真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『正法律興復大和上光尊者伝』

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1.原文

年十九。遊和州。肄顕密教。冬隷籍於河之野中寺。従秀嵓和上受沙弥戒。嵓師一見。期以遠大。謂之曰。子実千里駒也。善自愛重。莫恃寸傲人。莫得少為足。噫吾耄矣。恨不及及見子他日建法幡撃法鼓耳。

年二十。受具支灌頂于嵓和上。稟秘密儀軌于戒龍和上。

年二十一。受満分戒。所謂通受自誓得也。自後研究毘尼。不棄寸陰。四律五論。及南山疏鈔。探頥討幽。

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2.読み下し

年十九。和州*1 遊で*2 顕密の教*3 を肄[なら]う。冬籍[せき]を河之野中寺[かわのやちゅうじ]*4 に隷[れい]して、秀嵓[しゅうがん]和上に従って沙弥戒[しゃみかい]*5 を受く。嵓[がん]師一見して、期するに遠大を以[もって]す*6 。之に謂て曰く。子は実に千里の駒*7 なり。善く自ら愛重[あいちょう]せよ。寸を恃[たのん]で人に傲ること莫[なか]れ。少を得て足れりと為[す]ること莫[なか]れ。噫[ああ]我耄[もう]せり。恨むらくは子が他日法幡[ほうばん]を建て*8 法鼓[ほっく]を撃つ*9 を見るに及ばざる耳[のみ]。

年二十。具支灌頂[ぐしかんぢょう]*10 嵓[がん]和上に受け、秘密儀軌*11 を戒龍[かいりゅう]和上に稟[う]く。

年二十一。満分戒[まんぶんかい]*12 を受く。所謂通受自誓得[つうじゅじせいとく]*13 也。自後毘尼[びに]*14 を研究し、寸陰を棄てず。四律五論[しりつごろん]*15 、及び南山疏鈔[なんざんしょしょう]*16 。頥を探り幽を討[うた]ぬ。

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3.現代語訳

尊者齢十九のことである。尊者は和州[わしゅう]に遊び、顕密の教を学んだ。冬、その籍を河内野中寺[かわちやちゅうじ]に置き、秀嵓[しゅうがん]和上に従って沙弥戒[しゃみかい]を受けた。秀嵓[しゅうがん]和上は尊者を一見しただけで、(その将来を)期待するのに遠大であった。秀嵓和上は尊者にこのように語った。「おまえは実に、千里を駆け抜けるほどの駒である。善く自らの行いを慎み身体を大切にしなさい。わずかばかりの才知を誇り、人に傲り高ぶってはならない。(佛法に於いて)少を得て満足してはならない。嗚呼、私はすでに年老いてしまった身である。ただ残念でならないのは、君が将来、法幡[ほうばん]を建て、法鼓[ほっく]を撃つのを見ることが出来ないことだ」と。

尊者齢二十のことである。具支灌頂[ぐしかんぢょう]を秀嵓[しゅうがん]和上に受け、秘密儀軌を戒龍[かいりゅう]和上から授けられた。

尊者齢二十一のことである。(尊者は)晴れて満分戒を受けたのであった。(この受戒は)いわゆる通受自誓得[つうじゅじせいとくであった。これ以降、尊者は毘尼[びに]を研究して、わずかの時間でも無駄にしなかった。それは、 四律五論[しりつごろん]及び南山疏鈔[なんざんしょしょう]など、頤を探って幽を討とうというものであった。

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4.語注

  • 和州[わしゅう]…現在の奈良県。→本文に戻る
  • 遊[あそん]で…勉学などのために故郷をはなれて他の土地へ行くこと。→本文に戻る
  • 顕密の教…顕教[けんぎょう]と密教。何れも仏教だが、根拠となる経典等によってこの区別がなされる。チベットと日本ではその定義が若干ことなる。日本では、弘法大師によってそれぞれ定義された。一般的には、顕教とは、教主が釈尊で、六波羅蜜行による三劫成仏[さんごうじょうぶつ]を説く教えであり、密教とは、教主が大日如来で、三密加持による即身成仏[そくしんじょうぶつ]を説く教えであると言われる。しかし、これは必ずしも適切な説明とは言えない。→本文に戻る
  • 河之野中寺[かわのやちゅうじ]聖徳太子の開基と伝説されている、江戸期における戒律復興運動の中心的存在であった三大律院のひとつ。河内野中寺。法楽寺中興の祖、洪善普摂[こうぜんふしょう]和上や、尊者の師である忍綱貞紀[にんこうていき]和上もここで戒律を学んで律をうけている。大阪富田林は野中に現存。→本文に戻る
  • 沙弥戒[しゃみかい]…沙弥とは、二十歳未満で具足戒を受けていない少年僧のこと。その戒は十戒といって十項目ある。本来、沙弥戒は出家得度式のおりに授けられているのに、日本では沙弥戒を別の機会に重ねて授ける習慣がある。もっとも、スリランカやミャンマー、タイでも、具足戒を受けて比丘になる際、十戒を重ねて授ける習慣がある。これは、具足戒を受ける者が、正式には得度していなかった、などという万一に備えてのことであるという。→本文に戻る
  • 遠大[えんだい]を以てす…将来まで見通して大きいこと。→本文に戻る
  • 千里の駒[こま]…群を抜いた才能をもつ逸材。→本文に戻る
  • 法幡[ほうばん]を立て…法幡とは「法の旗」で、仏の教えの象徴。それを建てるとは、正しく仏の教えを世に説き示すこと。→本文に戻る
  • 法鼓[ほっく]を撃つ…法鼓も「法の太鼓」で、仏の教えの象徴。先とおなじく、仏の教えを世に説き示すこと。→本文に戻る
  • 具支灌頂[ぐしかんぢょう]…四度加行[しどけぎょう]を全て終えた者が受ける、密教の最重要儀式の一つ。これを受けた者が密教の阿遮梨[あじゃり]となる。一般には伝法灌頂[でんぽうかんぢょう]と言われる。→本文に戻る
  • 秘密儀軌[ひみつぎき]…密教の修行法の階梯が、逐一詳細に説かれている聖典の総称。これを根拠に各流派が独自の冥想法を、「次第[しだい]」として組み立てる。→本文に戻る
  • 満分戒[まんぶんかい]…律のこと。数え二十才以上でなければ受けることが出来ない。それは二百五十項目の行動規定からなる。これを受けて初めて仏教の正式な僧侶、比丘となる。一般的には具足戒などと呼称される。→本文に戻る
  • 通受自誓得[つうじゅじせいとく]…自らが誓うことによって戒と律とを同時に受けること。主に『占察経[せんさつきょう]』に基づいて行われる。具体的には、三聚浄戒[さんじゅじょうかい]という、具足戒や菩薩戒を綜合した概念的抽象的な大乗戒を、自らが誓うことによって受けること。これを行うに先立っては、『梵網経[ぼんもうきょう]』に説かれる懺悔滅罪の法に拠って、礼拝行や禅・密教の行法などを、「好相[こうそう]」といわれる、なんらか確信を持ち得る吉祥な夢あるいは瑞兆を見るまで行わなければならない、と日本ではされている。これは、日本国内では如法授戒が完全に出来ない状況に陥っていた鎌倉時代初期、緊急避難的措置として覚盛[かくじょう]律師が考案。叡尊[えいそん]律師とその他二人と共に実行したのがその嚆矢。
    しかし、本来は持律清浄の十人以上の比丘サンガに対して、律を受けて比丘となる許可を請わなければ、受戒はまったく成立しない。よって、これはあくまで緊急避難的で非正統なもの。しかし、この方法が鎌倉時代以降、日本の標準的受戒法となっていった。(奈良期、鑑真和尚が渡来そて伝律された以前にも、自誓受戒と呼びえる受戒はやはり「占察経」に依って行われていたが、和尚渡来以降は行われなくなったという。)→本文に戻る
  • 毘尼[びに]…律のこと。律はサンスクリットあるいはパーリ語でVinaya[ウィナヤ]というが、その音写語。→本文に戻る
  • 四律五論[しりつごろん]…支那に伝わって翻訳された四つの律蔵と、インドで書かれた五つの律蔵の注釈書の総称。古来、支那・日本において律を学ぶ上で読むべき重要な書物とされてきた、いわば儒学における「四書五経」の如きもの。四律とは、『十誦律[じゅうじゅりつ]』・『四分律[しぶんりつ]』・『摩訶僧祇律[まかそうぎりつ]』・『五分律[ごぶんりつ]』の四つの律蔵。五論とは、『毘尼母論[びにもろん]』・『摩得勒伽論[まとろがろん]』・『善見論[ぜんけんろん]』・『薩婆多論[さっぱたろん]』・『明了論[みょうりょうろん]』の五つの律についての注釈書。→本文に戻る
  • 南山疏鈔[なんざんしょしょう]…唐代に南山四分律宗を立てた、南山大師道宣[どうせん]が著した律の注釈書群。特に『行事鈔[ぎょうじしょう]』は、少々その注解に煩雑または敷衍しすぎの感があるものの、実践的に『四分律』を学ぶものならば必ず読まなければならない書の一つ。南山とは、道宣律師が住んでいた支那は終南山[しゅうなんざん]の略称。→本文に戻る

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