真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.小乗(声聞乗)の典籍に見られる戒の定義

小乗(声聞乗)における戒の定義

ここでは、諸部派における、伝統的な戒の定義を紹介しています。

古来、大乗(Mahāyāna)の立場から小乗(Hīnayāna)あるいは声聞乗(Śrāvakayāna)と言われてきた、今でいう部派仏教の内、単独の派として現存しているのは、主として南アジアならびに東南アジアに伝わって行われている分別説部(Vibbhajavāda)、いま上座部(Theravāda)などと通称されるものだけです。

その他諸々の部派は、インドにおける仏教の滅亡と滅びを共にしています。

しかし、それよりかなり以前から、主として、インドで最大の勢力を誇っていた説一切有部(Sarvāstivāda)のほとんど全ての典籍と学問・戒律の伝統が、チベットならびに支那・日本に伝わっていたために、今も大乗の基礎として学ばれています。

そこでここでは、現存している分別説部と、インドで主流であった、また大乗の基礎学として今もその伝統が生き続けている説一切有部の典籍から、仏教における伝統的な戒の定義を説く箇所の原文を抜粋し、日本語訳を付して紹介しています。

さらに、これは付属ながら、犢子部[とくしぶ](Vātsīputrīya / Vajjiputtala)の典籍と思われているものに見られる、戒の定義も紹介しています。

上座部から分立したこの部派は、輪廻の主体としてPudgala[プトガラ](補特伽羅)という霊魂のような実体を想定していたという、諸部派の教学の中でも毛色の違ったものです。そのため、この点について他部派から激しく論難されるも、比較的大きな勢力を持っていたようで、この派から多くの分流を出したことが知られています。

余談ながら、犢子部の分流の一つである正量部[しょうりょうぶ]は一大勢力をもっていたようで、七世紀中頃の東南アジアにても、設一切有部や上座部、大衆部などと共に信仰されていました。これは唐代の義浄三蔵が、その紀行『南海寄帰内法伝』にて報告しています。

(部派については、“部派仏教について”の各項を参照のこと。)

分別説部(上座部)

分別説部における戒の定義。それは、五部ニカーヤのうち、最大の分量を持つKhuddaka Nikāya(小部)に所収の、Paṭisambhidāmagga(『無礙解道』)に、比較的詳細に説かれています。

これは小部所収の典籍の特徴でもありますが、その題目の末尾に「経」などと付されていません。しかし、無論これは経蔵所収の典籍であって、仏説として扱われるものです。伝統説によれば、仏陀が説かれた法を、舎利弗尊者が広説したものであるとされています。

Kiṃ sīla nti cetanā sīlaṃ, cetasikaṃ sīlaṃ, saṃvaro sīlaṃ, avītikkamo sīlaṃ.

何が戒であるか。思(意志)が戒である。心所(智慧や慈悲など諸々の感情・心の諸作用)が戒である。律儀(制御すること)が戒である。無犯(罪無きこと)が戒である。

Paṭisambhidāmagga 39, KN
[日本語訳:沙門 覺應]

(おそらくは)この一文に対して、分別説部の無畏山寺派のUpatissa[ウパティッサ]長老は、その著『解脱道論』(Vimuttimagga)において釈を加えています。

『解脱道論』とは、『歴代三宝紀』の記録に従うと梁代の天監十四年(515)、おそらくは現カンボジア出身の僧伽婆羅によって漢訳されたものです。原典はいずこにも伝わっておらず、ただ漢訳本のみが伝わっています。ただし、その一部である頭陀品のみ、9世紀にインドからチベットにもたらされたのがチベット訳されており、それもまた今に伝わっています。

『解脱道論』の原本がいつ、そして何処で著されたのかの記録がないために、その詳細は不明です。しかしながら、現代の文献学者らは、まず年代については4世紀前後であろうなどとしています。場所に関しては、『解脱道論』の中でインドの奴隷階層に触れている点がしばしば見られる点や、セイロンの地名などには一切触れていないことから、おそらくは南インドにおいて書かれたものであろうと見られています。

さて『解脱道論』ではまず、「答云何戒者。謂思戒威儀戒不越戒」と、上に挙げた『無礙解道』と合致する(しかし心所について言及されていませんが)一節をまず引き、続いてそれに対する釈を述べています。

その注釈をここで全文紹介するのは冗長となるため、その要のみ以下に表にして示します。

『解脱道論』 にみる『無礙解道』(?)での戒の定義への注釈
戒の定義 注釈

(cetanā)
我不作悪作者自受。
(「私は悪を行わない。もし行ったらば自らその果報を受けるであろう」との意思)
威儀
(Saṃvara)
離於犯處。
(悪もしくは過失とされる行為から離れる)
不越
(avītikkama)
若有戒人身口無過。
(もし戒があれば、その人に身体と言葉の過失が無い)

つづいて戒の意義を示す一節があるので、以下に挙げます。

戒者何義。答冷義。增上義。行義。自性義。苦樂性相應義。復次頭義冷義安義。云何頭為戒義。答如人無頭。一切諸根不復取塵。是時名死。如是比丘以戒為頭。若頭斷已失諸善法。於此佛法謂之為死。是戒為頭義。何者冷為戒義。如摩勝冷栴檀。則除身熱成就歡喜。如是戒為勝冷栴檀。能滅犯戒恐畏心熱。成就歡喜。是冷為戒義。何者安為戒義。答若人有戒。風儀整肅不生恐畏。是安為戒義。

戒とはどのような意味であろうか。それには、冷の義・増上の義・行の義・自性の義・苦楽相応性の義がある。また次に、頭の義・冷の義・安の義がある。どのようなことから頭をもって戒の意味とするのであろう。それは、もし人に頭がなければ一切の根(感覚器官)は働かない。これを死と言う。そのように、比丘は戒をもって頭とするのである。もし頭を切ってしまえば諸々の善法を失う。このようなことから、仏法ではそれを(比丘の)死とするのである。これが戒を頭の義とするのである。なぜ冷をもって戒の意味とするのであろうか。勝れて冷ややかな栴檀を(発熱した箇所に)塗れば、身の熱は除かれ、喜びが生じるようなものである。そのように、戒は勝れて冷ややかな栴檀となって、戒を犯す(ことから生じる苦果に対する)恐怖という心の熱を除き、喜びを生じさせる。このようなことから、冷を戒の義とするのである。なぜ安をもって戒の意味とするのであろうか。それは、もし人に戒があれば威儀は整粛として、恐畏が生ずることがない。これが安を戒の義とする所以である。

優波底沙『解脱道論』分別戒品第二(T32, P401a
[日本語訳:沙門 覺應]

以上のように、『解脱道論』では、戒とは頭・冷・安の意味であるとしています。

さて、そしてこれに続いて、中インドはラージャグリハ(王舎城)近郊出身と伝説され、しかしある人々はスリランカ出身といい、ある人々はビルマ出身であったと主張する学僧、Buddhaghosa[ブッダゴーサ]が、南インドからスリランカにて伝わっていた諸伝承を批判的に取りまとめ、分別説部大寺派としての修道法を体系化している“Visuddhimagga”(『清浄道論』)があります。

『清淨道論』は、先に挙げた分別説部無畏山寺派の修道書『解脱道論』の構成をほとんど完全に踏襲し、また時にそこに示される見解を否定して自身(大寺派)の見解を述べる等して再編集・最構成して出来たものです。これは、5世紀中頃に成立した書です。

『清浄道論』は、この大寺派における修道法を詳細に、そして完全に規定した書です。この書を否定しては、現在の上座部などあり得ない、と言って過言でないものです。実際、この書を代表作とするブッダゴーサの経論への諸注釈書は、絶対の権威あるものとして扱われ、上座部の僧徒によって今も必ず(国によって程度がかなり異なるのですが)学ばれています。

ブッダゴーサは『清浄道論』の中で、上に挙げた『無礙解道』の戒を四種に定義する一節に対して、諸経論を引用しつつ注釈を加えています。

しかし、ここでその原文などを紹介するには少々煩雑に過ぎるため割愛し、以下その要のみを表にして挙げます。

『清浄道論』 にみる『無礙解道』での戒の定義への注釈
戒の定義 注釈

Cetanā
持戒者や聖者、あるいは殺生・偸盗・邪淫・両舌・妄語・悪口・綺語の身体と言葉における悪業から離れている者の意志。
心所
Cetasika
持戒の者、貪欲・瞋恚・邪見(痴)から離れた者の心の働き。
律儀
Saṃvara
(波羅提木叉を保つことによる)戒・(六根に対する)念・(諸々の欲望を阻止する)智・(寒暑に対する)忍辱・(欲愛が起こってもそれに頓着しない)精進の五種類による律儀、総じては悪を恐れて悪をなさない、という律儀。
無犯
Avītikkama
持戒者における、身体と言葉について違反(罪)の無いこと。

これに続き、大徳は、戒という言葉の原義について言及しています。パーリ語の原文と日本語訳を併せ以下に示します。

Kenaṭṭhena sīla nti sīlanaṭṭhena sīlaṃ. Kimidaṃ sīlanaṃ nāma. Samādhānaṃ vā, kāyakammādīnaṃ susīlyavasena avippakiṇṇatāti attho. Upadhāraṇaṃ vā, kusalānaṃ dhammānaṃ patiṭṭhānavasena ādhārabhāvoti attho. Etadeva hettha atthadvayaṃ saddalakkhaṇavidū anujānanti. Aññe pana siraṭṭho sīlattho, sītalaṭṭho sīlatthoti evamādināpi nayenettha atthaṃ vaṇṇayanti.

どのような意味によって戒であるか。それは、「(根拠となる)場」という意味によって戒である。何が、この「場」と言われるのか。あるいは、「整えること」である。身体の行為などが善なる戒によって制御される、という意味によって。あるいは、「容器」のことである。諸々の善なる法が、確たるものとなって保持されている、という意味によって。まさにここに、これら二つの意味のみを、語源に通じた者達は承認する。しかしながら、他に、「頭の意味が、戒の意味である」・「清涼という意味が、戒の意味である」という(説をなす者もあり)、このような方法によってもまた、(戒の)意味が明かされる。

Buddhaghosa "Visuddhimagga" 7
[日本語訳:沙門 覺應]

ブッダゴーサはsīla、これは戒の原語ですが、なぜsīlaが『無礙解道』にある意味でいわれるのかを説明するのに、sīlana(依って立つ場所・根拠)という言葉を持ち出しています。そしてさらに、それにはsamādhāna(整えること)あるいはupadhāraṇa(容器・保つもの)という、二つの意味があるとしています。

彼は、この様な解釈によって、なぜsīlaをいわゆるsīla(戒)としてと言うのかの説明し、その定義としています。

また、上に見たように、大徳は、このような語源的解釈以外の説として、戒を「頭」・「清涼」の意味とする説のあることをも挙げています。これは先に挙げた『解脱道論』のことを意味しているものでしょう。

しかし、これから以下に見るように、他の部派でもそのように理解していたことが知られます。そのような理解が当時のインドでは行われていたのでしょう。しかし、大徳は、彼の語源解釈からして、場と容器とを、Sīlaの意味としています。

説一切有部(薩婆多部)

説一切有部、これは往々にして有部[うぶ]と略称あるいは薩婆多部[さっぱたぶ]との音写名でも呼称されますが、この部派における戒の定義について。

それは有部の論蔵典籍の一つ『発智論』に対する注釈書である、『阿毘達磨大毘婆娑論』(『婆娑論』と略称)に詳細に説かれています。

この書は、漢訳仏典で最大の全二百巻という膨大な分量を持つもので、クシャン朝第三代王Kaniṣka[カニシカ](迦膩色迦)の援助のもと行われたという結集のおり(2世紀中頃?)、Pārśva[パールシュヴァ](脇)尊者を上首とする五百人の阿羅漢によって、まとめられたとされるものです。サンスクリット原典は伝わっておらず、しかし漢訳は玄奘三蔵によるものでその訳文は信頼がおけます。

当時の学僧諸師の見解があますことなく伝えられているという、現在でも大変重要かつ貴重な書です。

今は一応、戒の定義を、比較的まとめて説いている箇所のみを抜粋し、以下に挙げます。しかし、『大毘婆娑論』が戒について論じているのは、他の箇所でも散見され、これが全てではありません。

契經説戒。或名尸羅。或名爲行。或名爲足。或名爲篋。言尸羅者是清涼義。謂惡能令身心熱惱。戒能安適故曰清涼。又惡能招惡趣熱惱。戒招善趣故曰清涼。又尸羅者是安眠義。謂持戒者得安隱眠常得善夢故曰尸羅。又尸羅者是數習義常習善法故曰尸羅。又尸羅者是得定義謂持戒者心易得定故曰尸羅。又尸羅者是遂蹬義。如伽他説
佛法池清涼 尸羅爲*遂蹬(*土+遂)
聖浴不濡身 逮彼岸功徳
又尸羅者是嚴具義。有莊嚴具於幼爲好非壯老年。有莊嚴具於壯爲好非幼老年。有莊嚴具於老爲好非幼壯年。尸羅嚴身三時常好。如伽他説
尸羅嚴身具 幼壯老咸宜
住信慧爲珍 福無能盜者
又尸羅者是明鏡義。如鏡明浄像現其中。住浄尸羅無我像現。又尸羅者是階陛義。如尊者無滅言。我蹈尸羅階升無上慧殿。又尸羅者是増上義。(中略)又尸羅者是頭首義。如有頭首。即能見色聞聲嗅香甞味覚触知法

契経に戒を説けり。また(戒は)尸羅[しら]とも言われる。あるいは行と言われ、あるいは筺[きょう]とも言われる。尸羅とは、清涼[しょうりょう]を意味する。なぜならば悪は身体と心とに苦しみをもたらすが、戒はこれらを快適にすることから、清涼と言われる。また悪行はまた地獄・餓鬼・畜生の苦しみの境涯への再生をもたらすが、戒は人間あるいは神々としての再生をもたらすから、清涼という。また尸羅とは、安眠を意味する。持戒の者は、安らかな眠りに就くことが出来、常に善い夢をみるために、尸羅といわれる。また尸羅とは、数習[さくじゅう](繰り返し行うこと)を意味する。常に善なる教えを修めるために、尸羅といわれる。また尸羅とは、得定[とくじょう](禅を得ること)を意味する。持戒の者は、心が軽やかで禅定を容易に得るために、尸羅といわれる。また尸羅とは、遂蹬を意味する。(以下の)偈頌に説かれている如しである。
仏法という池は清涼である、尸羅を「つまづき落ち込むこと」となす。
聖者は(この池の水に)浴してしかも身を濡らさず、彼岸の功徳を得る。
また尸羅は荘厳具を意味する。この飾りが若者をして良き若者たらしめる。この飾りが壮齢の人をして良き壮齢の人たらしめる。この飾りが老年の人をして良き老年の人たらしめる。尸羅は朝・昼・夜も常に身を飾る。(以下の)偈頌に説かれている如しである。
尸羅は身を飾って、幼年・壮年・老年のすべての人々に好ましく、
信仰を維持して智慧を尊ぶ。その福徳を盗める者は存在しない。
また尸羅とは、明鏡の意味である。鏡がその中にはっきりと像を写すようなものである。浄尸羅を持って揺るがせにしないならば(人はその心に)無我の像を現す。また尸羅とは、階梯の意味である。尊者の言葉が無滅しても、我々は尸羅という階梯を踏んで、無上の智慧の宮殿に入るようなものである。また尸羅とは、増上の意味である。(中略) また尸羅とは、頭首の意味である。頭首があるからこそ、(人は)物を見、音を聴き、臭いを嗅ぎ、味を見、触覚を感じ、モノを知ることが出来るようなものである。

『阿毘達磨大毘婆舎論』第四十四(T27. P229c-P230c
[日本語訳:沙門 覺應]

『婆娑論』では、まず最初に、戒を「行い」あるいは「筺」の意であるとしています。

これはすでに前項”戒とは何か”で見たように、戒の原語śīla(尸羅)という言葉の語源解釈によるものでしょう。続いて、これは仏教としての戒の意義を表すものとして、清涼・安眠・数習・得定・遂蹬・荘厳具・明鏡・階梯・増上・頭首などを列挙し、戒を定義しています。

ブッダゴーサが『清浄道論』の中で言及している、戒を清涼あるいは頭の意味とする説を言う者とは、あるいは説一切有部について言及したものであるかもしれません。また、5世紀当時にはこのような説が世間で一般的であったのでしょうか。

いずれにせよ、ここに挙げられた戒の定義・意義は、語源的ならびに経説からそのように解釈されたものです。

また、『婆沙論』の所説を非常によくまとめ、そして時として、特に経量部の立場からこれを批判的に論じている世親菩薩による『阿毘達磨倶舎論』において、説一切有部の戒の定義を説く一説があります。

頌曰
離犯戒及遮 名戒各有二
非犯戒因壞 依治滅淨等
論曰。諸不善色名為犯戒。此中性罪立犯戒名。遮謂所遮非時食等。雖非性罪而佛為護法及有情別意遮止。受戒者犯亦名犯戒。簡性罪故但立遮名。離性及遮俱說名戒。(中略)有餘師説。戒有四種。一怖畏戒。謂怖不活惡名治罰惡趣畏故受護尸羅。二希望戒。謂貪諸有勝位多財恭敬稱譽受持淨戒。三順覺支戒。謂爲求解脱及正見等受持淨戒。四清淨戒。謂無漏戒。彼能永離業惑垢故。

本頌にてこのように言う、
犯戒と及び遮とを離れることを、戒と名づけ、それぞれに二種ある。
犯戒と因とに壊されないことと、治と滅とに依って、清浄となる等である。
(この本頌について)論じていく。諸々の不善の色を名づけて犯戒とする。これについて、性罪に犯戒との名を付すのである。遮とは何かといえば、(仏陀が)禁じられた非時食などである。(遮をは)性罪では無いとはいえ、仏陀が法ならびに有情を護るために、(性罪について戒を制されたのとは)別の意図によって、禁止されたものである。受戒した者が(その受けた戒を)犯したのについても犯戒と名づけるけれども、(ここでは)性罪というものを明確にするために、ただ遮との名を付したのである。性罪ならびに遮罪から離れることの双方について戒と名づけると説く。…(中略)…その他の師には、このような説をなす者もある。「戒に四種がある。一には怖畏戒。それは何かといえば、経済について困窮することと、悪名が広まること、罰せられること、悪趣に死後転生することに対する恐怖を動機として、尸羅(戒)を受護することである。二には希望戒。それは、来世の善趣へ転生することと、より高い地位を得ること、多くの財産を獲ること、尊敬・名誉を受けることへの欲求を動機として、浄戒を受持することである。三には順覚支戒。それは、解脱ならびに正見などを求めて浄戒を受持することである。四には清浄戒、いわゆる無漏戒である。彼(仏陀・辟支仏・阿羅漢)は永く業と惑[煩悩]との垢を離れるためである(聖者の威儀が自然として善に従い、戒を犯すことが決してないのである)。」

世親菩薩『倶舎論』卷十八 業品第六(T29, P97b-c
[日本語訳:沙門覺應]

今挙げた一説では、有部独自の阿毘達磨に深入りすることを避けるために中途半端な中略をしたのですが、ここで最後に挙げられている有餘師説すなわち正統説ではないけれども有力な(?)説には、戒を受けるその動機によって、戒を四つに分類しています。

これは、当時の世間の人々の傾向を分類したものと言えるでしょうが、まったく現在の仏教徒にも当てはまることのようです。人には恐怖、恐れに依って戒あるいは道徳を守り、あるいは自らの世間的利益獲得のため、または出世間の悟りを求めてなど、人によって戒を何故守るかの動機は様々です。

現代では、宗教が人の恐怖心を利用して改心させようとすることを総じて悪と考えているような傾向があるようです。恐怖や不安というものは怒りと直結した感情であり、実際いたずらに人の恐怖心を煽り立てることによって、宗教ビジネスを行っている輩が世間には確かに、そして多く認められます。その意味では確かに悪です。

また、いたずらに何でも不安がって、安心を軽薄に、そして性急に求める人々の性質も、その故にこそ宗教ビジネスが成立するのでしょうが、困ったものです(これは日本人に多く認められる性質と言えるでしょう)。

しかし、畏れを持つこと、畏れを知ること自体、決して悪いことではありません。方向さえ確かであれば、畏れを知ること、畏れを持つことは、人に必要なことです。

仏教ではどれほど小さなものであっても罪に畏れを見る、あるいは悪趣に転生することだけではなく、またどのような境涯であれ転生を繰り返すことを真に恐るべきものとして見るのは、賢者・聖者であってこそ出来ることであるなどとも言われます。

故に、清浄戒は別に置くとして、どれが最も良いと一概に言えるものではありません。

犢子部

『三宝度論』、ここに犢子部における戒の定義を見ることが出来ます。と言っても、この典籍が犢子部のものと言われるようになったのは近年のことで、この書の存在は古来知られていたものの、伝統的なこの書の位置づけがどうであったかは不明です(調べていません)。

しかし、今は一応、この書を近年の説に従って犢子部のものとしています。

戒者正語業命。正語正業正命是三種名戒。正語者。離兩舌惡口妄言綺語。正業者。離殺盜婬。正命者。比丘僧食乞食衣藥具。是正命餘邪命。優婆塞離五業。刀毒酒肉衆生。是謂正命。

戒とは正語業命である。(八正道のうちの)正語・正業・正命の三種を戒と名づける。正語は、他者同士を争わせるように仕向ける言葉、誹謗・中傷あるいは粗暴な言葉、虚言、世間話やくだらない会話など無駄口をしないことである。正業は、故意に生命を殺傷すること、性行為、故意に自分に与えられていない物を自分の物とすることをしないこと。正命とは、比丘僧の場合は食・衣・薬などを在家から給されて生活すること、これが正命であってその他は邪命である。在家信者の場合は、武器・毒・酒・肉・生き物などを製造あるいは販売する職業に携わらない、これを正命という。

山賢『三法度論』巻上(T25. P18b
[日本語訳:沙門 覺應]

ここでは、戒の語源解釈や原義などに一切触れることはなく、ただ「戒とは正語業命」であると八正道のうちの三支、正語・正業・正命に即して定義しています。そしてそれは、不殺生・不偸盗・不(邪)婬・不両舌・不悪口・不妄語・不綺語・不邪命であると、具体的に述べられています。

このような定義、戒の位置づけは、分別説部にも説一切有部にも、また以下に見るように大乗にても見られるものです。さらにまた、邪命とは何を言うかについても言及していますが、これもまた、通仏教のものと言えます。

冒頭触れたように、犢子部はサンスクリットでpudgala[プトガラ]という輪廻の主体の存在を想定し、主張していたことで知られている部派です。

プトガラとは、一般的には「人」・「個人」を意味する言葉なのですが、ここからその「個人」を成り立たせる実体的なモノの名としたのでしょう。

しかし、これはほとんどバラモン教などがその存在を主張し、仏教がその非存在を主張したĀtman[アートマン](我)と同じようなものです。その点、諸部派の教義の中でも異色のもので、故に激しく論難されたのですが、上に挙げた戒の定義に関して言えば、まったく異色と言うことはありません。

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2.大乗(菩薩乗)の典籍に見られる戒の定義

『大智度論』における戒の定義

大乗における戒の定義を挙げるに際し、『大智度論』の所説を、漢語仏教圏における伝統説として支持し、その原文を引用。現代語訳を併記します。

『大智度論』とは、全百巻におよぶ龍樹菩薩によって著された『摩訶般若波羅蜜経』の注釈書で、『法華経』など幾多の仏典の翻訳僧として著名な鳩摩羅什によって漢訳されたものです。

『大智度論』との書名は、『摩訶般若波羅蜜経』のサンスクリット原典名"Mahāprajñāpāramitā Sūtra"のそれぞれの語、摩訶(mahā)を「大」、般若(prajñā)を「智」、波羅蜜(pāramitā)を「度」と逐語訳したもので、その注釈書であるから「論」としてあります。なおサンスクリット原典は、現存していません。

著者の龍樹菩薩とは、南インドはバラモン階級出身の人で、サンスクリットNāgārjuna[ナーガールジュナ]の漢語名です。蛇(特にコブラ)あるいは象を意味するNāga[ナーガ]を龍に、樹木の名であるArjuna[アルジュナ]を樹と漢訳した名です。

また、龍樹には、龍猛[りゅうみょう]との漢訳名もあります。これは、Arjunaはまた、古代インドの大叙事詩"Mahābhārata"(『マハーバーラタ』)に登場する勇敢な王子の名でもあるのですが、これにちなんで「猛」と漢訳されたものです。龍樹菩薩と呼称するのは、多くの優れた大乗の論書を著し、「八宗の祖」とすら讃えられる、龍樹という偉大な論師に対する敬意からです。

この『大智度論』は、古来漢語仏教圏における最も権威ある、いわば大乗そのものの綱要書の一つとして用いられてきたものです。

龍樹菩薩は、『摩訶般若波羅蜜経』の注釈をしていく中で、諸部派(主には、インドにて最大勢力を誇っていた説一切有部)の見解を踏襲し、それを包含あるいは批判しつつ、声聞乗(小乗)や外道の者からの質疑に答える問答体で、大乗の見解を明らかにしています。

ここで一つ言えるのですが、大乗を理解するときに重要であるのは、龍樹菩薩がそうしたように、声聞乗の見解を前提とすることです。阿含経典の説、部派の阿毘達磨無しには「大乗の見解」など成り立たず、また理解することは難しいでしょう。

古来、支那から日本において、三論(中観)・法相(唯識)・天台・華厳・密教・禅・浄土など宗派を問わず、大乗を学ぶ者であれば、小乗部派のうち特に説一切有部の阿毘達磨の綱要書と言える『倶舎論』、そしてこの『摩訶般若波羅蜜経』の注釈書たる『大智度論』は必読書の一つです。実際、大変多くの高僧達がこの書を引用しています。

尸羅秦言性善好行善道不自放逸。是名尸羅。或受戒行善或不受戒行善。皆名尸羅。尸羅者。略説身口律儀有八種。不惱害不劫盜不邪婬不妄語不兩舌不惡口不綺語不飮酒及淨命。是名戒相。若不護放捨。是名破戒。(中略) 若人求大善。當堅持戒如惜重寶。如護身命。何以故譬如大地一切萬物有形之類。皆依地而住。戒亦如是戒爲一切善法住處。

śīla[シーラ]秦では性善というとは、すすんで善道を行い、みずから勝手気ままにしないことである。これをシーラと言う。あるいは戒を受けて善を行い、あるいは戒を受けずとも善を行うのもすべてシーラと名づける。シーラとは、要略して言えば身体と言葉の行いの律儀であってこれに八種ある。(生きとし生けるものを)殺傷しないこと。他者の所有物を勝手に自分のものとしないこと(盗まないこと)。不適切な性行為ならびに不適切な性関係を結ばないこと。偽りの言葉を語らないこと。他者を仲違させることを言わないこと。粗暴な言葉を発しないこと。無駄な言葉を発しないこと(くだらない会話をしないこと)。飲酒しないこと。および、健全な経済活動を送る(屠殺業・漁業、人身や家畜の売買業、武器の製造・販売業あるいは売春などの職業以外に就く)こと。これらを戒相(戒の具体的な条項)と名づけ、もしこれらを守らず好き勝手したならば、これを破戒と名づける。(中略)もし人が、大いなる善き利益を求めるならば、まさに堅く戒をたもつことは、貴重な宝を惜しむように、我が身の生命安全を護るようにしなければならない。なぜならば譬えば大地の一切の物、形ある物の類は、すべて大地によって存在する。戒もまたそのようなものである。戒はあらゆる善法の拠って立つ所となるからである。

龍樹菩薩『大智度論』巻十三(T25. P153b
[日本語訳:沙門 覺應]

このように、『大智度論』では、戒とは「すすんで善道を行い、みずから勝手気ままにしないこと」です。ただあれこれ我慢して止めるようにする、などというのではなく、すすんで善道を行うことも戒であると言います。ここに言う善道とは、十善あるいは仏道そのものと見てよいでしょう。

そしてまた、具体的に五戒や八斎戒・十善戒として説かれている戒を、自ら誓い、あるいは比丘から授けられるなどして受けていなくとも、ここに挙げられた条項に抵触しないよう生活することが、「戒」であるともされています。

非人沙門覺應(比丘慧照) 敬識
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)

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