真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『阿留辺畿夜宇和』(5)

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21.高僧等の

本文 (原文 附現代語訳)

高僧等の神異[じんに]*1 は不可思議にて、さて置[おき]つ。中々志しわりなきは、神通[じんづう]*2 もなき人々の命を捨て、生を軽[かろ]くして、天竺にわたり、さまざま仏法を修行したる、殊に哀れ*3 に羨[うらやま]しく覚ゆるなり。

高僧などの(高い境地に至った人たちが得るという)超人的能力は不可思議であって、今は問題にしないとしよう。むしろ志の(高く)いじらしいのは、(仏陀や高僧が身に備えるような)神通力を持たない人々が自分の生命を省みず、命をなげうって、インドに渡り、さまざまに仏教を修行することが、とりわけ尊く羨ましく思われるのだ。

語注

  • 神異[じんに]…常識的には人間になしえないような不思議な業。→本文に戻る
  • 神通[じんづう]…仏陀あるいは高い境地に到った僧が、自然にその身に備えるとされる計り知れない不思議な力。→本文に戻る
  • 哀れ…しみじみと心を打つモノのありさまを広く表す言葉。現在用いられている意味とは異なる。ここでは、「感服・感心させられるさま」あるいは「尊いさま」の意。→本文に戻る

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22.上古は

本文 (原文 附現代語訳)

上古は、智者の辺の愚者は、皆益[えき]を蒙[こうむり]き。近来は、ゆゆしげなる人のあたりなる愚者は、還[かえっ]て学生[がくしょう]智恵*1 の為に迷はかされて、弥[いよいよ]法理に背けり。

(仏陀が在世の当時、あるいは滅後間も無い)遠い昔、(悟りを証した)智者の側にあった愚者は、みな(智者の教導によって悟り、あるいは善に近づくという)恩恵を受けていた。(しかしながら)近頃は、(仏教の学道に長じて)立派とされる人の側にある愚者は、むしろ(机上の理解、実践や経験を伴わない観念的理解にのみ留まる)学者の智恵に惑わされて、ますます仏の説かれた真理に背を向けている。

語注

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23.今は勝れて

本文 (原文 附現代語訳)

今は勝れて能[よ]き人もなく、勝[すぐれ]て悪き人もなし。何れも同じ様にて、善悪も見へわかず*1 。是末代の故也。年に添ひ日に随[したごう]て、なを末[すえ]には此の比[ごろ]程の事も少くなりなんと云々。

今は抜きんでて良き人もなく、飛びぬけて悪い者もない。どちらも同じ程度で(大した違いもなく)、その善し悪しを判断することも出来ない。これは今や道義の衰えた世となったからである。(これから)年月がたつにつれ、さらに後世には今の様な事すらも少なくなっていくだろう。

語注

  • 善悪も見へわかず…その善も悪も判断することが出来ない。もっとも、一人の人間の中に善悪を見ることは出来ても、一人の人間を善か悪かどちらかで色分けすることは出来ないであろう。しかし、その普段の行動・振る舞いから、社会的に善人か悪人かを判断することは出来る、平和な世であれば。→本文に戻る

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24.末代の

本文 (原文 附現代語訳)

末代の浅猿[あさまし]さは、如説修行は次に成て、よき定[じょう]一部の文字を読終[よみおわり]ては、又異文[ことふみ]をのみ読たがりて、只読積[よみつもる]計[ばかり]を事として、物の用に立て、如説修行の心なし。戯論[けろん]*1 妄想[もうぞう]*2 の方には心引れて、実[まこと]しき事は物ぐさ*3 げなり。是を以て、仏に成まじき我心をも、相[あい]すべきなりと云々。

末代の(人々の)浅ましさは、仏陀の教えのままに修行することなど二の次となって、(仏典の)お定まりの一部の文章を読み終われば、変わったことが説かれている箇所のみ読みたがり、ただ読んだ量を増やすことだけを主として、(自分の利益につながる)物事に役立たせ、仏陀の教えのままに修行することなど思いもしない。無益な思想・言論や妄想に対しては関心を寄せて、真実に関する事にはおっくうに面倒くさがるのである。この様な浅ましい姿を(反面教師として)見て、仏には到底なりえないであろう自分の心であっても、仏陀の教えのままに修行しなければならないのである。

語注

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25.相構て

本文 (原文 附現代語訳)

相構[あいかまへ]て構[かまへ]て*1 、師をば能々[よくよく]計ひて設[もう]くべきなり。或[ある]は親の命、或は友に引れ、又便宜に依て等簡[なおざ]りに有べからず。『円覚経[えんがくきょう]』には「作止任滅[さしにんめつ]の四病を除くを師とせよ*2 」と云々。委[くわし]くは、『注円覚経』第四巻に、之有りと云々。

充分すぎるほど気をつけて、師と仰がんとする人(の行業、能力)をよくよく見極めてから師事するべきである。例えば親の命令であったり、あるいは友人の誘いにつられたり、または何かその場の都合などによったりなどして(自分が師事する人の選択を)なおざりにしてはならない。『円覚経』には、「作・止・任・滅の四病をよく除きうる者を師とせよ」とある。詳しくは『注円覚経』第四巻に、このことが説かれている。

語注

  • 相構[あいかまへ]て構[かまへ]て…【岩波】「よくよく気をつけて。十分に注意して。」→本文に戻る
  • 作止任滅[さしにんめつ]の四病を云々…『大方広円覚修多羅了義経』にある「普覺汝當知末世諸衆生 欲求善知識應當求正覺 心遠二乘者法中除四病 謂作止任滅親近無驕慢」(大正17, P920下段)の引用。この経典は「普覺」つまり普賢菩薩に対して説かれている。「作・止・任・滅の四病」とは、円覚(完全な悟り)を求める修行者が患う四種の病であるという。作とは、行者が様々な修行によって悟りを得ようとすること。任とは、自身の主体的行為を止め、モノの自然に任せきることによって悟りを得ようとすること。止は、知覚や認識、記憶の意識活動を止めて悟りを得ようとすること。滅は、すべての煩悩を滅することによって悟りを得ようとすること。いずれの場合も、悟りはそのような行為によって「得られるモノ」では無いことから、「病」であるとされている(大正17, P920中段)。→本文に戻る

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