真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『阿留辺畿夜宇和』(6)

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26.我身の様

本文 (原文 附現代語訳)

我身の様[さま]、法の如くにも非ず。剰[あまつさ]へ破戒無慚[むざん]*1 なる事のみあれ共、人の甚[はなは]だ信仰[しんぎょう]して威徳ある事あり。其をいしき事と思ふべからず。『宝積経[ほうしゃくきょう]』に云く、「末法には魔力を與[あた]へて、かかる事有べし。正見[しょうけん]の者は傍にありと見へたり*2 」と云々。

我が身のありようは、(仏陀の)教えに沿ったものではない。(ところが)驚いたことに(私には)戒を破り恥をも知らないことのみがあるにも関わらず、人が熱心に信仰して威厳と人徳があることがある。(しかし)これを殊勝であるなどと思ってはならない。『宝積経』にはこう説かれている、「末法には魔が力を与えて、このような事があるであろう。(真理を見通す)正しい知見を備えた者が傍にあると思われる」と。

語注

  • 無慚[むざん]…恥ずべき事をなしながら、少しもみずから恥じ入ることがないこと。→本文に戻る
  • 末法には魔力を云々…【岩波】に「現存本経に見当らない。」とあるように、『大正新修大蔵経』収録の『宝積経』に当該文言はない。よって、ここでの文意を正確につかめず、訳し得なかった。→本文に戻る

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27.世に久く

本文 (原文 附現代語訳)

世に久く在ぬべくもなき身に、はかなき事をするまでも、名聞[みょうもん]に心のかかるは、あぢきなき事*1 なり。仮令[たとい]千年萬年生[いく]べく共、よからん事をのみ好むべきに、電光朝露の身に一度も悪き態[わざ]をせんは、浅猿[あさまし]く、をこがましき事*2 也。

この世に長く生き続けることなど出来ない身であるのに、つかの間の空しいことをしたとして、世間からの名声を得ることに望みをかけるのは、無益なことである。たとえ千年万年と生き得たとしても、良いことだけを好むべきであろうに、稲光や朝露の(様にはかない)我が身に一度でも悪い行いをするのは、卑しく、いかにも馬鹿げたことである。

語注

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28.仏に代りて

本文 (原文 附現代語訳)

仏に代[かわ]りて法を説て、供養を受[うく]る時、そぞろ事*1 とも云て、施を受る、浅猿き事也。説法とは物を取[とり]*2 と知て、仏意を忘[わすれ]たり。此等[これら]の禁[いまし]め、『宝積経[ほうしゃくきょう]』にあり*3 。説法の篇より法師共云なり、真実の法を説く師の辺に在[ありて]は、実に仏の在世に異ならずと云々。

仏陀に代わって教えを説いて、(在家信者から)供養を受けるとき、「不本意ながら」などと言って、施しを受けるのは、下劣なことである。(そのような者達は、)「説法とは物取りである」などと思っており、仏陀の意を忘れているのだ。これらの戒めは、『宝積経』にある。説法の篇より法師品ともに説かれている、真実の教えを説く師の側にあることは、実に仏陀の在世に異なることは無いと。

語注

  • そぞろ事…漫ろ事。すずろごと。「かかわりがないこと」「不本意であること」「むやみであること」など諸意あるが、ここでは「不本意であること」の意と捉えるがよいであろうか。【岩波】では「すずろごと。よしなしごと。あてもないこと。」と注している。→本文に戻る
  • 説法とは物を取[とり]…説法の対価として相手から金品をうけなければならない、という非法の習い。これ類する言に、「布施なきは経を読まず」というものがある。信者が金品など布施をしないのならば、僧侶は読経してはいけないというのである。現代もこの言葉を在家信者の前で平然と言い、しかも不遜な態度で金品を要求する者は大変に多い。これは非法の習いが「伝統」と化し、それが昔からの当たり前だと考えているのである。『長阿含経』で仏陀は、説法の対価として差し出された物を相手から受けることは非法であると説かれている。説法や読経は対価を求め得るサービスの一環ではないのである。僧侶が布施をうけるのは、布施を受けるに値する行業をなしているからである。→本文に戻る
  • 『宝積経[ほうしゃくきょう]』…【岩波】に「この通りの文言は見当たらない。「正法滅する時は多く障碍あり。白浄の法に於て修習せず」(大正一一・267中)」とあるように、このままの言を見出すことは出来ない。→本文に戻る

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29.近来の

本文 (原文 附現代語訳)

近来の人は、何としたるやらん。尋常[よのつね]なる定[さだめ]、生死[しょうじ]を出る*1 と云計[いうばかり]を以て、仏教と知たり。偏[かたづみ]に二乗*2 涅槃[ねはん]*3 を執[しゅう]するに似たり。是体[これてい]の事を人の悪[わろ]く申すと申せば、還[かえり]て我慢*4 に似たり。是仏法の滅する事を歎くなり。法滅と云は、仏法の缺失[かけう]するを法滅と云に非ず。是体の事の興[きょう]するを法滅と云なり。此[この]趣[おもむき]委[くわし]く『出現問記[しゅつげんもんき]』*5 に載られたり。引見[ひきみる]べし。

近来の人は、一体どうしたことだろうか。世の常である定め、(輪廻転生という)生死の海を出るということだけをもって、仏教だと思っている。(それは)一方に片寄った(小乗の声聞乗と縁覚乗という)二乗が涅槃を固執するのに似ている。この程度の事を「他人を悪く言っている」と言うのならば、(そのような批判は)むしろ我慢と言えるだろう。(私が)このような批判をするのは仏の教えが滅びゆく事を嘆いているからである。「法滅」というのは、仏の教えが欠け失われることを法滅と言うのではない。このような(世間の人々の誤解や論点のずれた批判などの)ことが起こることを法滅と言うのである。この(私の主張の)趣旨は詳しく『出現問記』に載っている。読んでみたらいいだろう。

語注

  • 生死[しょうじ]を出る…二度と生まれ変わらないこと。真理を知ることが無い限り、永遠に生まれ変わり続けるという輪廻の呪縛から解き放たれること。真理、モノの有り様を、実の如く知ることによって解脱した結果として、その人はもはや生まれ変わることはなくなる。
    近年の一部の仏教学者や、文献学を多少かじったことのある在家者の一部、あるいは西洋合理主義に染まっている者には、「仏陀は輪廻転生など説いていない。実際、学問的に最古とほぼ確定されている経典、つまり仏陀の言葉をある程度忠実に伝えているであろう『スッタニパータ』などのパーリ語経典には、仏陀は未来世の生まれ変わりなど説いていないのだ。輪廻などという非科学的俗説は、仏陀滅後、市井の徒によって挿入されたのである。仏教と輪廻転生は本来関係がない。仏陀は自然科学的態度もつ、合理の人であった。輪廻を前提とせずとも仏教は機能するし、そうあるべき」などといった主張をなす者がある。しかし、これはインド文化圏からすれば非常識極まりない主張だと言えよう。彼らの中には、むしろまず結論ありきで、「輪廻とは非科学的未開野蛮の説である」という持論を、文献学的には仏陀が輪廻を説いたか否か立証出来ない、科学で証明できず合理的ではない、という一点で通そうとしているのであろう。
    仏教では、因果応報など業報思想ならびに輪廻転生を否定することを、邪見という。→本文に戻る
  • 二乗[にじょう]…声聞[しょうもん]乗と縁覚[えんがく]乗。大乗から小乗と蔑視される二つのありかた。あるいはその教え。
    声聞とは、本来は字の如く「声を聞く者」、つまり教えを(直接)聞く者の意で「仏弟子」全般を指す言葉であったが、大乗からはより低い悟りの境地に留まる者の意で用いられる。縁覚は、「独覚[どっかく]」とも言われ、師なくして自身の努力によって悟りを得るも、他者に説法することなくその生を終える者とされる。しかし、その故に低い悟りの境地に達したに過ぎないと見られる。→本文に戻る
  • 涅槃[ねはん]…煩悩という火が消え去った心的状態。真理の意味での苦しみから解放された平安なる最高の境地。あるいはその状態にいたって死を迎えること。この境地に到れば、もはや生まれ変わることはなくなる。仏陀滅後は、死んで心身共に何も残らなくなる状態を「有余依涅槃[うよえねはん]」、いまだ健在な状態で涅槃を得ている状態を「有余依涅槃[うよえねはん]」と分類するようになる。また、大乗では「無住処涅槃[むじゅうしょねはん]」を説く。→本文に戻る
  • 我慢[がまん]…我ありと慢ずる心。この世のありとあらゆるもの、あるいは特に自分という生命の奥底には、死してもなお変わることなく永遠に存在する魂などの「何か」が存在すると考えること。または、そのような思考にもとづき、自分は特別であると考えること。→本文に戻る
  • 『出現問記[しゅつげんもんき]』…【岩波】「未考。現存しない。」→本文に戻る

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30.凡夫は

本文 (原文 附現代語訳)

凡夫[ぼんぷ]*1 有性[うしょう]*2 をだにも知ず。而[しか]るを仏道は無性[むしょう]*3 より入[いる]なり。我等が様なる者の、かかる我執[がしゅう]*4 にて、入る所やあると求めむに、如何にもさる仏教は有まじきなりと云々。

一般の人は有性(というモノの奥底には決して変わることのない「何か」が存在するという哲学的見解が世に存在すること)など知りもしない。ところが仏道は(有性を否定して)無性(というモノの奥底には決して変わることのない何物も存在することはないという見解、変わらぬ物など無く、すべては虚ろな実体を欠いたものであるという真理が示されること)から入っていくのである。我らのような者は、この様な我執(を抱く身)で、(仏道に有性をもっても)入るところがあろうと求めるが、どうして左様な仏陀の教えがありえるというのだろうか。

語注

  • 凡夫[ぼんぷ]…愚かな者。もっとも、愚かと言っても一般に言われる無知であることを意味しない。仏陀の教え、ひいては真理を理解していない、という点で愚かな者という。つまり、仏教徒であっても、相当に高い悟りの段階に到っていなければ凡夫である。よって、凡夫とは単に「一般の人」の意と捉えても差し支えない。→本文に戻る
  • 有性[うしょう]…モノの奥底にある常住不変の「何か」。あるいは、その存在を認める見解。→本文に戻る
  • 無性[むしょう]…モノに奥底には常住不変の「何か」など存在しないこと。全てのモノは常に変化して止まないものであり、幻のような空っぽのものであること。あるいは、それを是とする見解。→本文に戻る
  • 我執[がしゅう]…人やモノには常住不変の「何か」がある、あるいはあって欲しいとする見解。→本文に戻る

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