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1.明恵坊高弁

明恵上人とは

画像:明恵上人像・久米多寺蔵(松平定信編『集古十種』第1,国書刊行会,172項所載)

明恵上人とは、鎌倉期初頭に活躍した、華厳宗中興の祖とされる人です。俗姓は平、僧名の明恵[みょうえ]は仮名[けみょう]。実名[じつみょう]は初め 成弁[じょうべん]であったが後に 高弁[こうべん]に改名。

明恵上人は、東大寺尊勝院の学頭に補任されるほど学徳高かった人です。しかし、仏教を学問的に理解する学僧達、いくら博識であっても自分の出世の手段としてのみ仏教を修学する僧侶達を嫌悪。結局、みずからは遁世して、ひたすら一途に仏道を修めています。

また、平安末期から日本を席巻していた、仏教における終末思想ともいうべき末法思想を背景に、天台宗から派生した日本独自の思想、法然の浄土教を激しく批判しています。

法然の浄土教 ―カルト化していた教団

法然が主張した 選択[せんちゃく]あるいは 一向[いっこう]という信仰態度は、経典の中の極々一部の文言を根拠に、「ただ一つの対象への絶対的帰依、徹底した信仰心を持って救いを求めることこそが救済への道。それには戒も冥想も、自己犠牲的努力も必要ない」というものでした。

慈雲尊者も同じく、そのような信仰態度をとる輩に対して、「一文を採りて万経を捨てる」(『十善法語』)という批判の言葉をのこしていますが、この如き態度は、きわめて排他的な教義の構築と、それを「あくまで純粋に信仰する人々」、換言すれば狂信者集団の出現を助長していました。

実際、法然の信奉者達の一部は、現代に言うところの「カルト教団」化していたと言えます。法然の書とされる『遣北陸道書状』には、「弥陀の願を憑[たの]みたてまつる者は、五逆を憚[はばか]る勿[なか]れ。心に任せてこれを造れ。袈裟を着すべからず。直垂[ひたたれ]を着よ。婬肉も断つべからず。恣[ほしいまま]に鹿鳥を食ふべし」(『法然全書』,P801)と記されています。

法然は、破戒や非法なふるまいを積極的にする自身の徒弟・信者の出現が、幕府や伝統諸宗から激しい非難の的となったために、それらを諫めようとしたようですが、ほとんど徒労に終わって います。結局、法然は、興福寺や比叡山などからの猛烈に批判さらされ、さらに幕府から専修念仏は危険思想視されて禁制され、ついに自身は流刑に処せられています。

明恵上人が、法然の『選択本願念仏集』を実際に眼にしたのは、法然の没後間もなくのことです。が、この書の内容の非法さに衝撃を覚えた明恵上人は、法然の唱えたそのような本来の仏教からおよそかけ離れた信仰あるいは態度を強く批判した、『摧邪輪[ざいじゃりん]』を著しています。

持戒と冥想の日々 ―戒律の復興と茶の普及

鑑真和上が伝来した律の伝統がすでに廃れて久しかった当時にあり、上人自身も正しく僧侶と成り得ない状況にありました。

明恵上人はそれを自覚していたようですが、山深くにあって仏教の如説修行をこそ本懐とし、それを人々に説き、みずから行っています。上人は、戒律の重要を説いてみずから守らんとし、日々冥想に打ち込んだ生活を送っています。

また、当時の法相宗の龍、笠置の 解脱上人貞慶[じょうけい]や日本の臨済宗祖となった栄西[ようさい]禅師との親交をもっています。禅師が宋から将来した茶の苗を高山寺で栽培。明恵上人は、茶を冥想時の眠気覚ましの薬として用いたのですが、これが日本 に茶が広まる端緒となったとされています。両人共に明恵上人と同じく、末法思想の大流行をみていた鎌倉期にあって、戒と律との重要を説き、冥想に励んだ人でした。

明恵上人没後まもなくの嘉禎2年(1236)、 叡尊[えいそん]と覚盛[かくじょう]らによって、本邦一度目の戒律復興運動がなされています。彼らは、明恵上人と親交の深かった解脱上人貞慶の弟子筋です。

彼らによる戒律復興の風は、度重なる戦乱による経済基盤の喪失や派閥主義の蔓延などにより、百年ほどで止むことになります。しかし、これが槇尾山明忍律師による慶長の戒律復興につながり、江戸期において慈雲尊者など持律峻厳の大徳達を輩出することになるのです。

ちなみに、京都の宇治がお茶の名産となったのは、鎌倉期の戒律復興の立役者、興正菩薩叡尊によります。叡尊が、宇治川一帯を幕府公認の「殺生禁断の地」と禁漁区としたため、地元の漁師達の生活はたちまち困窮。そこで叡尊律師は、漁業にかわる生活の糧として、地元の漁師たちに茶の栽培を勧めたということに因みます。もっとも、漁師達からすれば、自主的でなく強制的に稼業を変更させられたのですから、相当に不満があって幕府に抗議すらしたようですが、結局ここが日本でも有数の高級茶葉の産地となっていきます。

いずれにしろ、日本におけるお茶の普及と戒律復興を担った人々とは、深い縁があるようです。

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2.明恵上人の生涯

幼くして両親を亡くす

平重国[たいらのしげくに]を父とし、藤原宗重[ふじわらのむねしげ]の四女を母として、承安三年(1173)一月八日、紀伊国在田郡石垣の吉原村(現:和歌山県有田郡有田川町)にて、上人は生を受けます。

しかし、治承四年(1180)正月に母を病で、九月には父を戦にてと、幼年にして両親を亡くし、伯母に養育されています。

華厳と密教を修学

9歳のおり、明恵上人は親類の元を離れ、京都は高雄山神護寺にあった叔父、上覚[じょうかく]の膝下に入り、16歳にて文覚[もんがく]について得度し、不如法なるも東大寺戒壇院にて受戒。

明恵上人が、後代に戒律護持を志し、実践することになったのは、この文覚から強い影響を受けた様です。文覚の戒律護持に対する姿勢は、彼の「四十五箇条起請文」より知ることが出来ます。

明恵上人は得度してより、東大寺尊勝院の聖詮[しょうせん]について華厳を学び、また真言密教を修行して小野の興然 [こうねん]から両部灌頂を受けています。建久九年(1198)に高雄を離れ、紀州白上峰に隠棲。

元久二年(1205)に釈尊への思慕の念が高じたあまり、インドへの渡航計画を立てるも発病により断念。同年、隠棲した白上峰に土地問題が起こって、京都へ帰ります。建永元年(1206)に、後鳥羽上皇より栂尾の地を賜り、華厳の道場として高山寺を建立。

承元元年には、院宣により東大寺尊勝院の学頭に補任。二年間これを勤めて以降は、世間から離れて日々冥想に励み、また七十余巻にものぼる多くの著作を著しています。

上人の著作

上人が遺した数多くの著作の中でも、法然が『選択本願念仏集』にて説いていた浄土教を激しく批判した書、『摧邪輪』・『摧邪輪荘厳記』が有名です。

また、釈尊の涅槃を追慕した『四座講式[しざこうしき]』は、その格調高い美文で知られています。現在、高野山でこれを声明にて披露する法会「涅槃会」があり、厳重な法式を今に伝えられています。

また、上人は、40年間におよぶ夢日記とも言うべきものをつけています。『夢記[ゆめのき]』がそれです。これは、心理学や文学の分野からも注目されています。

「御成敗式目」

明恵上人は、後鳥羽上皇・建礼門院・北条泰時・九条兼実など時の権力者や、僧俗問わず多くの民衆の心をとらえ、深くその帰依を受けています。特に、時の執権北条泰時は、深く明恵上人に帰依し、世を治める者の心得など教えを受けたと伝説されています。

その際、明恵上人は、「欲心を失ひ給はば、天下自[おのず]から令せずして治るべし」・「其身[そのみ]直[なお]くして影曲らず、其政正しくして国乱るること無し」などと、為政者としての心得を、仏教ではなく老荘思想をもって、泰時に説いたといわれます。

明恵上人の教えを受けた北条泰時は、武家法とはいえ、日本独自という点で本邦初の成文法「 御成敗式目 (貞永式目)」を制定。結果、これは江戸期を通じて強い影響を与え続ける法となります。上人の影響は近世の法律にまで及んでいたといえるでしょう。

京都栂尾にあった上人は、人々の貴賎貧富を問わず戒を授け、道を説いて止むことはありませんでした。寛喜四年(1232)正月、高山寺にて没。享年60歳。

明恵上人の伝記

明恵上人の伝記は、『本朝高僧伝』・『東国高僧伝』に収録され、また『明恵上人行状』・『栂尾明恵上人伝記』など諸本あります。現在最も入手しやすいものとしては、脚色が施されていると思われるものの、読み物としてまことに優れており、また近世より一般にも親しまれてきた『栂尾明恵上人伝記』が挙げられ ます。

上人が後世に残した影響は様々な方面において実に大きく、江戸時代には多くの上人の思想に連なるといえる人々が多数出ています。慈雲尊者もまた、明恵上人の唱えた「阿留辺畿夜宇和」という思想の系譜あると見ることが充分に出来ます。

いまだ現在にも、明恵上人のその徳を慕う者は数多く、またこれは将来は変わらないでしょう。出来るだけ多くの人が、明恵上人の思想ならびに教えに触れてこれを範とし、さらにまたこれを機会とし指針として仏教という大海にこぎ出せば、計り知れない大きな益を得ることが出来るでしょう。

貧道覺應 拝識
(horakuji@gmail.com)

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