真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『阿留辺畿夜宇和』(10)

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46.昔より人を見に

本文 (原文 附現代語訳)

昔より人を見[みる]に、心のすき*1 もせず、恥なげにふた心なる程の者の、仏法者に成たるこそ、つやつや*2 なけれ。此趣き契経[かいきょう]*3 の中に、仏も演[のべ]給へり。論にも見へたり。少も違はぬ事なり。我は相人[そうにん]*4 と云者の持つなる相書[そうがき]を見ねども、大概仏祖の御詞[おことば]の末を以て推して人をも相するに、十が八九は違[たが]はず侍[は]べり。心の数寄[すき]たる人の中に、目出度き仏法者は、昔も今も出来[いできた]るなり。頌詩[じゅし]を作り、歌連歌に携[たずさわ]る事*5 は、強[あなが]ち仏法にては無けれ共、加様の事にも心数寄[すき]たる人が軈[やが]て仏法にもすきて、智恵もあり、やさしき心使ひもけだかきなり。心の俗に成ぬる程の者は、稽古の力を積ば、さすがなる様なれ共、何にも利勘[かんが]へがましき有所得にかかりて、拙き風情を帯する也。少[おさ]なくより、やさしく数寄て、実[まこと]しき心立したらん者に、仏法をも教へ立て見べきなり。

昔から(今に至るまで)の人を見ると、心に風流を解することもなく、恥ずかしげもなく二心[ふたごころ]を持つような者が、僧侶となるようなことは、まったくなかった。これは経典の中で、仏陀もお説きになっている。(高僧達が著した)論書にても目にすることができる。(仏典に説かれていることに)少しも違わないことである。私は相人と言われる者が持つ相書を見ることなどはないが、ほとんど仏陀釈尊のお言葉の端々から推測して人の相を見れば、十中八九は外すことはないのです。心に風雅ある人の中から、喜ばしい(立派な)僧侶が、昔も今も出てくるのである。漢詩を詠み、和歌に携わることは、決して仏教(に関係すること)では無いけれども、このような(風雅な)事にも心を寄せる人がいずれは仏教に心を向けるようになって、知恵あり、やさしい心使いも気高くなるのである。心が俗に染まっているような者は、(熱心に)修行を積んだならば、優れた行者になれるだろうが、(大抵は)何事にも(物質的)損得を勘定する執着心を起こし、浅ましい様を呈するだろう。幼少の頃より、優しく風雅で、正直な心ばえの者に、(風流だけでなく)仏法を教え躾るべきである。

語注

  • すき…好きであること。または風流を好むこと。特に和歌を詠むのを好むことを言う。「数寄」と当て字で書く場合がある。→本文に戻る
  • つやつや…まったく。決して。→本文に戻る
  • 契経[かいきょう]…仏典の総称。もっとも、狭義には仏典をその内容によって、12または9種にわけた場合の1つ。散文で説かれている経典。→本文に戻る
  • 相人[そうにん]…人相を見る人。人相を見て、その人の性質や能力、状態、はてまたは天分などを判断する人。相書とは、人相の特徴によって云々と書いてある指南書のようなものであろう。→本文に戻る
  • 頌詩[じゅし]を作り云々…明恵上人は、和歌を詠じるのを好み、多くの歌を遺している。「頌」は和歌六義の一つ「頌歌」を指したかもしれないが、ここでは続く「歌連歌」を和歌の意と採って、対して「漢詩」の意とした。→本文に戻る

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47.末代は

本文 (原文 附現代語訳)

末代は、曲事[くせごと]*1 月に随ひ年に添て、仮令[たとひ]げに成て、誠しき心立[こころだて]したるは少なし。去[され]ば何事をすれ共、成就する事難[かた]し。

末代は、不正な行為であるのにそれが月日を経て年を重ねるごとに、それが仮初めに正しいかのようになってしまい、(真に)誠なる心を持とうとする者は少ない。(心が正しくないの)であるからどんなことをしても、成就することが難しいのだ。

語注

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48.当初本寺に

本文 (原文 附現代語訳)

当初本寺*1 に有し時、大衆[だいしゅ]群[むらが]りて、勤めせし体をつくづくと見て、不覚の涙を拭ふ事のみありき。十二時中、多分[ひたすら]徒らに紛れ過して、適[たまたま]仏前に望[のぞみ]て、片時の勤めする程だにも、真信*2 にもなし。目の見様[みよう]、顔もち手の持様[もちよう]、居ずまい、又行道の作法、疎略究りもなし。加様にては、読経も陀羅尼も、何の功徳も無ければ、只人目計[ばかり]に役払ひがてら出たる煩ひ計りにて、天下の護持にも成らず。檀那*3 の信施をも消さず。さるに付ては、驢胎馬腹に生ぜん事*4 、何の疑か在べき。去ば恥ある仏法者は、十二時中に徒らに過す時節少し。責[せめ]て其までこそ無らめ。適[たまたま]人中に指出[さしいで]たる時[とき]計[ばかり]だにも、人目を恥る気色だにもなし。礼拝[らいはい]なんどするも、心に誠なくして、何となく礼するをば、古人碓[からうす]の上下する礼*5 と名[なづ]けたり。されば心に入て、只今生身[しょうじん]の御前に参りたる心地して、南無大恩教主釈迦牟尼如来と、礼すればこそ、諸仏如来も是が為に教主と成て、彼に応じ給へば、能礼所礼相順じて、功徳をも得、罪業をも滅すれ。加様に真信とも無て過る法師程に、畏しき大盗大誑惑の者は、よも俗家には在らじと、覚へ侍べり。仏の番々に出世して、衆生を仏に成さんとし給ふ法を盗みて、我身過ぎにするこそ浅猿[あさまし]けれ。在家の人は、上一人より始て下万人に至るまで、其品々の役に依て、請継[うけつぎ]て身命[しんみょう]を継ぐ恩を蒙れり。法師は出家してより、かかる恩をば蒙[こうぶ]るまじき者なり。去[され]ば衣食共に父母親類のくるるも、皆檀那の信施物に当るなり。然るに、心地[しんち]の開たる事もなく、持戒清浄なる事もなく、不信懈怠[けだい]の在様[ありさま]にて自身を養うのみならず、剰[あまつさ]へ眷属をさへ扶持[ふち]し、羽含[はごくむ]事*6 、大きに理に背けり。大に理に背くが故に、罪業免[まぬが]るべからず。罪業免れぬ故に、地獄に入ん事、疑有べからず。此仏法を盗で、天下の祈りするとて、寺領を知行*7 し、檀那の祈祷をするとて、供料を取り、三業も静まらぬ勤め行法[ぎょうぼう]、破戒無慚の立振舞のみにて明ぬ暮ぬと過行て、結句、此の供料布施にて、仏の禁[いまし]め給ふ五戒十重を破る種に遣[つか]ひ失ふ*8 こそ、末代と云へ共、悲けれ。余りに深く迷へる者は、迷へるとだにも知[しら]ざるが如く、余りに不当に成て、加様にて身過ぎにするを大罪とだにも思ひとがめぬまでに成れり。此程に大に理に背きぬる上は、必定[ひつじょう]して地獄に堕すべし*9 。されば責て法師に成たる思出に、法を悟るまでにこそ不叶[カナハズ]とも、人身[にんじん]を失はぬまでの振舞、心使をだにもせよかしと云々。

当初本寺にて生活していたとき、大衆が群がって、修行している様を見て、覚えず涙を(流して)拭ったことがあった。一日中、ひたすら無為に紛れ過ごし、ときどきは仏前に望んで、一時の勤行をするけれども、誠の信があるわけでもない。(彼らの)目の見よう、顔もちや手の持ちよう、たたずまい、または行道の作法は、疎略にも程がある。こんな有り様であるから、読経や陀羅尼も、何の功徳も無ければ、ただ人目を気にして立場上仕方なしにやっている面倒事としてしかなく、天下の平和に資することもない。寄進者の信施をも消すことはない。その様な者達が、(後世に)畜生として生まれ変わることは、何の疑いようもないことである。よって恥を知る仏教者は、一日の中で無駄に過ごす時は少ないのだ。せめてそこまでいかないとして。たまたま人前に出たときだけでも、人目を忍ぼうとすらする気配もない。(仏・菩薩に)礼拝したとしても、心に誠意など無く、漫然と礼をするのを、古人は「碓[からうす]の上下する礼」と名付けている。よって心を込めて、今まさに生身の(仏陀の)御前に侍[はべ]るという気持ちで、「南無大恩教主釈迦牟尼如来」と、礼拝すればこそ、諸仏もこの為に教主となって、彼に応えられ、礼拝する側も礼拝される側も相応して、功徳をも得、罪業をも滅することもあるだろう。この様に真の信仰を持たずに生活している僧侶ほど、恐ろしい大盗賊・大詐欺師の者は、まさか俗世間に存在しないだろうと、思っていた。仏陀が世界が変わるごとに世に出られ、生きとし生けるものを悟りに導かんとした教えを盗んで、自分の生活の糧にするなど卑しいことである。在家の人は、上は(天皇)一人を始めとして下は(世間一般の)万人に到るまで、その器や能力に応じた役目によって、収入を得て身体を養うという恩をこうむっている。(しかし、)僧侶は出家してより、そのような恩をこうむってはならない者なのである。よって衣食共に父母・親類からのものであったとしても、(それらは特別なものでなく)すべて「寄進者の施物」にあたるのだ。それなのに、(僧侶は)心を浄め高めることもなく、持戒清浄であることもなく、不信心で懈怠のありさまで自身を養うのみならず、おまけに親族をすら扶養して、養い育てることは、おおいに理に背いている。おおいに理に背いているから、罪業を免れることはない。罪業を免れられぬから、地獄に生まれ変わることは、疑いようもないことである。この仏教を盗んで、天下の(平和の)祈願をすると言って、寺領を(拝領して)経営し、寄進者の祈祷をすると言って、供養料を徴収し、三業を制することもない形だけの行法、戒を破って恥じることもない立ち居振る舞いで明けぬ暮れぬと(日々を)過ごして、挙げ句の果てには、この(寄進者からの)供養料や布施を、仏陀の戒められた五戒や十重禁戒を破る種に費やして失うことは、(今が)末代だとはいえ、悲しいことだ。あまりにも深く(道に)迷っている者は、(自分が道に)迷っているとすら気付かないように、(彼ら僧侶は)あまりに(僧侶として)不当になって、そのように日々を過ごすことを大罪だとすら思いも掛けないまでに成り下がっている。これほどおおいに理に背いた以上は、(後世は)間違いなく地獄に堕ちるのだ。よってせめて僧侶になったということを心にとどめ、真理を悟るとまではいかなくとも、人としての生を失わないような振る舞い、心遣いをこそしなさい。

語注

  • 本寺[ほんじ]…一宗一派の末寺を統括する中心寺院。今で言う本山に同じ。あるいは、度牒[どちょう]に登録した、自身が籍を置いている寺のこと。→本文に戻る
  • 真信[しんしん]…仏教に対する心からの信仰あるいは信頼、確信。仏教、特に大乗では「仏法の大海は信を以て能入とす」(『大智度論』)あるいは「信は道の元、功徳の母」(『華厳経』)と説き、菩薩のj階梯の初位に十信を置くなど重要視する。仏教における信は、一般に言われる、ともすると盲目的な信仰から、その教義への信頼、そして確信と言ったように、いくつか段階がある。いきなり確信するのは不可能であるから、最初は盲目的な信仰でも良い。実践していくうちに自然とそれは変容していく。→本文に戻る
  • 檀那[だんな]…布施をする人。施主。檀那とは、サンスクリットdāna[ダ゙ーナ]の音写語で、「与えること」を意味する。ここから転じて、日本では「主人」「檀家」「夫」などと様々な意をもつようになった。→本文に戻る
  • 驢胎馬腹[ろたいばふく]に生ぜん事…来世に動物に生まれ変わること。畜生道に輪廻すること。→本文に戻る
  • 碓[からうす]の上下する礼…ただぺこぺこと頭を上下するだけで、心になんとも思わずにする礼拝のこと。これは現在も日本全国どこの寺院でも見られる光景。碓とは、地面を掘ったところに臼を据え、杵の端を踏んで穀類などをつく「ふみうす」のこと。→本文に戻る
  • 心地の開たることもなく云々…僧侶であることが、いわばただの職業となると、まさしくこのような状況が現出する。今現在の日本仏教界などこれよりもひどい状況となっているが、眼を世界に向けた時も、同様な状況があることが知られる。例えば、南方の僧侶などが先進国と言われる外国に住み、ある程度そこで高名となってくると、ほとんど例外なく、本国のその家族が富裕となるのである。彼らは、布教あるいは留学名目で来てはいるものの、実際のところは「出稼ぎ」に過ぎないということが非常に多い。→本文に戻る
  • 天下の祈り云々…「世界平和を祈願する」、などと言って大きな法会を開催し、祈祷料をせしめる者は今も後をたたない。もっとも、現代は近代以前とちがって、国家が公式に寺院に金品領地を与えることはもはやない。しかし、世界平和を祈願とは、いったい何であろう。自身と自身の周囲との小さな争いすら処理できぬ者が「世界平和」とは、実現不可能の大言壮語にすぎる。大義名分としてはこの上ないものかもしれぬが、耳聞こえが良いだけの虚言に過ぎない。
    現代の日本で、「世界平和」や「みんな仲良く」などと、過去を見ず、努力などせず、具体的施策の提示すらすることなくして叫ぶ人々と、「八紘一宇」をスローガンにした過去の日本人と、なにも変わっていないように見える。しかし寺院で唱えられるそれは、「飯の種になりえる戯言」または「社会から要請されるパフォーマンス」であって、真からそれを願っての言ではないだろう。→本文に戻る
  • 供料布施にて云々…寺院あるいは僧侶の収入は、基本的に信者からの布施による。その内容は、先祖供養のための読経の返礼、祈祷の対価として、純粋な仏教への信仰、葬式という儀式の料金、戒名の代金などなど、さまざまで一様ではないであろう。しかし、布施する者らは、相手が「寺院だから」「お坊さんだから」とするのである。それは漠然とし、不明確なものであっても、それらに対する謙譲の意によってなされるものである。しかしながら、布施される側の寺院・僧尼にそのよういな意識はまず欠落している。すべて一様に「収入」でしかない。そして、その「収入」は、寺院・僧侶に禁じられたはずの物品、行為に費やされる。信者檀家の布施供料は、むしろ僧侶の破戒・無法を助長する種になっている。→本文に戻る
  • 必定して地獄に云々…現代の日本仏教界では、「輪廻など通俗的非仏教的世界観であって、仏陀はそのような非科学的・非合理なことは説いていない」と公然と称する者は少なくない。彼らに「地獄はない」のである。それら「科学的」人々は、恐れず、遠慮なく非法な振る舞いをするのである。→本文に戻る

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49.只様もなく

本文 (原文 附現代語訳)

只様もなく、三宝*1 を信ずる心を発[おこ]すべきなり。設[たと]ひ三宝を信ずるに、罪を得る事と聞とも、力なく是を信仰したからんをば如何[いかが]せん。悪事をも罪うる事と聞けども、したき事なれば、其をも行じこそすれ、是は先世に正法を聞べき善業に感じて、其の故に是を信ずれば、功徳を得る事を何れの人もなしに信ぜしと云事はあらじと云々。

兎にも角にも、三宝を信じる心をおこすべきである。(と言っても、)たとえば「三宝を信じると、罪を得る」と聞きながらも、確たる意思に拠るでもなく三宝を信仰した者はどうであろうか。(人は)悪事は罪となる事と聞くけれども、(自分が)したい事であるから、それが悪事であっても行うのである、(三宝をなんとなしにでも信じたという)このことは前世にて正しく仏の教えを聞いたという善い行いの結果として、だからこそ三宝を信じるのであるから、(三宝を信じて)功徳を得ることをどのような人の関わりも無しに信じたという事はないだろう。

語注

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50.聊の流に

本文 (原文 附現代語訳)

聊[いささか]の流に少きの木一をも打渡して、人の寒苦を資[たす]くる行をも成し、又聊なれ共人の為に情け情けしく当るが、軈[やが]て無上菩提*1 までも貫きて至る也。加様の事は、誰々もいと何と無き様に思へり。是が則菩薩の布施・愛語・利行・同事の四摂法行[ししょうぼうぎょう]*2 と云て、菩薩の諸位に遍して、初後の位に通[つうじた]る行にて有也と云々。

どれほど小さい小川であってもそこに(橋として)小さな板を渡すようにて、他者の寒苦(など様々な苦しみ)が少しでも楽になるよう助ける行いをなし、また少しでも他者のために優しく思いやりをもって接することは、そのまま無上菩提(という最高の境地に)まで貫いて行われることなのである。このような(少しでも他者に優しく思いやりを接すると言う)事は、多くの人はまったく大したことのないように(当たり前すぎて重要なことでもないと)思っている。(しかし)これは菩薩の布施・愛語・利行・同事の四摂法といって、菩薩すべての境地に遍き、もっとも低い境地からもっとも高い境地に通じた行いなのである。

語注

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51.只心を一にし

本文 (原文 附現代語訳)

只心を一にし、志を全[まったう]して、徒に過す時節なく、仏道修行を勤むより外には、法師の役はなき事也。其物ぐさくは、軈[やが]て衣服[えふく]を脱替俗にぞ成べき法師にては、中々大に罪深かるべし。凡[およそ]仏道修行には何の具足も入ぬ也。松風に睡[ねむり]を覚[さま]し、朗月を友として、究め来り究め去より外の事なし。又独り場内床下に心を澄さば、何[いか]なる友かいらん。喩へば猶其の上は罪あるによりて地獄に堕[をちな]ば、退位の菩薩*1 の、地獄にあるにてこそあらめ。本より地獄には諸の菩薩ありと云へば、畏[をそろ]しからず。須[すべから]く仏法に志有らん人は、急ぎ罪なき事を知り極て、少分の過[とが]をも息[や]めんと、かせぐべきなり。

ただ心を一つにして、(悟りを目指して出家した)志を全うして、無駄に過ごす月日なく、仏道修行に励む以外には、僧侶の役目はないのだ。(しかし、その根性が)無精であって、いずれ袈裟衣を脱いで(還俗し)俗人に戻るような僧侶では、相当大いに罪の深いことである。そもそも仏道修行には何の所有する財産・物品も必要がないのだ。松風に眠りを醒まし、朗月を友として、(すべては滅びゆく幻の如くであるというモノの真理なるありさまを)究め来たり究め去る以外のことはないのだ。また独りで修行の場にて心を澄ましていれば、他にどんな友が要るというのか。喩えばあたかも(自身が)新たに罪をなしたことによって地獄に落ちたところ、退位の菩薩が、地獄に存在することであろう。もとより地獄には(その住人を救うべく)諸々の菩薩があるというのだから、(地獄に落ちることは)恐ろしいことではない。当然のことながら仏教に志をたてる人は、ただちに(自身に現在行っている)悪があるかないかを知り極め、小さな過失であってもこれ以上なさないようにと、懸命に励むべきである。

語注

  • 退位の菩薩…到達した境地から後退した菩薩。対して、二度と後退することのない、真理にたいして絶対的確信するに到る境地へ昇った菩薩は、「不退転の菩薩」という。→本文に戻る

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