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‡ 最澄 『山家学生式』(六条式)

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1.原文

山家學生式

天台法華宗年分學生式一首

國寶何物。寶道心也。有道心人。名爲國寶。故古人言。徑寸十枚。非是國寶。照千一隅。此則國寶。古哲又云。能言不能行。國之師也。能行不能言。國之用也。能行能言。國之寶也。三品之内。唯不能言不能行。爲國賊。

乃有道心佛子。西稱菩薩。東號君子。惡事向己。好事與他。忘己利他。慈悲之極。

釋教之中。出家二類。一小乘類。二大乘類。道心佛子。即此斯類。

今我東州。但有小像。未有大類。大道未弘。大人難興。誠願 先帝御願。天台年分。永爲大類。爲菩薩僧。然則枳王夢猴。九位列落。覺母五駕。後三増數。

斯心斯願。不忘汲海。利今利後。歴劫無窮

年分度者二人柏原先帝新加天台法華宗傳法者

凡法華宗天台年分。自弘仁九年。永期于後際。以爲大乘類。不除其籍名。賜加佛子號。授圓十善戒。爲菩薩沙彌。其度縁請官印

凡大乘類者。即得度年。授佛子戒爲菩薩僧。其戒牒請官印。受大戒已。令住叡山。一十二年。不出山門。修學兩業

凡止觀業者。年年毎日。長轉長講法華。金光。仁王。守護。諸大乘等。護國衆經

凡遮那業者。歳歳毎日。長念遮那。孔雀。不空。佛頂。諸眞言等。護國眞言

凡兩業學生。一十二年。所修所學。隨業任用。能行能言。常住山中。爲衆之首。爲國之寶。能言不能行。爲國之師。能行不能言。爲國之用

凡國師國用。依官符旨。差任傳法及國講師。其國講師。一任之内。毎年安居法服施料。則便收納當國官舍。國司郡司。相對檢校。將用國裏。修池修溝。耕荒理崩。造橋造船。殖樹殖□[艹+紵]。蒔麻蒔草。穿井引水。利國利人。講經修心。不用農商。然則。道心之人。天下相續。君子之道。永代不斷

右六條式。依慈悲門。有情導大。佛法世久。國家永固。佛種不斷。不任慺慺之至。奉圓宗式。謹請天裁。謹言

弘仁九年五月十三日
前入唐求法沙門最澄上

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2.訓読文

山家学生式

天台法華宗年分学生式一首

国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を、名づけて国宝と為す。故に古人の言く1径寸十枚、是れ国宝に非ず。照千一隅、此れ則ち国宝なり2と。古哲又云く3能く言ひて能く行うこと能はざるは、国の師なり。能く行ひて能く言ふこと能はざるは、国の用なり。能く行ひ能く言ふは、国の宝なり。三品の内、唯だ言ふこと能はず行ふこと能わざるを、国の賊と為す4と。

乃ち道心有るの佛子を、西には菩薩と称し、東には君子と号す。

悪事は己れに向へ、好事を他に与へ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。釈教の中、出家に二類あり。一つには小乗の類、二つには大乗の類なり。即ち此れ斯の類なり。

今我が東州には、但小像のみ有りて、未だ大類有らず5。大道未だ弘まらざれば、大人興り難し。誠に願はくば先帝の御願6、天台年分、長く大類と為し、菩薩僧7と為んことを。然らば則ち枳王の夢猴、九位列り落ち8覚母の五駕、後の三数を増さん9

斯の心斯の願、海を汲むことを忘れず10。今を利し後を利して、劫を歴れども窮り無けん。

年分度者11二人柏原先帝、新たに天台法華宗の傳法者を加ふ

(第一条)
凡そ法華宗天台の年分、弘仁九年より、永く後際を期して、以て大乗の類と為す。其の籍名を除かず12して、佛子の号を賜加し、圓の十善戒13を授けて、菩薩沙彌14と為さん。其の度縁15には官印を請はん。

(第二条)
凡そ大乗の類といっぱ、即ち得度の年、佛子戒を授けて菩薩僧と為し、其の戒牒16には官印を請はん。大戒17を受け已らば、叡山に住せしめ、一十二年18、山門を出ずして、両業19を修学せしめん。

(第三条)
凡そ止観業といっぱ、年年毎日、法華・金光・仁王・守護、諸大乗等、護国の衆経を長転長講せしめん。

(第四条)
凡そ遮那業といっぱ、歳歳毎日、遮那・孔雀・不空・佛頂、諸真言等、護国の真言を長念せしめん。

(第五条)
凡そ両業の学生は、一十二年、所修所学、業に隨ひて任用せん。能く行ひ能く言ふは、常に山中に住して、衆の首と為し、国の宝と為す。能く言ひて行ふこと能はざるは、国の師と為し、能く行ひて言ふこと能わざるは、国の用と為す。

(第六条)
凡そ国師・国用、官符の旨に依りて、伝法及び国講師に差任ぜよ。其の国講師は、一任の内、毎年安居20法服施料21は、即便ち当国の官舍に収納し、国司・郡司は、相対して検校し、將に国裏の池を修し溝を修し、荒れたるを耕し崩れたるを理め、橋を造り船を造り、樹を殖へ□[艹+紵]を殖へ、麻を蒔き草を蒔き、井を穿ち水を引き、国を利し人を利するに用んとすべし。経を講じ心を修めて、農商を用いざれ22。然れば則ち、道心の人、天下相続し、君子の道、永代に断へざらん。

右六条式は、慈悲門に依りて、有情を大に導き、佛法世に久しく、国家永く固ふして、佛種断ざらん。慺慺の至りに任へず。圓宗23 の式を奉り、謹んで天裁を請ひたてまつる。謹しんで言す。

弘仁九年五月十三日
前入唐求法沙門最澄上

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3.現代語訳

山家学生式

天台法華宗年分学生式一首

国宝とは何でありましょうか。宝とは道心であります。道心ある人をこそ、国宝というのであります。故に(支那の)古人は言ったものです、「(戦車の前後を明らかに照らしだす)径寸〈直径3cmの大きな宝玉〉十個があったとしても、それは国宝ではない。千里を照らす一隅を守る者、これがすなわち国宝なのである」と。また、古の哲人はこのようにも言っています、「よく語ることが出来ても、よく行うことが出来ない者は、国師である。よく行うことは出来ても、語ることが出来ない者は、国用である。よく行なってよく語り得る者は、国宝である。これら三種三様の人があるが、しかし、ただ語ることも行うことも出来ないような者は、国賊である」と。

すなわち、道心ある仏教者をして、西(の印度)では菩薩と称し、東(の支那)では君子と号すのです。

悪しき事柄は自らに向かわし、好ましき事柄を他者にあたえ、己を忘れて他を利することは、慈悲の極みというものです。釈尊の教えにおいて、出家修行者には二類の別があります。一つは小乗の類、二つには大乗の類です。そこで、この(忘己利他の)人こそ、この(大乗の)類であります。

今、我が東州〈日本〉には、ただ小像〈小乗に類した教え〉のみがあって、いまだ大類〈真の大乗の宗〉がありません。大道がいまだ広まらないでいるならば、大人が現れることは難しいでしょう。誠に願わくば、先帝〈桓武天皇〉の御願でもあった天台宗の年分度者をもって、以降は大類の僧として、「菩薩僧」とされんことを。そうすれば、訖哩枳王の夢に現れた(十匹の)猿のうち九匹はまたたくまに追いやられ、文殊菩薩の(羊乗行・象乗行・月日神通乗行・声聞神通乗行・如来神通乗行)という五つの籠のうち、(菩薩乗であって無上正等正覚を得ることが定まっている)後の三つは、その数をいよいよ増して繁栄することになるでしょう。

この(私の)心、この(最澄の)願いは、(尽きること無い)海の水を汲み出しつづけるかのようなものであって、今の世を利し、後の世を利して、劫を歴たとしても極まることが無いものです。

年分度者二人柏原先帝は、新たに天台法華宗の伝法者を加えられたのである

(第一条)
法華宗天台の年分度者は、弘仁九年より永く後世のために、これを大乗の類とする。その(民部省所管の)本籍を除かずに、ただ「仏子」とだけ追記し、圓の十善戒を授けて、(まずは)菩薩沙弥とする。その度縁には、(太政官の)官印を請うこと。

(第二条)
大乗の類とは、すなわち得度の年に、仏子戒を授けて菩薩僧とし、その戒牒には官印を請うこと。大戒を受け終わったならば、比叡山に住させ、十二年間、山門から出させること無く、(顕教と密教との)両業を修学させる。

(第三条)
止観業は、年々毎日、『法華経』・『金光明最勝王経』・『仁王般若経』・『守護国界経』など、諸々の大乗経典など護国の諸経典を長転・長講させる。

(第四条)
遮那業は、歳歳毎日、大毘盧遮那佛(大日如来)・孔雀明王・不空成就・一字金輪仏頂など、護国の真言を長く念誦させる。

(第五条)
両業の学生は、十二年間、その修行と修学する内容について、(年分度者として止観業か遮那業かいずれかの)業にしがたって任用させる。よく行い、よく語り得る者は、常に比叡山中に住み、衆僧の上首として、国宝とする。よく語って行うことが出来ない者は、国師となし、よく行うけれども語ることの出来ない者は、国用[こくゆう]とする。

(第六条)
国師・国用は、太政官符の旨に従って、伝法師および国講師に任ずること。その国講師は、一任のうち、(国から支給される)毎年の安居における袈裟代としての布施は、ただちに当国の官舎に収納する。国司・郡司は、(それを)相対して管理・監督し、国中の池を修し、溝を修し、荒れた地を耕し、崩れた地を理め、橋を造り、船を造り、樹を殖え、紵[お]を殖え、麻を蒔き、草を蒔き、井戸を穿ち、水を引き、国を利し、人を利するために用いなければならない。(国講師は)経典を講じて心を修め、農業・商業に関わってはならない。そのようにすれば、道心の人は、天下世間に絶えること無く、君子の道は永代に絶えることはない。

右の六条式は慈悲門によるものであり、(これに基いたならば)衆生をおおいに導き、仏法をして世に久しく留め、国家は永く確固たるものとなって、仏教の命脈が尽きることは無いでありましょう。慺慺の至りに任えず。圓宗〈天台宗〉の式を奉り、謹んで天皇のご裁断を請いたてまつる。謹しんで申し上げます。

弘仁九年(818)五月十三日
前入唐求法沙門最澄上

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4.脚注

  • 古人の言く…ここにいう古人とは、斉の威王。→本文に戻る
  • 径寸十枚、是れ国宝に非ず云々…一般には「径寸十枚、是れ国宝に非ず。一隅を照らす、此れ則ち国宝なり」などと訓じられ、人口に膾炙されてきた言葉。しかしながら現代、それは明らかに誤読であることが判明している。
     現存する最澄自筆の書(国宝・延暦寺蔵)を見ると、確かにそれは「照一隅此則國寶」とどう見ても「千」であって、「于」では決してない(解題の画像を参照のこと)。
     これを「照于一隅此則國寶」と採って「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」と読むのは、そもそも最澄が引用した原典の意とずれ、また当然最澄が意図したものとも異なったものとなるであろうから、正された理解を用いるべきであろう。
     上の訓読文で示したように、「径寸十枚」と「照千一隅」とは対句となっているため、「径寸十枚、是れ国宝に非ず。照千一隅、此れ則ち国宝なり」と読むことが正しく、文章としても美しい。
     近年は、誤読であったことを認めた人々によってしばしば行われている、「照千一隅」を無理やり「一隅を守って千里を照らす」などと文法を無視し、無い文字をはめ込んで訓読するのは、その文意を説明しようとせんがためのものであろうけれども、恣意的に過ぎるように思われる。
     さて、この一節は、天台宗大六祖たる荊渓湛然[けいけい たんねん](最澄が唐で師事した道邃・行満の師にあたる人)が著した、智顗の『摩訶止観』の注釈書、『止観輔行伝弘決』にある一節の趣意である。
     すなわち「如春秋中齊威王二十四年。魏王問齊王曰王之有寶乎。答。無。魏王曰。寡人國雖爾乃有徑寸之珠十枚。照車前後各十二乘。何以萬乘之國而無寶乎。威王曰。寡人之謂寶與王寶異。有臣如檀子等。各守一隅則使楚趙燕等不敢輒前。若守寇盜則路不拾遺。以此爲將則照千里。豈直十二乘車耶。魏王慚而去」(T46. P279b)を引いたもの。
     そもそもこの一節は、湛然が司馬遷『史記』巻四十六「田敬仲完世家」第十六にある、「魏王問曰王亦有寶乎。威王曰無有。梁王曰若寡人國小也。尚有徑寸之珠照車前後各十二乘者十枚。奈何以萬乘之國而無寶乎。威王曰寡人之所以為寶與王異。吾臣有檀子者。使守南城。則楚人不敢為寇東取。泗上十二諸侯皆來朝。吾臣有子者。使守高唐。則趙人不敢東漁於河。吾吏有黔夫者。使守徐州。則燕人祭北門。趙人祭西門。徙而從者七千餘家。吾臣有種首者。使備盜賊。則道不拾遺。將以照千里。豈特十二乘哉。梁惠王慚。不懌而去」から引用したものであった。
     ただ「照千一隅。此則國寶」ではまったく意味不明であるが、それは先行する「徑寸十枚。非是國寶」の対句となるよう、最澄は文辞を整えたのであろう。
     当然ながら、最澄が意図したところは、『止観輔行伝弘決』にある「各守一隅〈中略〉以此將則照千里(各々が一隅を守り〈中略〉それがすなわち千里を照らす)」にある。すなわち「(我が国には物理的に強い光を放つ宝玉などは無く、またそれは我が国では宝とは言わない。)我が国では、臣下それぞれが己の持場・領分を守っており、そのそれぞれはあたかも我が国の千里(すみずみ)を照らしだしているかのようであって、それが我が国の宝である」ということ。
     今世間でもそう解されているように、最澄は文字上の些細な違いにも非常に気を払う、学者肌の人であったのであろう。詩的な才能は決して豊かではなかったようであるけれども、その性格は、その飾り気なく簡素でしかし確かな書風に現れ、そして彼の遺した著作の内容によく顕れていると言える。
     しかし、その最澄に発した日本の天台宗としては、この一節について現代に至るまで誤った理解をし、さんざん世間でもこれを宣伝文句としており、また愛着(?)も出来てしまい、もはや後戻りが出来ないであろう。故に当然、「一隅を照らす」と読み続ける他ないのであろう。通俗の、中身が無く意味不明で、しかしながら語感だけは良いキャッチフレーズとして「一隅を照らす」はいいのであろうけれども。
     完全に誤読していたことを理解していながら、「いや、しかし、誤読であったとしても、お祖師様たる伝教大師最澄の意図されたことと少しも違わないのであるから、やはり一隅を照らすで良いのだ」などといった主張には、実に失笑を禁じ得ない。最澄は、南都の僧綱や学僧らに反論・批判するときに、出典の読みが浅いだとか誤読であるとか、不適切な引用をするなだとか、相当攻撃的に言い立てているのであるから。
     これは天台宗などに限ったことではないが、間違っていることがわかっても正せなくなってしまう、そのような負の側面が、伝統や伝承ということにはつきものである。→本文に戻る
  • 古哲又云く…同じく荊渓湛然の『止観輔行伝弘決』にある一節。「牟子」の言葉であるという。
     「後漢靈帝崩後。獻帝時有牟子深信佛宗。譏斥莊老著論三卷三十七篇。第二十一救沙門譚是非中。立問云」(T46. P279a→本文に戻る
  • 能く言ひて能く行うこと云々…湛然『止観輔行伝弘決』にある「後漢靈帝崩後。獻帝時有牟子深信佛宗。譏斥莊老著論三卷三十七篇。第二十一救沙門譚是非中。立問云。老子曰。知者不言言者不知。又云。大辯若訥。又曰。君子恥言過行。設沙門知至道何不坐而行之。空譚是非虚論曲直。豈非徳行之賊耶。答。老亦有言。如其不言吾何述焉。知而不言不可也。不知不言愚人也。能言不能行國之師也。能行不能言國之用也。能行能言國之寶也。三品之内唯不能言不能行。爲國之賊」(T46. P279a)を引いた言。→本文に戻る
  • 今我が東州には云々…最澄の当時、すでに平城京には南都六宗といわれる華厳宗・法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・律宗の六宗があった。そのうち、華厳宗・法相宗(唯識)・三論宗(中観)が大乗であり、倶舎宗は説一切有部の『倶舎論』を、成実宗は経量部の『成実論』を特に研究する宗派である。律宗は主として律蔵や支那の南山律宗の諸典籍を修学する宗派で、いわば大小に通じる宗派と見なされていた。
     これらは今でいうような宗派ではなくむしろ「学派」であって、それぞれ兼学されていた。たとえば倶舎宗は法相宗に、成実宗は三論宗に、律宗は諸宗通じてと、それぞれ大乗の基礎学として、いわば付随して学ばれる宗であった。また、法相宗であるから三論や華厳を学ばない、学ばないで良いなどということはなかった。ただ仏教諸派の中で、自身が何を「宗」とするかによるのみで、皆広く諸派を学んでいた。
     もっとも、解題で示したように、そのような六宗それぞれに属する僧が誕生することになったのは、最澄の上表がきっかけであった。最澄の天台法華宗に二名の年分度者が初めて許されるのと同時に、総計十名の年分度者が六宗それぞれに振り分けられるようになったのである。それまでは法相と三論と各五名のみ認められていただけで、華厳宗や律宗等の僧侶なる者は存在しなかった。それらはまさしく学科・学派とでも言うべきものとしてあっただけで、いわゆる「宗」として存在していたのは三論宗と法相宗のみであった。
     ところで、この言は、いわば最澄による南都六宗に対する非常なる挑発的文言であった。なんとなれば、南都六宗の大乗の僧であっても、彼はこれを「小像」と言い、みずからをのみ「大類」と称しているのであるから。
     実際、彼にとっては、南都六宗の特に法相宗は、最澄が標榜する「法華一乗」思想に真っ向から反する宗派であると同時に、自分(天台宗)の門徒が東大寺戒壇院に受戒に行ったら最後、たちまち転向して帰ってこなくなってしまう受け皿であり、故に憎き敵であった。→本文に戻る
  • 先帝の御願…先帝とは、この時から十二年前の昔すでに延暦廿五年(806)三月十七日に崩御していた桓武帝。桓武帝の肝いりによって、最澄の天台宗が立宗が認められたことを殊更に主張している。
     桓武天皇は没後、柏原山陵に埋葬されたことから柏原帝[かしわばらのみかど]とも言われる。→本文に戻る
  • 菩薩僧[ぼさつそう]…大乗の比丘。もっとも、ここで最澄は先に自身が述べた「東州には但小像のみ有りて、未だ大類有らず」を受け、「大乗の教えのみによって僧侶となった純粋(ぴゅあ)に大乗な僧侶」を意図している。それをどのようになすかは以下に述べられる。→本文に戻る
  • 枳王の夢猴、九位列り落ち…枳王とは訖哩枳王[きりきおう](作事王)の略。「枳王の夢猴」とは、『守護国界主陀羅尼経』巻第十「阿闍世王受記品」第十にある一節を指す。「彼時有王名訖哩枳。於彼如來深生淨信。王於中夜得二種夢。一者夢見有十獼猴。其九獼猴攝亂城中。一切 人民妻妾男女。侵奪飮食破壞什物。仍以不淨而穢汚之。唯一獼猴心懷知足。安坐樹上不擾居人。時九獼猴同心惱亂。此知足者作諸留難。驅逐出於獼猴衆會」(T19. P572b
     過去七仏の一仏、迦葉仏の父であった訖哩枳王は二つの夢を見たが、そのうちの一つ。その夢とは、十匹の猿(獼猴)が登場するもので、九匹は城中にて人々に乱暴狼藉を働いたが、一匹の猿だけは樹の上で騒ぐこと無く満足し、人々を脅かすことが無かった。ついにその一匹の猿は、九匹の悪猿によって追い出される、という夢。訖哩枳王は、この夢の意味について迦葉仏に問う。すると迦葉仏は、十匹の猿とは、未来の「五濁悪世」に出現する釈迦牟尼仏の十種の弟子(沙門)であると言う。第一から九までの種の沙門は悪しく怠惰で仏教において不利益をなす「相似沙門」であって、第十の沙門こそは真正なる「真実沙門」であるが、他の九種の悪沙門から誹謗中傷され、国王など為政者にも讒言されて、ついに国外に追放されてしまう。しかし、釈迦牟尼の教法は、微塵もそのような悪沙門らや天魔によっても損なわれることはない、という話。
     ここで最澄がこの話を引いて言わんとしているのは、「自分最澄こそまさしくその他の猿から誹謗されているただ一匹の正しい猿であり、南都六宗の僧らは九匹の悪しき猿どもである」ということ。これも相当に南都六宗を挑発した言辞である。最澄の追い詰められた心情から吐き出された言であったろう。→本文に戻る
  • 覚母の五駕[ごか]、後の三数を増さん…覚母[かくも]とは文殊師利(Mañjuśrī[マンジュシュリー])いわゆる文殊菩薩のこと。出典が明瞭でないため定かではないが、五籠とはおそらく『不必定入定入印経』にある、釈尊が文殊師利に対して説かれた五種菩薩を譬えたもの。
     その五種とはすなわち、①羊乗行・②象乗行・③月日神通乗行・④声聞神通乗行・⑤如来神通乗行。前ニ者は小乗か菩薩乗か不確定のものであるが、後の三者は菩薩乗であって無上正等正覚を得ることが定まったものであると説かれている。
     「佛言。文殊師利。此中則有五種菩薩。何等爲五。一者羊乘行。二者象乘行。三者月日神通乘行。四者聲聞神通乘行。五者如來神通乘行。文殊師利。如是名爲五種菩薩。文殊師利。初二菩薩。不必定阿耨多羅三藐三菩提退無上智道。後三菩薩。必定阿耨多羅三藐三菩提不退無上智道」(T15. P699c)。→本文に戻る
  • 海を汲むことを忘れず…『賢愚経』巻八「大施抒海品」第三十五にある一節が意図された言葉。摩訶闍迦樊(大施)という名の太子(王子)が、国民を助けるために如意宝珠を得ようと海の水を汲み出そうと誓ったという話。
     「我今所願。欲辦大事。設復貪身。事何由成。以身布地。伏父母前。而自言曰。若必顧留。違我志願。伏身此地。終不復起。《中略》我今躬欲入海採寶。誰欲往者。 可共倶進。我爲薩薄。自辦行具。《中略》會當盡力抒此海水。誓心剋志」(T4. P406b-408b)。→本文に戻る
  • 年分度者[ねんぶんどしゃ]…「年分」とは年間のことで「度者」とは得度者のこと。当時、各宗派から出家得度する人数は国家によって定められていたが、その国家によって定められた年間の得度者のこと。最澄の天台宗では年間の定員二人が許されていた。
     解題ならびに先に述べたように、最澄の当時、新たに天台宗に二名の年分度者が許されるまでは、法相宗と三論宗の各五名、都合十名のみが年分度者として許されていた。しかし、最澄が天台宗に年分度者の割当を求めたのと同時に、それまでの体制を改めることも上奏。ついに法相宗と三論宗のみで十名ではなく、これを各宗に割り振って、法相・三論・華厳・律宗それぞれに二名、そして倶舎宗と成実宗に各一名で都合十名とする体制となった。これに新来の天台宗の年分度者二名が加わり、総計十二名の年分度者が定められた。
     この最澄の上奏による体制改革の背後には、強大になりすぎた南都六宗(特に法相・三論)のあり方に手を入れたかった桓武帝の強い意向があったと思われる。
     なお、この制は支那に始まるもので本朝もこれを模したのであるが、両国ともに国家がはじめから無闇に仏教を管理しようとして始めたものではない。貴族の子弟や平民から、「租庸調逃れ」すなわち脱税や苦役逃れのために、「偽って出家者となる者」が甚だ多く出て混乱したため、そのような無法を規制する為に始まったのであった。
     現代においても、宗教法人を脱税や資金洗浄のための隠れ蓑にしていたり、その経済の好調不調を問わず、寺や神社をただ生活のためだけに経営していたりする輩が多くある。実はそのような者らの思考や方法は、奈良期以前の昔から行われていたことであった。此の点、人の考えること・行うことは、今も昔も変わらないのである。→本文に戻る
  • 其の籍名を除かず…当時、出家者は治部省所管であった。故に一般人の戸籍(籍名)は民部省所管であったが、人が出家する際にはこれが削除され、僧籍として治部省に移された。僧籍という言葉は、文字通り「僧侶としての戸籍」であって、それは国家に管理されていたからのものであった。しかし、最澄はその行政上の手続きについて、天台僧に関しては従来通りではない方法に変更することを求めている。
     何故か?何故、最澄はこのような委細な点についてまで変更することを求めたのか?それは、もしまた天台の年分度者となった者が他宗に転向しようとしたとしても、治部省に「僧籍」が無ければ転向できなくなるためである。
     当時、僧となった者は、民部省から治部省に「戸籍」が移されたので、もし所属する宗が変わっても「僧」という立場はそのまま認められたのであった。しかし、(他宗から天台に転向した者を除いて)あらたに天台の年分度者として「僧」となった者が、従来のようにその戸籍を民部省から治部省に動かさず、名の上にただ「仏子」と加筆するのみであったならば、戸籍からいうと「在俗者」のままである。故に、その者が他宗に転向しようとしても、戸籍が「僧籍」では無いために出来無いのである。
     最澄は、このような行政上の僧侶の戸籍手続きについて従来と変更することで、「天台宗から絶対に逃してなるものか」と、まず行政的に拘束しようとしていたのであった。しかも、これを第一条に挙げていることは、最澄にとってこれぞまさに「自宗の僧徒を縛る最大に有効なる手段」であると思いついたからこそのことであろう。
     最澄が何故にこのような行政上の手続きの変更を第一条に挙げて求めているのか、最初わたくしは理解できなかった。が、何の事はない。そもそも『山家学生式』とは、「最澄のスグレタ教育理念を表したもの」でも「最澄の純粋な大乗を希求する宗教的信条が発露したもの」などでも到底無く、それまで相次いだ天台僧徒の離散を防ぐ目的で表されたものであることを考えれば、たやすく得心のいくことであった。
     そしてここに、最澄の「それまで天台の年分度者となっていながら他宗に転向した多くの者ら」への強い憤りと怒りを感じることが出来よう。→本文に戻る
  • 圓の十善戒…どの十戒をいうか明瞭でない。私見では、最澄はわざわざ「圓」などと付けているが、要するに十善戒であろうと思う。十善戒についての詳細は別項“十善戒”を参照のこと。
     ただし、ここにいう十善戒を、『梵網経』の十重禁戒であると見るもの者もある。しかし、そうすると最澄が主張するところの「大戒」である十重四十八軽戒との兼ね合いがつかなくなる。
     いずれにせよ、沙弥となるための十戒は、これは大乗であろうが小乗であろうが、十善戒でも十重禁戒でもない「十戒」である。故にここでの最澄の主張はなんら根拠の無い独自説にすぎない。沙弥出家するおりに授けられる十戒については、別項“十戒”を参照のこと。
     このような最澄の主張からは、彼の「とにかく旧来のやり方は全部捨てる。南都六宗などと共通する行事はすべて排除して独自路線をとる。それによって、たとえまた自宗の者で他宗に転向しようとする者が出たとしても、決して転向できぬようにする」という執念が汲み取れる。→本文に戻る
  • 沙弥[しゃみ]…具足戒を受けていない仏教の男性出家者。いわば見習い的な立場で、僧伽の構成員には入らない。 詳しくは別項“沙弥”を参照のこと。
     当時の日本では、どの宗の年分度者であろうとも「出家得度式」はそれぞれの寺院ではなく、毎年正月八日から十四日に行われた御斎会[みさいえ / ごさいえ]の後の、宮中において行われていた。→本文に戻る
  • 度縁[どえん]…出家得度(沙弥出家)した者に、朝廷(太政官)から発行され玄蕃寮を通して交付された出家証明書。得度の師の名・寺院(場所)・俗名ならびに僧名と日付が書かれる。度牒[どちょう]とも言われる。公験[くげん]の一種。→本文に戻る
  • 戒牒[かいちょう]…出家後、具足戒を受けて比丘となった者に、朝廷(太政官)から発行され玄蕃寮を通して交付された受戒証明書。鑑真和上の渡来によって始められた受戒制度に伴って発行されるようになった。
     沙弥は具足戒を受戒することによって正式な仏教の出家者となるが、戒牒はその公的証明書。授戒の師(三師七証の名)・戒壇(場所)・僧名ならびにその日付(年月日と時間)が書かれる。
     もっとも、最澄の当時は度縁の他に戒牒を発行せず、度縁自体に受戒の日時等を追加記入することに由って戒牒としていた。→本文に戻る
  • 大戒[たいかい]…大僧戒の略。一般には具足戒(二百五十戒)のことであるが、最澄はその独自の主張によって、梵網戒(十重四十八軽戒)をもって大戒であるとした。 最澄はこれが正規の菩薩僧の大戒であって、大乗としてインド以来の正統であると主張した。しかし、実際そのようなことは全くなく、それは世界的にみても極めて異常な主張であった。最澄の主張を支えるまともな根拠はどこにも無いのである。
     梵網戒についての詳細は別項“十重禁戒(十重四十八軽戒)”を参照のこと。→本文に戻る
  • 一十二年…天台の年分度者が「一人前」になるため比叡山に籠山しなければならないとされた期間。
     最澄によれば、これを十二年間としたのは『蘇悉地羯羅経[そしつじからきょう]』(密教経典)に基づいてのことであるという。最澄は、僧綱などから「十二年籠山させる根拠は何か」と問われ、そう答えている。僧綱が最澄の主張に対して一一その根拠を質しているのは、最澄が「国家の制度としての認定」を求めているためでもあった。「仏教として」何事かを行うのであれば、仏教の典拠が求められるのは当然のことであるが、国家の制度として定めるにも、やはりその主張のすべてに根拠が要求されるのである。
     最澄『顕戒論』「開示住山修學期十二年明據四十六 謹案。蘇悉地羯羅經中卷云。若作時念誦者。經十二年。縱有重罪。亦皆成就。假使法不具足。皆得成已上 經文明知。最下鈍者。經十二年。必得一驗。常轉常講。期二六歳。念誦護摩。限十二年。然則。佛法有靈驗。國家得安寧也」(T74. P614a-b
     この、最澄が発案した「十二年間、拘束された状態で天台もしくは密教を修学しなければ天台の僧徒として正式に認めない」という対策。十二年間、強制的に拘束!これは冷静に考えると、かなり異常なことである。実際、当時もこれが「異常である」と見られたからこそ僧綱に激しく批判され、またその仏教としての根拠が求められたのである。おそらく最澄自身、弱冠の頃から桓武帝に内供奉十禅師として召し抱えられるまで、およそ十二年間比叡山にあったことに事寄せたのであろう。しかし、それは「根拠」にはならない。事実、そこで最澄が『顕戒論』で挙げた密教経典の一節は、その根拠としてはこじつけたような苦しいものであると感じられるが、しかしそれ以外に出しようもなかったのであろう。
     結局、十二年間他律的に籠山させて教育しなければ、また再び逃げ出す者が出てしまうのではないか、という最澄の強い恐れがあったからのことであったろう。少なくとも最澄自身は自主的に比叡山に籠もっているが、彼がここで主張している方策は、僧の自主性・自立性など全く顧みられない、まったく非仏教的なものである。これを一体どうして「教育的」などと言えるであろうか。日本ではそのような自主性・自立性の排除を「教育」あるいは「しつけ」などと言うのであろうか。
     現代の日本仏教における諸宗派のほとんどの僧堂で行われる「修行」・「加行」などというものでは、およそ自主性・自立性そしてまた個性などまったく顧みられず、ひたすら僧を均一化・没個性化させるために暴力的(Boot Camp的)ですらある「しごき」が繰り返されている淵源は、最澄のこのような「籠山行」を強制することを良しとした精神にあると言えるかもしれない。
     もっとも、日本でなんとなく僧を志す者や、家業として僧を継がなければならない者のほとんど多くが、忌憚無く行ってしまえば低能・無能ぞろいで、しかも「それを早急に仕上げること」が求められる昨今の一般的風潮も手伝って、そうでもしないと「人前に出せたものでない」ことがあるのであろう。
     現在の日本のほとんどの宗派においては、そもそも仏教思想や精神云々など初めから顧みられておらず、とりあえず外見だけ取り繕わせれば良い程度のことであるからこそ、どこでもそしていつまでも「しごき」が繰り返されるように思われる。このことについて世間の一部では稀に問題視されることがあるようだけれども、解決されることは決して無い。→本文に戻る
  • 両業[りょうごう]…止観業[しかんごう]と遮那業[しゃなごう]。ここでの業とはいわば専門課程のこと。すなわち、『摩訶止観』を始めとする天台の諸典籍(顕教)を専らに修学する課程と、『大日経』ならびに『金剛頂経』(後には『蘇悉地経』が加えられる)など密教の経論を専ら修学する課程。最澄による日本天台宗は、そのはじめから天台と密教とを併せ志向したものであった。
     ここで最澄は、「国家鎮護のために、天台宗の年分度者二名には、それぞれ斯く斯く然々のことをさせますよ」と朝廷に訴えているのである。後代、鎌倉期になると、日本天台宗が密教至上主義を取り出したのは円珍以降であって、円珍などは邪教徒であると批判する者(日蓮)が出てくるが、そもそも最澄は密教と天台を同列においていたのであった。→本文に戻る
  • 安居[あんご]…仏教の出家者(比丘)が一箇所に留まって瞑想・修学に励む一年の内の(雨季の)三ヶ月間を言う言葉。これをサンスクリットでvarsa[ヴァルサ]、パーリ語でvassa[ヴァッサ]というが、その意は「雨季」。安居はその内容をとって意訳された語。
     古代インド歴でのその三ヶ月を現代の太陽暦にて言えば、おおよそ七月から十月で、まさしくインド亜大陸から東南アジアのモンスーン(雨季)の時期。本来的には全世界において同時に行われなければ様々な齟齬をきたしてしまい大きな問題となるのであるが、インドから程遠く、その暦も気候も知らない日本では、旧暦の四月十五日から七月の十五日に安居が行われた。
     今日本で行われている「お盆」とは、この安居の最後の日である自恣[じし](解夏[げげ])にあたり、この日に僧伽に飲食を布施して供養することは大なる功徳が得られ、それを餓鬼に回向することで、餓鬼道にある親族などを救おうとする行事であった。
     安居は仏教の出家者にとって甚だ重要な期間であり、仏教の出家者の席次は、この安居を具足戒を受けた後にどれほど重ねたかにのみよる。そしてその出家者としての年齢のこと、すなわち具足戒を受けてから何回の安居を過ごしたかを、法臘[ほうろう]あるいは戒臘[かいろう]という。なお、梵網戒を受けただけでは比丘となれないため、安居に参加することは出来ない。また、万一参加したとしても、それで法臘が重ねられることもない。→本文に戻る
  • 法服施料[ほうぶくせりょう]…法服とは袈裟のこと。当時、仏教僧とは治部省玄蕃寮に管轄されるもので、国講師(講師[こうじ]・読師[とくし])に任じられた者は一種の官人であったため、毎年の安居の際には国からそれら僧侶に対して高級布(絹や綿など、実質的には金銭)および食料の給付が定められていた。
     たとえば時代が少々下るが、その一例として『延喜式』巻二十六 主税上に「凡諸国金光明寺安居者三宝布施絲卅斤。講読師法服各絁五疋。布施講師絁十疋。綿廿斤布廿端。《中略》其供養。講読師日米各六升四合。飯料二升。●粥四合。雑餅四升。大豆小豆各五合。油二合。醤酢未醤各一合。海藻滑海藻於期菜各三両。大凝菜芥子各一両。紫菜二合。塩一合ニ勺。」と定められている。官僧は国からかなり手厚い待遇を受けていたことが知られるであろう。
     最澄は、この国から支給される物品の内、法服料として支給される絁[あしぎぬ]をのみ国庫に納め、国司はそれをもとに公共施設(インフラ)整備のために使うことを求めている。→本文に戻る
  • 農商を用ひざれ…仏教の出家者は、いかなる農耕・商売もしてはならない。巷間では、例えば禅宗の一部に自給自足的生活を送る者らがあって、これを尊しとする見方がある。しかしながらそれは、実は仏教の出家者としては全く非法の習いである。それはいわば道教的ありかたであって、仏教の出家者としては尊べたものではない。
     農耕や牧畜などして自給自足することが尊く、素晴らしいと思うのであれば、僧ではなくみずから在俗にて畜産家か農家などになって性を出し、あくまで在家信者として暮らしていけば良いのである。
     もっとも、ここではわざわざ最澄が農・商を禁止する文言を入れているのは、当時それを為している者らが少なからずあったことが予想される。→本文に戻る
  • 圓宗[えんしゅう]…日本天台宗。最澄が頻繁に「圓」(完全)という形容を自身の宗派に関する語句にひっつけて用いているが、それは智者大師智顗[ちぎ]による教相判釈である「五時八教説」に基づく。
     智顗は、すべての仏教経典を分類して五つの段階(五時)で説かれたものとし、その内容を化儀四教と化法四教との八種類(八教)に分類した。圓教とは化法の四教のうち最高のもので、それこそが天台の教えであると主張した。→本文に戻る

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