真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『正法律興復大和上光尊者伝』

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1.原文

尊者諱飲光。慈雲其字也。自号百不知童子。姓源。族上月氏。浪華人也。

父安範。播州田野村人。其系自赤松。弱冠移居浪華。為人卓犖不羇。有侠者風。軽財重義。趨人之急甚於己私。人称為長者矣。母桑原氏。阿州徳島産也。其族川北又助者。鞠為女。又助仕高松侯。為浪華米倉校官。慕安範之為人。以養女妻焉。

尊者生於外祖父家。享保三年戊戌七月二十八日也。幼而状貌異凡児。性凝荘不妄挙動。稍長益俊邁。而其踏矩循彠。有若成人。父謂族人曰。他年興吾宗者。必斯児矣。父有七男一女。尊者乃第七男也。母氏素信三宝。法楽寺貞紀和上者。其所深帰依。和上字忍綱。行学兼備。為時碩徳。

時屈請其家而飯焉。和上見尊者気貌異常。謂其母曰。此般若種也。豈宜使其終没塵中耶。盍以乞我。

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2.読み下し

尊者諱[いみな]*1 は飲光[おんこう]。慈雲は其の字[あざな]*2 なり。自ら百不知[ひゃくふち]童子と号す。姓は源[みなもと]。族は上月[こうづき]氏。浪華[なにわ]の人なり。

父安範[やすのり]。播州田野村の人。其の系赤松[あかまつ]自す。弱冠*3 浪華に移居す。人と為[な]り卓犖[たくらく]*4 不羇[ふき]*5 侠者*6 の風有り。財を軽じ義を重し、人の*7 に趨[はし]ること、己が私より甚し。人称して長者[ちょうじゃ]*8 とす。母は桑原[くわばら]氏。阿州徳島の産なり。其の族川北又助[かわきた・またすけ]なる者。鞠[まり]て女[むすめ]とす。又助高松侯*9 に仕[つかえ]て、浪華米倉*10 [こめぐら]の校官*11 となる。安範が人為[ひととなり]を慕って、養女を以て妻[さい]す。

尊者外祖父の家に生る。享保三年戊戌七月二十八日なり。幼にして而[しか]も状貌[じょうぼう]凡児[ぼんじ]に異なり、性[しょう]凝荘[ぎょうしょう]。妄[みだり]に挙動せず。稍[やや]長じて益[ますます]俊邁[しゅんまい]*12 。而して其の矩[のり]を踏み彠[きゃく]を循[したが]う*13 こと、成人の若[ごと]きこと有り。父族人に謂[いい]て曰[いわ]く。他年吾宗を興[おこ]さん者は、必[かならず]斯[こ]の児[こ]ならんと。父七男一女有り。尊者は乃[すなわち]第七男なり。母氏素[も]と三宝*14 信ず。法楽寺貞紀[ていき]和上[わじょう]は、其の深く帰敬[ききょう]*15 する所なり。和上字[あざな]は忍綱[にんこう]。行学兼備し、時の碩徳[せきとく]*16 なり。

時に其の家に屈請[くっしょう]*17 して飯[はん]す。和上尊者の気貌[きぼう]異常なる見て、其の母に謂いて曰く。此れ般若種[はんにゃしゅ]*18 なり。豈[あに]其をして終[つい]に塵中[じんちゅう]*19 に没せしむ宜[べ]けんや。盍ぞ以て我に乞えざる。

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3.現代語訳

尊者の諱[いみな]は飲光[おんこう]。慈雲はその字[あざな]である。みずからを百不知童子[ひゃくふちどうじ]とも称していた。姓は源[みなもと]、族は上月[こうづき]氏。浪華[なにわ]の出身である。

尊者の父の名は上月安範[こうづき・やすのり]。播州田野村の出身で、赤松氏の流れを汲む。二十歳になって浪華に移り住んだ。その人となりは、卓犖[たくらく]にして不羇[ふき]、侠者[きょうしゃ]の風格があった。金品など財に頓着せず義を重んじ、他人の危急を聞いて助けに駆けつける様子は、他人事とは思えないほどのものであった。人はそのような安範を称して、長者[ちょうじゃ]と呼んだものである。尊者の母は、桑原[くわばら]氏の出で、阿州徳島に生まれた。その一族で川北又助[かわきた またすけ]という者が、養女として迎えた。又助は高松侯に仕え、浪華米倉[なにわこめぐら]の校官[こうかん]となった。又助は安範の人となりを見込んで、養女を安範に嫁がせることとなった。

尊者は外祖父の家に生まれている。享保三年戊戌(1718)7月28日のことである。幼い頃からその外見は普通の子達とは異なっており、その性格もじっとおちついていて、無暗に動き回ることがなかった。成長するに従ってますます峻邁[しゅんまい]となり、矩[のり]を踏み彠[きゃく]に循[したが]うなど、成人のようなところがあった。父安範が一族の者に語って言うに「将来、大成して何事か独自のことをやり遂げるのは、必ずこの子に違いない」とするまでの子であったのだ。尊者の父安範には、子に七男一女があった。尊者はその末七番目の男子。尊者の母はもともと三宝を信じており、法楽寺の貞紀[ていき]和上は、その深く帰敬[ききょう]していた方であった。和上の字[あざな]は忍綱[にんこう]。行学兼備[ぎょうがくけんび]の当代の碩徳[せきとく]である。

ある時、和上は尊者の家に招待されて食事のもてなしを受けていた。そして和上は(初めて対面した)尊者の気貌にただならぬものあるのを見て、尊者の母に告げたのである。「この子は般若種[はんにゃしゅ]である。どうしてこれほどの子を終生、俗世間などにに放っておくことができるだろうか。今まで何故にこの子を私に預けようと乞わなかったのか?(是非ともこの子を私に預けて出家させなさい)」と。

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4.語注

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