帝御願。天台年分。永爲大類。爲菩薩僧。然則枳王夢猴。九位列落。覺母五駕。後三増數。

 誠に願わくば、先帝〈桓武天皇〉の御願でもあった天台宗の年分度者をもって、以降は大類の僧として「菩薩僧」とされんことを。
 そうすれば、訖哩枳王の夢に現れた(十匹の)猿のうち、(国や人々を混乱させる悪しき僧に比せられる)九匹はまたたくまに追いやられ、文殊菩薩の(羊乗行・象乗行・月日神通乗行・声聞神通乗行・如来神通乗行という)五つの籠のうち、(菩薩乗であって無上正等正覚を得ることが定まっている)後の三つは、その数をいよいよ増して繁栄することになるでしょう。

最澄『山家学生式(天台法華宗年分学生式)』
[現代語訳:沙門覺應]

しかしながら、最澄の中では天台宗の僧徒こそ「唯一の正しき猿」となるべきものだったのが、現実は真逆となって、むしろ「国家・人々を混乱に陥れる九匹の猿」となっていました。

(詳細は、別項“最澄『山家学生式』”を参照のこと。)

武器を持つだけならまだしも、彼らは人を殺めるのにも躊躇せず、時に「仏法」「護法」にかこつけてさえいました。

仏教の威光や比叡山の地主神である日吉神の威光、そして京都鎮護の山とされた威光(宗教的権威)にかこつけ、また比叡山が桓武帝の肝いりで開かれたという威光(世俗的権威)にかこつけて、朝廷や貴族らに事あるごとにゆすりたかる、恐るべき悪質なゴロツキ集団、いわゆる山法師の嚆矢です。

画像:角大師 良源

しかも京(洛中)から目と鼻の先に巣食う。

それはちょうど、比叡山中興の祖ともいわれる元三大師良源(912-985)が、第十八世天台座主の位に昇り詰めた頃のことでした。

良源は、当時の叡山に跋扈するそのような僧徒らの堕落を嘆き、『梵網経』の読誦と梵網戒の護持などを訴えています。とは言えそれは、「ことさらに言わなければならない必要性があったからこそ」のこと。結局、当時の比叡山のゴロツキたちには、良源の持戒だ誦経だのを推奨する言など全くどこ吹く風であったようです。

ついに良源は、むしろ彼ら無法者らを戒めていたのにも関わらず、四百年ほども時代が下った応永十六年(1409)に著された『山家要記浅略』において、あわれにも「僧兵の初めは良源にあり」などといった汚名を着せられるに至っています。

もっとも、円仁の門流(山門派)であった良源は、そのような僧兵などと言われる者らを厳しく戒め排していた反面、当時すでに深い敵対関係にあった円珍の門流(寺門派)の居していた叡山内の千手院を、配下の僧徒をそそのかして放火し、焼き落とさせるという暴挙にも出ています。

そのような良源の寺門派に対する苛烈な行動があったこともあり、また彼がその当時の比叡山では最も有能・有力な学僧であって、後代に名を残した者であったがために、「末法の世において正法を擁護するためであった」などという大義名分が付され、おためごかされてはいますが、「僧兵の初め」としてかこつけられたのでありましょう。

それは、「衆道(男色嗜好)の初めは弘法にあり」などと、後代の男色家らが、(最澄の愛弟子であった泰範[たいはん]が翻意して師事することとなった)空海にかこつけ、まことしやかに言ってきたのと似たようなことであると思われます。

結局、その多くは比叡山上ではなく山麓の坂本に居していた、立場としては上座である学生(学僧)らも、僧兵たる堂衆・行人らが暴走して御しかねる事態もしばしばあったようですが、僧兵を便利にも使い始めています。

(しかし、学生と行人との対立はやがて激化し、平安末期には互いに殺し合うまでになるのですけれども。)

画像:武装した僧兵たち

例えば、すでに円珍の門流は比叡山から完全に排斥され、園城寺(三井寺)を本拠としていましたが、その園城寺が「我らも独自の大乗戒壇を建立したい」などと主張し、これを南都諸宗はむしろ認めようとしたときなど、たちまち抗議の大声を上げたのみならず、比叡山の僧徒は園城寺に攻め寄せ、火を放ち回ってはその門徒を殺傷しています。

最澄の「苦心の策」とその死によって、ようやく認められた比叡山の大乗戒壇であったはずですが、その比叡山はこれを他所に作られることを徹底的に阻もうとしました。それは結局、一山を挙げて行われた、すでに「ただの既得権益に過ぎなくなっていた大乗戒壇」を守るための武力行使でした。

思えば随分と理不尽な話でありましょう。

最澄の当時、先にも述べたように、大乗戒壇について南都の僧綱と最澄は激しく論争していますが、それはあくまで「仏教としての根拠」「伝統的あり方としての可否」「理論的合否」をもって争いました。鑑真大和上の来日によって確立され、国家制度の中に組み入れられていた東大寺の戒壇院は確かに権威ではあったものの、いわゆる既得権益というのとは異なった存在でした。

しかし、この時の比叡山はひたすら「比叡山は王城鎮護の山である」とか「桓武帝の後援によって建立された寺」などという(世俗的)権威を振りかざし、自身らの思うままに天台僧を製造する装置たる既得権益となっていた戒壇を他所にも造るなど「もっての外である」などというのみで、「仏教として」については一切の有無をいわさず、たちまち暴力に打って出たのですからお話になりません。

あるいはまた、日本天台の教学自体についても、その僧徒らは舌先三寸では最澄を「オソシサマ」などと持ち上げておきながら、その実際は「最澄なにする者ぞ」といわんばかりの極端な本覚思想へと変容させていきます。いわゆる中古天台です。

それはもはや支那の天台宗などと似ても似つかない、一体どのあたりが「天台」なのか見当もつかないようなシロモノとさえなっています。

学僧らは、朝廷や公家からの帰依・寄進を受けることにひたすら執心し、頻繁に加持祈祷を行っていました。仏菩薩のご威光による国家鎮護だ、その加持力・功徳力で子宝祈願だ病気平癒だ怨敵調伏だのいう所願を成就するものとして、豪華絢爛な法会や大げさで派手な諸尊法を次々と「創作」。これを天皇・貴族らに勧め行わせて、荘園や金品をせしめていました。

(これは天台宗に限ったことではなく、京都にあった真言宗寺院の学僧らもまったく同様です。)

そのような中、けれどもその自身らに何か不満事・達成したい所願が生じた時には、「功徳甚深の法会・祈祷」など歯牙にもかけず目もくれず、たちまち僧兵らを扇動して刀杖(暴力)にモノを言わせ、ついに所願成就を果たしていました。

落語における滑稽噺でありましょうか?まこと失笑を禁じ得ない。

画像:いやぁ~、乱世乱世!

彼らは口先・筆先では「効験あらたかなる密教の加持祈祷」だのとうそぶいていたものの、彼ら自身は全然「仏菩薩のご威光」も「加持祈祷」も信じていなかったに等しい行業であります。

それは、現代社会にあってもなお未だあちこちに跋扈している霊感商法の主催者などが、自身らが宣伝する「霊感」なるものを全然信じておらずして人々には熱心にあれこれ勧めて金銭をせしめるも、むしろ彼ら自身はただ金の力をこそ絶対的に信じているようなものです。現代の、商売として新興宗教・霊感商法をやっている者共と、何が違うことがあるでしょうか。

せいぜい朝廷などが頑として彼らの要求に応じなかった時に、しぶしぶ山門に帰ってようやく「呪詛」の祈祷を始め、それをまた脅しの具として恨みつらみの文言を書き連ねた書状を送りつけていた程度のことです。

巷間には、しばしば僧兵なるものについて、「暴力と祈り」などといった対照的テーマで持ってこれを論じようとする人があります。しかし、彼らの「祈り」などその程度のものです。

祈りが尊い?

いやいや、本来的なことを言えば、そもそも仏教において祈りなど大して価値あることでなく、それほど重要なものでもありません。(絶対的存在・超越的存在に対する)祈りを尊いもの・価値あるものとする、キリスト教的(現代的)価値観を仏教にも持ち込んで理解しようとしているせいもあるのでしょう。

人の祈りなるものについては、若干なが ら時代がズレますが、明恵上人の以下の言葉が仏教として正鵠を射た、実にまっとうなものです。

人は我祈の為とて、経陀羅尼の一巻をも読す。焼香礼拝の一度をもせずとも、心身正くして、有べき様にだに振舞はば、一切の諸天善神も是を護り給へり。願も自ら叶ひ、望もたやすく遂るなり。六借く、こせめがんよりも、何もせずして、只正くしてぞ在べき。心づかひは、物に触て、誑惑がましく、欲深く、身の振舞は、いつとなく、物荒く、不当に放逸にては、証果の羅漢僧に誂て、百萬の経巻を読しめ、千億の仏像を造て祈る共、口穢て経読者の罰あたるが如し。心穢て祈する者は、弥よ悪き方には成り行く共、所願の成就する事は、ふつと有まじきなり。其を愚なる者、心をば直さずして、己れが恣ままの欲心計に纏されて、祈らば何にか叶はざらんと、猥りに憑を懸て、愚痴なる欲心深き法師請取て、心神を悩し、骨髄を摧て、祈り叶へぬ物故に、地獄の業を作り出すこそ、げに哀に覚ゆれと云々。

 人は自分の願いを叶える為にと、経典や陀羅尼の一巻でも読誦する。(しかし)焼香や礼拝を一度でもしなくとも、心と身体の行いを正しくして「あるべきよう」にさえ生活していれば、すべての諸天善神もその人を守護するであろう。願いも自然に叶い、望みも容易に遂げることができるのだ。
 (自分の願いをなんとかして叶えられぬものかと)うるさく、せめたてるように(あれこれ)するよりも、(そのようなことなど)なにもしないで、ただ(自分の日々の生活・心身を)正しくしてあるべきなのである。
 心が(何事か自分の触手を動かすような)モノを見聞きすれば、(それをどうにかしようと)人をだまし惑わすようなことをなし、欲深で、身の振る舞いがいつも粗暴であり、節度なく勝手気ままであっては、悟りにいたって阿羅漢となった聖僧に依頼して、百万巻の経典を読誦させたり、一千億体の仏像を造ってみたとしても、口汚く経典を読む者に罰があたるようなものである。心が穢れていながら祈る者は、ますます悪い状況になっていくことはあっても、願いが叶うことなどまったくありえない。
 にもかかわらず、愚かな者は(自分の)心をこそ正しもせず、己の自分勝手な欲望にのみ踊らされて、「祈りはきっと通じるだろう」(「念ずれば花開く」「信じ祈ることこそ尊い」など)と、やたらと願を掛け、愚かで道理のわからぬ強欲な僧侶を請じて、心を悩まし、苦心惨憺して、(なんとか)祈りを叶えようとするが、(それは)地獄へ堕ちる業となるに過ぎないのだ。
 (私にはそのような愚かな振る舞いが)とても哀れに思えてならない。

高信『栂尾明恵上人遺訓(阿留辺畿夜宇和)』
[現代語訳:沙門覺應]

明恵上人によるこのような知見は、なにもただ上人が特殊であったからだとか、数少ないまっとうな出家者であったからというわけでもありません。

時代は空海の死後まもない頃の平安初期。その豊かな知識と優れた智慧によって、藤原氏出身でもない学者でありながら太政官の地位まで昇った菅原道真は、祈りというものについて、以下の様な歌を詠んだと伝えられています。

心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても 神や守らん

みずからの心が誠の道にかなったものであれば、わざわざ祈らなくとも、おのずから諸神は守護してくれるだろう。

《伝》菅原道真 作
[現代語訳:沙門覺應]

この詩がまさしく伝承通りに菅原道真公のものであったならば、その道真公を祀った北野天神をはじめとする各地の天神社において学問成就だの合格祈願だの懸命にするのは、はなはだ滑稽にして愚かな、ああ、いや、「ほほえましい」振るまいでありましょう。

どこぞの学校などに合格し、あるいは学問を成就するのに必要なのは、祈りでも祈願でもなく、その者の能力であり、またひたすらなる努力に尽きます。

しかしながら、当時の貴族らは、祈祷や呪詛の力を信じ、頼っている者がほとんどでありました。

(そのような貴族らの信仰と恐れを、むしろ強欲で蒙昧なる真言や天台の密教僧らが盛んに煽り立てていったということもあるのでしょうけれども。)

誰かが誰かを呪詛しているということが発覚した時には、その者が捕縛され、何らかの刑に処せられてしまうほどに。

そのため、「お前を呪詛しているぞ?」などといった叡山のいかめしい脅しを耳にして実際に体調を崩す者があり、また何か不吉な天候・天変があれば呪詛によるものだと捉え、恐れおののく者らがありました。

実におもしろおかしく思える話ですが、当時はそのような、現代的感覚からすると無知蒙昧にして未開なる、むしろ非仏教的信仰がごく普通の当たり前に行われていたのです。いや、今もなおこの類の信仰を有する人がままあることを、私はよく知っています。

その当時、少数ながらそのような蒙昧なる恐れをはねのけ、宗教的脅しに屈しなかった人々があり、むしろそのような人らこそ、あらたな時代の寵児となって権勢を誇っていったようにも思われます。たとえば藤原道長や平清盛など、その好例でしょうか。

しかし一般的には、そのような脅迫と いう意味での比叡山の祈祷は、まさしく「あらたかな効験」があり、彼らもそれをよく知っていました。

また、強訴という暴力を行使する際には、必ず神輿を担ぎあげ、朝廷を警護する検非違使や北面武士らが自分らに弓引かぬようする盾・道具として利用していたのですから、その意味での「ご威光」は彼らも固く信じていたのでありましょう。検非違使や武士らは時に容赦なく、彼らに矢を浴びせて彼らを殺傷し、撃退してもいますが。

比叡山の僧徒らをむしろ肯定的に描写している『平家物語』にも、そのような比叡山天台宗の僧兵らが利権を主張して理不尽に暴れ回ったり、意にそぐわぬ者を呪詛して脅迫していたりする様が、それこそ随所に記されています。

その中でも以下の一節は比較的有名なものでしょう。

賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞ我が御心に叶はぬものと、白河の院も仰せなりけるとかや。
鳥羽の院の御時も、越前の平泉寺を山門へ寄せられける事は、当山を御帰依あさからざるによつてなり。非を以て理とすと宣下せられてこそ、院宣をば下されけれ。
されば江帥匡房卿の申されしは、山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ振り奉て訴訟を致さば、君はいかが御計らひ候ふべきと申されければ、法皇、げにも、山門の訴訟はもだし難しとぞ仰せける。 

 「加茂川の治水、双六のサイコロ、(比叡山の)山法師。これらこそ我が意に叶わぬものである」と、白河法皇も仰せられたということである。
 鳥羽法皇のご治世でも、越前の平泉寺を山門〈比叡山延暦寺〉の末寺とされた件については、(そもそも道理の通らぬ話であったが、法皇が)当山〈比叡山〉に深く帰依されていたからこそ、「不条理なことであるが理とする」と宣下され、院宣を下されたのである。
 そのようであったから、江帥匡房卿〈大江匡房〉が(法皇に)お尋ねになって「山門の大衆〈比叡山延暦寺の僧徒〉が、(比叡山の鎮守である)日吉神社の神輿を陣頭へ振り奉って強訴してきたならば、陛下はどのようにお計らいなさられますか」と申し上げたならば、法皇は「まことに山門の強訴は看過できないことである。(しかし、彼らの非法・暴虐なる振る舞いはどうにもならない)」と仰られたのであった。

『平家物語』巻一(原文の「かな」を適宜漢字に改めている)
[現代語訳:沙門覺應]

とはいえ、そのような事態は別段比叡山に限ったことではなく、平安中後期には、南都では特に興福寺の僧徒(堂衆)らや荘園の用人らも僧兵と化していました。

まこと乱れて世情騒然としていた当時、寺社が朝廷・貴族らから寄進されるなどして所有していた日本各所に点在する広大な荘園を、地方豪族や隣接する土地を領する敵対寺院による収奪、あるいは悪党など盗賊からの略奪から守るために、そのような武装集団を形成し所有する必要が確かにあったのです。

僧兵と一口にいっても、必ずしもその全員が得度し僧籍をもつ者であったわけではありません。それを動かす長はやはり僧侶であったのですけれども、寺社に属する専当[せんとう]や長吏[ちょうり]、宮司・神人[じにん]・犬神人[いぬじにん]などが武装し僧兵となり、次第にその勢力を大きくしていきました。

もはや律令制もほとんど有名無実化し、僧尼を取り締まる世法である僧尼令も全く空文化。鑑真大和上以来の具足戒の伝統を堅持すべき位置にいた南都六宗と真言宗も、戒も律もただ儀式儀礼上受けるというのに留まり、大勢としては経典の学習など仏教を修めること自体すら名聞利養を得るため、または立身出世の手段に過ぎなくなっていました。

興福寺は、自身らに不満や揉め事があったときには、やはり朝廷や貴族に対しては宗教的権威(藤原氏の氏神たる春日神)を全面に持ち出して洛中に強訴し、あるいは敵対寺院(特に東大寺)に攻め寄せては人を殺し、火を放って回るなど、理不尽極まりない暴力を行使するようになっています。

延暦寺の僧兵らが日吉社の神輿をかついで脅しの道具に使ったのに対して、興福寺の僧兵らは春日山から切り出した神木をかつぎ上げていたのです。

また興福寺は、自ら(そして配下の春日社)が藤原氏の氏寺・氏神であることを盾に、しばしば自身らの意に沿わぬ藤原氏の者を「放氏するぞ?」と脅迫し、それを実際に行ってもいました。

高野山の金剛峯寺や吉野山の金峯山寺など、京から程遠い僻地にある比較的大きな寺院勢力などは、その地理的条件から朝廷に押し込みをかけることこそ無かったものの、寺院同士では荘園の境界をめぐる殺し合い、小競り合いを繰り返すなど、僧徒のあり方としては似たようなものです。

高野山金剛峯寺と吉野山金峯山寺とはその昔、醜い土地相争いを繰り広げる犬猿の仲でした。

高野山内での僧徒の諍いが暴虐の程度まで発展した有名な事件としては、平安後期の覚鑁[かくばん]の件があります。

当時、高野山においてひときわ優れた学侶であった覚鑁は、荒廃・頽廃した高野山の僧風を刷新し、学道を活発にせんと大伝法院を創始。ついに金剛峯寺座主の座に就任するも、それまでは東寺長者が金剛峯寺座主を兼任するのが慣例であったため、寺僧らが強く反発。

結局覚鑁は座主職を辞め、門閥争い・利権争いに終止する高野山ひいては真言宗の衆徒らの姿に失望し、自身の住房であった密厳院に籠もって長期に渡る「無言行」を開始しています。

しかし、高野山の衆徒は、むしろそのような覚鑁を「弘法大師の御入定に自らを擬する不逞の輩である!」などと、空海にかこつけてさらに憎悪を燃やし、ついに暗殺が試みられて密厳院が急襲されたのです。

(覚鑁がどのような懺悔の文言を残しているかは、別項“覚鑁『密厳院発露懺悔文』”を参照のこと。)

からくも暗殺の魔の手から逃れた覚鑁は、これを契機として高野山を下山。岩出に根来寺[ねごろじ]を建立。また大伝法院も移設して学道いよいよ盛んな寺とし、大和の長谷寺や京都の智積院はこの末寺となり、それぞれ近世に至るまで優れた学僧を輩出しています。

この流れがいわゆる新義真言宗で、今も特にそのうちの一派(智山派)においては、学問が他に比して比較的盛んです。

もっとも、皮肉にもそのような覚鑁によって創建された根来寺も、やがては強大な僧兵軍団で音に聞こえた根来衆[ねごろしゅ]を擁するに至り、後代ついに豊臣秀吉に徹底的に攻められ、焼き滅ぼされています。

実に、それもこれも含めての歴史、人の世というものでありましょう。

しかしながら、このようにして見たならば、いま誇らしげにそれぞれの宗派で言われる「伝統」だとかいうのは一体なんであろうか、果たして無反省に誇り得るものであろうか、ということにもなるでしょう。

いや、それは到底、誇れるものなのではないでしょう。

さて、天下統一後に秀吉によってなされた「刀狩り」は、いわゆる兵農分離を主目的としてなされたものではあるでしょうが、そのような諸々の寺院勢力の所有する大量の武器を根こそぎ奪って、二度と僧徒が蜂起出来ぬようにするためのものでもありました。

実際、寺院勢力の恐ろしさをよくよく知っていた秀吉は、さらに寺院が有する荘園・領地の大部分を没収し、その経済基盤を崩壊させています。

この後、天下を治めることとなった家康を始めとする徳川幕府は、二度と寺社勢力が中世以来なしてきたような暴虐や治安擾乱をなせぬよう、徹底的に管理するため寺社諸法度を次々発布していきます。また、寺請制度(檀家制度)を作って荘園領地の大半を失った寺の最低限の収入を確保してやり、宗旨人別帳によってキリシタンが再び生じないように民衆を管理しつつ、また寺院・僧尼を監視する目を光らせていくこととなります。

「近世、国家が宗教を管理・弾圧したのだ」・「国家が躍動する仏教の息吹を押さえつけていたのだ」などと言う人がありますが、それは早計というもの。

何故に国家がそうせざるを得なかったかを、天下統一の平和をもたらすまでにその宗教とやらの大勢が一体どのように振舞っていたかを、まず考えなければならないでしょう。

…そして、今も

画像:政教分離原則

そして今、もはや寺社の僧徒は武装して社会そして人々を脅かすということはなくなり、寺社や僧尼が政権に癒着したり、脅迫して優遇を図らせようとすることもなくなって、その意味では誠に平穏な、良い時代となったものでありましょう。

いや、そのようなことは今や旧来の寺社などではなく、巨大な新興宗教団体が取って代わって行うようになっています。

いやはや、時代がかわったとはいえ、やはり今でも違う形での戒律(日本国憲法)が犯されているようです。

それはまた、もはや今の伝統的な寺社に、社会的というだけではなく宗教的にすらも大した影響力も求心力もなくなっている証であるのでしょう。

しかしながらその一方では、寺社の人々にも様々な新興宗教団体の人々にも等しく、いまだ日本人の間に根強く残る御霊信仰的な人々の恐れをあおってまわる輩共があります。

「亡くなったあなたのご家族は成仏せずに迷ってらっしゃる。いずれ、そのツケがあなたにもまわってきますよ?」

「そんな不幸が次々重なるのは、あなたにはまだまだ信心が足りないから。真剣に、心からのお題目を積み重ねることで、きっとあなたは幸せになれる。そう…、だって私もそうだったもの。私もそうだったけれど、今は違う。それもこれもお題目のおかげなの。だから、ほら、あなたも!」

画像:ビートたけし監督『教祖誕生』

「え、なに?最近、家族に健康面や仕事面で次々と悪いことおこっている?子供が病気がちで、最近は不登校にも?それは大変!それ、先祖供養がしっかり出来ていないからですよ?」

「あんた、ちゃんと毎日仏壇に水や線香も供えず、墓参りもしていないでしょ?え?墓自体、建ててない?あんた!ちゃんとしないと大変なことになるぞ?先祖もあんたも地獄行き‼」

などなど、言い出したらきりはありません。

が、そのようないわば脅しによって、その解決を自らの「しっかりとしたご供養・ご祈祷」などに任させるという手段で、あるいは「正しい信仰を持つこと」といって様々な修行を行わさせるという手段でもって、人々から金銭を受け取っているいわば「拝み屋風情」は、存外かなり多くあるのです。

これはどこぞの新興宗教団体やいかがわしい拝み屋・自称霊能者だけが行っていることでもなく、そこらの寺院の僧尼によってもその程度の多少はあるにせよ行われていることです。堕胎や流産経験のある女性相手の水子供養ビジネス(水子地蔵・水子観音)も、ある意味その一例でありましょう。

あるいは、「あぁ!こ、これ、亡くなった人のものすごく強い念がこもっている…、しかもとっても悪い念が…。はやく、はやくお祓いしてお寺か神社に納めないと、あなた大怪我、ヘタすると死んじゃうよ?」などといった、まこと愉快なことを至極真面目に言う人は、今も決して少なくありません。

なにより、端から人を騙そうとしてやっている者が悪どいことは無論ですが、それを本気で信じて人に勧める輩はよりタチが悪く、始末に終えないものです。

先祖を正しく祀らないと、先祖の墓を作って清潔にたもち法事や日々の供養をしないと、子孫に祟る?家に悪いことが起こる?怪我や病気、仕事上の問題がそれによって次々我が家に起こった?

そういうことは絶対に、断じて無い。

祖先を敬い、伝来の文物を大切にしたり、古い習わしをその由来を含めて守り伝えることは、むろん例外は多々あるものの、一般的に良いことだと思います。私自身も、ことさらに法事・墓参することなどほとんどありませんが、鎌倉初期からの墓地が伝わっているためにこれを守り伝える務めがあり、またその墓地に祀られている数多の祖先に対して非常なる敬意をもっています。

しかし、なんでも都合の悪いことの原因・責任を「霊」という便利な言葉になすりつけ、あるいは「無残な死をむかえてジョーブツしていない先祖の怨念」「水子の祟り」であるなどと騒ぎたて、読経や祈祷によってそれを沈めようとするのは愚の骨頂、はなはだしく無知蒙昧なる所行と言わざるを得ません。

画像:伊丹十三監督『マルサの女2』

また、「厄年」であるとか「星回り」だとか「方災」・「名前の字画」などといった愚かな迷信をもって、いや、それはある程度社会に許容されてもいる場合もあるのでしょう。けれども、しかし、それを伝統や文化の名の下にさらに煽り立て、そこに漬け込んで盛大に祈祷商売を展開してる寺社は枚挙に暇がありません。

「死者の怨念」だの「先祖の因縁」、あるいは「報われずに成仏していない霊」だのということを信じ、今もなお平気で口にする者も決して少なくありません。

御霊[ごりょう]信仰の現代庶民版とでもいいましょうか。

現代の昭和・平成の世にいたってもなお、日本人の精神性は奈良・平安期の昔とたいして変わりない、というのはこのことです。

そしてそれにつけこんだ「お商売」が、現代においても仏教の名のものとに展開しているのも、むろんその様態は変わっていても本質的には変わりないようです。

世の中にはそもそも無かった需要を造り出していくことに長け、それを生業とする人々がありはします。が、そうした「お商売」がいまなお成立しているのは、需要と供給があるからこそのこと。

また、戒名という習慣にかこつけ、いまだ葬式でそれを必須のもの、遺族がどう思おうが暗に「社会常識的につけなければいけないもの」という空気を醸成。そこで「名前の格」に応じた布施という名の代金を設定して「お気持ち」との名分のもとに請求。

そのような見え透いた有り様が、最近は比較的低額になってきはしましたがそれでもやはり高額な葬儀代をさらにカサ上げして人々の経済的負担を増し、さらに寺院・僧職者らへの不信を増させている、ということもあるのでしょう。

そういえば、その戒名の起源についても、かこつけられていることがある。

戒名という習慣の由来として、聖武上皇が受戒したおりに勝満[しょうまん]という名を得たことが引き合いに出され、日本人が死者に「戒名なるもの」を付ける理由の一つとされることがあるのです。

しかし、それは恣意的に過ぎる、あまりに不正確なものです。

画像:アマゾンお坊さん便

上皇は、(一説に行基を師僧として)沙弥出家したことにより「勝満という僧名」を得たのであって、在家信者として今で言う「生前戒名」を得たのでは全然ありません。上皇は、仏教への信仰心が昂じてついに出家者となっていたのです。

(一説には、聖武天皇が在位中に突発的に出家したために朝廷は焦り、急遽孝謙天皇に禅譲させることになったとも。)

故に、聖武上皇は今言われるような意味での「戒名の起源・由来」にはなりえません。巷間の「戒名という習慣」を正当化したい者らは、聖武上皇にかこつけているのでありましょう。

いずれにせよ、自身らが本来の仏教的なことなどほとんど完全にうっちゃって無視していながら、それら先祖供養・加持祈祷・戒名など含めたあれこれを、あくまでも「サービスではない」だとか「商売ではない」、「人々のお気持ちを組み、そのお志として金銭を受け取っているのだ」「我々は人々の幸せのため、ホトケ様に対して日夜お祈り申し上げているのです。それを信じている皆様から、こうしてご寄進を受けているのです」などと宣うのは、笑止千万というもの。

一口に「本来の仏教」などといっても、殊更に「ぴゅあぶっでぃずむ」を意図して言っている訳ではありません。ましてや大乗非仏説を称え、大乗を批判しようとしているのでも到底ありません。

まず、それぞれの国や土地の土着信仰や風習が、その伝来の過程や歴史の中で取り込まれ行われていることは、およそ仏教が信仰されているすべての国で見られることです。

むしろその様なありかたを採ってきたからこそ、仏教は今に至るまで各地で伝承され、信仰されてきたという一側面を無視などしてもいません。大なり小なり、その国や土地の習俗・習慣を取り込むんで仏教的に換骨奪胎することは、仏陀釈尊の昔から行われてきたことでもあります。

たとえば、安居[あんご]や布薩[ふさつ]といった、仏教で非常に重要とされてきた習慣・儀式はもともと仏教から始まったものではなく、当時バラモン教で行われていた習慣です。それを信者からの勧めや批判に由って仏陀自身が仏教に取り入れたのでした。

画像:お寺はつらいよ?

また、寺社の維持運営にはその規模の大きさに比例して相当なる費用がかかるものであり、その運営資金を集めるために様々な活動をしなければなりません。それはそう容易いことではない。本来あり得ないはずの寺の嫁・子供を養って、たまにうまいものを食わせ、遊ばせてもやらねばならないというなら、なおさらのこと。

まぁ、そのように「寺の金で家族を養う」ということがむしろ主体・主目的となっていることから、多くの余計な問題が生じるのでしょうけれども。

ただし、寺院・僧尼の業態によっては一部確かにそのような人々もありはしますが、巷間よく言われる「坊主丸もうけ」というイメージ通りには普通いきません。

世間には、寺社など宗教組織の経済活動をむやみに批判する人があるようです。しかし、経済を疎かにしては何事も成し遂げることも継続させることも出来はしません。これは宗教組織も例外ではなく。

実際、仏教の律というものには、ある意味「仏教教団(僧伽)の経済基盤を確固とするために定められた条項」も多くあるのです。ちなみに、その様な類の律の条項は「息世譏嫌戒[そくせきげんかい]」と言われます。

また、宗教といういわば「形のないもの」であって、大体が「心が大事」「精神こそ」などと宣伝するものに、少なからぬ金銭が必要であることを疑問に思い、やはり声高に批判する者もあります。

が、世の中で形の無いものほど、金のかかるものはありません。

いや、これは非常に微妙な、問題のある物言いとなってしまったでしょうか。ここで寺社に寄進を勧めているわけでも、利益誘導しているわけでもありません。

「形は無いが金の非常にかかるもの」などと言っても、技術や情報など生産性の高いものや、学問や芸術などその生産性が不確かなものがあり、投資して還元される可能性や即効性、またはその結果など様々に差異があります。

たとえば過去、宗教に莫大な寄進いわば投資が集まったことによって、その宗教に付随する様々な美術・音楽等々の芸術が高められ、今や人類の文化的至宝とさえなって、宗教自体に批判的な人々であってもそれを喜んで鑑賞している事態が洋の東西を問わずあるでしょう。

しかし一方、寄進をうけるやいなや、たちまち住職の高級腕時計代や酒飲み代、女を囲うための資金など、遊びの為のあぶく銭にされ泡と消えてしまうことも事実としてあります。

総じて言えば、個人の「家」と法人としての「寺」との境などほとんど無いに等しいあり方をしている日本の寺院においては、しかも取っ払いの収入(布施・車代・膳料)を大なり小なり得ることが多いため、その収支は公私混同した相当などんぶり勘定で行われているのです。

(その故に、しばしば税務署、ひどいのになると国税局にやっつけられる寺がままあるのですが。)

いずれにせよ、しかしながら、今までのような日本の寺院・僧尼らの「まぁ、むずかしいことは檀家に言ってもわからんし、ワシもわからん」だとか「根拠があろうがなかろうが、迷信だろうがなんだろうが、我らに身銭が入ればいいじゃない?それで社会の人々も納得しているのだし」などといったごくごく一般的な寺院の、しかし忌憚なく言ってしまえばペテンともいうべき体制を続けることがもはや出来かねなくなってきていることは、多くの地方寺院の存続が危ぶまれている昨今の状況からして明白でありましょう。

とはいえ彼ら、もはやその多くが「我が家のモノ」となっている寺社(宗教法人)の代表者たる個人事業主(住職・神主)等からすれば、宗教法人法上・税法上のあれこれもあって、「誰に何を言われようが、どこまでもそう言うしか無い」ことでもあるのでしょう。

いやいや、日本人ならば誰であれ、その人の信じたいものを信ずる自由が、日本国憲法によって保証されていることはもとより承知。

20
1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

『日本国憲法』第3章第20

少子高齢化がさらに進み、地方都市の過疎化がより進行し、退廃的ありかたを根拠も危機感もなく続けてきた寺院や僧尼に対しての不信感こそ増している、今の日本社会。

そこでおそらく、いや、まちがいなく仏教寺院は減少していくに違いありません。それはすでに諸々の調査結果・統計情報が明らかにしてもいることです。

かと言って、人が存在する以上、宗教的な要求が無くなることはないと思われます。

仏教が日本から無くなる?それは無い。仏教に対する興味・信仰は、檀家寺が存在するのとは全く別次元で存在し続け、また求められるでしょう。

しかし、悲しいかな、あわれなるかな。その人々の要求に応えるのは、むしろ新興宗教の諸団体であって、伝統の上に胡坐をかいて旧態依然としてきた寺院・僧尼では決してなり得ない。

もし日本から寺院が半減しようが四分の一となったとして、多くの人にとっては大した問題ではありません。所詮、「無くなって良い物が無くなった」にすぎないことです。

それをいまさら問題だと焦り、あるいは恨めしいことを言ったところで仕様のない話です。それはまさに自身ら僧尼の自業自得の所産以外の何物でもないのだから。

物之興廢必由人。人之昇沈定在道。

物の興廃は必ず人に因る。人の昇沈は定めて道に在り。

物事が盛んとなり、あるいは廃れるのは、必ずそれに関わる人に由るものである。そしてその人が浮き沈みするのは、確かにその人の奉じる道〈思想・哲学・宗教〉(の可否や実行・不実行)に基づくのである。

空海『綜藝種智院式并序』(『定本弘法大師全集』Vol.8, P187
[現代語訳:沙門覺應]

多くの文化財を所有している寺院や日本庭園や仏教建築などを観光資源としている寺院などは、仏教自体ではなく仏教文化財や文化的習慣をのみ商材にしつつ、ますます「地域振興」だとか「おもてなし」「グローバリズム」だとかいう社会で流行りの言葉に飛びつき、軽薄に使うなどして、さらに社会におもねり商売傾向を強めながら、なんとか存続はしていくでしょう。

その意味での「ブンカがショーシツ」する心配には及びません。ただし、そのようなものからは、もはや新たな仏教文化も優れた仏教美術も創出されることはないでしょうけれども。

大体、日本仏教におけるいずれの宗団にしろ、今その宗務を担っている人々はいわゆる「団塊の世代」となっています。人前ではしかつめらしい顔をつくり、もっともらしく大義名分を言いながら、しかしその実仏教などほとんど関係なく、まるきり中身も無いことを「社会のニーズに応える」などと仏教にかこつけて喜んでやろうとするのは、日本国中どこの宗派も変わりがないようです。

いずれにせよ、どのような形であれ、仏教や神道に「かこつける」人々が多く存していることは今も昔も変わりはしないようです。しかし、もはや「かこつける」ことすらも出来ない時代がもう、ゆるやかながらもすぐそこまで訪れてきているようです。

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遁世僧 ―出家は二度する

画像:「出家は二度する」

では当時、そのように日本仏教には諸宗あってその僧尼の数少なからずあったとて、その大勢は僧風頽廃として、もはや僧衣をまとった形ばかり名ばかりの出家者のみが跋扈する中、真から道を求めて俗世から出家したはずの人々は、どのようにその身を処していたか。

あるいは、貴族の子弟や豪族・武家であった者が娑婆を厭い脱しようとして仏門に入った人々、または社会的に失脚・失敗などしたことを契機に俗世から隠れようと僧侶となった人々はいかがしていたか。

彼らは、さらにもう一度、いわば日本仏教界という俗世から「出家」していました。いわゆる遁世僧です。

そのような遁世僧の中にはすぐれた随筆や和歌など文学作品を残し、現在も一般によく知られた人々があります。鎌倉期では、たとえば葉上房の阿闍梨栄西であり、笠置の解脱上人貞慶や栂尾明恵上人高辨であり、また無住一円や吉田兼好などです。

いや、なにも鎌倉初期から遁世僧が現れた出したわけではなく、それは平安期初頭にすでに存在していました。

先に色々と述べた最澄も、若かりし頃はいわゆる遁世僧でした。ましてその論敵であった徳一菩薩などは、まぎれもない遁世僧でした。

彼らは社会から距離をおいた位置にその身を置きつつ、ひたすら仏教の勉学・修行に励んでいたり、人生というものの辛苦や日本社会の様相、僧侶らの堕落した有様を横目に見ながら、其れに対する冷静な所感、あるいはしばしば痛烈な批判や皮肉、あわれみなどを筆に走らせ、残してたりしています。

あまり取り上げられることはありませんが、平安最初期の空海は遁世僧とは言えない存在であったでしょうが、その著作の中で世間の浅ましい人々の有り様や堕落した僧侶などに対する批判の言や憐れみの言葉をしばしば書き記しています。

そして、平安末期から鎌倉初期においては、はなはだしく頽廃した僧侶の有り様や、まさに末世と呼ぶにふさわしい様態を呈していた社会を嘆き、仏教としての諸運動が起こって新たな宗派が生まれ、また旧来の宗派の中興が行われていくこととなります。

これには大別して二つのものがありました。

先ずは、麻縄のように乱れた世の有り様を、「もはや人がどうしようも無いもの」としてあきらめ、ただひたすらに「阿弥陀如来の本願力(救済)」に預かって死後は極楽に往生(生まれ変わる)することを願った法然の浄土宗や、その亜流にしてさらに極端化した親鸞の浄土真宗。

または、そのように世が乱れ、国が諸々の危機や困難に直面するのは人々が「正しい信仰」を持っていないからが故のものであるとし、「南無妙法蓮華経」と唱えよ、『法華経』のみを「正しく信仰」せよと主張した日蓮の法華宗です。

これらは、それぞれの教義が著しく異なるものの人に「絶対的な信」をこそ問い、要求するものである点において同様です。そして他にも、これら浄土教と日蓮教とが、為政者から非常に危険な教えであるとみなされ、宗祖らが島流しに処せられ、その思想が禁制された点でも同様です。

もっとも、浄土宗の開祖法然は、天台が称する所の円頓戒(梵網戒)の戒脈に名を連ねる人であり、持戒清淨の人であったと今に讃えられる人です。けれども、彼の信奉者には、彼の「南無阿弥陀仏」とのみ唱えれば極楽往生との思想を逆手にとり、積極的に悪行をなす者らの出現が多くありました。

当時、浄土や日蓮の教団は現代にいうところのカルト宗教、一種の狂信者集団でした。しかも、彼らは互いに鋭く対立し流血沙汰となることさえありました。

次にまた一方は、むしろそのような寺院・僧尼の頽廃の原因、仏教の威光を甚だしく翳らせているものは戒律の不在であるとし、戒律復興を成し遂げたうえに瑜伽(ヨーガ・密教)を修めていった叡尊[えいそん]律師や覚盛[かくじょう]による新たな律宗です。

また、叡尊律師や覚盛に先行する人としては、先に挙げた明恵上人なども華厳宗を中興し、さらに戒律の重要性を強く訴えて、さらに真言密教の修行を深めています。

同時期の法相宗の碩学、笠置の解脱上人貞慶[じょうけい]もまた法相宗を中興し、さらに戒律の重要性を訴えてやはり真言密教を修め、その後の戒律復興に非常に大きな貢献を果たしています。叡尊律師や覚盛の戒律復興は、解脱上人の戒律復興を目的とする物理的後援によって果たされたものと言って過言でありません。

明恵上人亡き後の華厳宗の一部は、叡尊律師の律宗の流れと言うなれば合流し、円照律師や凝然大徳など優れた学僧を生み出しています。

そしてさらに、栄西禅師や道元など入宋僧によって伝えられた宗派がありました。臨済宗そして曹洞宗です。

これらもまた、無論それぞれの教義は異なるものの、いずれにせよ「釈尊に帰れ」とでもいうかの原点回帰・復古主義的な思想を有し、戒律・規律を重要視して自らが自らを正し、また他を化していこうとしていた点で同様です。

画像:建仁寺蔵 栄西像

まず栄西禅師については、自身が天台出身でありはしたものの、二度に渡る入宋経験いわば国際体験によるものもしれませんが、伝統的な戒律の重要性をことさら主張しています。また、栄西禅師は明恵上人とも深い親交があり、互いに深く尊敬しあっていたと伝えられています。

臨済宗は今でこそ專ら禅のみを修学する宗派となっていますが、開祖の栄西禅師はそもそも、戒律を順守しつつ禅だけではなく真言密教ならびに天台を修めること、すなわち円・密・戒・禅の四宗兼学を本としています。これは禅師の著した「禅」を宣揚する『興禅護国論』において明らかにされています。

この書の中で禅師は、当時の絶対的権威であり、またそれを振りかざす恐るべき暴虐集団であった比叡山の逆鱗に触れぬよう、相当に気を使った言い回しをしていますが、最澄の戒律観を迂遠ながら糺してもいます。

(栄西禅師の戒律や禅・密教についての見解は、栄西『興禅護国論』に詳らかである。)

道元については、その戒律観についてひときわ特異であり、最澄の「梵網戒のみ」としたあり方を頑なに固守してさらに「十六条戒」なる我説を立て、それを受けることによって僧侶たりえるとしています。

画像:宝慶寺蔵 道元禅師像

彼は、師の明全と共に宋に渡って天童山の禅門に入衆しようとしたおり、ただ菩薩戒を受けているのみで具足戒(律)を受けていなかったことから、比丘として扱われませんでした。これに大なる不満を持った道元は頑強に抗議をし、その経緯は不明ですが、どうにかして入衆を許されたと言います。

曹洞宗における伝説では、「道元はついに菩薩戒問題を宋の皇帝にまで陳情し、結果的に皇帝によって赦された」などと言われています。が、全く拙いにも程がある作り話でありましょう。実際のところとしては、突如やってきた外国人僧(道元)のまったく非常識で不合理な主張と抗議とに、当時の天童山の長老たちは相当困惑したことが予想されます。

いずれにせよ、そのような経験があったにも関わらず、いや、むしろそれがあったからこそ、彼は帰国後もなおさら頑迷に最澄の戒律観を固守。ついにはそれも我流に斟酌し、十六条戒なる「道元謹製」の我説を立てたのかもしれません。

道元の、道を修めることへの厳しい姿勢と態度はよく知られたことであり、その故に今に至っても洋の東西を問わず評価されている人でありましょう。彼の戒への態度は、中古天台の様々にかこつけ、おためごかした人々とは到底異なる次元であったに違いありません。

しかしながら、であったとしてもなお、少なくとも戒律に対する道元の見解は、自身は「仏祖正伝菩薩戒」などと称してはいますがどこまでも我説我流にすぎず、相当注意しなくてはならないものです。

さて、近代の日本の禅宗においても、正確には遁世「僧」ではありませんが、一種の遁世僧の如き人がありました。河口慧海師です。

画像:河口慧海師像(南海七道駅前)

漢訳仏典に疑問を持って「より正確な仏教」を求め、当時厳しく鎖国していたチベットに己の生命を賭して入り、数々の文物を持ち帰った人です。それは日本人として初めてのことであり、また世界的にも非常に貴重な体験であって、その記録が『西蔵旅行記』として出版されています。まさに必読の書であります。

慧海師は、日本の黄檗宗の人であって、東京本所の五百羅漢寺の住職を務めていた人ですが、セイロン・インド・ネパール・チベットなど世界の仏教事情をくまなく見、また日本に帰って再びその僧界の今とかわらぬような有り様を経験した結果、ついに還俗してしまいます。

故に慧海師は、遁世「僧」ではなく、還俗して堕落しきった僧界との関わりを絶った、立場としては在家信者となった人です。しかしながら、還俗後もそこらの凡僧など到底及びもしない、一種の持律峻厳なる生活を生涯送り続けた人です。

還俗後の慧海師は、当時(大正末から昭和初期)の日本仏教界の有り様について、まず日本の僧職の人々が「営業時間」以外は袈裟衣をまとわず俗服を着ていることについて批判し、そこから展開して以下の様な所感を述べています。

 或高僧達は次のような広言をしている。「かくの如き外形上の末節はどうでもよい。心だに清浄で内心に袈裟を着けておれば、それでよい。仏陀立戒の御主意も大乗の真精神も内心の清浄にある」と。かくの如き主張の下に、戒律厳持の必要を説くものを一笑に附し去っている。
 成程かの輩の如くに、仏陀立戒法の深旨を真面目に考察しないものには、不離三衣は外形上の一末節と見えるかも知れない。《中略》 かりに一歩譲ってこれを一末節として見るもその一末節すら実行することに堪えない程の連中が、大節たる不婬不飲酒の戒を厳持することが出来るであろうか。
 各宗の管長と仰がれる高僧等が陽には不婬の大戒を厳持すと装いながら、陰には妻妾を蓄えて婬楽に耽っているのを見たならば、誰が眉をひそめないでおられようぞ。
 かの飲酒に到っては甚だしきを極めている。体質が酒を用いることを許さないものはしばらく別として、その以外のものは公々然として不飲酒戒を破ることを恥づる所なく、酒は酒でなくて般若湯である等と称し、この詭弁巧言に互に興じ合いつつ大盃を傾けて豪飲するものが多い。
 さらにまた寡婦を奸し少女を脅かして得々然たるものも少なくない。
 かくの如き無頼漢をも凌ぐ魔僧共が、清浄なる殿堂を穢しつつ、なおその腐爛の肉を包むに金襴玉裳を着け、虚偽生活の毒菌を無垢の人々に植付けているのである。かの殿堂も往事は、精神浄化の道場であった、道徳向上の修練所であった。
 然るに現今に於ては、虚偽生活の震源地である。精神悪化の孵化場であると言うも誰かこれを否定するものぞ。思い一たびここに至れば夏なお肌の寒きを覚えるのである。

河口慧海『在家仏教』

非常に厳しい言辞による批判ではあります。

しかし、この一説の一語一句に至るまで紛れも無い事実であったろうことは、現在の日本仏教における僧尼の有り様と照らし併せてみるに明らかなことです。

(河口慧海師の『在家仏教』については、その緒言のみを全文別項“河口慧海『在家仏教』緒言”にて紹介してる。)

仏教を真面目に考える者、正面から向き合う人には、日本で僧尼となってその同輩らと上手く交わり生きていくことは非常に苦しく困難なことであり、ついに出来なかねなくなって遁世するか還俗するかの二者択一となってしまうこと。それも、今も昔も変わらないのでしょう。

いや、現代にいたっては遁世しようにも、国内には昔のようにその場所も経済基盤も無いため、還俗しないのであれば異国に遁世する他ないのかもしれません。

やめられない、とまらない。だって、やめる気がない。

さて、現在の日本仏教の僧徒にもまた、「我々は大乗の徒であって、しかも日本の流儀に從う者であるから、前時代的かつ形式主義的な律は不要。我々にはより高次の菩薩戒があってこれを受けたもつことで僧侶たりえるし、実際我々は伝統的にそれで僧侶としてやってきている。これでいいのだ!」等といった類の言を弄する者がしばしば見られます。

しかしながら、いま上に述べてきたように、そのような言葉に仏教としての、ましてや大乗としての正統な根拠など全くありません。

いや、先に触れた『瓔珞本業経』の一節を付会し、いまだに中古天台や末法思想に傾倒した鎌倉期の人々のような主張をする者もあるかもしれません。

しかし、日本で誕生した新仏教と言われる浄土教の人々や日蓮宗など、特異なる「絶対的信を要求する人々」は一応除くとして、それぞれ宗祖の思想・遺志からしても全く反したあり方となっていることは明白で、それはただ開き直りの言に過ぎません。

強いていうならば、歴史的に堕落の一途を続けてきた、むしろその堕落を糊塗するためにこそ大乗の経説を牽強付会し続けてきた、という歴史的裏付けある言葉ではあるでしょうけれども。

そもそも人が堕落するのには、根拠など要しません。

ただその人情にまかせ、その文化的風土・風俗に身をまかせ、あるいはただ周囲に同調し付和雷同しておけば良いのだから。

しかしながら、その堕落した状態を肯定的・自主的に継続するのであれば、それは根拠を要することとなるでしょう。自らが仏教の看板を挙げているのであれば、決して人情や習慣などではなく、まぎれもなく「仏教として」の。

しかし、大体このような意見に対しては、根拠など到底用意できず、ただ人情や時流をのみもって訴え、反論しようとするのが常でありましょうか。

『法華経』にはこうあります。

内祕菩薩行 外現是聲聞

内面に菩薩行を秘め、外儀はまさしく声聞の姿をあらわす。

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』巻四 五百弟子受記品第八(T9. P28a
[現代語訳:沙門覺應]

仏教の僧侶は何故に頭を剃り、またその形の定まった袈裟を着、鉄鉢を持して托鉢などするのでしょうか。

『法華経』などがいう声聞の姿とは、また多くの今なお残る仏教美術に描かれた沙門の姿とは、何に基づいたものでしょうか。

もし最澄が言った「大乗戒のみに依る」という主張を是認し、「大乗は小乗と異なる」「違ってしかるべき」などと言うのであれば、ではその僧侶の姿形やその行儀は、諸国の風土的文化的異なりは枝葉末節のことと除くとしても、そもそも一体何を根拠とするのでしょうか。

慶長に始まる江戸期における戒律復興の流れは、しかし江戸中期に至ると(日本人的縄張り根性・排他性が現出して)宗派化し、そもそもの「何のための戒律か」ということは忘れられ、ともすると形式上のことになりかけていました。

そこに現れた慈雲尊者はこれを批判。正法律なる思想を宣揚して『根本僧制』なる書を著し、実行しています。

第一。一切事須依律而判。不得顧人情及任已臆
此ノ正法律ノ中は、内秘菩薩行、外現声聞儀を規模とす。三世の諸佛、報土の薬師弥陀等、みな出家形なり。大論に、文殊弥勒みな声聞衆中に入て位に随て坐すと云へり。密教に、大日如来は首陀会成道の相なれば、菩薩形宝冠天衣なり。此は別に伝あることなり。通途は声聞の式を本とす。故に剃髪染衣の式、衣鉢護持の法、みな律蔵に詳なり。
後人、大乗律の中に剃髪染衣、衣鉢等の式有べしと云フ。暗推の説なり。故に此ノ根本制に律蔵に依ルを第一とす。

 第一に、全ての僧侶の行動・規定は、当然の事ながら律の規定に従ったものでなければならない。(その場その時でどうにでも変わりうる)人情を考慮せず、またその根拠が曖昧なことをそのまま行ってはならない。
 この正法律(という思想)の中に於いては、(『法華経』に説かれる)「内心に大乗の菩薩としての決意を秘めつつ、外見は(小乗の僧侶と同じく)声聞僧の姿を示す」を模範とする。三世の諸仏や、報身仏としてそれぞれ仏国土を建立してそこに住まう薬師如来や阿弥陀如来なども、みな出家者の姿をしているのである。『大智度論』には「弥勒菩薩や文殊菩薩なども、釈尊は(大乗の)菩薩や(小乗の)僧侶などといった分け隔てをしていなかったため、小乗の僧侶達が順に坐っている中に入り、その席次に従って座した」と説かれているのだ。
 密教の大日如来 について言えば、首陀会にて成道されたからこそ(如来でありながら)菩薩の姿のように、宝冠や天衣(などの飾り)をつけているのである。これについては別に(密教の秘釈としての)伝承があることであって例外である。一般には声聞僧の規定を基準とするのである。であるからこそ、剃髪染衣の式や衣鉢護持の法など、全て律蔵に詳細に説かれているのである。
 後代の人には、「大乗律の中に剃髪染衣、衣鉢などの規定がある」などと主張する者がある。しかし、それはまったく根拠の無い、思いつきの説に過ぎない。よって、この『根本僧制』では(その典拠・根拠の明確な)律蔵に依ることを第一とするのである。

慈雲『根本僧制』
[現代語訳:沙門覺應]

ここで慈雲尊者は、大乗小乗問わず「僧侶を僧侶たらしめるもの」の根拠は律蔵(具足戒)であって、その受持である、といういわば仏教的には当たり前のことを言っているのに過ぎません。しかし、当時はその当たり前が当たり前でありませんでした。

(慈雲尊者の『根本僧制』については別項、“慈雲『根本僧制』”を参照のこと。)

いや、江戸期における戒律復興運動の嚆矢は、まさしくその当たり前を実現しようという動機によって、真言宗と律宗、そして法華宗(日蓮宗)の人々の合力によってなされたものでありました。

(江戸期の戒律復興がどのような経緯でなされたのかの詳細は、“慈雲『律法中興縁由記』”を参照のこと。)

そしてその動きはなんと、最澄以来梵網戒を円頓戒などと称し、これのみを受けるだけで良しとしてきた天台宗にも波及。

かなりのすったもんだ(安楽騒動)がありはしたものの、結局、天台宗においても四分律を受持することが行われていくようになります。それは妙立慈山[みょうりゅうじせん]禅師、、そして霊空光謙[りょうくうこうけん]の努力によって成されたものです。

それは平安から室町期にかけての比叡山の有様からすれば思いもつかないことでしたが、まずはめでたいことでありました。

しかしながら、この世のすべては移ろい、変わりゆくものであること。いかなる物事にも栄枯盛衰があることは、この世の誰も否むことなど出来ない真理。

そして、我々人は愚かなるもの。

先ほど述べたように、天下泰平の世においてようやく復興されたにも関わらず、その後百年も時を隔ててみれば、もはやその初心・動機は忘れ去られて戒律の受持ということが宗派化し、僧徒は宗旨宗派で別け隔てし相争うようにすらなっていました。

画像:慈雲尊者坐像(石山寺蔵)

釋迦在世に宗派なし。

そのような中、慈雲尊者は、戒律を受持していることにおいて僧侶であって、その人がどの宗派に属する者であれ一派同胞であるとしています。

そして、その人がどの教えを信奉して行っていようが、その人が戒律を護持している限りそれは「正法」であるともしています。その運動は初め、甚だしい経済的困苦を伴うものであり、また他の批判を受けるものであったようですが、しかしその言のとおりに実行していました。

やがて、慈雲尊者によって宣揚された「正法律」運動に賛同した僧は、真言宗や律宗に限らず、曹洞宗や浄土宗からも現れてくることとなります。そして、慈雲尊者が活動された大阪や京都の人々もまた、そのような尊者を非常に信仰し、また大和郡山藩主(柳沢保光)や皇族も非常に篤く帰依するようになっています。

慈雲尊者の著した『十善法語』あるいは『人となる道』は、むしろ真言宗や律宗などより曹洞や臨済など禅宗の人々から大なる評価を受けてきた、とも言えるかもしれません。

十句義 ―令法久住の為に

さて、日本の諸宗諸師は、あるいは律を厳守し、あるいは大乗戒をこそ尊び、あるいはその双方を護持するなど、その見解を様々に異にしていました。

特に日本においては、『梵網経』に説かれる十重四十八軽戒が特別重要視され、また最澄の大なる誤解・甚だしい強弁によって政治的に菩薩戒単受ということが国家に認められたことによって、教学上そして制度上、非常に大きな位置を占めてきたことは上に概説したとおりです。

それが特別視され、称揚されただけでは意味など全然ありはしません。それは行われてこそ意味のあることは、言うまでもないことでしょう。

梵網戒のみで僧侶たりえるとした最澄の非常識な独自説の是非を今は言わず、戒律のあれこれについて諸師に見解の相違があることは良しとて、戒律の最も肝要である点は、それを現実に護持していくことの一点にあります。

また、もし律(具足戒)ではなく戒(梵網戒)をこそ僧をして僧たらしめるものであるというならば、これは戒ではなく律についてのものではありますが、その制定の由縁を仏陀みずから述べられた「十句義」の意味をよくよく知らねばならないでしょう。

自今已去。與諸比丘結戒。集十句義。一攝取於僧。二令僧歡喜。三令僧安樂。四令未信者信。五已信者令増長。六難調者令調順。七慚愧者得安樂。八斷現在有漏。九斷未來有漏。十正法得久住

「今より以降、諸々の比丘のため戒を制定するのに、(その意義・目的として)十句義を述べる。
 一、僧伽〈僧侶の集い〉を和合させ導く。
 二、僧伽をして心軽やかにさせる。
 三、僧伽を安楽にさせる。
 四、いまだ仏教を信ぜぬ者をして、信仰の念を起こさせる。
 五、すでに仏教を信じる者をして、さらにその信仰を深めさせる。

 六、悪行を制するのが困難な者の悪を制し、従順にさせる。
 七、自他に対して恥を知る者は安楽を得る。
 八、現在の煩悩に基づく行為を制する。
 九、未来に生じ得る煩悩に基づく行為を制する。
 十、仏陀の教えを正しく後世に伝え、長くこの世に留まって行われるようにする

佛陀耶舎・竺佛念訳『四分律』巻第一 四波羅夷法之一(T22. P570c
[現代語訳:沙門覺應]

繰り返しの言となりますが、梵網戒をして「円頓戒」だとか「仏祖正伝菩薩戒」だとか言い換えて、高らかに称え讃えたとして、それを現実には一顧だにせぬようなあり方をしているようでは、なんの意味もありません。

むしろ、そのようでは、その自身らが称揚する菩薩戒の価値を自身で損ねているようなものであり、また仏教をすら損ね、社会からの興味も信頼も失わさせる因とすらなるものでしょう。

いま上に挙げた「十句義」は畢竟、戒律というものは自他に対して利益のあることであって、その故に定められたことを意味するものです。

裏を返して言えば、戒律が無ければ、斯様に挙げられた十の事柄の真逆が生じるということに他なりません。

それはまさに歴史が証明してきたことであり、まさしく今の日本仏教において生じていることでもあって、その十句義の正しいことを証していると言ってよいでしょう。

そして、それは日本の仏教にだけ言えることではありません。世界各地の仏教が信仰されている国々において、僧風が頽廃し仏教に陰りが見えた時に、ほとんど必ず行われてきたことは戒律復興や僧風の刷新、そしてそれに基づく教義教学の再構築、あるいは復古主義的な修行法の厳密な再興です。

なんとなれば「戒律は仏教の命脈」というのが、(恥ずかしながら現代におけるおよそ全ての日本の僧職者を除く)世界の仏教者の共通理解であるためです。

いや、その昔の日本でも、そのような認識は確かにあった。

厥佛法者齋戒爲命根。不可不識其命根焉。《中略》 七佛通戒云諸悪莫作諸善奉行自淨其意是諸佛教。一代金言八教大抵只此一偈意也。何依佛法乍出家不從佛誡哉。

そもそも仏法とは斎戒〈戒律〉を命根〈仏教が仏教たる所以・それを存続するための根源〉とするものである。(仏教者でありながら)その命根を知らないなど、あってはならないことである。《中略》
「七仏通戒偈」に「諸々の悪を為すこと無く、諸々の善を行い、自らその意を清める。それが諸仏の教えである」と説かれる。仏陀一代のあらゆる説法、また今に伝わる八宗の綱要は、ただこの一偈に集約されているのだ。一体どうして仏法によって出家しておきながら、仏陀の誡めに従わないというのか。

栄西『出家大綱』序
[現代語訳:沙門覺應]

しかしながら、今やただ葬祭儀礼と祖先崇拝をもっぱらとする祭儀執行者にすぎなくなった日本における僧侶を自称する人々は、もはや仏教が何であるかなどまともに知らず、よってそのような認識などとうの昔に忘れ去って、微塵も持ち合わせてはいなくなった。

物事には時代の流れ、栄枯盛衰というものがあるにせよ、そして土地土地の風土習慣の異なりがあるにせよ、もし今、志あり信ある人あってこの窮状を打開せんと欲する僧職の者があれば、まさに先ず頼り実行すべきは戒律です。

ただし、誰もそれを完璧になど保つことなど出来はしないでしょう。私も到底出来はしません。そして、もしあくまで完璧に保つことを求めたならば本末転倒となりかねないのも事実であるでしょう。

たとえば、道元は「持戒」ということについて、以下の様な言葉を残しています。

 亦云く、戒行持斎を守護すべければとて、強て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり。只是れ衲僧の行履、仏子の家風なれば、随ひ行ふなり。是れを能事と云へばとて、必ずしも宗とする事なかれ。然あればとて破戒放逸なれと云には非ず。若亦かの如く執せば邪見なり、外道なり。只仏家の儀式、叢林の家風なれば、随順しゆくなり。是を宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に、衆僧にも見へ来らず。実の得道のためには唯坐禅工夫、仏祖の相伝なり。是によりて一門の同学五眼房故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて持斎をかたく守りて戒経を終日誦せしをば、教て捨てしめたりしなり。
 懐奘問て云く、叢林学道の儀式は百丈の清規を守るべきか。然あれば、彼れはじめに受戒護戒を以て先とすと見へたり。亦今の伝来相承は根本戒をさづくとみへたり。当家の口訣、面授にも、西来相伝の戒を学人にさづく。是便ち今の菩薩戒なり。然あるに今の戒経に日夜に是を誦せよと云へり。何ぞ是を誦するを捨てしむるや。
 師云く、しかなり。学人最とも百丈の規繩を守るべし。然あるに其の儀式は受戒護戒坐禅等なり。昼夜に戒経を誦し専ら戒を護持すと云は、古人の行履に随て祇管打坐すべきなり。坐禅の時何れの戒か持たざる、何れの功徳か来らざる。古人行じおける処の行履、皆深き心なり。私しの意楽を存ぜずして、衆に随ひ古人の行履に任せて行じゆくべきなり。

 また(道元は)こうも言われた。「戒行持斎を守らなければならないとし、強いて宗としてこれを修行の(核として)立て、これによって得道〈菩提を得ること〉できると思っていたとしてら、またこれは誤りである。ただ戒行持斎というのは(粗末な袈裟たる衲衣をまとう)仏教僧の行履[あんり]〈起居動作〉の規定であり、また仏子としての家風であるから、従い行うものである。これを(仏教者として)能事〈なすべきこと〉であると言われているからといって、必ずしも宗としてはならない。
 かと言って、「破戒し、放逸であれ」などと言っているわけではもちろん無い。 もしそのような見解を抱いたとしたら、それは邪見であり、外道である。ただ(戒律とは)仏家の儀式であり、叢林[そうりん]の家風であるから、(当然のこととして)これに随い順ずるのである。戒行持斎を宗とする者など、宋の寺院で過ごしていた時も、衆僧の中にいはしなかった。実に得道するためには、ただ坐禅工夫すること、それが仏祖の相伝である。
 そのようなことから、一門の同学であった五眼房という故葉上僧正(栄西禅師)の弟子が、唐土の禅院で持斎を固く守って『戒経』〈『梵網経』下巻〉を終日読誦していたのを、(それは誤っていると)教えて止めさせたのである」と。
 懐奘は問うた、「叢林学道の儀式は(百丈懐海の)『百丈清規』を守るべきでしょうか。だとしたならば、彼〈『百丈清規』〉には始めに受戒・護戒をもって第一とするとあります。また今の伝来相承には根本戒を授けるともあります。当家〈曹洞宗〉の口訣・面授においても、天竺相伝の戒を学人〈修行者〉に授けています。それがすなわち今の菩薩戒でしょう。その上さらに、今の『戒経』にも「日夜にこれを読誦せよ」と説かれています。何故に、これを読誦することを止めさせたのでしょうか」と。
 師〈道元〉は答えた。「懐奘の言うとおりである。学人たる者は必ず百丈の規繩〈百丈清規〉を守らなければならない。そこで説かれる儀式は、受戒・護戒・坐禅等である。昼夜に『戒経』を読誦して専ら戒を護持すべきと説かれるのは、古人の行履に従って祇管打坐すべきであるとの意味である。たとえば、坐禅している時、いったいどの戒を破っているというのであろう、どのような功徳が得られないというのであろうか。古人が行じてきた所の行履であり、すべて深い考えあってのものである。私的な意楽[いぎょう]〈思い・望み〉を交えること無く、衆〈サンガ〉に従って古人が行ってきた行履にまかせて修行していくべきである」と。

懐奘編『正法眼蔵随聞記』
[現代語訳:沙門覺應]

まず、道元が戒について前提としているのが前述した最澄のそれであり、また道元自身も戒律について相当思い違いをしているなど、根本のところで誤っています。

そのうえさらに、すでに相当に支那流を開始していた宋代の禅宗を至上のものとして学び帰国している故に、これは禅家の偏向した流儀での発言であることを知らなければなりません。

たとえば『戒経』を読誦することと持戒とが絡めて語られ、また道元がそれを戒めているのは、律についてはまったく念頭におかれず、ただ『梵網経』の所説のみを前提としているからこそのことです。

(持戒と戒本の読誦とはそもそもまったくの別物であるのが、しかし梵網戒ではそれらが混同され、「持戒と読誦」が同一のものであるのかのように説かれているのが、その理由でありましょう。)

しかしながら、であるとしても、ここで道元が述べていることはまさに真であります。

繰り返しますが、仏教において持戒がまず第一に重要であることは言を待たないことではありますが、しかし人がただひたすら厳しく持戒せんとしたならば、まさしく玩物喪志[がんぶつそうし]の愚を犯すこととなるでしょう。

「過ちて改めざる。是を過ちと謂う」と言い、あるいは「過ちては改むるに憚ること勿れ」と言うは古今東西の道理。

実際、仏教における戒律とは、まさにこれら諺に言われるような態度を人に求めるもので、それによって自身が自身を正して救い、また他を化していかんとするものです。

仏教における戒律とは決して、仏陀を唯一神の如きものとして誤解し祀り上げた上で、「ホトケ様がお決めになった取り決め、ホトケ様と我々とのお約束なのだから、その有無・是非を言わずに、我々はただただ従い守ることこそ肝要である」(と口だけで言って一つも守りはしない)などといったものでは断じてありません。

さて、僧侶を僧侶たらしめる唯一の根拠は「正規に具足戒を受け、最低限それを受持していること」であり、大乗の徒であればさらにその上に「菩薩戒を受けたもつこと」です。

それは、けだし仏陀の遺教に他なりません。

汝等比丘。於我滅後當尊重珍敬波羅提木叉。如闇遇明貧人得宝。當知此則是汝大師。若我住世無異此也。

「比丘たちよ、私が入滅した後には波羅提木叉〈戒本〉を最も尊く重要なものとして大切にし、最大の敬意を払わなければならない」
「それは暗闇の中で光明に出会い、貧しい人が財宝を得るようなものである。このように考えよ、波羅提木叉は汝らの大師であると」
「もし私が今入滅せずに久しく命を留めたとしても、波羅提木叉に説いたことに異なること(を説くこと)はないのだ」

鳩摩羅什訳『佛垂般涅槃略説教誡経』(T12. P1110c
[現代語訳:沙門覺應]

非人沙門覺應(比丘慧照) 敬識
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)

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