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養老律令とは |  「第三 僧尼令」対訳

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1.養老律令について

養老律令とは

律令[りつりょう]とは、支那に始まった、国家の基本法です。律[りつ]は刑罰について、令[りょう]は一般行政についての規定です。これに補足・追加した法令を、格[きゃく]・式[しき]と言います。

律令制を布く国家は本来、天子(皇帝)を頂点とし、科挙[かきょ]というすこぶる難関な試験を突破したエリート官僚等によって運営されるものですが、どうしたことか日本は科挙という制度抜きに導入しています。日本が導入した律令制は、最初の時点で本来のそれと比べると、かなりおかしなものであったと言えます。法律は当時先進文明の中心地であった唐のそれを模倣したけれども、その運営体制はほとんど世襲による役人というのですから、導入当初から世襲の弊害という問題を抱えたものでした。

さて、天武天皇が、成文法無き未開の日本を、「近代的法治国家」とするべく、支那に倣って律令制定の詔を発したのが681年。これによって、律令[りつりょう]としては不完全ながらも、天武天皇没後の持統三年(689)、ついに「飛鳥清御原令[あすかきよみはらりょう]」が発布されます。

そして、さらに律令としてより完成したものを目ざして、刑部親王[おさかべしんのう]や藤原不比等[ふじわらのふひと]などによって編纂された「大宝律令」が成立したのが、大宝元年(701)。これは翌大宝二年(702)に発布されます。ここに初めて、現代にまで連なる「日本」という国家が誕生したと言えます。

といっても、支那(唐)の模倣であった律令には、日本の国情にそぐわない点があったようで、「大宝律令」が制定された後も、藤原不比等らはその改修作業を進めています。しかし、養老四年(720)に不比等の死亡によって、その作業は中断。その後、孝謙天皇代の天平宝字元年(757)、 藤原仲麻呂[ふじわらのなかまろ]主導のもとに改修され、ここに新しい律令「養老律令」が施行されます。といっても、「養老律令」は「大宝律令」を改修したものであって、その内容はほとんど変更されていないようです。

さて、「飛鳥浄御原令」と「大宝律令」・「養老律令」のいずれもが、全文現存しておらず、直接これを参照する事は出来ません。しかしながら、「養老律令」に限っては、その注釈書『令義解』・『令集解』に、ほとんど全文が収録されています。これによって、今もその内容を知る事が出来ます。

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2.僧尼令について

僧尼令とは

僧尼令[そうにりょう]とは、国が仏教の僧尼を統制するための法令で、養老4年(757)に施行された、養老律令[ようろうりつりょう]の編目の一つです。これは、僧尼が、国家や社会を混乱させ、あるいは仏教の戒律を犯した場合に、国家としてこれをいかに罰するかを定めた法律です。

国家が仏教教団の組織や活動について定めた法は、すでに「養老律令」以前に布かれていた「飛鳥浄御原令」に原型があり、「大宝律令」に同様のものが編纂されていたようです。しかし、そのいずれもが現存していないため、今は直接これを確認することが出来ません。

僧尼令は、支那における道士や僧尼を規制する法律、唐の道僧格[どうそうきゃく]を範としたものと言われています。また、これに仏教教団の法律集、律蔵の一つたる『四分律』や、大乗菩薩戒を説く『梵網経』を参照して作られていることが、その内容から知られます。

ところで、支那より日本に初めて正式な戒律を伝えた鑑真和尚が、天平勝宝五年末(753)に渡来し、翌六年に東大寺大仏殿前にて、天皇・貴族をはじめ多くの僧尼に対して授戒を実行。これによって、これは仏教からすると当然のことですが、僧尼の受戒が国家から義務づけられることになります。

あくまで推測に過ぎませんが、この事実も「養老律令」所載の「僧尼令」の内容に、多少の影響を与えたかもしれません。

明治維新まで有効

「僧尼令」は、明治五年四月廿五日(1872)に、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事(今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべし事) 但法要ノ他ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事(ただ法要の他は人民一般の服を着用して苦しからず候事)」という、「太政官布(第133号)」が発布されるまで有効な法律でした。その期間、実に1117年間。

と、言っても、遅くとも平安中期には律令制は完全に形骸化し、僧尼の堕落も日常的常識的なものとなっていたため、そしてまたそのような僧侶に上皇や貴族達がなっていたために、国家としてこれを厳に取り締まることはほとんど不可能となっています。

これは近世江戸期においても同様で、幕府はさまざまな法度[はっと]を制定するも、最後まで僧尼の堕落と非法に手を焼いています。僧尼令は、実に長い間法律として有効ではありましたが、実際に機能したのはごくごく短期間だったのです。

日本の僧尼のほとんど全員が古来、仏教の戒律(いわば僧法)は守らず、国家の法も守らずして、世間の人倫乱れ道徳の荒廃を嘆くなどという矛盾を矛盾とも感じず、現在にまで至っています。

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