真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『阿留辺畿夜宇和』(7)

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31.人の過を

本文 (原文 附現代語訳)

人の過[とが]を云程の者は、我身に*1 のなきをりの事也。徳と云は得なりとて、徳を好む人にあるなり。人の過をのみ求[もとむ]れば過のみこそあれ、更に徳の住処にては無[なき]なりと云々。

他人の過失(短所)を(やたらと)言い立てる者は、自分自身に徳が無いのである。徳というのは得であると言って、徳を好む人にあるのである。他人の過失(短所)をのみ見いだして責め立てようとするのは(逆に自分の)過失にしかならないだけでなく、さらに徳を身につけることにもならないのだ。

語注

  • 徳[とく]…日頃の善行によって次第に備わる、あるいは前世の善行によって生来的に備わる優れた性質。→本文に戻る

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32.若仏の

本文 (原文 附現代語訳)

若[もし]仏の在世にあらば、何[いず]れの沙弥[しゃみ]*1 法師にだにも及ぶまじき身にて、師の気色[けしき]する、浅猿[あさまし]き事也。

もし、仏陀が健在の時代にあれば、どのような(道半ばにして不威儀・不勉強の)沙弥にですら及ばないような者が、(最近はいっぱしの)師匠面しているが、浅ましいことだ。

語注

  • 沙弥[しゃみ]…具足戒を受けていない年少の見習い僧侶。小僧あるいは雛層[ひなそう]などとも言う。基本的に、数え二十歳となれば具足戒を受け正式な僧侶、比丘[びく]となるが、二十歳をすぎても比丘とならず終生沙弥のままの者もあった。詳細は“戒律講説”の“仏教徒とは何か”の各項を参照のこと。→本文に戻る

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33.我常に

本文 (原文 附現代語訳)

我常に志ある人に対して云、「仏になりても何かせん。道を成しても何かせん。一切求め心を捨[すて]はてて、徒者[いたずらもの]*1 に成[なり]還りて、兎も角も私[わたくし]にあてがふ事なくして、飢来れば食し、寒来れば被る*2 ばかりにて、一生はて給はば、大地をば打はづす*3 とも、道をうちはづす事は有まじき」と申[もうす]を、傍にて人聞て、さては徒ら者に成たるがよき事ござんなれと、我も左様にならんと思て、飽[あく]まで食し、飽まで眠り、或[ある]は雑念に引れて時を移し、或は雑談を述[のべ]て日を暮し、衆[しゅ]の為に墓無き益をもなさず、寺の為に仮にも扶[たす]けにならず、明[あけ]ぬ暮[くれ]ぬと過[すぎ]行て、我こそ何もせずして徒者に成ぬれと思はば、是は畜生[ちくしょう]*4 のいたづら者に成還りたり。是[か]くの如くならば、必定[ひつじょう]して地獄の数と成べし。何ぞ仏果[ぶっか]を成[じょう]ぜんや。
我いふ所の徒者といふは、先[まず]身心を道の中に入れて、恣[ほしいまま]に睡眠せず、引[ひく]ままに任て雑念をも起さず、自由なるに随て坐相をも乱らず。終日[ひねもす]終夜[よもすがら]、志此[か]くの如くして、能[のう]をも嗜[たしな]まず、藝[げい]をも求めず*5 、仏に成らんとも思はず、道を成ぜんとも願はず。人中の昇進更に投捨て、一切求る心なくして、徒者に成かへりて一生はてんと、大願を立給へとなり。
仏に成らむと思てこそ、出家学道をもするに、仏に成んとも思ふなと云ふ、畏[おそ]ろしなんど疑ふべからず。左様にては、道を成ずる事は更にあるまじきなり。我は人を仏になさんとこそ思へ、人を邪路に導かんとする事はなし。但[ただし]我を憑[たより]て信ずるとならば、此の方便を信ずべし。生涯此くの如くの徒者に成還らば、豈[あに]徒[いたずら]なる事あらんや*6 

私が常に志ある人に対して語っている、「仏となったとしてもそれが何だというのか。道を成就させてもそれがどうしたというのか。すべての求める心を捨て去り、徒者[いたずらもの]に成り下がって、兎にも角にも自分でどうこうしようと考えること無くして、飢えたら食べ、寒くなったら着るなどというだけで、一生を過ごせば、大地を踏み外すことはあっても、仏道を踏み外すことはないだろう」という言葉を、傍で(志も無い愚かな出家の)人が聞いていて、「なるほど徒者になることが善いことなのか、では私もその様な者になろう」と思い、飽きるまで食べ、飽きるほど眠り、あるいはあれこれと下らぬ事に心を引かれながら時を過ごし、あるいは雑談にふけって日々を送り、他の僧侶の為にごく小さな事でも為になることをなさず、寺の為にいささかの助けにもならず、明けぬ暮れぬと(無意味に)過ごして、「私こそ何もしないで徒者になれたのだ」などと考えたのならば、これは獣の徒者に成り下がったにすぎない。この様な者は、必ず地獄に堕ちてその住人の一人となるだろう。なんで(この様な者が)仏道を成就することが出来ようか。
私が言うところの徒者[いたずらもの]とは、まず(自分の)身も心も仏道修行の中に置いて、好きなだけ寝ることなどせず、心が動くままにまかせて心を動揺させず(何事にも集中して)、自由であるけれども瞑想中の姿勢は乱れないことである。終日終夜、志はこの様な(堅固な)ものであって、能などたしなまず、(音楽・舞踏・絵画など)芸能を求めず、仏になろうとも思わず、道を成就しようとも願わないことである。人事の昇進など(出世の欲など)ますます投げ捨てて、すべての求める心をなくして、徒者となって一生過ごそうと、大願を立てなさいと言うのである。
仏になろうと思ったからこそ、出家して仏道を修行するというのに、「(明恵上人は)仏になろうなどと思うな」と言う、(これを)恐ろしいことを言うものだなどと疑ってはならない。その様な事では、仏道を成就することは決してないだろう。私は人を悟りに誘おうとこそ思いはしても、人を邪[よこしま]な道へ誘[いざな]おうとすることはない。しかし私のことを頼り信じるのであれば、この(私の言う「仏になろうなどと思うな」「徒者になれ」という)方便を信じよ。生涯この様な(私の言う意味での)徒者に成りかえれば、どうして無益なことがあろうか。(必ずや悟りへと近づいていくだろう。)

語注

  • 徒者[いたずらもの]…なにもしない者。無用の人。→本文に戻る
  • 飢来れば食し、寒来れば被る…『景徳伝燈録(けいとくでんとうろく)』や『臨済録(りんざいろく)』など、支那の禅書にみられる大珠慧海禅師の言葉「飢来喫飯困来眠著」を引いたか。もっとも、「困[つか]れ来たらば眠りに著[つ]く」と「寒来れば被る」の違いはある。明恵上人の言うとおり、この言葉通りを行ったら、『孟子』にいうところの「飽食暖衣 逸居して教無くば、則ち禽獣に近し」で、ただの獣でしかない。臨済禅を日本に伝えた栄西禅師と交際があった明恵上人も、多少なりとも禅を学んでいたか。
    ちなみに、禅を信州で学んだ慈雲尊者も、この大珠慧海禅師の言葉を引用して弟子を教導している(『慈雲尊者短編法語集』)。→本文に戻る
  • 大地をば打はづす…決して失敗しそうにないことを失敗すること。【岩波】では「諺に「大地に槌」」と注している。「大地に槌」とは、地面に槌を打ち付けることで、絶対に失敗しないことの喩え。→本文に戻る
  • 畜生[ちくしょう]…鳥虫魚獣など、動物一般。→本文に戻る
  • 能[のう]をも嗜[たしな]まず云々…出家者が、世間の芸能を鑑賞したり、関わったりなどしてはならない。これは戒と律いずれもが禁じている事項である。しかしながら、これは現在も同様であるが、当時も僧侶が芸能事に関わるのは義務、あるいは必須のたしなみの一つであるが如く顔をし、それにうつつを抜かす輩が多数あったようである。→本文に戻る
  • 豈[あに]徒[いたずら]なる事あらんや…どうして無益なことがあろうか。「豈」のあとに推量を現す語(ここでは「あらん」)がある場合、反語表現となる。→本文に戻る

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34.師資の様

本文 (原文 附現代語訳)

師資*1 の様[よう]、極て仏法に重き事也。直饒[たとへ]百歳なり共、法を不知[知ラズンバ]、十歳の比丘*2 に随て法を聞けと云々。

師匠と弟子の関係は、極めて仏教において重いものである。たとえその年齢が百歳であったとしても、モノの真実なる様(真理)を知らなければ、(年齢こそ若くとも)出家して十年の比丘を師として教えを聞きなさい。

語注

  • 師資[しし]…師匠と弟子。→本文に戻る
  • 十歳の比丘…具足戒をうけて十年を経過した比丘。仏教では、出家してからの年数ではなく、具足戒を受けてから何年経過しているかによってのみ、その序列を決定する。いくら年をとっていても、比丘となって日の浅いものは年少の比丘とされる。また、比丘となって五年を経過し徳あるものは阿遮梨[あじゃり]となって年少の比丘を指導することが出来、十年を経過して徳あるものは和上となり、はじめて弟子を取ることが出来る。いずれも律蔵に詳細な規定がある。
    和上となって弟子をとり、その弟子が具足戒をうけて十年を経ると、長老と呼ばれるようになる。よって、四十歳にして長老と呼ばれる者も存在しうる。→本文に戻る

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35.礼仏読経

本文 (原文 附現代語訳)

礼仏[らいぶつ]読経大小便等を除て、余は一々に師に申せと云々。

礼仏・読経・大小便などを除いて、他の事はいちいち師匠に報告しなさい。

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