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1.戒とは

七仏通誡偈

パーリ語
Sabbapāpassa akaraṇaṃ, Kusalassa upasampadā
Sacittapariyodapanaṃ, Etaṃ buddhāna sāsanaṃ.
漢語
諸悪莫作 衆善奉行
自浄其意 是諸仏教

日本語訳
すべての悪しきをなさず、善を行い、
自分の心を浄める。これが諸々の仏陀の教えである。

Dhammapada, Buddhavaggo 183.
『増一阿含経』(T2, P551a

冒頭挙げた偈文[げもん]は、大乗小乗問わず用いられる、「仏教とは何か」を最も端的に表す、と言われる言葉の一つです。これは、漢語仏教圏においては、釈尊以前に現れた六人の仏陀も皆等しく同じ教えを説かれたということから、「七仏通誡偈」と呼称されます。

まずあらゆる悪をなさぬように勤め、実際にこれをなさず、そして諸々の善を行うように努め、現実にこれをなす。その過程で、そしてその結果として、自分の心を清らかにしていく。これが誰であれ仏陀となった者が説かれた、そして説かれる教えです。

ではどのように、まず悪をなさぬように勤めるのか。

それは、戒を修めることに依ります。

防非止悪

戒とは、「置く」や「保つ」を意味する、サンスクリットあるいはパーリ語の√sīl[シール]から派生したという、サンスクリットśīla[シーラ]あるいはパーリ語sīlaの漢訳語です。その意味は、原意の「場所」や「入れ物」から転じた、「習慣」あるいは「行い」を指します。漢訳仏典の中では、時としてこれをただ音写した、尸羅[しら]という言葉が用いられることがあります。

仏教では、戒とは「防非止悪[ぼうひしあく]」のものである、と言われます。

それは、日常の我々の行動を、非道や悪から遠ざけようとする、出家者である僧侶も在家信者も共に保つべき、日常での具体的ないわば「心がけ」です。そしてその心がけによる「行い」によって、原意通りに、やがて「習慣」とすべきものです。

戒は、まず自分や他者に苦しみをもたらす、なんらか悪しき行為を止めることによって、善なるあり方に近づく事を目的とします。

戒は、その人の立場に応じた何種類かが仏典に説かれています。戒とは、先に日常の心がけである、と述べましたが、それは日々につとめて守ってこそ初めて意味があるもので、基本的には一時期だけ、一日だけ守って意味があるものではありません。

三学-悟りへの階梯-

仏教ではその実践において、戒[かい]・定[じょう]・慧[え]の三学[さんがく]ということが言われています。これはそれぞれ、「戒めを持って日々生活」した上で「冥想(特に止の冥想)」し、その中で「ものごとの真なるありかたを知る智慧(観の冥想)」を修める、という実践に於ける段階をいうものです。

これを例えるならば、「戒とは大地」であり、「定とは大樹」であり、「慧とはその果実」です。

大地がなければ樹が根付くことも、その実がなることもありえません。よって当然の事ながら、戒を保った生活をしていなければ、冥想において心の安定が得られず、よって智慧も得られません。戒というものが、仏教に実践においてもっとも重要であることは、このような実践段階が設けられていることから言えます。

在家信者であれば戒を、出家修行者は戒と律とを実践し(その上で冥想し)ていなければ、いくら「私は仏教をこそ信仰し、熱心に修行しています」などといっても、それは世迷い言になってしまうほど、戒を実践することは、重要かつ根本的事項です。戒の実践なくしての冥想、戒の実践なくしての仏教理解などありえません。

(関連コンテンツ”止観とは何か”)

自発的にこそ

戒は、律とは異なって、あくまで自発的な決意に基づいた、日常における行為の原則・指標となる心がけです。よって、これを犯したからといって、何らかの罰則を他者から与えられるということは基本的にありません。戒は、自らの決心によって守っていこうと努力し、実際に守っていくことに意味があるものです。

よって、戒を守るにあたっては、「なぜ~をしてはいけないのか」を、他者から「ダメなものはダメなのだ」、「お釈迦様が守れと言ったから守れ」などと言われて訳もわからず行うのではなく、本人が十分に納得したうえで行うのが一番です。

しかし、現実には最初はよくわからなくとも、戒を実際に守って生活している中で気付く、ということこそ多々あります。いや、最初から納得ずくで行える人などほとんどないでしょう。実際には、努力して実践していくうちに気づくという場合がほとんどでしょう。

「心がけ」というと軽くなる

戒は、自発的に行われるべきものです。いやいや実行するもの、人から強制されて行うものではありません。

しかし、さて、これは言葉上の問題ですが、日本語でsīla(戒)を「心がけ」と言ったのでは、現代の語感として、いささか軽いかも知れません。

いや、「いささか」ではなく、現代日本人にはお軽い、都合でどうにでもなってしまうものとの響きをもったものとなってしまうでしょう。無論、「そうか、戒は心がけか。ならば、まぁたまには別にいいじゃないか」などというものでは、sīlaは決してありません。

戒とは、現実に、実際の行動の中で行われるものであり、そして示されるものです。頭のなかであれこれ考えるだけ、心の中でいろいろ思うだけでは、何の役にもたたないでしょう。

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2.様々な戒

五戒-在家仏教徒の基本的戒-

仏教徒としてもっとも基本的な戒は、不殺生[ふせっしょう]・不偸盗[ふちゅうとう]・不邪淫[ふじゃいん]・不妄語[ふもうご]・不飲酒[ふおんじゅ]の五戒[ごかい]です。

(詳細は”五戒”を参照のこと。)

なぜ、これが基本的な戒かと言えば、人が個人的・社会的の両面から正式な仏教徒となるには、僧侶あるいはひとり仏前で、仏法僧の三宝を信じるという誓いの言葉である「帰依仏 帰依法 帰依僧」という三帰依文[さんきえもん]とこの五戒を、それぞれ三回繰り返し唱え、それを守るべく努力することを宣言しなければならないからです。もちろん、これは誰かから強制されてでなく、自らが進んでそうしたいという人こそが宣言すべきものです。

しかし、仏教徒となって戒を守ろうとする人の職業によっては、たとえば漁師・農家・娼婦・酒造家、屠殺業従事者など、どうやってもこの五戒のいずれかを守ることが不可能な場合があります。その職業に精を出せば出すほど、戒を破ることにつながる、などということも起こりうるのです。ではそのような場合、なんらかの制限があるかといえば、「ありません」。

戒を守る守らないは、あくまで本人の問題です。

もし、自分は戒を守って真剣に仏教を実践してみたいが、職業上どうしても、例えば生き物を毎日殺生しつづけなければならないのが苦しい、と悩むのであれば、その職業を放棄して異なる職業に従事すればいいでしょう。

実際、釈尊が生きておられたインドにおいても、その熱心な信者の中には、当時大変に有名であったというアンバパーリーという名の高級娼婦がありました。

いくら高級であったとしても、彼女は娼婦・淫売であり、邪淫戒を守ることなど職業上不可能です。しかし、それでも五戒を受け、熱心に釈尊の説法を聞き、さかんに供養を行っていたといいます。そして、彼女は結局娼婦をやめ、出家して比丘尼となって、高い悟りを得ています。

自分の人生です。

ある程度以上の自由が認められている社会においては、どう生きるかを決めるのは、あくまで本人です。その自由のない社会、全く理不尽な差別や強要がまかり通る社会、あるいは自由な社会に生まれていながらその自由・ 選択支のほとんどない境涯に生まれた人々も、世界には大変多くあります。よって、人であるというだけで、皆が皆、同様の事が出来ることなど、ありえません。

しかし、それでも結局、自分の人生を歩むのは自分自身です。

もっとも、五戒を受けなくとも、三帰依するだけで仏教徒になることは可能と言えるのですが、仏教諸国では現実に五戒は仏教徒には必須のものですので、ここではこのように説明しています。実際、最低でもこの五戒を可能な限り守っていこうとの意志がなければ、仏教などただの戯れ言になってしまいます。

八斎戒・十善戒

さて、五戒以外にも、これに出家者的な要素を加えた、月のうち定められた六日間に守ることが推奨される、八斎戒[はっさいかい]と、身体的行為だけを戒める五戒に、精神的行為への戒めを含めた十善戒[じゅうぜんかい]とがあります。

十善は、小乗・大乗ともに説いているものですが、小乗の中で派として唯一現存している上座部では、実際として「十善戒」を説くことはありません。十善は、『大智度論[だいちどろん]』において「十善を総相戒とす(十善はもろもろの戒すべてを内包するものである)」と位置づけられ、また、密教経典『大日経』では密教行者の保つべき重要な戒として説かれているなど、特に大乗で重要視されている戒です。

また、十善戒は、十善業道[じゅうぜんごうどう]とも言われ、「悪を為さずにいようとの十の善き心がけ」または「悪を為さないという十の善なる徳目」と言えるものです。「悪をなさないように勤めることが善である」というのが、十善戒です。

(詳細は”五戒”・”八斎戒”・”十善戒”を参照のこと。)

菩薩戒

この他に、大乗を信仰し、利他という他者に対して絶対的な献身が要求される菩薩行を志す者には、大乗戒あるいは菩薩戒などと呼称されるものが、数種類説かれています。

菩薩戒は、大乗の経典や論書の中で説かれているのですが、支那・朝鮮・日本に於いて最も代表的であったものとしては、『梵網経[ぼんもうきょう]』に説かれる梵網十重四十八軽戒[ぼんもうじゅうじゅうしじゅうはちきょうかい]を挙げることができます。

(詳細は”十重禁戒”を参照のこと。)

さらに大乗戒で有名なものを挙げるとすれば、法相唯識の重要な論書で、弥勒菩薩が説かれたという『瑜伽師地論[ゆがしじろん]』に説かれているものをまとめて言う、瑜伽四重四十三軽戒[ゆがしじゅうしじゅうさんきょうかい]。

または、戒と律とを統合して一つの体系として捉える三聚浄戒[さんじゅじょうかい]。『大日経』等の密教経論に依拠する密教行者の戒である、三摩耶戒[さんまやかい]を挙げることが出来ます。

非人沙門覺應(比丘慧照) 敬識
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)

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