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‡ 最澄 『山家学生式』(解題)

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1.解題

『山家学生式』について

画像:最澄真筆「天台法華宗年分学生式(山家学生式/六条式)」部分 延暦寺蔵

『山家学生式[さんげがくしょうしき]』とは、最澄によって著され嵯峨天皇に上奏された一連の書状です。

「一連の」というのは、まず弘仁九年(818)五月十三日の「天台法華宗年分学生式」、そして同九年八月二十七日の「勧奨天台宗年分学生式」。そして翌年の弘仁十年(819)三月十五日の「天台法華宗年分度者回小向大式」と、一つの目的のために上奏された三部の書状がまとめられたものであるためです。

よって、これらははじめから最澄自身によって『山家学生式』と銘打たれて著されたものではありません。

最初の「天台法華宗年分学生式」は、「六ヶ条の比叡山における天台僧養成のための構想」を述べていることから「六条式」、同じ理由によって次の「勧奨天台宗年分学生式」は「八条式」、最後の「法華宗年分度者回小向大式」は「四条式」とも通称されています。

さて、最澄はなぜそれらの構想、「比叡山を本拠とする天台法華宗の僧を養成するための規定」すなわち『山家学生式』を、矢継ぎ早に次々と朝廷に上奏したのか。

それを知るには、まず当時の僧尼に対する国家制度と、仏教僧となるための正統なる、世界中の仏教国において共通する伝統的ありかたを知らねばなりません。

まず、当時の僧尼についての国家制度としては、天平勝宝五年(754)の鑑真和上渡来以来、正規の仏教僧として認定されるためには必ず畿内近辺では東大寺戒壇院、あるいは西方では筑紫観世音寺戒壇院、また東方では下野薬師寺戒壇院のいずれかにて、具足戒(律)を受けなければならないと定められていました。

それを所管していたのは、僧綱[そうごう](支那風には僧統[そうとう])という治部省玄蕃寮に属する官職で、三人以上の学僧が任命されていました。そして、その僧綱職は、南都六宗のうち法相宗・三論宗に属する僧らで占められていました。

いや、「法相宗・三論宗に属する僧らで占められていた」などと言うのは語弊があり、ややもすると「他の宗の僧が排斥され、法相宗と三論宗の僧が特権階級となっていた」などと思われるかもしれません。

しかし当時、そもそも日本には法相宗と三論宗の僧しか存在していませんでした。

平城京の昔、日本には法相宗(瑜伽行唯識)・三論宗(中観)・華厳宗・律宗(南山律宗系)・倶舎宗・成実宗の六宗が存在しており、それらは南都六宗などと今総称されています。

しかしながら、平安最初期の最澄以前、その六宗とはいわば六学派あるいは六学科であって、今言われるような意味での宗として存在していたのは法相宗と三論宗のみでした。故に僧綱職に就き得る僧は、必然的にただ法相宗と三論宗いずれかのみであったのです。

もっとも、であったが故に、平城京において法相宗・三論宗の諸寺院・諸学僧らが力を持ちすぎるようになり、桓武帝がその改革を望むにいたるということが起こっているのですが。

そこで、実際そのようなありかたを変革させたのが、桓武帝ならびに最澄でしたが、これについて後述します。

ところで、そのように国家が仏教教団を管理していたこと、僧として出家や受戒する際にも国家の認可が必要であったことについて、歴史学者や仏教学者らが非常に批判的に見るむきが、戦後から近ごろまで強くありました。

けれども、そのような一昔前に時代を席巻した、いわば「唯物史観的見方に基づく左巻き批判」は見当はずれの、全然正鵠を射たものではありません。

そもそも何故に国家がそのように出家を管理するようになった理由を知らなければなりません。

その大きな理由の一つ、それは日本が仏教を国を挙げて信仰するようになり、盛んに国家としてその僧を生み出しそうとして以降、むしろ貴族や庶民らの子弟に、脱税や苦役逃れを目的とする偽装出家・偽坊主となる者がむやみやたらに続出して国家として放置できない事態に陥った為です。

(当時、唐に倣って律令の整備を推し進めようとしていた朝廷は、すでに唐でそのような前例があって「道僧格」なる法令が敷かれていたことに準じた、というのもその大きな理由の一つです。)

また、鑑真和上による正統な戒律の伝来以前は、僧団のまともな規律・明確な根拠に基づく規則がない状態であって、ただ頭を丸めて衣と袈裟を着たばかりの形だけ僧侶があって、それらが国法に違反することしばしばであった為でもありました。

実際、日本(朝廷)が仏教における戒律の重要性に気づき、また国家として僧尼を監督すべき事態となったのは、推古天皇の時代、ある僧が自分の祖父を斧で叩き殺すという事件を契機とするものです。

その事件を伝える『日本書紀』の記事を以下に徴します。

卅二年夏四月丙午朔戊申。有一僧。執斧毆祖父。時天皇聞之。召大臣詔之曰。夫出家者頓歸三寶具懷戒法。何无懺忌輙犯惡逆。今朕聞。有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼。以推問之。若事實者重罪之。於是集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸僧尼並將罪。
於是百濟觀勤僧表上以言。夫佛法自西國至于漢經三百歲。乃傳之至於百濟國而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲。而貢上佛像及內典。未滿百歲。故當今時。以僧尼未習法律。輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除惡逆者以外僧尼悉赦而勿罪。是大功德也。天皇乃聽之。
戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正僧都。仍應檢校僧尼。壬戌以觀勒僧爲僧正以鞍部德積爲僧都。卽日以阿曇連闕名爲法頭。

 (推古天皇)三十二年624夏四月丙午朔戊申(三日)、とある僧が斧で祖父を殴り殺した。天皇はこれを聞いて大臣らを召し出し、詔して言われた。「そもそも出家者はひたすら三宝に帰依し、厳しく戒法を護持するものであるのに、一体どうして恥じることも忌むこともなく、たやすく悪逆を犯すことが出来ようか。しかるに今、朕が聞くところによると、ある僧が祖父を斧で殴り殺したという。そのようなことから、すべての諸寺院の僧尼を集めて問い糾し、もし罪を犯したことがあるようであれば、厳しく罰せよ」と。そこで諸々の僧尼を集めて罪の有無を問い糾した。そして、その(祖父を斧で殺害したという)悪逆を犯した僧と過去に悪行のあったことが発覚した僧尼とを、等しく罰しようとした。
 すると、百済僧の観勒は(天皇に)上表してこのように申し上げた。「そもそも仏法は、西国〈天竺〉より漢〈支那〉に伝わって三百年を経てから、ようやく百済国に伝わったものです。それがわずか百年ばかりであったとき、我が王〈聖明王〉が、日本の天皇が賢哲であることを聞きおんで仏像および仏典を(欽明天皇に)貢上〈献上〉しましたが、それからいまだ百年も満ちておりません。そこで、現在のところ(日本の)僧尼が、いまだ法〈経論〉と律〈戒律〉とを完全に学習・理解していないことから、たやすく悪逆な行為を犯すのだと思われます。そのようなことから、諸々の僧尼は(今回のことについての天皇の怒りに)恐れかしこまって、(今後)どのように振る舞うべきかわからずにおります。仰ぎ願わくば、その(祖父を斧で殺害した)悪逆の僧を除く、他の僧尼については、すべて赦免して罰せぬよう下さいませ。それは大きな功徳となることでしょう」と。そこで天皇はこれをお赦しになった。
 戊午(四月十三日)、(推古天皇は)詔して言われた。「道人〈出家者〉でありながらも法を犯す者があるが、そのようではどうして俗人を教誨することなど出来ようか。そこで今より以降、僧正[そうじょう]・僧都[そうず]等を(僧尼を監督する官職として)設置し、僧尼を監督しなければならない」と。
 壬戌(四月十七日)、観勒が(日本で初となる)僧正に任命される。鞍部徳積[くらつくりのとくしゃく]が僧都となる。また同日、阿曇連[あずみのむらじ](名は欠けて伝わらず)をもって、法頭[ほうず]とした。

『日本書紀』巻第廿二
[現代語訳:沙門覺應]

(※ここに始まる官職としての僧正・僧都・法頭の設置が、後の僧正・僧都・律師からなる、僧尼を統制する国家機関たる僧綱[そうごう]の嚆矢である。なお、ここで推古天皇に日本仏教の現状、その一大問題点を上奏し、日本で初めて僧正に任ぜられた百済僧観勒は、日本に初めて天文および暦法など陰陽道、および道教を伝えた人。そのうち陰陽道は特に重用された。なんとなれば当時、陰陽道はいわば「科学」であったため。)

このような事件を契機とし、しかしまたその後、長い時日を経てようやく確立したのが、(『大宝律令』や)『養老律令』に含まれた僧尼を取り締まるための「僧尼令」という国法の制定であり、また鑑真和上の渡来によってようやく実現した、東大寺戒壇院などにおける具足戒の受戒制度でした。

僧尼令[そうにりょう]とは、たとえば現在のタイ王国において施工されている国家が僧を統制するための「サンガ法」と、その内容に無論異なる点は多々あるものの、位置づけとしては同様のものです。それは平安中後期には空文化することとなるものの、しかし一応は明治維新を迎えるまで有効であった法律でもありました。

さて、以上はただ国家制度についてですが、そのような「僧となるためには必ず具足戒(律)を受けなければならない」ということは、そもそも仏教が印度で誕生して以来、アジア各地に伝わっても必ず行われてきた、仏教として極めて当然のことです。

今も昔も、そして大乗であろうが小乗であろうが、具足戒(二百五十戒)を受けて最低限これを護持していなければ仏教僧 などではなく、当然ながら正統な仏教僧を名乗ることは出来ません。

仏教として正規の手続きによって設けられた戒壇において、正規の条件を満たした上で具足戒を受けなければ、いかなる場合でも人は僧とはなりえないのです。

(別項、“仏教徒とは何か ―比丘―”を参照のこと。)

この点、今の日本では僧俗問わず、非常に捉え違いしている者が多くあるようです。

それは決して国家が一方的・強制的に仏教僧に対して定めた規則などではなく、そのような仏教の伝統的・正統的ありかたに則り、また脱税や苦役逃れなど違法・脱法目的の似非僧侶や僧侶の犯罪を取り締まるために、国家が国法としても規定したことに過ぎません。

しかしながら、最澄は、そのような鑑真和上の渡来によって日本でようやく打ち立てられた仏教本来の、世界標準ともいうべき受戒体制を打破・改革し、最澄に言わせると「正統で三国伝来」(?)なる、しかし独自の方法によってこそ天台僧を誕生・育成したいという主張とその方法を、朝廷に対し直接上奏したのでした。

あくまで「最澄が独自に意図するところの純然(ぴゅあ)なる菩薩僧」を育成し、これを国家として奉事することによってこそ、真に国家安泰・令法久住が果たされるのであり、すなわちそれが天皇・国家・人民を最大に利益しうるものであるという、最澄の理想・構想が書き連ねられたもの。それが『山家学生式』です。

ではそもそも、何故に最澄はそのような構想を主張するにいたったのか。

最澄の誤算 ―追い詰められていった秀才

画像:最澄像(国宝) 一乗寺蔵

平安京への遷都を実行した桓武天皇から、新たな都での新たな仏教を担う者として期待されていた最澄は、遣唐使一行に還学生[げんがくしょう]として参加し、延暦二十三年(804)から翌二十四年の二年足らず渡ります。そしてその間、かねてからの目的通り天台山において天台教学を学んでいます。

帰国してすぐ翌年の延暦二十五(806)年一月二十六日、朝廷により天台法華宗として立宗が認められ、年分度者二名が許されます。

最澄の天台法華宗に二名の年分度者が認められる以前は、前述したように、六宗といいながらも年分度者が許されていたのはただ三論宗と法相宗それぞれに五名ずつのみでした。

その故もあって、くりかえしますが僧綱職には三論か法相の僧しか無かったのでありました。

そこで最澄は、自身が新たに打ち立てようとする天台法華宗に年分度者二名の許可を請うのと同時に、そのような従来の南都六宗の在り方を改革するべく、桓武帝にこれを上奏(最澄自筆が現存)しています。

請續將絶諸宗㪅加法華宗表一首
沙門最澄言。最澄聞。一目之羅。不能得鳥。一兩之宗。何足普汲。徒有諸宗名。忽絶傳業人。誠願。準十二律呂。定年分度者之數。法六波羅蜜。分授業諸宗之員。則兩曜之明。宗別度二人。華嚴宗二人。 天台法華宗二人。律宗二人。三論宗三人。加小乘成實宗。法相宗三人。加小乘倶舍宗。然則陛下法施之德。獨秀於古今。羣生法財之用。永足於塵劫。不任區區之至。謹奉表以聞。輕犯威嚴。伏㴱戰越。謹言。
延暦二十五年正月三日 沙門最澄上表

請続将絶諸宗更加法華宗表一首
 沙門最澄、申し上げます。また最澄、お聞きいたします。
 (網の目が)一つしか無い網では、鳥を捕まえることなど出来ないように、(法相宗と三論宗との)二つの宗では、どうして(衆生を)普く導くことが出来るでしょうか。いたずらに「諸宗」との名目だけがあって(実際はただニ宗のみの僧に各五人ずつが許されているようであれば)、すぐに(その他の諸宗それぞれの教えを)伝業する人は途絶えてしまうでしょう。
 まことに願わくは、(声明[しょうみょう]の旋律である)十二の律呂[りつりょ]に準じて年分度者の数を(十二名に)定め、六波羅蜜になぞらえて伝業諸宗の人員を(六宗それぞれに)配分し、(太陽と月との)両曜の明かりにのっとって宗別に二名の年分度者を許されますように。華厳宗に二人、天台法華宗に二人、律宗に二人、三論宗には三人でその内に小乗の成実宗[じょうじつしゅう]を加え、法相宗にも三人でその内に小乗の倶舎宗を加えるように。
 そのようにすれば、天皇陛下〈桓武帝〉の法施の徳は、抜きん出て古今に秀でたものとなり、群生[ぐんじょう]〈庶民〉の法財の用は、末永く遠く未来世にまで満ち足りることとなるでしょう。
 まことまとまりない文となってしまいましたが、謹んでここに表を奉って以聞〈天子に上奏〉いたします。(このように)軽々しく意見を申し上げることは(陛下の)威厳を損なうものであり、ひれ伏して深く恐れかしこむところでありますが、謹んで言しあげます。
延暦二十五年(806)正月三日 沙門最澄上表

最澄『請続将絶諸宗更加法華宗表(年分縁起)』(伝全Vol.1, P5
[現代語訳:沙門覺應]

おそらく、この上奏の背後には、様々な力が集中しすぎた南都の仏教勢力すなわち法相宗と三論宗に手を入れたかった桓武帝の意向があり、また意外と南都の法相宗と三論宗の諸僧にもこれは望むところであったようで、僧綱も特に反対などせず承認し、一月も経たぬうちに許されています。

しかしながら、さあこれからという時、最澄の非常なる強みとなっていた最大の後ろ盾たる桓武天皇は病に倒れ、あっけなく崩御してしまいます。同年三月十七日のことです。

最澄はしかし、それでも天台山にて学んできた天台教学を諸宗の諸学僧に対して披露し、また完全では無かったにせよたまたま受法しえた密教による灌頂も執行。さらに天台の法華一乗の教学とは完全に対立する三乗(五性各別)を頂く法相宗と激しい論戦を開始するなど、精力的に自宗の発展のために尽くそうとしています。

そして、日本天台宗が立宗されて後、時を経ること十二年と少し。

年間二名の年分度者が許されていたならば、単純に計算して二十四名の天台僧が生まれていて然るべきでした。最澄にとって、桓武帝の後ろ盾によって立宗された日本の天台法華宗は、世間・出世間から認められて華々しく発展していた、…はずでした。

ところが、現実にはわずか八名にも満たない者しか比叡山に残っていないという、まさに惨状を呈していました。

天台法華宗の年分度者となった者の中には、途中で病死した者も1、2名ありましたが、正規の僧徒なるべく東大寺戒壇院にて具足戒を受け、規定どおり半年間そこで律学を学びおわれば比叡山に帰ってこなければならなかったのに、帰ってこない者が続出していました。

天台の年分度者となった者のほとんどは、戒壇院で具足戒を受け正規の仏教僧となった途端、法相宗など他宗に転向していたのです。

たとえば、立宗後十四年後の弘仁十一年(820)二月二十九日に上奏された書に、最澄自身こう記しています。

自去大同二年至于弘仁十一年。合一十四箇年。兩業度者二十八口。各各随縁散在諸方。住山之衆。一十不滿。

去る大同二年807より弘仁十一年820に至るまでの、あわせて十四年間、(止観業と遮那業との)両業の年分度者は二十八人であった。しかし、それぞれがなんらかの原因で諸方に離散してしまい、比叡山に残ったものは十人にも満たない。

最澄『上顕戒論表』(伝全Vol.1, P256
[現代語訳:沙門覺應]

天台宗開宗後十四年、その年分度者として僧となった二十八人中のうち、たった十人未満しか天台宗に残留していなかった。若干名が病死したのを除いても、その約七割が他宗に転向していたという事実。

この残留率がたったの三割強というあまりにも低い数字。

その理由として考えられるのは、まともな寺院としては開山されてからそれほど日月を経ておらず、平城京の諸大寺に比較すれば整備されていなかった比叡山一乗止観院(延暦寺)の環境が比較的劣悪だったこともあるのでしょう。

山における冬の寒さや夏の湿気が人の体に堪えることは、今も昔も変わりありません。

あるいは、ただ比叡山という環境だけが問題であったのではなく、「最澄は悪い奴であった」などと言うのではなくて、最澄自身の教育者としての人格・一宗の長としての人徳・度量に問題があった、というようなことも考えられないことでもありません。

いずれにせよ、これは宗派として大変な異常事態、最澄にとってあまりに痛く、大きな誤算でした。

最澄の天台宗は、立宗して十年あまりであったにも関わらず、早くもその存続が危ぶまれる窮地に追い込まれていたのです。

最澄は、現代しばしばそのように言われることがある、「平安仏教の花形」でも「平安という新時代を担うスター的仏教者」、あるいは「新時代を指導する仏教の導師であった」などとイメージされ形容されるような状態では、現実としては到底ありませんでした。

強いて「最澄の華々しい時期」と表現しえるのは、内供奉十禅師に取り立てられてから入唐留学、そして帰国し桓武帝が死去するまでのわずかな間でしか無かったというのが実際に近いと言えるでしょう。

それが実に魅力的で面白い、いわば浪漫を感じさせるものであったとしても、司馬遼太郎など歴史小説家の作中の言(イメージ)を鵜呑みにしてはいけない。

そのような、最澄が打ち立てた日本天台宗の僧徒が得度して間を置かずに離散するという危機的な状況にあって、この危機を打開するべく考えだされたのが、いま『山家学生式』と呼称される書状に書かれ上奏された、自身の門流を育成するため考案された独自の体制をしくための一連の構想でした。

しかしながらそれは、「三国に前代未聞なる独自のあり方」を主張したものであって、いくら桓武天皇の大なる期待によって打ち立てられた天台宗の最澄からの要望であるとはいえ、朝廷(嵯峨天皇)もこれをすんなりと受け入れ、ただちに許可するわけにはいきませんでした。

朝廷としては、まず最澄の主張の可否について、仏教を所管する僧綱に問います。すると、これは当然のことであったのですが、僧綱は「前代未聞」「根拠がない」と猛反発し受け入れられませんでした。

その故もあり、最澄はつぎつぎ補足するような形で、二年足らずの間に一連の「学生式」を上奏していったのでしょう。

そこで最終的に、僧綱からの批判・論難に詳しく応じるため、あらためて『顕戒論[けんかいろん]』三巻(ならびに『上顕戒論表』『仏法血脈譜』一巻)を著し、弘仁十年(819)五月十九日に朝廷に提出しています。

画像;最澄対僧綱の大乗戒壇論争をm,団塊が理解するとこうなるの図

故に最澄の主張した「独自の構想・戒律観」を詳しく知るには、ここで紹介する『山家学生式』だけではなく、『顕戒論』を見なければなりません。

現代においては、この最澄と僧綱の大乗戒壇建立に関わる論争について、「仏教改革を推し進めようとする若き革命家たる最澄」対「旧態依然として既得権益者であった南都六宗の利益代表たる僧綱」との対決であった、などといった類の理解をする人が非常に多いように感ぜられます。

しかしそれは、まず戒律というものに対する無理解や偏見というものがあり、さらにおそらくは戦後の左巻き空気や教育に汚染された思考と物の見方によるもので、この論争の本質が全然捉えられていないものです。

最澄は『顕戒論』において、僧綱の論難に対して誠実に、しかし自身の主張のあくまで正しいことを証明しようとして逐一反論しています。その際、まず僧綱による最澄の『山家学生式』での主張に対する論難の一一が引かれ、次に最澄の反論が展開する形態となっています。

その故に、この『顕戒論』を見ることによって、むしろ僧綱や南都の学僧らが最澄の主張に対してどのような批判をしたのかを正確に知ることが出来ます。

そして、僧綱が無闇に最澄の主張を批判していたのでなく、あくまで仏教として根拠不明な点や、彼の主張の不合理な点、インド以来の伝統的あり方や解釈として前代未聞である点を突いたことが知られるでしょう。

さらには、僧綱に対する最澄の反論が、ときにただの論点のすり替えやこじつけであったり、僧綱の反論の中でも瑣末な点をことさら取り上げて僧綱を罵倒しているだけとなっていることがあることも知られるに違いありません。

最澄の諸著作から察するに、彼はかなり神経質な性格であったようですが、南都の僧綱の諸大徳や徳一菩薩に対する文言の苛烈さは、むしろ彼が追い詰められていた証でもあるのでしょう。

あるいは、『顕戒論』は最澄の性格と当時の彼の追い詰められた状況とを垣間見ることの出来る書ともなっています。

さて、先に「最澄の戒律観を詳しく知るには『顕戒論』を見なければならない」と述べたばかりです。

が、しかし、無知という眼帯をかけ、あるいは左巻の色眼鏡をかけ続けているようではそれを読んだとて、最澄の主張の理非曲直を見分け、その是非を問うことは非常に難しいこととなるでしょう。

ましてや「我が宗派こそ尊し」、「我が祖師に誤りなどあってはならない」などといった宗我に盲た眼でもってこれを読まんとしたとしても、何一つとして理解することなど出来はしません。

現代には、『山家学生式』をして「最澄のすぐれた教育理念が表れたもの」などであるとし、「最澄はすぐれた教育者であった」と評価するための根拠とするような人もあるようです。

けれどもそのような人は、おそらくこの『山家学生式』をまもとに読んだことなどないか、一応ひと通り目を通したことはあってもまるで理解できていない。

画像:一目瞭然…、だが認められない人々

ただ『山家学生式』の冒頭にある「照千一隅」を「照于一隅」と読み違えし、これを「一隅を照らす」などと訓じて天台宗のキャッチコピーとし、有名にしてしまった一節。

それが明らかな誤りであることは明白であるにも関わらず、それが最澄の意図したところと異なっていることが明瞭であるにも関わらず、天台宗として公式に「いや、照于一隅で良いのだ」、「もう正しいと宗団として決定したことなのだから、もはや事の真偽は関係ない。事実はどうあれ正しいのだ!」などと彼らが強弁するのを耳にするにつけ、実に最澄には同情を禁じえない。

最澄はその著作の中で、書物の誤読をするな、誤解をするな等と主張していたのだから。

にもかかわらず、最澄を祖師としてその末徒を称する人々が、これは日本仏教におけるおよそすべての宗派に見られる事態であるのでしょうけれども、それに真っ向から反して居直っているのは、まったく喜劇、あるいは落語の類でありましょう。

それを受けた世の人々もまた、そのような誤読・誤解の一節をありがたがり、それぞれがさらにそれを浪漫ブッキョー的に解釈して「伝教大師最澄のスバラシイお言葉~」、「一隅を照らそう♪」などと脳内お花畑が真っ盛りとさせてしまうのでありましょう。

ここには不毛の地平が、いや、ある意味において真にオメデタイ、まこと愉快な地平が開けている。

それは例えば、福沢諭吉先生の『学問のすすめ』における「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という一節だけを拾い読みし、あるいは取りざたして「福沢諭吉の『学問のすすめ』は人間の普遍的平等、人間は皆すべて平等であることを主張した書である」などと、完全に勘違いして言っている人と同じようなものです。

実際に最澄の『山家学生式』および『顕戒論』が著されることになった背景、そしてその内容、それに対する他からの批判を逐一知り、さらに最澄の主張が認められ実行されたことにより、いかなる結果がもたらされたかを確かに知ったならば、それは評価など到底出来ないものであることを知ることとなるでしょう。

最澄の大誤算 ―その死後において

Theカルト ―強弁すればいいじゃない?ある言った者勝ちの典型

最澄が『山家学生式』において要望していた構想を認める勅許が下されたのは、最澄の死後一週間のことでした。弘仁十三年(822)六月十一日のことです。

当初は桓武帝の期待の新星であった最澄の晩年が、戒壇論争だけではなく三一権実諍論などに明け暮れ、しかもそれぞれ追い詰められて不利な立場になっていたなど、あまりに憐れであったことに同情する声が朝廷内であがったことによるものだと言われます。

最澄の大乗戒壇構想は、仏教として充分な根拠あるものとして認められたものなどでは全然なく、朝廷からの「死んだ最澄が気の毒である」という憐憫の情と、最澄に期待していた故桓武天皇への配慮によって許可されたのでした。

しかし、その経緯がどのようにせよ、これによって仏教の伝統を根拠としてではなく国家の法を根拠とする「大乗僧」(仮)を、東大寺戒壇院やその他二つの戒壇院とは一切関わること無く、比叡山が独自に生み出すことが出来るようになります。

そして、比叡山上に大乗戒壇院なるものが建立される運びとなります。けれども面白いことに、最澄の弟子たちによって比叡山に建立された大乗戒壇なるものは、最澄が必死でその権威と意義を否定しようとしていた東大寺戒壇院の戒壇堂をまさしく模したものでした。

結局なんだかんだ言いながらも、東大寺戒壇院の戒壇というものの権威そしてその厳粛さは、彼らにとって拭いがたいものであったのでしょう。いや、なにより「純粋なる大乗の戒壇」などというものの根拠は、大乗の典籍のどこを探ってみても無いのですから、そうなることはむしろ必然でした。まったく皮肉なものでありましょう。

さて、その死後とはいえ、これによってついに最澄が『山家学生式』および『顕戒論』において主張し、夢に見たことがまさしく実現される、…はずでした。

最澄によれば、大乗戒のみによって比丘となった大乗の菩薩僧は「国法・国師・国用」となり、国家・社会を脅かす悪僧は駆逐されて、いよいよ大乗の教えが反映することになる、…はずでありました。

誠願先帝御願。天台年分。永爲大類。爲菩薩僧。然則枳王夢猴。九位列落。覺母五駕。後三増數。

誠に願わくば、先帝〈故桓武天皇〉の御願でもあった天台宗の年分度者をもって、以降は大類の僧として「菩薩僧」とされんことを。そうすれば、訖哩枳王の夢に現れた(十匹の)猿のうち、(国や人々を混乱させる悪しき僧に比せられる)九匹はまたたくまに追いやられ、文殊菩薩の(羊乗行・象乗行・月日神通乗行・声聞神通乗行・如来神通乗行という)五つの籠のうち、(菩薩乗であって無上正等正覚を得ることが定まっている)後の三つは、その数をいよいよ増して繁栄することになるでしょう。

最澄『山家学生式(天台法華宗年分学生式)』
[現代語訳:沙門覺應]

しかしながら現実は、最澄の死後百年もせぬうちから、むしろ比叡山こそが国家(朝廷)および京の都の人々を脅かす恐るべき暴虐集団(僧兵・山法師)の巣となり、次第にその勢力を大きくしていくことになっています。

(「枳王の夢猴」の典拠については、『山家学生式』本文ならび脚注を参照のこと。)

むしろ彼ら天台宗の僧徒らこそが、「訖哩枳王の夢に出てきた九匹の猿」となっていったのです。

日本における天台法華宗の本拠たる比叡山は、最澄の死後それほど時を置かぬうちに王城守護・国家鎮護が聞いて呆れる、いわば宗教ゴロ・仏教ヤクザの巣と化しています。

(詳細は別項“十重禁戒(十重四十八軽戒)”を参照のこと。)

そしてそれは、もはや逝去してなかった最澄からすれば、あまりにも大きな大きな誤算であったでしょう。

まこと哀れにも最澄は、むしろその死後、彼の目論見・遺志にまったく真逆なる、悪しき方面において非常なる影響力を日本仏教全体に及ぼしていくこととなってしまうのです。

突出した人々が逝去した後に

もっとも、宗祖の遺志とは裏腹に、その死後たちまち弟子らが仲違い・権力争いを初めるなどして分裂し、次第にその教学や所行もおよそ宗祖が夢にも思うことがなかったようなヒドイ有り様となっていったような点については、なにも天台宗に限らず真言宗も全く同様です。

ところで、ここで日本天台宗の歴史やそのもといたる最澄自身の思想に言及し、これを批判しているのは、なにも「最澄憎し」などといった詮ない心情からでも、どちらの宗が優れているか等といった宗論を戦わせんとしてのことでもありません。

ましてや派閥意識・宗派意識をもって「我が宗、独り尊し」などと身贔屓し、むやみに他宗を誹謗中傷しようとしているのでも全くありません。

そもそも私には、拙いながらもただ仏家の沙門たらんとする意思のみあって、愚かしい宗派意識・宗我など微塵も持ち合わせていません。語弊を恐れずに言えば、そのような意味での宗派なんぞどうでもよろしい話です。

日本天台の歴史に多くの問題があったように、真言宗の歴史にも様々で多くの問題を生じさせています。いや、娑婆世界において「問題が生じない」ということは決してありえないことでしょう。

しかし、ではその「問題」の根源とその影響などを知り、いささかでもそれを解決せんとしたならば、どうしても歴史的経緯やその思想的根拠や合理性の可否について触れないわけにはいきません。

臭いものに蓋をするわけにはいかない。

さて、たとえば真言宗の場合、これは人によっては「何が問題であるのか!?」・「これを問題扱いするとはケシカラン、不埒な輩である!」と怒り心頭に発するかもしれませんが、宗祖を「今も生きている」ことにしてしまい、終いには「宗祖を本尊とする寺院が誕生する」という驚天動地の、普通考えられない驚くべき事態を生じさせています。

これは現代の怪しげなトンデモ教義を謳うような新興宗教でも、そうそうあることではありません。

生まれた時からすでにそうであった人々からすれば、「それは、そういうもの」・「空海が本尊とされていることの一体どこがどう問題で、どう異常なのであろうか?」であって、まったく驚くに値することではないでしょう。

宗祖や中興の祖、あるいは勝れて偉大な業績を残した大徳を篤く尊崇することは世界的・一般的に見られることです。たとえば南方の分別説部(上座部)でも、近年高徳名高かった比丘の像を作って敬い奉ることは、しばしば見られます。

また、チベットであれば、たとえば特にチベットに密教を将来したPadmasaṃbhava[パドマサンバヴァ]が、古派(ニンマ派)の密教寺院にはほとんど必ず祀られており、非常なる尊敬と信仰を集めています。

しかしながら、であったとしても、それを「寺院の本尊」とすることなどまず考えられないことであって、真言宗寺院の一部が何の疑問もなくそうしていることは、客観的に見てかなり異常な事態と言わざるを得ません。

たとえば巷間、空海を特に信仰する大師教会なるものがあります。

それは忌憚なく言ってしまえば、いわば伝統宗団によって公式に組織された拝み屋組織なのですが、それはその名の通りどこまでも「大師教」であって、大変滑稽な話となりますが、もはや仏教でも密教でもないような様態となっています。

空海は間違いなく仏教徒であり、密教の大阿闍梨であったでしょうに。

そのような事態を生じさせたそもそもの要因は、空海が現実に第一級の人物であった、まさしく当代の天才と称するにふさわしい人であったということが、まず第一にあるのでしょう。

同じく大陸から新たな仏教を伝えた点では同様であった最澄とは異なり、中途退学したとはいえ当時の最高学府で学んだ第一級の知識を有して、漢語を流暢に話し得、抜きん出て文筆に秀でていたこと。また、唐に渡っては当初からの目的であったと思われる密教を学び得て、あまつさえその正統継承者にも成り得、帰国すれば一代で宗派の教学をほぼ完成させたのみならず、書・詩歌・国語・建築・土木・教育などの分野で幅広い、しかも多大な業績を残していること。

それは、贔屓目からそう言うのでなく驚異的なことでありましょう。

しかし、その故に後進にパッとしたのが全然出なかったのですが、それも仕様が無いほどの人であったようです。

けれども、空海が人外の妖怪の如き「超人」として祀り上げられるようになったキッカケは、空海の死後すぐさま仲違いしてバラバラとなりかけていた真言宗を、天皇・貴族らからの経済的後援を取り付けることと、東寺を中心として真言宗をまとめんとする中央集権的体制をとるために捏ち上げられたことであり、それは途方も無い作り話にすぎないものでした。

空海の大誤算 ―その死後において

まず、当時から空海の敬称として用いられ、親しまれてきた「弘法大師」なる呼称。それは、空海の死後およそ90年後に醍醐天皇から下賜された諡号[しごう](贈り名)です。

それは、天台宗の最澄が伝教大師という諡号を清和帝より贈られた(866)ことに焦り、対抗しようとした真言宗の諸僧が、様々な政治的運動を展開したことによって、伝教大師より半世紀ほど遅れてようやく醍醐帝より得た(921)ものです。

その政治的運動を主だって展開した人、それが観賢[かんげん]です。

(弘法大師信者によって「南無大師遍照金剛」と唱えられる「遍照金剛」とは、空海が唐に渡って密教を受法した時に得た名前、すなわち灌頂名・密教名であって、空海生前からの密教僧としての異名。)

そして、醍醐天皇より弘法大師という名を得たことの「ご報告」を、空海の廟所すなわち高野山に趣いてしようとしたとき、彼はとてつもないことを言い出したと伝説されています。

観賢は「空海がいまだ生きて入定しておられる姿を、私は実際に見た!そして、その伸びていた髪と髭とを剃り、袈裟衣を私自身の手で替えさせていただいたのだ」などと主張した、とされているのです。

しかし伝説では、そのとき観賢は他に二人の僧すなわち淳祐[しゅんゆう]と寛空[かんくう]とを同伴させたということになっているのですが、彼らにはそれがまったく見えなかった、ということにされています。

(淳祐に関しては見えなかったけれども触った、そしてその触った手は良い香りを放ち、淳祐の本にはその香りが遷って香り続けた、というお話が創造されています。しかし、何故か一緒にいたはずの寛空については、空海を見た云々の話にまったく関知していません。同じ造るにしてもその「設定」が不徹底で、詰めの甘いお話であるところが実にほほえましい。)

そもそも、淳祐も寛空は言うまでも無く、目の当たりにしたとされている観賢も、幻や妄想でもないかぎり、生きている空海の姿など見たはずがありません。空海阿闍梨は人として、いや、命あるものは必ず皆がそうであるように、その寿命が尽きて六十三歳(数え年)にて亡くなっているのだから。

事実、その報に接した淳和天皇など朝廷が深くこれを悼んで喪料など贈り、また空海が荼毘に付されていた記録が、日本の正史の一つ『続日本後紀』に明々として記されています。

丙寅。大僧都傳灯法師位空海終于紀伊國禪居。
庚午。勅遣内舎人一人。弔法師喪。幷施喪料。後太上天皇有弔書曰。眞言法匠。密教宗師。邦家憑其護持。動植荷攝念。豈圖崦嵫未逼。无常遽侵。仁舟廢棹。弱喪失歸。嗟呼哀哉。禪關僻左。凶聞晩傳。不能使者奔赴相助荼毘。言之爲恨。悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遙寄單書弔之。著錄弟子。入室桑門。悽愴奈何。兼以達旨。

 承和二年丙寅(三月二十一日)、大僧都伝灯法師位空海が紀伊国の禅居〈高野山金剛峯寺〉にて死去。
 庚午(三月二十五日)、勅によって内舎人[うちとねり]〈中務省の役人〉一人を派遣し、空海法師の喪を弔って喪料を施した。太上天皇〈淳和上皇〉による弔書にはこうある。
「(空海法師は)真言の法匠にして密教宗の師であった。我が国はその護持を頼みとし、動植物に至るまで空海の誓願〈慈悲・引導〉に摂せられていた。まったく予期など出来ないことであった。(太陽の沈む山である)崦嵫はまだ迫って来ることなど無い〈空海法師の死が近いわけはない〉と思っていたのに、その無常〈死〉はあまりにも急におとずれてしまった。仁舟棹を廃し、弱喪帰を失う〈空海という仁舟は進むことを止め、人々はその依り処を失ってしまった〉。なんと哀しいことであろう。禅関〈金剛峯寺〉は僻地にあるために、空海の訃報が(京都に)伝わったのが遅く、使者を奔走させて空海を荼毘に付す助けにあたらせることが出来なかったのは、なんとも悔しいことである。(空海法師の死を)嘆き悼む思いが止むことはない。旧窟〈空海の関わった場所・行業〉に思いを致したときの、朕がもの悲しさ・寂しさを察せよ。今はただ遠方より寄せた書によって、空海法師の死を弔うのみ。空海の直弟子たち、また空海の門下に入った沙門らの悲しみはいかばかりであろう。この書によって、また弟子らへの我が弔慰を伝える」

『続日本後紀』巻四 承和二年三月庚午条(「空海卒伝」)
[現代語訳:沙門覺應]

この『続日本後紀』の一条において明らかであるでしょう。

空海阿闍梨の人生は、わざわざ強調しなければならないのも実に滑稽なことですが、入定ではなく「死」によって終わったことが。

もっとも正史とされている史書であったとしても、そこに記されていることが全てまったくの事実であったと言うことは出来ません。

しかしながら、空海阿闍梨の直弟子であった実慧大徳らによって、空海の密教の師であった恵果阿闍梨の居していた唐は長安の青龍寺宛に書かれた、空海の死を伝えるための書状には、『続日本後紀』の一条が紛れも無い事実であったことを裏付ける記述があります。

其後和尚。卜地南山置一伽藍。爲終焉之處。其名曰金剛峯寺。以今上承和元年去都行住。二年季春薪盡火滅。行年六十二。嗚呼哀哉。南山變白雲樹含悲。一人傷悼弔使馳騖。四輩嗚咽如哭父母。嗚呼哀哉。實慧等。心同呑火眼若沸泉。不能死滅守房終焉之地。

その後(空海)和尚は、地を南山〈高野山〉に択んで一つの伽藍を建立し、終焉の処とされました。その名を金剛峯寺と言います。承和元年〈834〉、京都を去り(高野山に)行って住されました。そして承和二年〈835〉の季節は春、(空海和尚の)薪尽き火滅されました。行年は六十二歳。嗚呼、なんと哀しいことでしょう。南山は(悲痛で)白く変じ、雲や樹々は悲しみに沈んでいます。淳和上皇もまた(空海和尚の死を)悼み悲しまれて、その弔問のために勅使が駆けつけられ、(出家・在家の)四輩は嗚咽して父母を失ったかのように泣いのたでした。嗚呼、なんと哀しいことでしょう。私、實慧など(空海和尚の弟子らは)、その心は火を呑んだかのように苦しく、眼からは涙が泉のように止めどもなくあふれるばかりです。死を留めることは出来ず、その墓所は終焉の地〈高野山〉にあります。

実慧等「托真済真然入唐報大師示寂於青龍和尚墓前兼示諸同法侶書」
『追懐文藻』(『弘法大師全集』巻十五 P39
[現代語訳:沙門覺應]

このような空海阿闍梨の「終焉」・「薪盡火滅」を悲しむ直弟子らの深い悲しみを載せた書が、はるか遠く唐の青龍寺に送られています。

そしてここには、『続日本後紀』の記述にあるとおり、上皇より弔問の勅使が駆けつけたことも併せて記されています。

やはり、空海は決して「入定」などしておらず、死去して後の遺骸は荼毘(火葬)に付されているのです。

(一説に、その荼毘に付された場所は、現在の高野山大伽藍にある御影堂付近。)

もっとも、空海が高野山にていまだ生きて瞑想し続けている、などという与太話を創作したのは観賢自身ではなく、おそらく観賢の法孫であった小野曼荼羅寺の仁海(『金剛峯寺建立修行縁起』)です。

仁海は藤原道長に、「高野山は浄土である」などという大法螺を吹き、その参詣を誘うことに成功した人です。

それ以前にも空海の死後、宇多法皇が高野山に参詣したことはありましたが、栄華を極めた当時の最高権力者ともいうべき藤原道長が高野山を参詣したことは、その後の天皇を含めた貴族たちなどへ甚だ大きな影響を及ぼしています。

仁海がそのような与太話を創作して道長に売り込んだ背後には、当時荒廃しきっていた高野山を立て直しだして間もない頃でその経済的支援が必要であったことや、京都にほど近い地にあることなどからも貴族の信仰を集めるのに圧倒的に有利であった天台宗に対抗するのに必要な、いわば真言宗としての新機軸・独自性を良くいえば創造(実質は捏造で、しかも出家者としては決してなしてはならない宗教的虚言)しようとしたことがあったのでしょう。

あるいはまた、観賢自身あるいは仁海は、二十五箇条からなる『御遺告[ごゆいごう]』と言われる空海の遺言(遺誡)を捏造しています。やはり、それをもって真言宗ひいては自身らの権威付けに利用しています。

ところで、その捏造された『御遺告』の中には、空海自身によって著されたという体裁が取られている伝記が併記されています。いわば「空海超人伝」の萌芽ともいうべき「お話」が空海自身に仮託(捏造)され、あれこれと記されているのです。

『御遺告』に併記されている空海伝は、「超人伝」としては最初期のもので、後代に次々創作されていったとんでも超人伝に比べればかなり軽めです。しかし、これが後の「空海超人伝」のたたき台になっています。

もはや空海を直接知る者など無い世代となっていた当時、観賢などは自身らの立場を正統化・権威化し、さらに貴族らからの信仰を集めるために、その大本であった空海を超人的存在とした、と見ることが出来るでしょう。

そして、そのように捏造された『御遺告』が何故か突然いずこからか「発見された」という公に報告がなされ、首尾よく『御遺告』が「真作」であることの公的な承認も成功。

これによって、東寺を真言宗の文字通りの中心寺院として権威も確立でき、空海は極度に超人視されて天皇・貴族らの信仰と寄進を集めることにも奏功。

空海にとってそれはきっと不本意なることに違いないでしょうけれども、それが真言宗という組織のためであったにせよ、空海を直接知らない後代の弟子たちによって、主として経済的・政治的動機から見事「かこつけられた」のでしょう。

そして、さらに後代の門弟らはそのような超人空海にかこつけ、様々な法螺話を全国あちこちで触れ回ったようです。中世から近世にかけて全国で空海超人説を吹聴してまわって金銭を徴収しつつ、多くの悪行を重ねたという高野聖[こうやひじり]たち。あるいは近世の諸街道で、法螺を吹きまわって人々から金銭を巻き上げた、護摩の灰などといった者らもその立役者でありましょう。

まさに人の、嗚呼、俗世のあさましき営み。

空海の入定信仰なるものは、もちろん生前の空海阿闍梨が実際に突出した人物であったことが第一にあることは間違いなくとも、およそ経済的・政治的目的から造られ利用され、そのうちそのようなおハナシが民衆の間に降りて独り歩きし、さらに尾びれ背びれが着くなど肥大して出来た結果です。

そのような事態をして、「その内実はともあれ、大師信仰を民間に広めることによって民衆を仏教に近づけた」だとか「民衆に密教と弘法大師の思想を根付かせた」となんとか良く言う人もあるでしょう。

また、それら一連の「空海とんでも超人伝」が形成されたていった過程は、おハナシとしてはとても面白く、また文化人類学や宗教学の観点からして大変興味深い対象となるでしょう。

しかしながら、それを仏教の視点から見た場合には、根拠がない「宗教的虚言」を吹聴して回ることは、仏教の出家者としては最悪の罪となる大妄語(宗教的虚言)、すなわち波羅夷罪[はらいざい]にまさしく抵触するものです。

そもそも、その思想・行業を真から敬う者であれば、そのような法螺話や空海に仮託した書などを捏造することなど、まず思いつきもしないであろうと思われるのですが。

空海自身を直接知っていた諸弟子らは、空海をまこと深く尊敬していたでしょうけれども、まったく絶対視したり神聖視したりなどはしていなかったようです。そのようなことは、むしろその人自身をまともに知らない者であるからこそ、出来ることであるのかもしれません。

しかし、いくらそれが事実無根の荒唐無稽なる話であっても、「斯く斯く然々と言われている」・「いや、言われているのではなく、私は実際に見た!」などと誰かが言い出し、それを信じる拙い者が生じてひとたび既成事実化したならば、それを批判することは難しいこととなるのは、今も昔も変わらないのでありましょう。

そう簡単なものでもないでしょうけれども、実際「言い出したもの勝ち」という側面が、宗教一般に見られるようです。

ましてや、それを言い出した者、そしてそれを信じてしまった者が、どこの馬の骨とも知らぬ市井の徒などではなく、社会的地位の高い一定の権力や財力を持っていた場合、それが天皇や公家、将軍家や大名などであったならば、その影響力は計り知れないものです。

現代でも、空海入定説などというものがただの作り話であって、どこまでも架空の伝説にすぎないことを知っている密教学者や文献学者で、しかし同時に空海を深く信仰している(大体が真言宗に僧籍をもつ)学者などは、やはり宗団や宗門大学など雇用主の手前(経済的理由)などからおおっぴらには「弘法大師入定説など虚言・妄説である」などと言えはしません。

しかし、実際は「現実の空海」と「伝説の弘法大師」をまったくの別物として扱い、科学者の端くれたる学者として、なんとかその辻褄を合わせようとしています。

あるいはそのようなとんでも伝説が造られたこと自体を学的研究の対象とし、文化人類学的・比較宗教学的に「愛すべき人々の活動」として理解することに由って、その辺をうまく誤魔化そうとしています。

さても結局、その規模が非常に大きく歴史も長いことから、あれこれ口を出しにくいこととなってはいますが、弘法大師信仰なるものもそのような類の話に過ぎません。

日本に真言密教を伝え、日本史上各方面にも多くの足跡を遺した大阿闍梨、沙門空海の遺した思想・行業の価値は、まったく今も生きていることにされてしまった弘法大師を認めなくとも、決して損なわれないものであると思われるのですけれども。

そのような、今も生きていることにされてしまった弘法大師が信仰されていることによって、むしろ本体であったはずの空海の遺志などまるで封殺されてしまっているという側面すら認めることが出来るでしょうか。

…いや、入定信仰など無くとも釈尊及び宗祖の遺志など馬耳東風となっているその他宗派の現状を鑑みたならば、空海の遺志などまるでどこ吹く風となるのは、弘法大師信仰など存在しなかったとしても変わりないかもしれない。

いずれにせよ、以下の様な「浪花節」こそ日本人の好むところであるのは、今も昔も変わらないようです。

ありがたや 高野の山の 岩陰に 大師はいまだ おわしまします

《伝》天台座主第六十ニ世 慈圓(慈鎮和尚)作

実際のところ、現在の高野山において、「空海が今も奥之院の祠堂の下で、いまだ生きて瞑想し続けている」などという与太話を、真から信じているアレな人も中には若干ありますが、文字通りの意味で信じている人など決して多くありません。

また、僧職ではない高野町民でも、そのようなトンデモ弘法大師を芯から信仰している者などほとんど無いと言っても過言ではありません。

あるいは、いまや観光業者と地域振興のための宗教アトラクションとなっている、四国八十八箇所の寺院の住職・僧徒らなどでも、「お大師さま(空海)は、いまだ人々を救うために八十八ヶ所を歩かれている」などと営業上は口にしているものの、それを芯から信じている者などまず無いと言っていいでしょう。

しかし建前上、ましてや彼らはそのような民間信仰に過ぎない、大師信仰なるものを宗義とすらしてしまっており、未だそれで人々の信仰を鼓舞して、少なからぬ収入を得て生活しているためもあって、それは「口が裂けても言えない」類のこととなっています。

だいたい彼らにとって大師信仰なるものは、いわば俗世におけるプロレスと同種のもの、SF映画やアニメにおける設定であると言って間違いありません。

忌憚なくいえば、それを本当に信じてしまっている人は別としても、それに関わる人にはそれが「お金になる」ためです。

その故に、その設定はいまだ世間の一部に熱狂的に支持され、やはりプロレスと同様、その興行を続けることが可能となって、そこに多くの人が群がっています。

人は過ち、堕落するもの。ではその時、人はどうするか。

さて、比叡山から始まったとされる僧兵なるものは、やがてほとんどすべての大寺院が組織・所有してその規模を大きくしていき、あるいは一向一揆・法華一揆などといった一応仏教(真宗・日蓮宗)の名のもとに武装集団が形成され、世を大いに乱す一大要因となっています。

(諸大寺が所有していた僧兵については、ただ「僧兵=暴虐集団」・「僧兵=出家者」と一概に言うことは正確ではなく、またむしろ世が乱れているからこそ境内や荘園など寺領を自衛するため生じていった、という側面もあります。)

さて、最澄の要望が認められて実行されたことは、後世ただ天台宗だけにとどまらず、日本仏教全体に波及していきます。たとえば時代が下った鎌倉初頭の道元は、この日本天台宗独自の制度がもとで、禅を学ばんとして宋に渡った折に一悶着起こしています。

そしてまた、最澄の影響は今の日本仏教においてもなお強く存しています。

それは、日本仏教における戒律の不在であり、また「不在であっても良いのだ!」などとする日本仏教の僧職者・信徒に根深く浸透した思想となっているようです。

人の世に栄枯盛衰はつきものであって、それはまさしく釈迦牟尼によって示された、諸行無常なる有り様です。

人は過つもの。

そして、人は堕落するものです。

戒律があろうとなかろうと、それは変わりありません。

しかし、であるからこそそれを戒めるもの、また人が過ちを犯し、あるいは堕落した際にこれを罰する規定、そして自浄作用をもつ規則が人の組織には求められます。

であるのに、その規則規定を放棄した結果どうなるか。具体的で広範な規則や自浄作用を持つこと無く、ただ高邁な理念だけを謳うだけだとしたら、どのような結果がもたらされるか。

それはまさしく、最澄の日本天台宗の歴史というもの、そこから派生した宗派の有り様や思想がどのようなものであったかを知れば、あるいは今現在の日本仏教の僧徒らの有り様を見渡してみたならば、自ずから理解されることであるでしょう。

(詳細は別項“十重禁戒(十重四十八軽戒)”を参照のこと。)

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2.凡例

本文

このサイトで紹介している『山家学生式』は、比叡山専修院附属叡山学院編『伝教大師全集』所収のものを底本とした。

原文は漢文であるため、原文・訓読文・現代語訳を併記し、対訳とした。訓読文は底本の返り点に随って読み下したものである。

原文は、底本のまま旧漢字を用いている。ただし、訓読文は、適宜現行の漢字に変更した。

原文には、一部割注がなされているが、WEB上では再現不可能な為、それらを「下付き文字」(例;下付き文字)にすることによって、割注であることを示した。これは訓読文においても同様である。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合が多くある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。ただし、これは原文にではなく、訓読文に付している。

本文に経論からの引用がされている箇所は、判明した範囲でその典拠を示した。それはすべて『大正新修大蔵経』による。例えば引用箇所が『大正新修大蔵経』2巻177項上段であった場合、(T2,P177a)と表示している。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

非人沙門覺應(比丘慧照) 敬識
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)

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