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1.八戒とは

不邪命戒

八戒は、在家信者に説かれる八つの戒で、五戒から不飲酒戒が除かれて、これに四つの戒めが加えられたものです。といっても、解釈の上では、飲酒戒は第八戒に包含されるのであって、除かれているのでは無いとされます。

八戒とは普通、次の項にて説明している八齋戒[はっさいかい]・布薩戒[ふさつかい]を言います。しかし、今ここに「八戒」として紹介しているものの原語は、パーリ語のĀjīvaṭṭhamaka sīla[アージーヴァッタマカ シーラ]で、それらとは異なるものです。これには、漢訳経典に該当する語がありません。

そこで、これが八つの項目からなることから、今は便宜的に八戒としています。もっとも、原語をそのまま訳したならば、Ājīva(生活)+aṭṭhama(第八)のsīla(戒)。漢語で言えば、八命戒あるいは八正命戒といったところのものです。

また、この戒はĀdibrahmacariya sīla[アーディブラフマチャリヤ シーラ]と言われることもあります。意味は、「根本の清らかな行為たる戒」・「最初に行うべき崇高な行いの為の戒め」。漢語で言うならば、本初梵行戒[ほんしょぼんぎょうかい]となるでしょうか。

もっとも、この語自体はパーリ語で伝えられた分別説部(上座部)の三蔵に直接見られるものではありません。パーリ三蔵を所依とする部派の教学の根幹をなす書である、Visuddhimagga[ヴィスッディマッガ](『清浄道論』)において言われるものです。

また、先ほど述べたように、漢訳経典や律蔵にも、これに直接該当する語は見あたりません。しかし、㸿子部[とくしぶ]の論書と言われる『三法度論[さんぼうどろん]』、大乗では『摩訶般若波羅蜜経』の注釈書『大智度論』における戒を定義する一説に、これとまったく同様の戒相が挙げられています。そこでは、この八戒を以て根本的な戒、戒の本質である、としています。

戒学-正語・正業・正命-

さて、その八戒とは、以下の内容のものです。

八戒 戒相
No. 戒名 戒相(抄)
1 不殺生戒 いかなる生き物でも、故意に殺傷しない。
2 不偸盗戒 故意に他者の所有物を我が物としない。
3 不邪淫戒 売買春、不倫しない。不適切な性関係を、誰であれ結ばない。
4 不妄語戒 偽りの言葉を語らない。
5 不両舌戒 二枚舌を使わない。離間語・陰口を言わない。
6 不悪口戒 他者を誹謗・中傷しない。荒々しい言葉を使わない。
7 不綺語戒 噂話・世間話など、無駄口をたたかない。
8 不邪命戒 「非法」の職業・生業に従事しない。

以上のように、八戒は、五戒と比べると、口業(語業)すなわち発言についての行為をより詳しく戒めています。第八戒に、邪命つまり非合法ならびに「非法」の職業に従事しないことを挙げている点が特色です。

小乗・大乗諸派の伝統教学において、戒の本質は正語・正業・正命である、と言われます。実際、仏教修道の根幹をなす八正道[はっしょうどう]のうち、正語・正業・正命は、戒・定・慧の三学でいうならば戒学に配当されています。ちなみに正見・正思惟は慧学、正念・正定は定学に配当されます。

ここに挙げた八戒とは、五戒をより詳しく説いた戒(五戒が八戒をまとめたものとの見方も可)であり、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道のうち、正語と正業と正命とを実現するための、在家信者のための戒です。

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2.邪命 ―よこしまな職業・生業

在家者の邪命

邪命、それは仏教が定義するところの、涅槃を求める者ならば離れるべき、邪[よこしま]な職業・生業・生活手段を意味します。

では、その邪命とは具体的になにを指すか。まず、それぞれの国・地方で禁じられている非合法の職業・生活手段は、世界には理不尽な法律を布く国があるため一概に言えませんが、一般的な意味で邪命だと言えるでしょう。しかしなんと言っても、五戒の一々に抵触する職業、十善に対する生業は、邪命です。

たとえば、やくざなど暴力組織・暗殺業・武器の生産業ならびに販売業・屠殺業や、人を含む生き物の販売業、殺傷目的の毒薬や麻薬あるいは酒の生産業と販売業など、これらは不殺生戒あるいは不飲酒戒に抵触するもののため、邪な職業です。

また、盗賊や詐欺師は当然のことながら、事実と著しく異なる説明によって物を販売し、購入者に著しい損失を与える商売は、不偸盗戒または不妄語戒に抵触するため、邪な職業です。売春など性風俗やその斡旋に関係する職業、これらは不邪淫戒に抵触。

当然ながら、売春婦など淫売屋、ポン引きなどいわれる売春斡旋業も言うまでもなく邪な職業です。また、賭博の類から得た収入によって生活することも邪であるとされます。

この反対に、邪ではない職業、正しい職業とはなにか。もちろん上記を除く、五戒に触れない職業・十悪に反しない生活手段は、すべて正しいものです。

しかし、もし、五戒などに直接触れないようでも、その職が自分で正しいとは思えず、疑問を持つようなものであれば、自身の意志と努力で転職すればよいでしょう。

職は道たりえる

自らとその家族を養う手段であり、また同時に自分を高める場ですらもあり得る職業を、仏教徒として選ぶこと。職業選択の自由があり、また自分にその意志と機会があるならば、正しい職に就き、八戒を実践することは素晴らしいことです。

なんとなれば、在家者であっても、その職に熱心につとめることが、とりもなおさず八正道の実践につながるのですから。

現実に、邪命とされる職業など世の中に五万とあり、程度の差こそあれ、それらは誰かに必要とされるからこそ存在しています。そして、一般に人気のある職業、それは高収入であることが多いようですが、それらに就くには、学歴・能力・運や時として家柄など、いずれも高いものが要求されるでしょう。そのような社会の中で、自身が就きたい職業に就く、やりたいことだけやるなど、相当に困難なことであるでしょう。

よって、これは必然的にそうなるのでしょうが、自身がやりたくもない職業に就き、多くの不満を抱えつつも、しかし食べていくためにやむなくその職業に就いているという人が、社会にはほとんどのように思われます。

人は、出来ることしか出来ません。もっとも、その出来ることをすらやらないのが人、というものかもしれません。

また、人にはいかんともし難い生まれながらの境遇、持って生まれた能力や運、また不可逆の年齢・老いがあります。仕事についてだけではなく、たとえ望んだとしても叶わないことがむしろほとんどで、故に人生は苦しみの連続です。人生において、それぞれ人によって選択支の多少もあるでしょう。

しかし、それを呪ってみても何も始まりません。自分の能力や現実以上のものを高望みし、現状に不満ばかりを感じていても意味はありません。

仏教徒には、出家者として生きるか、在家者として生きるかの選択支があります。いずれの道も、それぞれの意味で困難な道です。どこにも安楽な道などありません。在家者として生きるならば、戒を受け保つかどうか、その選択はすべて自分が行わなければなりません。

当たり前のことですが、出家するにしても、その決意をするのはやはり自分自身です。

何事も人任せにせず、人のせいにもせず、自分が選択し決意し、それぞれの立場に応じてすべきことなし、その分に応じた生活、人生を送る。その選択を正しいものとするか悪しきものとするか、それは全て自分の問題です。

仏陀は涅槃に至る道を開き、またその道程を詳しく残されました。いずれの道を生きるか、それぞれの道にはまた多くの分岐点があって、人は常に選択しなければなりません。その道を選択すること、それは自身の人生をどう生きるかの問題であり、自分自身が決めるべきことです。

出家者の邪命

以下余談になりますが、では出家者の邪命とは何か。それは、四邪命あるいは五邪命とまとめて言われます。

まず人が出家して比丘となる受戒式のとき、戒を受け終わって必ず言い聞かせられる、律蔵に規定された比丘が離れるべき四つの食を得る方法(生活手段)、四邪命について。その四つとは、下口食[げくじき]・仰口食[ぎょうくじき]・方口食[ほうくじき]・四維口食[しいくじき]です。

下口食とは、薬を調合するなど医療、穀物や木を植えるなど農業によって、食を得ること。次に、仰口食とは、星の運行など自然の諸現象を観察することなどによって、食を得ること。方口食とは、有力者など富裕層に近づいて、彼らの為に便宜を図ったり、彼らに甘言・巧言して自らの利を計ったりすることによって、食を得ること。最後の四維口食とは、諸々の呪術・占術・吉凶の呪いを行うことによって、食を得ることです。

つぎに五邪命について。一つは、普段の自分を隠し、さも高い徳があるかのように振る舞うなどして、在家信者の信を得、食を得ること。二つには、自分がもつ神通力や特殊な力、あるいは徳を在家信者にひけらかし、食を得ること。三つには、占術や人相占いを行って、食を得ること。四つには、人々に対して大声を出したり恫喝するなどして、食を得ること。五つには、人々に甘言・巧言して布施させるように仕向けること、これらを五邪命といいます。

これは説一切有部の論蔵の注釈書、『大毘婆娑論[だいびばしゃろん]』に説かれるものです。

比丘 ―食を乞う者

では反対に出家者の正命・浄命とは。

それは、まず第一には、晴天雨天や気温の寒暖を問わず、三衣をまとって鉄鉢を持ち、朝に町や村を巡って、その日の食を托鉢によって得ることです。また、在家信者からの食事の招待を受けること。あるいは寺院に、布施として持ち込まれた料理を食すことによって、生活することです。

そもそもまず、比丘はみずから料理などしてはいけません。また、寺院内・精舎内で料理したものを食することも戒律違反となります。

また、日本ではしばしば、正午以降、夜においてすら街頭に立って托鉢をする僧形の者がありますが、托鉢は午前中のみすることであって、それは戒律違反の非法行為となります。

仏陀はその最後の出家修行者に対する説法の中で、「清浄に自活せよ」と重ねて遺戒されています(『仏遺教経』)。ここでいう清浄とは、漠然と「清らかに」などという意味ではなく、具体的に仏陀によって定められた律の規定に違反しないことです。それは、農耕などによる労働・生産活動や動産・不動産の資産運用など、上に挙げた四邪命・五邪命などから離れた生活です。

一般に、支那の禅宗から行われ出した自給自足の生活を、日本でも良しとする風潮がありますが、それは実は仏教の修行者としては非法・破戒のものです。

ゆえに仏陀が説かれた自活とは、一般的な意味でのそれとは大きく異なります。

それは、仏教の出家修行者は常識的な意味と真反対に、経済的には「全面的に在家信者に依存しなければいけない」、ということを意味します。戒律を厳しく守ることは、その為の絶対条件です。戒律を守っているからこそ、比丘は比丘たり得、また在家信者からの布施を受けることが出来ます。

故に仏教の修行者をして、比丘[びく]、これはサンスクリットBhikṣu[ビクシュ]またはパーリ語Bhikkhu[ビック]の音写語ですが、「(食を)乞う者」と言うのです。

比丘は、そのような方法で得た食事を午前中にただ一度取り、ただひたすら道を修めていきます。

(比丘についての詳細は“仏教徒とは何か”あるいは“比丘”を参照のこと。)

非人沙門覺應(比丘慧照) 敬識
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)

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