真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『阿留辺畿夜宇和』(4)

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16.此草庵に

本文 (原文 附現代語訳)

此草庵に来臨[きたりのぞみ]て、法門[ほうもん]*1 問[とう]人に、いかに文々句々[もんもんくく]諳[そらに]覚へあつめて、学生[がくしょう]立てする人も、近代は曽[かつ]て心真諦[しんたい]*2 をば見ざるなりと云へば、何かは云はず。軈[やが]て腹立つ程に力なき事なり。『涅槃経』に云、「我今與汝等説、不見心真諦、是故久流転生死苦界云々」*3 。此の心真諦と云は、如何なる事なれば、知とも不知とも、見とも不見とも、底を盡[つく]して尋ね明めてこそ、げに知たるを見ずと云腹立[はらだち]もあらめ。腹立するにて、軈[やが]て知らざる事は顕[あらわ]るるなり。世俗にいふ盗人[ぬすっと]の鍋を偸[ぬす]みて頭に被[かぶ]りけるをば、つやつや思ひ忘て、鍋失[うせ]たりとて、主[あるじ]の尋[たずぬ]る時、両手を開[ひらき]出して、我は鍋とらぬと、陳ずる程の事也。げに手にも持たず、口にも取[とら]ずと云。詞[ことば]は正直なれ共、頭に被りたる事の、外よりあらはに見ゆるを知[しら]ずして、取らざる由、陳ずるが如し。哀[あわれ]なる事なり。

この(私の過ごしている)草庵に来訪し、仏の教えについて質問してくる人に対して、(その人が)どれほど(仏典の言葉を)多く正確に記憶しており、学者風を吹かしている人でも、(私が)「近年(の仏教者)は、決して(仏陀の説かれた聖なる四つの真理たる)四真諦をこそ見ようともしないのである」と言ってみても、何とも問いもせず、やがて腹を立ててしまうほどに頼りない事である。『涅槃経』ではこのように説かれている、「私は今汝達に説かん。四真諦を見ないからこそ、長大な時間を生死の苦海を輪廻し続けるのであると」。この四真諦とは、どのようなものであるかと、(それを)知るとも知らざるとも、見るとも見ざるとも、底を尽くして尋ね明らかにしていれば、「(明恵は)私がそれを本当に知っていることを分かっていない」などと腹を立てることもないだろう。(しかし)腹を立てることによって、すぐに(その者が)実は理解してはいないという事がわかってしまうのである。(それは例えば、)世俗で言われる盗人が鍋を盗んで頭に被っておいたのを、すっかり忘れ、鍋の所有者から(私の鍋はどこだと)尋ねられたとき、両手を開いて出して、「私は鍋など盗っていません」と、言い張るようなものである。確かに手に(鍋は)持っていないし、口にも「盗っていない」という。言葉は(手に盗ってないと)正直であるが、頭に(盗んだ鍋を)被っていることを、他人から丸見えであるのを知らないで、盗っていない事を、言い張るようなものだ。(その愚かしさは)哀れなことである。

語注

  • 法門[ほうもん]…仏の教え。「真理への門」との意。→本文に戻る
  • 心真諦[しんしんたい]…四真諦[ししんたい]の誤植か。あるいは明恵上人が参照した経本には心真諦とあったか。四真諦とは、四聖諦[ししょうたい]に同じで「四つの聖なる真理」の意。四つとは「苦諦[くたい]・集諦[じったい]・滅諦[めったい]・道諦[どうたい]」の四。それぞれ「生きること自体を含め、この世のすべては畢竟じて苦しみでしかない、という聖なる真理」・「様々な原因と条件とによって苦しみがあるという聖なる真理」・「苦しみの消え去った境地という聖なる真理」・「苦しみを消し去るための道という聖なる真理」を意味する。仏教のもっとも根本的にして、もっとも深遠なる教え。→本文に戻る
  • 我今與汝等説…読み下し「我今汝等に説かん、心真諦を見ず、是の故に久く生死の苦界に流転す」。曇無讖訳『涅槃経』の「我昔與汝等不見四真諦 是故久流転生死大苦海」(大正12, P451下段)を引いているのであろうが、前述したように心真諦は正しくは四真諦。【岩波】は「大正十二・693下」と慧厳訳『涅槃経』の当該箇所を挙げているが、心真諦についての指摘はない。→本文に戻る

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17.昔は我

本文 (原文 附現代語訳)

昔は我実相*1 の理を証しては、弟子をして又此[この]理を授く。末代は証理の智無ければ、世間の面を荘[かざ]りて、俗境に近付[ちかづく]を先として、剰[あまつさ]へ寺の興隆仏法*2 とては、田楽[でんがく]・猿楽[さるがく]の装束に心を費[ついや]して一生を暮すのみなりと云々。或[ある]寺より田楽の頭に当りたるとて、さる学生[がくしょう]奔走する由、人の語り申ける次[つい]でに、仰[おっしゃ]らるるなり。仏法に入[いる]と云は、実に別の事也。仏法に能く達したりと覚しき人は、弥[いよいよ]仏法うとくのみ成なり。

(仏陀御在世あるいは仏陀滅後まもない)昔は自らが(すべてが移ろいゆく実体を欠いた、空なるものであると)モノの本質を明らかに悟って(はじめて)、弟子に対してまたこの理を教授した。(しかしながら、)現代は(自らが)モノの本質を悟って仏陀の教えを証することもなく、世間に対する体裁だけ取り繕って、世俗社会にすり寄り近づくことを第一として、こともあろうに「寺院を繁盛させ仏の教えを広める」と(おためごかしの大義名分を)言って、田楽や猿楽の衣装をどうしようかとあれこれ悩んで(くだらぬ)人生を送るのみである。ある寺院で行われる田楽の重要な役を任されたと言って、ある学僧が(その準備のために)あちこち忙しく走り回っていたことを、人が話のついでに、語っていた。仏道を歩むというのと、(田楽・猿楽など芸能一般に関わることとは)まったく別の事である。(世間から)「仏の教えに相当に達している」と思われている人は、まさしく仏の教えより離れるばかりなのだ。

語注

  • 実相[じっそう]…モノの真実のありさま。すべては様々な原因と条件によって一時的に成立したものに過ぎず、よって実体はなく、常に変化し滅びゆくものであること。→本文に戻る
  • 興隆仏法[こうりゅうぶっぽう]…仏教が世の中に盛んに行われるように、という願文にてよく用いられる言葉。ここで明恵上人が批判しているように、現在も寺院で行われる法要にて、「仏法興隆」あるいは「寺門興隆」などと仰々しく願文で言うが、それはようするに「私腹を肥やしたい」と暗に言っているに他ならない。おためごかしである。→本文に戻る

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18.人は常

本文 (原文 附現代語訳)

人は常に浄頗梨[じょうはり]の鏡*1 に、日夜の振舞のうつる事を思[おもう]べし。是は隠れたる所なれば、是は心中に窃[ひそか]に思へば人知じと、思ふべからず。曇り陰れなく、彼の鏡にうつる、恥がましき事なり。

人は常に(地獄の閻魔の庁にあるという)浄玻璃の鏡に、日夜の振る舞いが映し出されることを意識するのがよい。これは(誰からも見られることはない)隠れたものであり、この(自分の心の有り様は)心の中だけで密かに思っていれば人が知るものではないなどと、思ってはならない。曇り陰りのない、彼の(浄玻璃の鏡に自分が密かに行っていたことが)映し出されるのは、恥ずべき姿である。

語注

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19.亡者の

本文 (原文 附現代語訳)

亡者の為に懇[ねんごろ]なる作善[さぜん]をなせ共、或[ある]は名聞[みょうもん]利養[りよう]有所得[うしょとく]に心移て、不信の施をすれば、功徳なくして只労して功なし。法師も又戒が缺[かけ]て三業[さんごう]*1 収[おさま]らぬ様にて、よき物食[くら]ひ布施とらむとする事、大切なる様に覚へて、真信ならぬ心に経を読[よみ]、陀羅尼[だらに]を満てたれば、亡者の資[たすけ]とはならぬのみに非ず、此[これ]信施の罪に依て面々悪道*2 に堕[おつ]べし。共に無益[むやく]に浅猿[あさまし]き、末世の作法也。能々[よくよく]真俗実に損取らぬ様に、あてがふべきなり。我等が果報を一度は悲み、一度は悦ぶべし。悲むべきは滅度無福の身、悦[よろこぶ]べきは仏法結縁[けちえん]の心也。

(在家信者が)「亡者の為に」として心をこめて(布施などの)善行をしても、例えば名誉や財産などに対してのこだわり・執着の思いを抱き、心に良からぬ事を思いながらの施しであれば、功徳など無くただ財を失っただけの「骨折り損のくたびれもうけ」でしかない。僧侶もまた戒律を守らず身体と言葉と心の行いを正しくしていないのに、(在家信者から施された)良い物を食べ(金品などの)布施を(拒まずに)受ける事は、(施主の功徳になることであるから)大事な様に思われるかもしれないが、(説かれていることの意味も分からず、分かっていたとしても信じず、行おうともしない)不誠実な心で経典を読誦し、陀羅尼を唱えても、亡者の為になどならないのみならず、それは(みずからに僧侶として布施を受けるだけの徳無くして受ける)信施の罪となって自分自身が(地獄・餓鬼・畜生などの)悪道に堕ちることになるであろう。(このような在家信者も僧侶)いずれも無益で浅ましい、仏陀が滅度されて久しい荒んだ世の習いである。よくよく僧侶も在家信者も(心神・物質両面において)実質的に損することのない様に、施しをすべきである。私たちは(自分たちが今のこの世に人間として生まれたことの)果報を一面において悲しみ、一面において喜ぶべきである。悲しむべきは釈尊御在世の時代に生まれずみずからに徳の無いことであり、喜ぶべきは仏陀の教えにめぐり会えたことである。

語注

  • 三業[さんごう]…身体と言葉と精神の行い。業[ごう]は行為の意。人の行い全ての総称。伝統的には、身口意[しんくい]あるいは身語意[しんごい]の三業という。→本文に戻る
  • 悪道[あくどう]…地獄・餓鬼・畜生という三つの身体的苦しみの多い世界。前世にて善行少なく悪事を多くおこなったものが生まれ変わる世界。それらはすべて死者の世界なのではなく、寿命もある生者の世界。悪趣[あくしゅ]ともいう。→本文に戻る

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20.左右なく

本文 (原文 附現代語訳)

左右[さう]なく法を授[さずけ]れば、身語[しんご]*1 したたまらず。身語したたまらざれば、返て毒となるなり。法は無相なれば、いで臥せらん*2 なんと云ふ人出来[いでく]る也と云々。

右と左の違いを無視するように(その者の能力を考えず)仏陀の教えを(無闇に)教え授ければ、(その者の)身体と言葉の行いがととのうことはない。身体と言葉とがととのうことがなければ、むしろ(仏陀の教えが)毒にすらなる。(相手の能力をよく見極めて教えを説かなければ、捉え違いをして)「仏陀の教えは(八万四千の法門といわれる様に)相手の立場能力によって様々に説かれたものであるから、さあ何もしないでゴロゴロしていよう」などと言う者も出てくるのだ。

語注

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