真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『骨相大意』(1)

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1.原文

今時法相似に転じ人高遠にはしる。こと葉弥〃高クして行ますます降る。言たかければ非を文るにたくみなり。行くだるゆへみづからその過を省ることなし。晩達小僧もつねに大乗を称し。俗士庸流も動モすれば向上の宗を談ず。その甚しきは佛法世法二なしとて名利をもとめ。煩悩菩提別あらずと云て聲色にふける者あり。これみな魔外の種族なるべし。

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2.現代語訳

いまどきは(仏陀の)教えが、(本来のものとは)似て非なるものとなってしまい、人は(聞こえは良くとも内容がまるでない)観念の遊戯に走っている。(結果として、その口にする)言葉、思想はいよいよ高いものとなっていくけれども、行いはますます下劣で卑しいものとなっている。思想だけが高邁であれば、(他の)欠点を批判することに長じるものである。(しかし、どれだけその口にする思想が崇高なものであっても、その者の振る舞い、心の働きなどの)行いは下劣であるから、自分からその(言動不一致なることの)あやまちを反省することがない。晩達(ばんだち)*1小僧(こそう) *2も(その内実が、およそ「大乗」などといったものから程遠いものであっても)、つねに「我々は大乗の信徒である」と自称し、俗士(ぞくし)*3庸流(ようりゅう)*4ですら、(それがどう言ったものかも知らず、また行うこともなしに)ややもすれば向上の宗*5を語っている。中でも甚だしくひどい者ともなれば、「仏陀の示した教えと、世俗の習わしとは、実はなんの矛盾もなく一つのものである」などと虚栄や財産を(平然として)求め、「煩悩*6菩提*7とに違いはない。(だから悟りをもとめて修行するのも、欲望をむさぼるのも同じなのだ)」などとうそぶいて、声色(しょうしき)*12に溺れる者達がいる。これらは皆、魔外(まげ)*12の種族に他ならない。

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3.語注

*1 晩達(ばんだち)…出家して長年の僧。→本文に戻る

*2 小僧(こそう)…いまだ具足戒を受けていない未成年僧。沙弥(しゃみ)の別称。→本文に戻る

*3 俗士(ぞくし)…見識の劣った、つまらない人。凡俗の人。→本文に戻る

*4 庸流(ようりゅう)…「庸」は「凡庸・世間並み」の意。特に優れた能力もない者。またはその一群。→本文に戻る

*5 向上(こうじょう)の宗…尊者は『法語集』にて、「向上の宗」とは禅宗と真言宗である、と定義している。→本文に戻る

*6 煩悩(ぼんのう)…真理に迷い、自他を苦しみに導く欲求、心的衝動。世間では「煩悩=欲望」と考えている者が多いようであるが、そうではない。善を志向すること、悟りを求めること、生きとし生けるものの助けとなろうとすることも欲望の一つである。煩悩とは、智無きが故の自他を苦しみに導く欲望であって、欲望一般のことを指すのではない。頭ごなしに「欲があるから苦しみが生まれる。だから欲を持ってはダメだ!」などと言っても始まらないのである。もっとも、好ましいと思われる欲すらも、仏教を正しく修行するならば、その修行が進んでいくうちに自然と離れていくことになる。→本文に戻る

*7 菩提(ぼだい)…サンスクリット「bodhi(ボーディ)」の音写語で、その意味するところは「悟り」・「気付くこと」・「モノの本質を知り抜くこと」・「苦しみを作り出す欲望から離れる精神作用」などと様々に表現出来る。日本では、「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という、なんだかよくわかっていないのであろうが、この言葉の聞こえの良さを好んで、その意味を完全に履き違え、むやみやたらに使う者が非常に多い。「迷わぬ者に悟り無し」などとも巷間言われるが、そもそも「煩悩即菩提」などと言っても誤解を招くだけで意味がない。よって、このような言葉は使うべきではない。無駄口の一種である。→本文に戻る

*8 声色(しょうしき)…「声」は音楽や舞踊などに代表される娯楽一般。「色」は性的行為。性的欲求。→本文に戻る

*9 魔外(まげ)…「魔」は人を迷わす欲。煩悩。悪魔としての神。「外」は外道で、仏教外の思想、宗教をいう。→本文に戻る

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