真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『阿留辺畿夜宇和』(2)

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6.人の信施は

本文 (原文 附現代語訳)

人の信施*1 は内に叶[かなう]徳ありて、受るは福なり。破戒*2 比丘*3 若[もし]後世の報なくば、衣は炎網[えんもう]と成て身を焦し、食は熱輪と成て、腹を穿たん*4 事、必定して疑なかるべし。

人からの信施は自身に(尊敬され、布施を受けるだけの)徳があって、受けるのであれば福となる。(しかしながら、)破戒の比丘であって後世に良い境遇をもたらす善き行いをしていないのであれば、(人からの信施として受ける)袈裟衣は炎の網となってその身を焦がし、(信施として受けた)食事は灼熱の輪となって、腹に穴をあけることは、きっと間違いなく疑うべきも無いことである。

語注

  • 信施[しんせ]…信仰にもとづく布施。→本文に戻る
  • 破戒[はかい]…僧侶として守らなければならない律の中でも重罪とされる事項を破ること。律には、「二百五十戒」といっておよそ250の規定があり、それは罪の軽重によって8種に分類されている。中でも最も重い罪は、婬(男女動物問わずあらゆる種類の性交渉)・盗(重大な盗み)・殺(殺人および殺人教唆、自殺教唆)・妄(自分が悟りを得た、高い境地に到ったとの宗教的虚言)の四種であり、これを犯せばただちに僧侶の資格は消滅、教団から永久に追放される。これを波羅夷[はらい]罪という。この次に重大な罪は13あり、僧残罪という。これを犯した場合、ただちに追放とはならないが、許されるのには多くの条件を満たさなければならない。いずれも僧侶として犯してならない重罪である。律に犯して良い項目など無いが、軽罪とされる律を破った比丘がいたとしても、それを「破戒の比丘」とは普通言わない。→本文に戻る
  • 比丘[びく]…仏教の正式な僧侶。比丘とは、「(食を)乞う者」を原意とする、サンスクリットBhikṣu[ビクシュ]またはパーリ語Bhikkhu[ビック]の音写語。比丘になるためには、数えで二十歳以上であること、両親の許可があること等、23の条件を満たしている必要がある。明恵上人は、『栂尾明惠上人伝』によれば、16才の時に東大寺戒壇院にて受戒したとある。これは鎌倉初期当時、東大寺戒壇院においても律の伝統が消滅し、そこは形骸化した「僧侶という資格を得るための通過儀礼」を受けるに過ぎない場所になっていたことを意味する。これはまた、戒律を重んじた明恵上人も比丘ではなかったことをも意味する。なんとなれば、律とはそれを守っている伝統があって初めて機能するものであり、また16才で受戒したとしてもそれは無効であって意味をなさない為である。当時は誰も比丘になることは出来なかったのである。明恵上人没後まもなくの嘉禎2年(1236)、叡尊・覚盛等に四人によって、戒律復興がなされるまでは。→本文に戻る
  • 衣は炎網となって云々…【岩波】に「『正法念経』地獄品に見える。」とあるが見えない。→本文に戻る

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7.人は我祈りの為とて

本文 (原文 附現代語訳)

人は我祈[わがいのり]の為とて、経陀羅尼[だらに]*1 の一巻をも読[どく]す。焼香[しょうこう]礼拝[らいはい]の一度をもせずとも、心身正くして、有べき様にだに振舞はば、一切の諸天善神*2 も是を護[まぼ]り給へり。願[ねがい]も自[おのずか]ら叶ひ、望[のぞみ]もたやすく遂[とぐ]るなり。六借[むつかし]く*3 こせめがん*4 よりも、何もせずして、只正くしてぞ在[ある]べき。心づかひは、物に触[ふれ]て、誑惑[おうわく]*5 がましく、欲深く、身の振舞は、いつとなく、物荒く、不当に放逸にては、証果*6 羅漢僧*7 に誂[あつらえ]て、百萬の経巻を読[よま]しめ、千億の仏像を造て祈る共、口穢[ぎたなく]て経読[よむ]者の罰あたるが如し。心穢て祈する者は、弥[いよい]よ悪[あし]き方には成り行く共、所願の成就する事は、ふつと有まじきなり。其を愚なる者、心をば直[なお]さずして、己れが恣[ほしい]ままの欲心計[ばかり]に纏[まつわ]されて、祈らば何にか叶はざらん*8 と、猥[みだ]りに憑[たのみ]を懸て、愚痴なる欲心深き法師請取て、心神を悩し、骨髄を摧[くだい]て、祈り叶へぬ物故に、地獄の業を作り出すこそ、げに哀に覚ゆれと云々。

人は自分の願いを叶える為にと、経典や陀羅尼[だらに]の一巻でも読誦[どくじゅ]する。(しかし、)焼香や礼拝を一度でもしなくとも、心と身体の行いを正しくして、「あるべきよう」にさえ生活していれば、すべての諸天善神もその人を守護してくれるのである。願いも自然に叶い、望みも容易に遂げることができるのだ。(自分の願いをなんとかして叶えられぬものかと)うるさく、せめたてるように(あれこれと)するよりも、(そのようなことなど)なにもしないで、ただ(自分の日々の生活、心身を)正しくしてあるべきなのである。心が、(何事か自分の触手を動かすような)モノを見聞きすれば、(それをどうにかしようと)人をだまし惑わすようなことをなし、欲深で、身の振る舞いは、いつも、粗暴で、節度なく勝手気ままであっては、悟りにいたって阿羅漢となった聖僧に依頼して、百万巻の経典を読誦させたり、一千億体の仏像を造ってみたとしても、口汚く経典を読む者に罰があたるようなものである。心が穢れていながら祈る者は、ますます悪い状況になっていくことはあっても、願いが叶うことなど、まったくありえない。にもかかわらず愚かな者は、(自分の)心をこそ正しもせず、己の自分勝手な欲望にのみ踊らされて、「祈りはきっと通じるだろう」(「念ずれば花開く」「信じ祈ることこそ尊い」など)と、やたらと願を掛け、愚かで道理のわからぬ強欲な僧侶を請じて、心を悩まし、苦心惨憺して、(なんとか)祈りを叶えようとするが、(それは)地獄へ堕ちる業となるに過ぎないのであって、(私にはそのような愚かな振る舞いが)とても哀れに思えてならない。

語注

  • 陀羅尼[だらに]…サンスクリットの一連の言葉を、翻訳せずに唱えるもの。不思議な力をもつものと信じられる比較的長文の言葉。一般的に比較的短いものを真言、長いものを陀羅尼と言うとされるが、必ずしもそうではない。先に「翻訳せずに」としたが、支那ではサンスクリットを表記することは出来ない場合があったため、漢訳経典では発音を漢字にあてて表記したものが多い。翻訳当時はある程度正確に発音出来たかもしれぬが、時代の変化によって漢字の読み方が相当に変化したため、原語の発音を正確に伝えきれていない。陀羅尼という言葉自体は、サンスクリットdhāraṇī[ダーラニー]の音写語で、総持・能持とも漢訳される。「真実なる言葉」と把握するのが良い。インドひいては仏教では、真実なる言葉、偽りを交えぬマコトの言葉には、なにごとか不可思議を実現する力があると信じられている。これを「真実語」という。律蔵に真実語の説話がしばしば出てくる。→本文に戻る
  • 諸天善神[しょてんぜんじん]…「諸天」とはインドの神々、「善神」とは日本の神々。いずれも仏教の守護者と位置づけられる。ただし、神といってもそれは輪廻する存在であり、人より格段に勝れた力を持ち、長大な寿命を持つも死すべき者である。その死に際しては地獄の苦しみも比でないほどの苦を味わうとされる。これを「天人の五衰」という。よって、仏教で言う神とは、いまだ迷い苦しみの内にある者で、万能の存在などではない。仏教においては、神も「生きとし生けるもの」の一種でしかない。→本文に戻る
  • 六借[むつかし]く…【岩波】「うるさく。底本「惜」を訂す。」→本文に戻る
  • こせめがん…【岩波】「うらむ、またはせめたてる。「こ」は接頭辞で、その状態動作をにくむ意。」→本文に戻る
  • 誑惑[おうわく]…人をだまし惑わすこと。→本文に戻る
  • 証果[しょうか]…仏教を修行し、その結果として得られた何らかの境地。小乗・大乗それぞれが、広くは賢者[けんじゃ]と聖者[しょうじゃ]、狭くは四向四果[しこうしか]、十地[じゅっち]などのさまざまな段階を説いている。仏教の修行者の階梯については、別項“仏教の瞑想”の“五停心観”を参照のこと。→本文に戻る
  • 羅漢僧[らかんそう]…阿羅漢位の僧。阿羅漢[あらかん]とは、サンスクリットarhat[アルハト]あるいはarahant[アラハント]の音写語で、応供[おうぐ]と漢訳される。仏陀の異称の一つでもある。小乗においては、最上の悟りの境地を得た僧侶を意味する。→本文に戻る
  • 祈らば何にか叶はざらん…祈りを貴いものと考え、祈りによれば何事かが変わる、などという思考。古今東西を通じて一般的な宗教的信条。現在も世間では一般的に「祈りは尊い人間の精神活動」と見られることが多いようである。もっとも、仏教においては、このような意味での祈りは行われない。なぜならば、祈りを叶えてくれるとする「絶対的存在者としての神」の存在を否定するためである。また、自らの願望を叶えたい、という心情も否定的に見るからである。この世はほとんど不如意であり、制御が可能なのは自らの心だけであって、それは自身の不断の努力、感情を制御したいわば非人情の智慧によってのみ達成されるのであるから、祈る意義も必要もないためである。また、祈りという行為自体、尊いものなどでは決してない。人はその歴史の中で、祈りながら、「清い」信仰によりながら、崇高と言われる行いをする一方で、筆舌に尽くしがたい非道を行ってもいるのである。元来、仏教は基本的に「祈らない宗教」である。これは、ローマンカトリックの神父なども認知しているところであるが、案外日本の仏教者は「祈りは尊い。祈りによってこそ。信心と祈りがもっとも大切」などと平気で説法しているから面白いモノである。一般の人もまた、愚かしいことであるが「念ずれば花開く」などという言葉を人口に膾炙している。念じなくても開く花は開くのである。花が開くのに必要なのは祈りでない。→本文に戻る

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8.人常に云く

本文 (原文 附現代語訳)

人常に云く、「物をよく知れば、驕慢[きょうまん]*1 起る」と云事心得ず。物を能[よく]知れば、驕慢こそ起らね、驕慢の起んは能知らぬにこそと云々。

世間の人々がよく口にする、「モノをよく知るようになると、おごり高ぶって人を見下すようになる」と言うことは誤りである。モノをよく知れば、おごり高ぶる心こそ起きる余地が無くなるのだ。おごり高ぶりの心が起こるのは、(モノを知ったつもりになっただけで、その実)よく知らないからこそである。

語注

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9.東寺の塔を

本文 (原文 附現代語訳)

東寺の塔*1 を、一条口にて見たる程に、仏性*2 を見たらん者は、終[つい]に九条へ至らんが如し。此事極て、有がたしと云々。

(京都は九条にある)東寺の五重塔を、一条口から見るように、(仏陀の教えを修行し)完全な悟りへの糸口を見いだした者は、やがては九条(たる悟り)へ至るようなものである。(仏の教えを実践すれば、かならずその結果としての悟りに至るのである。仏の教えはおとぎ話ではなく、必ず実を結ぶ道である。)このことは大変に、この世に希有なものである。

語注

  • 東寺の塔…東寺(教王護国寺)の五重塔。その昔は京都における象徴的建造物で、京都のいずこからもその姿が見えたのであろう。→本文に戻る
  • 仏性[ぶっしょう]…生きとし生けるもの皆が生まれながらにもっている、いつか仏陀となりえる可能性。悟りの可能性。もっとも、悟りを得ることが出来るのは、人間として生を受けた場合に限られるとされる。大乗の学派には、これを実体的存在として肯定的に把握しているものがあるが、あくまで一部にすぎない。大乗とは「仏」という概念の異なる小乗諸派もこれを認めていない。→本文に戻る

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10.仏法者と云は

本文 (原文 附現代語訳)

仏法者と云は、先[まづ]心が無染[むぜん]無著[むぢゃく]*1 にして、其[その]上に、物知[ものしり]たるは学生*2 、験あれば験者[げんじゃ]*3 真言師[しんごんじ]*4 とも云也。能もなく、験もなきは、無為の僧なるべし。若[もし]纔[わずか]に有所得[うしょとく]*5 ならば、更に仏法者と云ふに足らずと云々。

僧侶というのは、まず第一に心が(さまざまな欲心・五感の対象に)染まらず著せずあって、その上で、知識が豊富な者は学僧、不思議な効験をあらわす者は験者、真言師とも言いえるのである。知識もなく、験力もないのは、取るに足らない(ただ出家しただけ、という程度の)僧である。(そのような能のない僧が)もしわずかでも財産・名誉など世間に対する執着があるのであれば、もはや僧侶と呼ぶにも足りはしないのだ。

語注

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