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1.比丘とは

正式な男性出家修行者

比丘とは、「(食を)乞う者」を原意とする、サンスクリットBhikṣu[ビクシュ]またはパーリ語Bhikkhu[ビック]の音写語で、仏教においては正式な男性出家修行者のことを言います。

比丘はまた、漢語では大僧[だいそう]と呼称される場合もあります。また、サンスクリットの発音により近い音写語である、苾蒭[びっしゅ]という呼称が用いられることもあります。

この比丘になるためには、誰でも例外なく、比丘の二百五十戒や具足戒、大戒などと言われる、およそ250ヶ条からなる律を、律蔵の規定する方法に全く従って受けなければなりません。

(詳細は”四分律戒相”を参照のこと。)

それにはまず、「20才以上である」、「父母から出家の許しを得ている」、「負債がない」、「官人(公務員)でない」、「人間である」、「(皮膚病や性病、その他の)感染症にかかっていない」、「性的不能者ではない」、「両性具有者ではない」など、他にも様々な条件を必ず満たしている必要があります。ちなみに『四分律』では、比丘になるためには、十遮十三難と言って計二十三の条件を挙げています。

四波羅夷 -比丘としての死-

もっとも、律の内容・構成を知れば理解できることですが、二百五十戒のすべてを完全に守らなければ、守れなければ比丘たり得ないということはありません。

ただし、律には、具足戒を受けて比丘になった以上は、比丘として「絶対に」やってはならない四ヶ条が示されており、これを犯せばただちに比丘の資格を失って、僧団から永久追放されます。これを波羅夷罪[はらいざい]と言い、それが比丘の場合、四ヶ条あることから四波羅夷と言われます。

では、その四ヶ条とはなにか。

四波羅夷法
No. 罪名 罪状(抄)
1 相手の同性・異性、天人・獣を問わず、口・性器・肛門を通じて性交渉する。
2 故意に5 Māsaka[マーサカ](五銭)以上を盗む。
3 他人・天人を自ら殺害、あるいは殺害教唆、自殺奨励して実行させる。
4 故意に禅定あるいは賢者・聖者の位を得たと虚言する。

先に述べたように、このいずれかを犯せばただちに比丘の資格を失い、もう二度と比丘となることが出来なくなるため、これを犯すことは比丘として死することを意味します。

現実的に多くの男性にとって、最も維持するのが困難と言えるの条項は、第一番目の「淫戒」でしょうか。

淫戒とは、具体的には「相手の同性・異性、天人・獣を問わず、口・性器・肛門を通じて性交渉する」ことを絶つこととです。仏教は出家者の「性」について、大変厳しい態度をとります。故に、在家の八齋戒・沙弥の十戒などでは「淫戒(不淫)」は第三に挙げられるものですが、比丘の場合、この条が四波羅夷のうち第一に挙げられます。

世間には、「仏教は、出家者の異性に対する性行為は禁じているが同性は禁じていない。なんという欺瞞であるか」、あるいは「仏教は同性愛には寛容である。故に仏教の僧侶には同性愛者が多かった」などと、何を間違ったかすっかり勘違いして理解している輩があるようです。しかし、それは無知に基づくまったくの誤解です。

賊心入道

さて、俗間には「面倒な世の中を離れて世俗の事柄から逃げ出し、頭を剃り、袈裟をまとって托鉢するなど僧侶として静かな出家生活はしてみたい。けれども、二百五十戒などと言われる律などは守れない、いや守りたくない、自分は窮屈な(不合理で時代遅れの)戒律に縛られたくなどない」などという者がしばしばあります。

実際として、このような考えを持つ、もはやつぶしの効かなくなった四十あるいは五十歳を超えた者が、経済不況の波にもまれてリストラ・自己破産などの憂き目にあい、これを機縁に(出家生活に奇妙な浪漫を感じて)出家。ところが、自分の俗世での経験に基づいた「しかし、わたしはこう思う ―私の仏教観」といった類の自分勝手な主義主張、いわば(すでに失敗を見たはずの)「私の人生哲学」如きものに固執して、これを出家生活に持ち込み、周囲と衝突。結局なじめずに還俗し、声高に「現代のいずれの僧侶も腐敗しきっている」などと誹謗中傷を始める、などというケースが実に多くあります。

「律など守れない、いや守りたくない」

「自分の主義主張や習慣を捨てることは出来ないし、これを出家生活にも持ち込みたい」

もしくはひどいのになると、「不況で経済的に苦境になった。人生にも疲れた。仏教のことはよく知らないが、本を少し読んでみたら良さそうだ。聞けば、南方では僧侶には簡単になれるという。では、老後は出家となって悠々自適に送ろう」などという、安直な考えを持つ中年・老人が、現実に存在しています。

しかし、経済不況など不純な動機にて出家を志すような者など論外ですが、このような人はそもそも僧侶になるべきではありません。出家生活に妙な夢・浪漫・妄想などもたず、在家信者のままで居れば良いだけのことです。

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2.律蔵における比丘の定義

様々な比丘

上に述べたように、比丘とは、「(食を)乞う者」を原意とする、サンスクリットBhikṣu[ビクシュ]またはパーリ語Bhikkhu[ビック]の音写語です。

もっとも、比丘とは、なにも仏教の修行者に特有の呼称ではなく、インドにおける出家遊行者全般を示す言葉です。故に、仏教以外の修行者にも比丘が存在し、今もそう呼ばれる者が実際にあります。

そこで律蔵ではその性格上、仏教における比丘とは何かを厳密に定義する必要があったために、何をもって仏教の比丘というのかを詳細にしています。故に、律蔵における比丘の定義がそのまま、仏教における比丘の定義となります。

そこで以下、現存する諸律蔵のうち、現代も世界のいずこかにおいて現実に機能している三つの律蔵、すなわち東南アジアにて実行されている「パーリ律」、東アジア(支那・日本)で行われてきた『四分律』、ならびにチベット(チベット仏教)で行われている「有部律」における、比丘とは何かの定義を示します。

律蔵における比丘の定義
No. パーリ律 四分律 有部律
1 乞士 名字比丘 名字苾蒭
2 行乞食(比丘) 相似比丘 自言苾蒭
3 著割截衣(比丘) 自称比丘 乞求苾蒭
4 名字比丘 善来比丘 破煩悩苾蒭
5 仮名比丘 乞求比丘 白四羯磨円具苾蒭
6 善来比丘 著割截衣比丘 -
7 三歸得具足戒(比丘) 破結使比丘
8 善比丘 受大戒白四羯磨
如法成就得処所比丘
9 真比丘 -
10 学比丘
11 無学(比丘)
12 具足戒白四羯磨(比丘)

(パーリ律が挙げる各種比丘の名は、便宜的にその注釈書の漢訳本である『善見律毘婆沙』にあったものを借用しています。『四分律』と『有部律』のものは、そのまま原文にあったものを使用しています。)

仏教の比丘

上記に示した表のように、律蔵ではまず、「パーリ律」では12種、『四分律』では8種、「有部律」では5種と、一般的に比丘とはどのような者のことであるのかを様々に列挙しています。しかし、その中でも律蔵が比丘と認める者、すなわち仏教において比丘と言われる者はただ一つ、それぞれ最後に示されている「(諸条件を満たした上で)白四羯磨によって具足戒を受けた比丘」で共通しています。

(白四羯磨とは何かについては、”現前僧伽と四方僧伽 -平等と和合-”を参照のこと。)

仏陀ご在世の頃は、「白四羯磨」以外の方法で出家した比丘もまた、たとえば善来比丘(仏陀からの「来たれ、比丘よ」との呼びかけによって出家した者)など、正式な比丘として認められる存在でした。しかし、仏教がインド各地に伝道され、また僧伽がそれに伴って大きくなっていったことによって、仏陀ご自身によって出家の方法が改められ、最終的に仏教の比丘となるための絶対条件として規定されたのが、「白四羯磨によって具足戒を受けること」でした。

先にたびたび述べましたが、比丘とは原義から言えば「乞う者」、食を乞いながら遊行する出家修行者です。

しかし、仏教においては、比丘とはただ「乞う者」というのではなく、「白四羯磨によって具足戒を受けた出家修行者」であり、これが仏教において比丘と呼び得る者の条件であり、定義です。

オボウサン≠比丘 ―宗教法人法と宗規、世間体を戒律とする人々

しばしば、日本で僧侶を生業としている者が、南方に旅行などで行ったとき、僧侶として認められなかった、扱われなかった、と不満を漏らす者があります。

しかし、これは当然のことです。

それは、彼らが(大乗・小乗の区別無く)定義される比丘、正式な仏教の僧侶ではまったく無い、すなわち具足戒を受けてもおらず、また万一仮に受けていたとしてもこれを全く守っていないということが、その原因の一つです。

そもそも、普段は袈裟・衣を身にまとうことなどなく、(作務衣を含め)まったく俗服で生活し、儀式などあるときのたまにしか身にまとわないのが日本の僧侶の一般的ありかたで、まずこれが僧侶として根本的に非法であり、また世界的に見ても異常なありかたです。故に、これが「オボウサンごっこの人」・「似非ボーズ」などと見られて、正式な僧侶として認められないのは当たり前といえます。

日本では、明治維新から昭和初期にかけて、比丘を生み出す機構・組織つまりサンガが完全に滅び潰えてしまったため、日本仏教には、仏教の正式な僧侶「比丘」が存在していません。日本の僧侶は、日本の一宗団内でのみ認定される僧侶ではあっても、仏教として認められる僧侶ではないのです。

また、日本国内ですら、宗派が異なれば僧侶として認めない場合があります。たとえば、人が宗派の垣根を越えて修行・修学を希望する場合など、何故か得度からやり直ししなければ不可、ということがほとんど当たり前となっています。

もはや、彼らが属する大乗の見解・教義からしても、日本のそれは、仏教の僧侶として認められるようなモノでは到底なくなっています。ただ彼らが独自に規定したところの「宗規」という事務上の規則、あるいは国家が施行しているところの「宗教法人法」、そして「世間様(檀家)の目」が、彼らにとっての戒律となっていると言って過言ではありません。

しかも、それは、「やりすぎないように。程ほどに。ある程度」守っていれば良いのである、というものに過ぎません。日本仏教における「僧侶」の復活、戒律復興が俟たれるところです。

もっとも、チベットや支那、韓国の具足戒を受けた比丘であっても、上座部ではこれを比丘とは認めません。何故か。それはまず、現在の上座部がいかなる経緯で伝わったかなど歴史的背景に依る、この部派の排他的・独善的傾向に基づくものです。

大乗の比丘と、上座部の比丘と

そしてまた、支那や韓国もしくはベトナムの比丘達の多くもまた、一応具足戒を受けてはいるものの、その生活態度や行動が、およそ律蔵の規定から遠く離れたもので、比丘が名目的なものに過ぎないという側面があるためです。これも大きな原因の一つとなっています。

実際、彼らは、儀式の時は皆見事なまでに僧侶然とするのですが、それ以外の日常では(僧侶としての衣はまとっていても)袈裟を付けることが無く、それによって、実に威儀を乱した、だらしない格好・態度で外を出歩き、生活する者が大変多くあります。

上座部の僧侶が、大乗の僧侶を批判する場合、この点を「大乗の僧侶は堕落しており、仏陀の教えに準じていない。ただ読経によって信者から布施を巻き上げるだけで、仏教を食い物にしている」など声高に言う場合があります。しかしそのような上座部の僧侶本人が、(袈裟を正しく着用せず、映画・音楽を鑑賞し、夕食を食べ、同じく読経・仏教儀礼などを通じての信者の布施を貪るなど、実にだらしなく生活を送っている)自分の日頃の所行をまったく棚に上げていることが少なくありません。

上座部でも、むしろまっとうに生活している行学兼備の僧侶こそ、「(戒定慧の三学を修める限りにおいて)大乗も上座部も、いずれも等しく仏陀の教えを伝える道」と、その双方を認めていることがあります。

しかしさて、日本のオボウザンと、上座部ならびに大乗の他国の僧侶との決定的に異なる点は、まず、(ただしく)具足戒を受けているということ。そしてまた、彼らは、いくら威儀が乱れているとはいえ、普段は俗服で生活し、時として僧侶であることを隠して酒処や賭博所、娼館など良からぬ処に出入りし、法要など儀式の時だけの短時間、袈裟衣を身につけるなどということは、まずありません。

小苾蒭覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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