真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.絹本著色不動明王二童子像について

「重要文化財 法楽寺・絹本著色不動明王二童子像・解説」

帝塚山学院大学教授 望月信成(美術史家)

画像:重要文化財「絹本著色不動明王二童子像」法楽寺蔵

大阪市東住吉区山坂一丁目の「田辺のお不動尊」で親しまれている法樂寺から、このほどきわめて貴重な絹本著色の不動明王三尊の画像が発見された。このことはいち早く読売新聞紙上(注:昭和53年10月2日月曜日朝刊一面)に報道された通りである。私がこの道に携わって40数年になるが、その間、各地の社寺を調査して、木像や銅像のすばらしい遺品を数多く見出したことはあるが、今回発見の仏画ほど顕著な発見もあまり経験したことがない。

法樂寺は、伝えるところによると治承2年(1178)に平重盛が開いた寺といい、8百年の間、田辺地区で栄えた。しかし元亀2年(1571)に織田信長の兵火にかかって全焼し、現在の本堂や諸堂はそののちに再建された。信長に根こそぎ焼かれたお寺であるから、本寺からこのようなすばらしい画幅が発見されるとはだれが想像したであろうか。昭和53年10月の末に重盛公の8百年忌法要を厳修される準備の最中にこの不動明王像が出現したのであるから、何やら因縁めいた感じを受けるのは私独りだけであろうか。とにかく驚くべき名画が世に現れた。

画像:二童子

この画幅は、縦1.19メートル、横0.784メートルの絹本の中央に黒青色の不動明王は後背に物すごく燃えさかる火炎を負い、岩座に左足をさげて半跏坐の姿に表し、その左右に矜迦羅(こんがら)と制咤迦(せいたか)の二童子像が侍立し、また絵の下半分に岩石、波、波頭などを描いている。

不動三尊像は世間にかなり多く残っているが、「天下の三不動」と俗称のある大津市園城寺(三井寺)の黄不動尊像、高野山明王院の赤不動尊像、京都青蓮院の青不動尊像の3点が有名で、絵としても優れた遺作として喧伝されている。しかし今度発見された法樂寺本は青蓮院の青不動尊像と非常によく似た表現があり、一見した時に私は驚いた。ただ青蓮院本は結跏趺坐像であるのにこの像は半跏坐であり、右手に持つ宝剣に青蓮院本は竜が巻きついているのに本像はそれがなく、また後背の火炎の表現法が異なっているが、このほかはあまりに酷似しているのに何びとも驚く所と思う。

しかし両脇侍の二童子像の姿は両幅全く異なり、特に本幅の画面に向かって左側に描かれている制咤迦童子像は、特異な形相を示し、首は右にかしげて上目づかいに上を向き、ツエをつく右手首の上に左手をのせて手のひらを外に向けて奇妙な手つきを示して、強く印象に残る姿である。ところが京都市醍醐寺に鎌倉時代の早いころに描かれた図像がたくさん残っている。図像というのはいろいろの仏菩薩などの形相を写しとめて心覚えようとするもので、密教の宗派では盛んに行われている。多くの場合墨線で要領だけを描きとめておくものであって、醍醐寺の図像本もそれである。その中に、不動明王の頭部と脇侍の二童子像とを描いた一図があるが、その形相が全く本図と同一であって法樂寺の不動三尊画像はこの醍醐寺の図像と密接な関係があるものと何びとも疑わない。

この図像の右側に「已上不動御頭並二使者飛鳥寺玄朝筆」と墨書してある。従ってこの図像は飛鳥寺の玄朝なる人が描いたものを写し取ったものであることがわかる。

玄朝という人は十分に経歴はわからない人であるが、「東大寺要録」という文献の巻第八に大仏殿の東西にある曼荼羅が破損したので、永延元年(987)に修理をしたが、その時「元興寺玄朝」が地神像を描いたと書いてある。これが唯一の玄朝に関する資料であるが、飛鳥寺と元興寺とは同一寺であるから、醍醐寺の不動明王の頭部等を描いた飛鳥寺玄朝は十世紀の終わりごろに活躍した画家である。

比較画像:不動尊頭部の線描と実画

法樂寺の不動明王像と醍醐寺の図像との同形相は偶然の一致でなく、両者はきわめて関係が深い。これに三つの考え方がある。1.法樂寺本が玄朝の原本で、それを見て醍醐寺の図像が描かれたとする説。2.玄朝の原本がほかにあって、それから法楽寺本が描かれ、法樂寺本から醍醐寺本が描かれたという説。3.玄朝の原本から法楽寺本と醍醐寺本が描かれたとする説の3つが考えられる。

醍醐寺本が玄朝の不動尊の顔と2童子像との形相を忠実に写し取っているから、法楽寺本はとにかく玄朝と極めて関係の深いことは何びとも認めるところである。しかし、醍醐の図像と本像とを比べて見ると二童子像の表現に多少異なる所がある。それは向かって右の矜迦羅童子の左手の肘と右足の足首の開きが違っている。左の制咤迦童子は法楽寺本は不動明王の座る岩座の右かどが童子の腹部の前につき出て、しかもよく整理された衣紋を描いているから、図像本の原本はこの所がはっきり全身を描いてあったものと想像され、それを写したものにちがいない。このように比較すると醍醐寺本は忠実に玄朝本を写し、本図は玄朝本に多少創意を加えてことさらに少しく図様に変化を加えて描いたものと見るべきであろう。

法樂寺本の火炎はまことにすばらしい表現である。下方から強い風を送って炎を噴き上げたような勢いを示し、青蓮院本の炎もすばらしいが、本図の方がさらに燃えさかるすさまじさを感ずる。波や岩の表現法も巧みであり、仏画としてはトップレベルに属する優作である。上述の通り玄朝は平安中期の早いころに活躍した画家であるが、本図は手法様式から考えて、その時代まではさかのぼれず、ややくだって平安時代末期の作と見るのが、当を得ているものと考えられ、このころの作として、すばらしい出来映えをなし、しかも忠実に玄朝作を伝えたみごとな作品というべきであろう。

「昭和53年10月23日 読売新聞夕刊」掲載

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