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‡ 四念住(四念処) ―Smṛtyupasthāna

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1.四念住とは

自灯明法灯明 自帰依法帰依

仏陀の遺教の中、仏教のすぐれた一面を示すものとして、世間に非常によく知られたものの一つに、「自己を灯明として法を灯明とし、他を灯明とせざれ。自己に帰依し、法に帰依して、他に帰依することなかれ」という、いわゆる自灯明法灯明・自帰依法帰依の説示があります。

現在、およそ仏教を学び、知る人であるならば、その誰もがきっと知るであろう言葉です。またそれは、仏教を俎上に載せる時には、必ず誰かに語かれるであろうフレーズの一つです。

けれども、しかし、この自灯明法灯明の説示。ただこのフレーズのみが取り沙汰され、独り歩きして、肝心かなめのその中身、「具体的にどのように自己と法とを灯明とするのであるか」ということが、すっかり等閑視され、あるいは無視され、ほとんど理解されていない場合が多いように思われます。

それは、聞こえが良くイメージとしてなんとなく良く思えるような、しかしながらからきし中身の無い、ただの惹句(キャッチフレーズ)化してしまっているようです。

そしてそれに依って、この一説をもって大いに誤解し、牽強付会の説を堂々と振るう仏教者すらあります。

それはあたかも、仏教自体などでは到底なく、むしろ空空漠漠とした「仏教に対する私的妄想」を虚飾するための道具になっている、とすら思えることがある。

例えばこの一節を頼りとして、なんらの根拠もなく、ただ自分勝手な思いつきで以下のような珍説を様々に披露する人らが世間に多くある。

画像:WTF

「釈尊は『自灯明』ということをおっしゃられたのである。我をこそ頼りとし、己の心に従い、自由闊達に生きることが仏教である。」

「釈尊はヒューマニズムを説く先駆者であった。人間主義、自己実現を説かれた最初の人であった。」

「自灯明、それは我が内なる聖性ともうしましょうか霊性と言いましょうか、そのような尊い人間性を頼りとせよという意であり、また法灯明とはその聖性を明らかにした仏陀の教え、すなわち法を頼りとせよという、まこと深い意味がこめられている言葉なのです。」

「自灯明法灯明とは、『自己の内奥に潜む仏性を知り、その自我の本性であるところの仏性と、ダルマという仏性と同質なる絶対真理をこそ頼りとせよ』という意味なのである。」

他人の意見や動向にフラフラと迷うことない自己を確立せよ、というのが自己を灯明ととすることの意味であり、すべては無常であるという法すなわち真理を頼りとせよというのが、法を灯明とすることの意味なのであります。嗚呼、ありがたや。ではご一緒に。ナンマイダぁ~。」

「最初に法灯明ではなく自灯明が説かれるのは、法という取り決めに形式的に従うのではなく、まず己が心の声に耳を傾けてそれに従うことが大事ということ。かといって、やはり人間だもの。法がなければ道を誤ってしまうこともある。そこで次にその標として法灯明が説かれるのだ。」

これらは総じて、仏教についてほとんど知らない人からすれば、「なるほど、それかな」「ほぉ、仏教というのはそういうものか」などと感想し得る、まことしやかに聞こえるものであるかもしれません。

しかし率直にいって、これらのすべては徹頭徹尾、どこまでも嘘八百の説、根拠のない思いつきの戯言に過ぎません。

それにしても、それほど有名な一節でありながら、まともに理解している者がほとんど無い、というのは一体どういうことでありましょうか。

いずれにせよ現実問題として、以上のような、どのようにしてそのように解釈するに至ったのかを逆に問いたくなる理解をし、あまっさえそれを堂々と他に説いて「これぞ仏教」としたり顔する人が、世間には実に多くあるのです。

それは、まったくの門外漢ではなくて一寺院の住職として食を得ている日本の僧職者や比較的著名な仏教著述家、あるいは時に仏教系大学の教授や講師、研究者など仏教学者によってすらなされて、その講義や著書などで恥ずかしげもなく開陳されていることすらある。

はなはだしいのになると、「釈尊のご遺教である自灯明法灯明の教えのうち、灯明とすべきその法とは、まさしくホケキョ―の教えを指したものであります」などという、噴飯物の独自説を、もっともらしく発表する頓珍漢もあるようです。

実に失笑を禁じ得ない。

いや、しかしながら、それらはまったく自己勝手な説で、我田引水も甚だしい曲解。牽強付会の極みである、と言わざるを得ない。

せっかく仏陀の教説に触れる機会がありながら、一知半解にすら及ばないお粗末な理解で済ましてしまうようは、いかにも勿体無い。

百聞は一見に如かず。

そこで以下、まずはその教示がなされている一節を、漢語経典そしてパーリ語経典とを引いて、それがどのように経典に説かれているかを示しましょう。

諸比丘。汝等當自熾燃熾燃於法。勿他熾燃。當自歸依歸依於法。勿他歸依。云何比丘。當自熾燃熾燃於法。勿他熾燃。當自歸依歸依於法。勿他歸依。於是比丘内身身觀。精勤無懈憶念不忘。除世貪憂。外身身觀。内外身身觀。精勤無懈憶念不忘。除世貪憂。受意法觀亦復如是。是爲比丘自熾燃熾燃法。不他熾燃。自歸依歸依於法。不他歸依。如是行者魔不能嬈。功徳日増。

「比丘たちよ、汝らはまさに自己を灯明とし、法を灯明として、他を灯明とすることなかれ。まさに自己に帰依し、法に帰依して、他に帰依することなかれ。では、どのようなことを『比丘が自らを灯明とし、法を灯明として、他を灯明とすること無く、まさに自らに帰依し、法に帰依して、他に帰依することが無い』と云うのあろうか。」
「ここに比丘あって内身を身観し、勤め励んで怠らず、よく気をつけて忘れることがなければ、彼はこの世の貪欲と憂いを除く。外身を身観し、勤め励んで怠らず、よく気をつけて忘れることがなければ、彼はこの世の貪欲と憂いを除く。受・心・法とを観じることもまた、同様である。」
「これを、『比丘が自己を灯明とし、法を灯明として、他を灯明とすること無く、自己に帰依し、法に帰依して、他に帰依することが無い』と言うのである。このような修行者は、魔の惑わしえるものでなく、その徳はいや増していくであろう。」

佛陀耶舍訳『長阿含経』巻六 「転輪聖王修行経」 (T1, P39a-b)
[現代語訳:沙門覺應]

また、これは仏陀世尊が亡くなる直前、特に悲しみにくれる阿難尊者に対し、仏陀が重ねて全てが無常であることを説かれる小経にある一節です。

汝今阿難。如我先説。所可愛念。種種適意之事。皆是別離之法。是故汝今莫大愁毒。阿難當知。如來不久。亦當過去。是故阿難。當作自洲而自依。當作法洲而法依。當作不異洲不異依。阿難白佛。世尊。云何自洲以自依。云何法洲以法依。云何不異洲不異依。佛告阿難。若比丘身身觀念處。精勤方便。正智正念。調伏世間貪憂。如是外身内外身受心法法觀念處。亦如是説。阿難。是名自洲以自依。法洲以法依不異洲不異洲依。

「阿難よ、私は以前このように説いたではないか。『愛すべきもの、諸々の喜ばしい事柄は、すべて別れ離れる定めのものである』と。故に(私の死が間もないからといって)嘆き悲しむ事なかれ。阿難よ、まさに知るべきである。如来もまた久しからず、まさに滅び往くべきものであると。故に阿難よ、まさに自らを洲[しま]とし、自らを拠り所とするべきである。まさに法を洲とし、法を拠り所とするべきである。他を洲とせず、他を拠り所とせずにあれ。」
阿難は仏陀に申し上げた。
「世尊よ、どのようなことを『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』ということでしょうか。」
仏陀は阿難に告げられた。
「もし比丘が身についての身観念処を、勤め励んで行い、正しく知り〈正智〉、正しく気をつけた〈正念〉ならば、この世の貪欲と憂いとを制する。そのように、外身と内身と、また受・心・法と法観念処についてもまた、同様に説く。阿難よ、これを名づけて『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』というのである。」

求那跋陀羅訳『雑阿含経』巻廿四 [No.636] (T2, P177a)
[現代語訳:沙門覺應]

パーリ仏典の長部では、上に引いた『雑阿含経』と同様、仏陀がまもなく死を迎えられる場面での、阿難尊者への説法がなされる中にて説かれています。

tasmātihānanda, attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā. kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo? idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. vedanāsu ... pe ... citte ... pe ... dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. evaṃ kho, ānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo. ye hi keci, ānanda, etarahi vā mama vā accayena attadīpā viharissanti attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā, tamatagge me te, ānanda, bhikkhū bhavissanti ye keci sikkhākāmā”ti.

「その故に、アーナンダよ、自己を洲としattadīpā自己を拠り所としてattasaraṇā、他を拠り所とすることなくanaññasaraṇā、法を洲としdhammadīpā法を拠り所としてdhammasaraṇā、他を拠り所とすることなく住せよ。ではアーナンダよ、比丘はどのようにして、自己を洲とし自己を拠り所として、他を拠り所とすることなく、法を洲とし法を拠り所として、他を拠り所とすることなく住するのであろうか?」
「アーナンダよ、ここに比丘あって、身体について身随念に住して、熱心にatāpī、確かに意識しsampajāno、よく気をつけてsatimā、この世の貪欲と憂いとを除くvineyya loke abhijjhādomanassaṃ。諸々の受について、乃至、心について、乃至、諸々の法について法随念に住し、熱心に、確かに意識しよく気をつけて、この世の貪欲と憂いとを除く。」
「実に、アーナンダよ、このように比丘は自己を洲とし自己を拠り所として、他を拠り所とすることなく、法を洲とし法を拠り所として、他を拠り所とすることなく住するのである。」
「アーナンダよ、誰であれ、今あるいは私の亡き後、自己を洲とし自己を拠り所として、他を拠り所とすることなく、法を洲とし法を拠り所として、他を依り所とすることなく住することにより、アーナンダよ、我が比丘たちの中において、そのような彼らは最上者となるであろう。もし彼らが(それを)学ばんと望ぶならば。」

DN, Mahāparinibbānasutta, Veḷuvagāmavassūpagamana
[日本語訳:沙門覺應]

これら経典では、この教示が行われた状況が若干異なっていますが、内容は皆同じです。

もっとも、これら経文にある、たとえば『雑阿含経』における「身についての身観念処を、勤め励んで行い、正しく知り、正しく気をつけたならば、この世の貪欲と憂いとを制する。そのように、外身と内身と、また受・心・法と法観念処についてもまた、同様に説く」だとか、「身体について身随念に住して、熱心に、確かに意識し、よく気をつけて、この世の貪欲と憂いとを除く。諸々の受について、乃至、心について、乃至、諸々の法について法随念に住し、熱心に、確かに意識しよく気をつけて、この世の貪欲と憂いとを除く」といった一節が、一体何を意味するか解しかねる人もあるでしょう。

実はそれは、「四念住(四念処)」という仏教の修習法、いわゆる瞑想法の大きな枠組であり、仏教の修習における根幹ともいうべきものを意味したものです。

熾燃(灯明)と洲(島)

ところで、今挙げた漢訳経典では、自己と法とを「熾燃(灯明)」とせよというのと「洲(島)」とせよとの二種の訳があり、パーリ経典では洲としてあって異なっています。これは、その原語となるパーリ語のdīpa[ディーパ]という言葉に、「灯明」・「洲・島・大陸」・「助け(支え)」という三つの意味がある為で、訳者の訳語の選択が異なっていることに依るものです。

(「しま」などといっても、釈尊がご活躍されたのは海から程遠く雨季にはしばしば穏やかな洪水が生じるガンジス川中流域であり、故に海に浮かぶ島というより大河の中洲と捉えたほうが、故中村元博士も指摘していたように、その風土的背景を想えば適切であると考えられます。)

漢訳では灯明と洲の二様に訳されているのに対して、パーリ語仏典に基づく南方の分別説部(通称上座部)では、洲の意であると古来解されています。そのため、ここで付けている日本語訳でもそのように訳しています。

またあるいは、実は、サンスクリットではdīpaとは「灯明」・「光り」を意味しますが、音の似た言葉でdvīpa[ドヴィーパ]という言葉があります。この語は「洲」・「半島」、あるいは「避難所」や「拠り所」を意味します。しかし、先ほど述べたように、これらの語はパーリ語の場合はどちらもdīpaで、全く同一の言葉となってしまっています。

サンスクリットのdīpadvīpa、そしてパーリ語のdīpa。経文を伝承する過程でそれら似た言葉同士の混乱が起こったのか、もしくは支那に経典を伝来された持経僧や訳経に従事された三蔵などが誤られた、ということがあったのかもしれません。

しかしながら、全く学術的文献学的に仏教を云々する人の場合はともかくとして、dīpaという語を灯明か洲かそのどの意味で採っても、イメージされる情景は異なるであろうとはいえ、この教示の意図するところに変わりはありません。

なにわともあれ、ここで肝要であるのは、その「自灯明法灯明 自帰依法帰依」の教示の内容が、四念住の修習であると明示されていることです。

画像:嗚呼、浪漫仏教

それは、世間の仏教ファン、趣味仏教愛好家とでも言うような人々の口からしばしば聞かれる、ご都合主義的な「この私をこそ依るべとして」とか「如是我思(こんなふうに、僕ぁ、思うんだなぁ~)」などとでも表現したら良いような、ポワ~っとしたりボヤッとしたりした「自己流ブッキョー解釈」で、もっともらしいことを好き勝手にアレコレ云われるような、曖昧模糊とした浪漫仏教的シロモノでは決してない、ということです。

先に述べたように、世間では、このいわゆる自灯明の説示について十人十色の、すなわち自分勝手で無根拠なる諸解釈が行われ、時にそのような解釈がさも真であるかのように言い立てる人があります。

けれども、また改めてここに繰り返しますが、「自灯明法灯明(自帰依法帰依)とは四念住を修習すること」に他なりません。

諸経においてこのように明示されている以上、そこに牽強付会の説・奇妙奇天烈の珍解釈を持ち込む余地はまったくありません。四念住を修習する者が「自灯明法灯明(自帰依法帰依)」という、仏陀の遺教の実践者です。

一乗道

あるいはまた、仏陀は四念住について、このような教説をすら我々に遺されています。

先ず漢訳の阿含経から。

諸比丘。有一乘道淨諸衆生令越憂悲滅惱苦得如實法。所謂四念處。

比丘たちよ、一乗道がある。それは命ある者らを浄め、憂い悲しみを超え、悩み苦しみを滅し、如実の法〈真理〉を得さしめる。いわゆる四念住である。

求那跋陀羅訳『雑阿含経』巻廿四 [No.607] (T2, P171a)
[日本語訳:沙門覺應]

次に、分別説部がパーリ語にて伝えてきた契経での該当箇所を徴しましょう。

ekāyano ayaṃ, bhikkhave, maggo sattānaṃ visuddhiyā sokaparidevānaṃ samatikkamāya dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamāya ñāyassa adhigamāya nibbānassa sacchikiriyāya, yadidaṃ — cattāro satipaṭṭhānā.

比丘たちよ、唯一の行くべき道ekāyana maggaがある。(それは)諸々の生ける者を浄め、憂い悲しみを超え、苦しみ悩みを鎮め、真実の獲得をして涅槃を現証する。いわゆる四念住である。

SN, Mahāvagga, Satipaṭṭhānasaṃyutta, Ambapālisutta
[日本語訳:沙門覺應]

漢訳語で「一乗」などとあるのを見ると、少し仏教の知識のある人ならば、たちまちekayāna[エーカヤーナ]とのサンスクリット原語を想起するかもしれません。

が、パーリ語経典と比較して見た場合、漢訳経典での「一乗道」との語は、パーリ語経典におけるekāyana maggaすなわちeka(一) + ayana(行くこと・前進・道) + magga(道)が該当します。

ekayānaekāyana、それらは似て非なる言葉です。

(漢訳に従事された三蔵の当時、底本とされた原本においてすでにその混同がされていた、あるいは経典を暗誦されていたものの記憶違いなどに由って、ekayānaekāyanaとが混同されて「一乗道」となった可能性もあるのですけれども。)

故に、漢訳の一部で「一乗」とされているからといって、大乗とくに『法華経』などで説かれる一乗とただちに同一視するのは早計というものです。なお、同内容の教えを伝える『中阿含経』「念処経」の該当箇所では、一乗道ではなくただ「一道」と訳されています。

さて、仏陀はまた、四念住が如何に仏道修行において重要な、いや、不可欠のものであることを、このようにも説かれています。

若比丘離四念處者。則離如實聖法。離如實聖法者。則離聖道。離聖道者。則離甘露法。離甘露法者。不得脫生老病死憂悲惱苦。我說彼於苦不得解脫

もし比丘が四念住を離れたならば、如実の聖法を離れる。如実の聖法を離れたならば、聖道を離れる。聖道を離れたならば、甘露の法を離れる。甘露の法を離れたならば、生まれ・老い・病い・死、そして憂い・悲しみ・悩み・苦しみから逃れ得ることが無い。私は、そのような者は苦より解脱することは無い、と説く。

求那跋陀羅訳『雑阿含経』巻廿四 [No.608] (T2, P171a)
[日本語訳:沙門覺應]

以上の如き経説に依れば、「四念住とは、仏道に決して欠かせることの出来ないその核である、核心である」とすら断じて誤りないものです。

しかしながら、このように言えばたちまち、「ならば四念住をのみ」・「ただ四念住だけを修めれば」・「仏陀の教法は数あれどいえど、その他は枝葉末節の価値なき」云々などと言い出す者が、屹度ぞくぞく現れるに違いありません。

実際、これは私だけのことかもしれませんが、そのような言を発する人々にたびたび出会うことがあります。

けれども、それはあまりに早計浅薄に過ぎるというものです。そう早まってはいけない。

そのような立言が正しいものであれば、仏教に「八万四千の法門」などと言われる数々の教説など全く必要なかった。

いや、実のところ、そのような言を放つ者が現れるのは今に限ったことではなく、二千年の昔のインドにすらそのような早合点する人、一知半解の者が多くあったであろうことが知られます。

しかし、それに対する答えは、大乗においてすらなされているのです。

問曰。四念處則能具足得道何以説三十七。若汝以略説故四念處。廣説故三十七。此則不然。何以故。若廣應無量。答曰。四念處雖具足能得道。亦應説四正懃等諸法。何以故衆生心種種不同。結使亦種種。所樂所解法亦種種。佛法雖一實一相。爲衆生故。於十二部經八萬1四千法聚。作2是分別説。若不爾初轉法輪。説四諦則足。不須餘法。以有衆生厭苦著樂。爲是衆生故。説四諦身心等諸法皆是苦無有樂。是苦因縁由愛等諸煩惱。是苦所盡處名涅槃。方便至涅槃。是爲道。有衆生多念亂心顛倒故。著此身受心法中。作邪行。爲是人故説四念處。

 問う。「四念住とは、これをよく習得したならば道〈聖果〉を得るものである」というのであれば、何故に三十七品〈三十七菩提分法〉が説かれているのか。もし汝が「(仏陀の教説すべてを)略説すれば四念住となるのであって、広説したならば三十七品となるのである」と主張するのであれば、それは誤りである。なんとなれば、もし広説ということをいうのであれば無量となるべきであるから。
 答う。「四念住とは、これをよく習得したならば道を得るものである」といっても、また同時に四正勤等の諸法が説かれていなければならなかったのである。なんとなれば、衆生の心は種種不同であって、その結使〈煩悩〉もまた種種であり、(衆生がそれぞれ)理解・習得しようとする教えもまた様々であるためである。
 もとより仏法とは一実一相である。とはいえ、(仏陀は)衆生のために十二部経・八万四千の法門において、それぞれ分別説を作されたのである。もし、そのようでなかったとしたならば、初転法輪において説かれた四聖諦のみで事足りたのであり、それ以降も他に説かれることなど無かったであろう。
 衆生は苦を厭い、楽に執着するものであるから、そのような衆生のために四聖諦を説かれ、「身心等の諸法はすべて苦であって楽のあることはない。この苦の因縁は割愛等の諸々の煩悩に由るのである。この苦が盡くされた処を涅槃といい、涅槃に至る方便を道というのである」とされたのである。
 衆生は多念・乱心・顛倒しているから、この身・受・心・法において様々に執着して邪行を作している。そのような人というものの為に、四念住が説かれたのである。

龍樹菩薩『大智度論』巻第十九 初品第三十一(T25. P198a)
[日本語訳:沙門覺應]

八宗の祖などと日本で称えられる龍樹菩薩もまた、上に示した『雑阿含経』の所説などに則り、四念住がまさしく道の至要であることを述べられています。その上で、では何故に仏教では他の法が種々様々に説かれているかの答え、それは大乗の立場からの理解であるのでしょうけれども、示されているのです。

さて、では四念住とはなにか。

冒頭に示した経で簡略に説かれている、その四念住なるもの、それは一体、具体的にどのような内容のものか。それを屹度、吾人はつぶさに知らなければなりません。

続いて以下、それを示しましょう。

(いま挙げた『大智度論』の一章においても、三十七菩提分法において最重要なものとされる四念住とは何であるかについて、かなりの項を割いて説明されています。そして併せて大乗の見解からの四念住の修習についても言及されてもいます。が、今は『大智度論』のそれには触れず、まず『大智度論』が絶対の前提としていた阿含や阿毘達磨における説をこそ示します。)

四念住についての一般的・通仏教的理解

四念住とは、サンスクリットcatvāri smṛtyupasthāna、あるいはパーリ語cattāro satipaṭṭhānaの訳語です。

念住という漢訳語以外にも、古訳や旧訳の漢訳仏典においては、四念処・四意止・四憶処などと訳されています。ただここでは、先程からほとんどそうしているように、玄奘三蔵が用いられて以来の新訳語「念住」を使用します。

さて、四念住とは、仏教の根本的修行法としてまとめられ説き伝えられる、三十七菩提分法あるいは七科三十七道品[どうほん]の最初に挙げられる、四支からなる修道法の総称です。

四念住は一般に、(1)肉体が不浄のものであると知る「身念住」・(2)感覚されるものは畢竟苦であると知る「受念住」・(3)心は無常であると知る「心念住」・(4)事物は無我であると知る「法念住」である、と説明されます。

それはまた、我々が真理に昏く智慧なきが故に、その煩悩の故に、自身や世界をして「常なるもの」・「楽なるもの」・「真の自我である」・「清らかであって、求め楽しむべきもの」であると捉える、いわゆる常・楽・我・浄の四顛倒を退治する修習法であると云われます。

これをわかりやすいようまとめ、表にして示したならば以下のとおり。

四念住についての一般的理解
- 念の対象 理解されるべき相 退治されるべき顛倒想
身念住 身体 不浄
受念住 感覚
心念住 無常
法念住 無我

このような理解は、大乗小乗の別を問わず、チベットの大乗諸派、日本の大乗諸宗でも、北インドの説一切有部や南方の分別説部(上座部)においても通仏教的に行われてきたものです。

そして、であるからこそ、今も一般にそのように理解されています。

しかしながら、翻ってこの四念住が説かれている契経そのもの、すなわち典拠たる四念住を説く諸経典に触れた時には、事情が異なってくるでしょう。その時、そのような単純な理解にのみ留まるのは、妥当と言い難いものであることに気づくでしょう。

そもそも、仏教を学び修めんと志す輩[ともがら]は、なによりまず経蔵や律蔵、そして種々の論書から直接学ばならないもの、であると思います。

いや、そうでなければならないものです。仏教を学び、考え、修めるならば、その根拠はあくまで経律論の三蔵や、それらに基づく諸論書を根拠としなければ、屹度ならない。でなければ、ただの「仏教になんとなく影響された私的思想」あるいは奇妙奇天烈なシンコーシューキョーにすぎない。

けれども今時は、辞書や概論書、誰か著名な僧侶や学者などがアレコレ簡便・簡略に説かれている書籍などに、それらはそれらで大変に有用・有益なものも多くあるのですが、しかしそれだけに少しばかり触れるのみで「コト足れり」・「我その蘊奥を得たり」とうそぶくような傾向が、多くの人に見られるようです。

あるいは、三蔵などの「根拠」から全く離れた新思想を主張・解釈を、「旧来の思想を打破した価値ある云々」などと褒めそやす(左巻きの)族らも、仏教者や仏教学者の中にすら、今よりそれほど古くない昔には少なからず存在しました。

それでは少々、いやいや、少々ではなく全然いただけない。実に、まったくけしからんことである!

無論、三蔵に通じ禅観に達した僧侶や、深く仏教を学び修めている在家居士など、いわゆる善知識と呼び得る人々との出会いにより、その会話・対話から法を学び、知ることは大変に有益でしょう。むしろそれによって仏教に惹かれ、菩提心を発して涅槃を志す人もあるでしょう。

それは大変得難いものであり、また尊いことであって、全くその人の宿善の果報でありましょう。

いや、それはむしろ本来的な、釈尊の当時や仏滅後しばらくの間の仏教のあり方であったに違いない。

けれども今や末世。そうも行かない時代となって久しい世です。

ここはやはり、自らがその典拠・典籍にあたって直接読んで確認し、それを己自身で修めて理解するに如くものではありません。古人は「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」と謂い、それは多くのものが心奥に刻みつけるべき言葉です。とは言うものの、仏教者として先ずなにより亀鑑とすべきはどこまでも法と律、すなわち経蔵と律蔵そして論蔵です。

とは言え、しかしながら、仏陀の教えとして伝えられ記された、サンスクリットやパーリ語、チベット語、漢語などの典籍を自在に理解し、またその内容を充分に咀嚼することなど、よほど専門にしている人でなければ、なかなか出来難いことです。それは、誰しもが出来ることなどでは決して無い。

かく云う私も、そのようなことは全然できません。

けれども、このように愚かで拙い私ながらも、今ここで出来うる範囲で、以下に四念住という言葉の原義、さらに諸派による諸解釈を示します。

ただし、なにぶん劣機下根の愚衲の所行であるので、そこに多少の錯誤がある可能性が大いにあることをここに断っておきます。賢明なる諸兄諸姉には、以下に愚かな錯誤の散乱するのを認めたならば、そを一々指摘いただければ幸甚。

それはしかし、それが必要であることからやむを得ず言語分析的な細かいことを云々した内容となり、その故に途中でゲンナリして読むのを止められてしまう可能性が大となってしまったものかもしれません。

願わくは少しばかりはあるであろう、その詳細を知りたいという奇特の人々のため、以下話が専門の領域に入らざるを得なくなってしまいますが、念住についてさらに講じていきます。

念住(smṛtyupasthāna / satipaṭṭhāna)とは

念住とは、先ほども触れましたが、サンスクリットのsmṛtyupasthāna[スムルティウパスターナ]、パーリ語ではsatipaṭṭhāna[サティパッターナ]の訳語です。

そして、サンスクリットのsmṛtyupasthānaは、smṛty + upasthānaの複合語です。

smṛtyは、主に「念」と漢訳されてきた語ですが、その意味や働きなどの詳細は、すでに前項“念とは何か”にて詳しく講じている通りです。よってここでは、漢訳で「住」や「処」、「止」などと訳されている、upasthānaの意味内容をのみ確認していきます。

さて、upasthānaという語の構成を示せば、upa-(「近くに」「側に」「共に」を意味する接頭辞) + √sthā(立ち上がる) + -ana(名詞語基を作る接尾辞)となります。その原意は「近くに立つこと」・「側にあること」・「近づくこと」・「さぶらうこと」で、転じて「現れること」・「留まること/場所)」・「仕えること」・「看護」・「崇拝」などの意として用いられます。

以上を踏まえ、ここでサンスクリットの幾つかの意味と漢訳語とを対照し、インドや中央アジア出身の、あるいは支那出身の三蔵らがどのようにこの語を解されていたか、訳されたかを確認してみましょう。

Smṛtyupasthānaの諸三蔵による漢訳例
- smṛty upasthāna
記憶・追憶・回想・思い出すこと・
意識・気をつけること(用心)
現起・そば立つこと・仕えること・
付き従うこと・留まること/場所
意止
憶処
念処
念住

これら漢訳語から、ここでのupasthānaは「留まること(住・止)」「留まる場所(処)」の意として、諸々の三蔵らによって解され、訳されたものであることがわかります。すなわち、smṛtyupasthānaとは「念じられる所」、噛み砕いて言ったならば「気をつけ続けられる所」・「よく注意が向けられるべき対象」と訳されているものです。

しかしながら、この語のパーリ語形となると話しが変わってきます。何故ならば、smṛtyupasthānaのパーリ語形satipaṭṭhānaは、その構成・語義を二種に解釈することが出来るためです。一つはサンスクリットの場合と同様の、sati + upaṭṭhāna。また一方は、sati + paṭṭhānaです。

後者の解釈は、サンスクリットの綴りから見たならば決して妥当なものではありません。が、サンスクリットを意識せず、ただパーリ語の綴りだけから見た場合、samdhī(連声)の関係上、そのようにも解釈することが可能となります。

実際このことから、パーリ語に依って仏典を伝えてきたセイロンの分別説部では、この語について二つの解釈が行われています。なお、サンスクリット√sthāはパーリ語の場合√ṭhāとなります。

分別説部におけるSatipaṭṭhānaという語に対する二つの解釈
- 構造 意味
satipaṭṭhāna sati
(√sar+ti)
upaṭṭhāna
(upa+√ṭhā+ana)
念の現出
念の留まる所
paṭṭhāna
(pa+√ṭhā+ana)
念の確立
念の出立

このように、パーリ語の場合、「upa + √ṭhā」と「pa + √ṭhā」との二様に理解しえます。後者のpa-(サンスクリットpra- に同じ)は、「先に・前に」を意味する、あるいは続く語の強意をする接頭辞です。

その故に、paṭṭhānaという語はまた二様に理解し得ます。前者の意味では「前に立つ」で、「出発」「進行」「旅立ち」「原点」「原因」さらに「(何事かを得る)手段」「方法」などの意。後者の強意で解する場合には、「確立」「起立」といった意味となります。

さて、paṭṭhānaと言えば、分別説部の三蔵中、阿毘達磨七典籍の最後に挙げられる論書Paṭṭhāna[パッターナ]の題目に同じです。これは前者の意味で云われているもので、その故に近現代の日本の文献学者によって『発趣論』と訳されています。

ところでパーリ経蔵中には、paṭṭhānaという語が単独で使用されている例が、ただ一例しかありません。しかも、それはビルマ第六結集版のKhuddhakanikāya(小部)所収の典籍ながら、しばしば蔵外文献として扱われてきたPeṭakopadesa(『蔵釈』)においてです。その一節を示せば以下のとおり。

tattha katamo samatho? yā cittassa ṭhiti saṇṭhiti avaṭṭhiti ṭhānaṃ paṭṭhānaṃ upaṭṭhānaṃ samādhi samādhānaṃ avikkhepo avippaṭisāro vūpasamo mānaso ekaggaṃ cittassa, ayaṃ samatho.

この止samathaとは何であろうか?なんであれ心の止住・平静・定立・住処ṭhāna・確立paṭṭhāna・停留upaṭṭhāna・三摩地・定・不散乱・平安・意の寂静なる心、これが止である。

KN. Peṭakopadesa, Suttatthasamuccayabhūmi
[日本語訳:沙門覺應]

ここではひとまずpaṭṭhānaを文脈上「確立」と訳しましたが、以上のように、それはsamatha(止)を定義する一節にて見られるもので、同根(√ṭhā)のṭhānaupaṭṭhānaとが共に挙げられています。

ここで止(samatha)を定義するために、paṭṭhānaupaṭṭhānaとの語が併せて用いられていますが、この場合、さしたる意味の違いが認められません。

現在の分別説部では、むしろ先に挙げたもののうち後者の解釈を主に採っており、それは蔵外の注釈書や復注書などに多く見られます。

四念住の内容

先に、四念住とは「いわゆる瞑想法の大きな枠組を意味する」と言いましたが、そのそれぞれが具体的にどのような内容のものであるのか。

まず参考までに、ここにサンスクリット(梵)とパーリ語(巴)、そして漢語(漢)によって伝えられてきた四念住についての経文を、たった一節ではありますが、併記したものを示します。

四念住の経文
- 経文 現代語訳
身念住 kāye kāyānupaśyanā smṛtyupasthānaṃ 身体について、
身体を随観する念住
kāye kāyānupassanāsatipaṭṭhānaṃ
觀身如身念處
受念住 vedanāsu vedanānupaśyanā smṛtyupasthānaṃ 感覚について、
感覚を随観する念住
vedanāsu vedanānupassanāsatipaṭṭhānaṃ
觀覺如覺念處
心念住 citte cittānupaśyanā smṛtyupasthānaṃ 心について、
心を随観する念住
citte cittānupassanāsatipaṭṭhānaṃ
觀心如心念處
法念住 dharmeṣu dharmānupaśyanā smṛtyupasthānaṃ 法について、
法を随観する念住
dhammesu dhammānupassanāsatipaṭṭhānaṃ
觀法如法念處

今上に挙げたサンスクリット文は『阿毘達磨倶舎論』(『倶舎論』と略称)の梵本に引かれているもの、パーリ語文は『念住経』などにあるもの、漢訳文は『中阿含経』にあるものです。

さらに、それぞれが具体的にどのような内容であると説かれているのか、その経文を示すのは少々長きに過ぎます。そこでここでは、四念住を説く諸々の契経にしたがってまとめたものを、簡略に表にして以下に示します。

四念住それぞれの具体的内容
- 念の対象 内容
身念住 呼吸
[持息念]
我が身が現在なしている呼吸の入出・長短・強弱、ならびに呼吸にまつわる身体の状態を認知する。安那般那念における十六特勝の最初の四。
威儀
[正知威儀]
我が身が現在なしている行・住・坐・臥等の行為・状態を、そのままに認知する。
身体組織
[不浄観]
自他の身体が、血・肉・内蔵・汚物など諸々の不浄によって成り、それらで満ちていることを認知する。
四大(六界)
[界分別観]
自他の身体が、地・水・火・風の四大、あるいは空と識とを加えた六界から成っていることを認知する。
死体
[九想観]
他の身体が死後、腐敗し鳥獣に喰われ、最後には骨ばかりとなって散乱するものと知り、自身もまた同様であることを認知する。
(四禅) 四禅にいずれかに達したならば、四禅それぞれの段階における身心の状態を、そのままに認知する。
(光明想) 心解脱し、心に闇なき状態であって、心が光り輝いていることを認知する。
受念住 我が身体が苦・楽・不苦不楽、我が心が喜・憂・不苦不楽のいずれかを感じている時、その感じていることを、そのままに認知する。
心念住 我が心に、たとえば貪・瞋・癡などが生じていればそれを認知し、生じていなければそれを認知するなど、その現在の状態をそのままに認知する。
法念住 十二処 眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、色・声・香・味・触・法の六境との関係と、そのそれぞれの現在の状態を認知する。
五蓋 貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五蓋いずれかが、心に生じているか否か、またその生・滅の状態を認知する。
七覚支 択法・念・精進・喜・軽安・定・捨の七覚支いずれかが、心に生じているか否か、またその生・滅の状態を認知する。
(五取蘊) 色・受・想・行・識の五取蘊それぞれの生起と滅とを認知する。
(四聖諦) 苦・集・滅・道の四聖諦を如実に知る。

* 表中、括弧()によって閉じているものは、パーリ語と漢語の経典を比較した時、共通しないものを示しています。

以上のように、特に具体的に、そして様々に説かれているのは身念住です。これは身体というものが、具体的に「形」として存してあって、その構成や変化などを様々な角度から見ることが出来るためであるからに違いないでしょう。

さらなる詳細を知りたい者は、『念住経』などに明瞭に説かれているので、パーリ語と漢語との経典その双方に直接あたられるのが良いでしょう。

試金石とすべきは我が心のありさま

さて、念住という語をどう捉えるかによって、四念住を修習せんとする修行者の理解の仕方や、修習自体に対する行者の把握の仕方に異なりが生まれることはあるでしょう。そして実際、古来それは部派によって異なっており、現代においても人によってずいぶん異なっているようです。

ではそのようなとき、吾々はどうすれば良いのか。何をもって、その是非を判ずれば良いのか。

まず言葉については、いま示した二通りの解釈、そして以下に示す諸部派の見解を知り、理解しておけば良いだけの話です。

そして、これが全く肝要となりますが、実際に四念住を修めてみたとき、自ら行なうところのの修習の可否を判ずる試金石とすべきは、我が心の有り様です。我が心が如何に(善く)変わっているか、我が心に貪・瞋・癡の勢い少なく、慈・悲・喜・捨の想いが強まり働いているかどうかです。

しかし、これがなかなかどうして、そう人に出来ることではないようです。

「ヴィパッサナーだけで良い」だの「気づきの瞑想」などとうそぶき、あるいは己の行動の一一を観察できたとしても、実際の己の心のあり様、あり方を冷静に観察・自省し、客観的に評価するということははなはだ出来難いことのようです。

いや、そもそもそのような彼らの「観る」ということが、そのようには志向していないだけなのかもしれない。

あるいはまた、自身の行なうところが経説に沿ったものであるからといって、それをただ誇って固執するばかりで、むしろその結果がまるでその経説ひいては仏教の目指すものに反したものとなってしまっては元も子もありません。

これは、仏者たるもの常に自省しなければならないことでありましょう。

無論、世間にはそのような人は非常に多く存在するようですけれども、「四念住が仏教において最も重要な修習法である」などと聞いたことにより、これを少しばかり修めてみただけでたちまち「あーだ、こーだ」と判じたり、ついには「所詮はショージョーの方法論」だの「これは私には不向きの」などと即断したりするようでは、全くお話しになりません。

まことに私を救い得るのは、私をおいて他にない

これはまた先に述べたことの繰り返しとなりますが、四念住の修習こそが、いわゆる「自灯明法灯明」の意味内容であり、その実践です。

それはまた、自らを涅槃へと導く至宝と屹度なるものですが、その稀少にして無比なる価値を見出すことが出来るのは、他ならぬ自分自身以外にはありません。

それは他人から与えられるものでも、仏・菩薩による「超人的な救いの力」などによって得られるものなどでも決してない。

たとえば、釈尊は、Dhotaka[ドータカ]という名の道を求めて勤めるバラモンからの真摯な問いかけに対し、このように答えられています。

“passāmahaṃ devamanussaloke, akiñcanaṃ brāhmaṇamiriyamānaṃ. taṃ taṃ namassāmi samantacakkhu, pamuñca maṃ sakka kathaṃkathāhi”.
“nāhaṃ sahissāmi pamocanāya, kathaṃkathiṃ dhotaka kañci loke.dhammañca seṭṭhaṃ abhijānamāno, evaṃ tuvaṃ oghamimaṃ taresi”.
“anusāsa brahme karuṇāyamāno, vivekadhammaṃ yamahaṃ vijaññaṃ. yathāhaṃ ākāsova abyāpajjamāno, idheva santo asito careyyaṃ”.
“kittayissāmi te santiṃ, (dhotakāti bhagavā) diṭṭhe dhamme anītihaṃ. yaṃ viditvā sato caraṃ, tare loke visattikaṃ”.

「私は、神々と人々との世界において、何も所有すること無しにあるバラモンを見ます。すべてを見るお方よ、私はあなたを礼拝します。釈迦族のお方よ、私を諸々の疑惑から解放したまえ!」
(世尊は答えられた、)「ドータカよ、私は世間における、いかなる疑惑もつ者も救うことは出来ないであろう。ただ(汝自身が)最上の真理を全く解したならば、それによって、汝はこの激流を渡るであろう」
「バラモンのお方よ、どうか憐れみを垂れて、出離の法を私に示したまえ。私はそれを解したいのです。私はそれを、虚空のように悩み乱れること無く、この生において安らかに、依りすがること無く、行いたいのです」
(世尊は答えられた、)「私は、伝え聞くことなどに依らない、(みずからが今ここにおいて)ありありと体験し得る平安を、汝に説き示すであろう。(ドータカよ、)汝はそれを知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り越えよ」

KN. Suttanipāta, Dhotakamāṇavapucchā 1069-1072. (5.60)
[日本語訳:沙門覺應]

比類なくこの上ない人、仏陀釈尊は、その行くべき道と歩み方とを懇切に示されるものの、誰一人として救ってくれることはありません。いや、たとい仏陀がそれを望んだとして、道理として、ただ一人として救うことは出来ないのです。

そう思い込んで悦に入り「安心を得る」ことは出来たとしても、いや、そう思い込むことは出来るでしょう。しかし、日本の浄土教などが主張するような、いわゆる絶対他力など決してありえるものではありません。

人情として「あの人の人生を、かわりに私が生きる」と思うこともあるでしょう。また、いろいろと推量・憶測することをもって、「他人の気持ちが分かる」「同じ経験をしたから痛いほどよく分かる」という表現も出来るでしょうし、それで通じることもあるでしょう。

思いやり。人を、動物に対して思いやること、その痛みやツラさを我が身に引き比べて同情しすること。それは間違いなく貴く美しい行為であり、その人の徳であるのに違いない。

けれども、しかしながら、嗚呼、「人の苦しみがわかる」「彼には人の苦しみがわからない」などと、なんと巷間あまりにたやすく用いられていることか。

本当のところ、誰も他人の人生を文字通り代わりに生きることなど絶対に出来ないし、他人の気持ちが真に分かること、他人が経験したことをそのまま己の経験とすることなど、決してない。

どれだけしたくとも、それは決して出来ることではない。

これは、あくまで自分が冷暖自知。どこまでも自身で経験し、理解しなければなりません。己のたゆまぬ努力によって。

その故に「自灯明」「自帰依」であり、またその掛け替えのない縁[よすが]として、「法灯明」「法帰依」なのです。

人天の師たる仏陀は、このようにも説かれています。

attā hi attano nātho, ko hi nātho paro siyā.
attanā hi sudantena, nāthaṃ labhati dullabhaṃ.
[...]
attanā hi kataṃ pāpaṃ, attanā saṃkilissati.
attanā akataṃ pāpaṃ, attanāva visujjhati.
suddhī asuddhi paccattaṃ, nāñño aññaṃ visodhaye.

自らこそが自らの主[あるじ]〈守護者〉である。他の誰が主となり得ようか?
自らをよく調えたならば、(その人は)得難き主を得る。
《中略》
自らが悪をなすならば、自らが穢れ、
自らが悪をなさぬのならば、自らが浄まる。
(その人の)浄きも穢れも、その人自身(の行為)による。
人は他者を浄めることは出来ないのだ。

KN. Dhammapada, Attavaggo 160, 165. (2.12)
[日本語訳:沙門覺應]

このような仏陀の「真実なる言葉」からすると、いま日本の仏教者らが述べているような「自灯明法灯明」に対する説法の類の実に多くは、まったくいい加減で愚かな世迷い言に等しいものです。

しかし、そのような戯言であっても、案外、俗間では納得され受け入れらている場合もあるようです。実際、世間では仏教における実義、「本来の云々」などといったことはどうでもよろしいことで、一つのフレーズの聞こえとイメージが良ければそれでいいという程度であるのでしょう。

明恵上人の言葉に以下の様なものがあります。

若し近代の学生の云ふ様なるが実の仏法ならば、諸道の中に悪き者は、仏法にてぞ有ん。

もし近代の学僧(仏教者)らの言うようなのが本当の仏教だとしたら、諸々の道(諸宗教)の中で悪しきものは、他ならぬ仏教であるのに違いない。

高信『栂尾明恵上人遺訓(阿留辺畿夜宇和)』
[現代語訳:沙門覺應]

ここでこのような上人の言葉を引くことは、甚だ恣意的なものであるかもしれません。

しかし、当時と今との様々な時代背景は異なり、また上人と愚拙との信条や見解は異なっているとはいえ、まったく同様の言葉が世間に適用できることには、古来今に至るまで変わりがないようです。実際、この言葉は江戸中期に活躍された慈雲尊者も、その著『十善法語』にて引用されています。

さて、次節では、諸経に非常に重要な修道法として強調され説かれたその四念住が、いかに仏滅後の諸部派に理解され、それぞれの修道体系の中に位置づけられてきたかを簡単に示すこととしましょう。

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2.四念住に対する諸見解

分別説部における四念住の定義

分別説部において、まずupaṭṭhānaという語をどのように用い、理解しているかを見てみましょう。

それには、分別説部の教学を理解するのに不可欠といえる、経蔵に収録されているものの注釈書的・阿毘達磨的内容をもつ、Paṭisambhidāmagga(『無碍解道』)の一節を示します。なお、分別説部における伝説では、この典籍は尊者サーリプッタ(舎利弗)によって説かれたものとされています。

upaṭṭhānaṭṭhena satindriyaṃ abhiññeyyaṃ; [...]
upaṭṭhānaṭṭhena satisambojjhaṅgo abhiññeyyo; [...]
upaṭṭhānaṭṭhena sammāsati abhiññeyyā; [...]
upaṭṭhānaṭṭhena satipaṭṭhānā abhiññeyyā;

停留upaṭṭhānaの意によって念根は了解せられるべきである。〔中略〕
停留の意によって念覚支は了解せられるべきである。〔中略〕
停留の意によって正念は了解せられるべきである。〔中略〕
停留の意によって念住satipaṭṭhānaは了解せられるべきである。

KN. Paṭisambhidāmagga, Mahāvagga, ñāṇakathā 19
[日本語訳:沙門覺應]

このように『無碍解道』では、念根(satindriya)・念覚支(satibojjhaṅga)・正念(sammāsati)・念住(satipaṭṭhāna)など、念に関する事柄は全てupaṭṭhānaという意味によって、今は一応これを「停留(留まること)」と訳しましたが、理解すべきことが繰り返し説かれています。あるいは、「随侍(付き従うこと)」と訳しても良いでしょう。

やはり、これはあたりまえと言えることなのかもしれませんが、satipaṭṭhānasati + upaṭṭhānaと解するのが本来で正しく、sati + paṭṭhānaであると解釈するのは「新しい」のでしょう。かと言って、後者の意味で取ることで、100%完全な誤りとなることなど無いと思いますけれども。

さてまた、これはむしろ「念とは何か」を示す、非常に明瞭な一節です。

一般に念とは「忘れないこと」を原意とするものですが、それはまた「(認識する対象に)とどまること」・「(認識する対象を)失わないこと」でもあります。少なくとも、仏教の修道に関しての念とは「気づき」などでは全然ありません。

あるいは、例えば「繋ぎ止める」という譬喩によって、四念住が説かれている経説に以下のものがあります。

seyyathāpi, aggivessana, hatthidamako mahantaṃ thambhaṃ pathaviyaṃ nikhaṇitvā āraññakassa nāgassa gīvāyaṃ upanibandhati āraññakānañceva sīlānaṃ abhinimmadanāya āraññakānañceva sarasaṅkappānaṃ abhinimmadanāya āraññakānañceva darathakilamathapariḷāhānaṃ abhinimmadanāya gāmante abhiramāpanāya manussakantesu sīlesu samādapanāya; evameva kho, aggivessana, ariyasāvakassa ime cattāro satipaṭṭhānā cetaso upanibandhanā honti gehasitānañceva sīlānaṃ abhinimmadanāya gehasitānañceva sarasaṅkappānaṃ abhinimmadanāya gehasitānañceva darathakilamathapariḷāhānaṃ abhinimmadanāya ñāyassa adhigamāya nibbānassa sacchikiriyāya.

アッギヴェッサナよ、あたかも象の調教師〈象師〉が、巨大な柱を大地に掘り立て、それに森(に住む野生)の象の首とを繋ぎ止めることによって、森での(野生の)習慣を鎮め、森での(野生の)記憶と思考とを鎮め、森での(野生の)不安と疲労と熱〈消耗〉とを鎮める。そして、村での(生活を)楽しませ、人との(生活に)適応した習慣を教えこむようなものである。実にそのように、アッギヴェッサナよ、四念住cattāro satipaṭṭhānaが聖なる弟子の心を繋ぎ止めることによって、家族と共に過ごした(在俗での)習慣を鎮め、家族と共に過ごした(在俗での)記憶と思考とを鎮め、家族と共に過ごした(在俗での)不安と疲労と熱〈消耗〉とを沈める。そのことによって、(聖なる弟子は)正道を獲得し、涅槃を現証するのである。

MN. Uparipaṇṇāsapāḷi. Suññatavagga, Dantabhūmisutta (125)
[日本語訳:沙門覺應]

この経における「四念住が聖なる弟子の心を繋ぎ止めることによって云々」という一節は、説一切有部の論師によっても、四念住とは「意識を認識対象に繋ぎ止めること」であって、それで世俗(日常)の粗雑な心を制し伏すのであるとする説の根拠として用いられていたようで、それを世親菩薩は『倶舎論』の中で紹介しています。これについてはまた説一切有部での四念住理解の項で後述します。

いずれにせよ、念住(satipaṭṭhāna)をして「繋ぎ止めること(upanibandhana)」であるとするこの経(Dantabhūmisutta / 「調御地経」)によって、念ひいては念住がいかなるものであるかを理解する、大きな一助となるでしょう。

(別項“念とは何か”を参照のこと。)

さてまた、同じ分別説部ではあったものの、大寺派所属の典籍ではなく無畏山寺派所属のもので、阿羅漢であると称されていたUpatissa[ウパティッサ]によって著された、Vimuttimaggaの漢訳『解脱道論』にては、以下のように念住をいう一説があります。

令住義念處

住せしめる〈留まらしめる〉という意味によって念処である。

『無碍解道』巻十二 分別諦品第十二之二 (T32, P457c)
[日本語訳:沙門覺應]

『解脱道論』は、先に挙げた『無碍解道』の所説を忠実に受けた記述が多く見られるのですが、この一説はまさにその様なものであろうと思われます。

これを漢訳した扶南(現カンボジア)出身の僧伽婆羅(Saṃghabhara)三蔵は、upaṭṭhānaṭṭhenaを「令住義」としているので、他の三蔵たちと同様に、「留まる」といった意味で解していることが解ります。

さて、また念住について、分別説部の阿毘達磨典籍の一つVibhangha(『分別論』)ではSatipaṭṭhānavibhaṅga(念住分別)という一章が設けられ、そこで様々に語句の定義がなされています。そこでは、経典の語句の一々を定義する経分別[きょうふんべつ]と、それを踏まえた上でこれを教義的に分析する阿毘達磨分別の別がまたあります。

ここでは、そのうち阿毘達磨分別の最後の一説をのみ、それでも少々長く煩雑となってしまうのですが、重要なので以下に示します。

tattha katamaṃ satipaṭṭhānaṃ? idha bhikkhu yasmiṃ samaye lokuttaraṃ jhānaṃ bhāveti niyyānikaṃ apacayagāmiṃ diṭṭhigatānaṃ pahānāya paṭhamāya bhūmiyā pattiyā vivicceva kāmehi (vivicca akusalehi dhammehi savitakkaṃ savicāraṃ vivekajaṃ pītisukhaṃ) paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati dukkhapaṭipadaṃ dandhābhiññaṃ, tasmiṃ samaye phasso hoti (vedanā hoti, saññā hoti, cetanā hoti, cittaṃ hoti, vitakko hoti, vicāro hoti, pīti hoti, sukhaṃ hoti, cittassekaggatā hoti, saddhindriyaṃ hoti, vīriyindriyaṃ hoti, satindriyaṃ hoti, samādhindriyaṃ hoti, paññindriyaṃ hoti, manindriyaṃ hoti, somanassindriyaṃ hoti, jīvitindriyaṃ hoti, anaññātaññassāmītindriyaṃ hoti, sammādiṭṭhi hoti, sammāsaṅkappo hoti, sammāvācā hoti, sammākammanto hoti, sammāājīvo hoti, sammāvāyāmo hoti, sammāsati hoti, sammāsamādhi hoti, saddhābalaṃ hoti, vīriyabalaṃ hoti, satibalaṃ hoti, samādhibalaṃ hoti, paññābalaṃ hoti, hiribalaṃ hoti, ottappabalaṃ hoti, alobho hoti, adoso hoti, amoho hoti, anabhijjhā hoti, abyāpādo hoti, sammādiṭṭhi hoti, hirī hoti, ottappaṃ hoti, kāyapassaddhi hoti, cittapassaddhi hoti, kāyalahutā hoti, cittalahutā hoti, kāyamudutā hoti, cittamudutā hoti, kāyakammaññatā hoti, cittakammaññatā hoti, kāyapāguññatā hoti, cittapāguññatā hoti, kāyujukatā hoti, cittujukatā hoti, sati hoti, sampajaññaṃ hoti, samatho hoti, vipassanā hoti, paggāho hoti,) avikkhepo hoti. ime dhammā kusalā. tasseva lokuttarassa kusalassa jhānassa katattā bhāvitattā vipākaṃ vivicceva kāmehi ... pe ... paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati dukkhapaṭipadaṃ dandhābhiññaṃ suññataṃ, yā tasmiṃ samaye sati anussati sammāsati satisambojjhaṅgo maggaṅgaṃ maggapariyāpannaṃ — idaṃ vuccati “satipaṭṭhānaṃ”. avasesā dhammā satipaṭṭhānasampayuttā.

そこで、何が念住であろうか?ここに比丘あって、時に出世間の禅を修め、解脱を志向し、転生の停止へと赴き、悪見を捨離して初地に達し、諸欲を離れ、(*不善の諸法を離れ、粗雑な思考と微細な思考とがあり、遠離より生じる喜びと安楽ある、)苦遅通行なる初禅を具えて住す。その時、触あり、(受あり、想あり、思あり、心あり、尋あり、伺あり、喜あり、楽あり、心一境性あり、信根あり、精進根あり、念根あり、定根あり、慧根あり、意根あり、喜根あり、命根あり、未知當知根あり、正見あり、正思惟あり、正語あり、正業あり、正命あり、正精進あり、正念あり、正定あり、信力あり、精進力あり、念力あり、定力あり、慧力あり、慚力あり、愧力あり、無貪あり、無瞋あり、無痴あり、無貪あり、無恚あり、正見あり、慚あり、愧あり、身軽安あり、心軽安あり、身軽快性あり、心軽快性あり、身柔軟性あり、心柔軟性あり、身適業性あり、心適業性あり、身練達性あり、心練達性あり、身端直性あり、心端直性あり、念あり、正知あり、止あり、観あり、策励あり、)不散乱がある。これら諸々の法は善である。この出世間の善なる禅が為されたことによる、修習されたことによる果報である、諸欲を離れ、…(*同上)…苦遅通行にして空なる初禅を具えて住す。その時における、念・随念・正念・念覚支・道支・道に属するもの、―これが「念住」と云われる。その他の諸法は、念住と相応するものである。

*原文・訳文の()内は底本で省略されている一節の補填箇所
Vibhaṅga, Satipaṭṭhānavibhaṅga 385

[日本語訳:沙門覺應]

少なくとも今挙げた『分別論』の一節では、念住とは、行者が初禅に至ってこそなし得るもの、(最低でも)初禅に至った行者の心に生じている念、すなわち正念・念覚支などをもって、念住であると説いています。

これは、念住が念住たりえるには、行者による止(samatha)の修習が一定の成就をみていることを前提とすることを示したものです。

さらにまた、分別説部大寺派の大立役者とも言うべき大徳Buddhaghosa[ブッダゴーサ]が、五世紀後半のセイロンにて著したその処女作Visuddhimagga(『清浄道論』)では、何故にcattāro satipaṭṭhāna(四念住)というのかについて、以下のように説明しています。

tesu tesu ārammaṇesu okkhanditvā pakkhanditvā upaṭṭhānato paṭṭhānaṃ. satiyeva paṭṭhānaṃ satipaṭṭhānaṃ. kāyavedanācittadhammesu panassā asubha-dukkha-anicca-anattākāragahaṇavasena subha-sukha-nicca-atta-saññāpahānakiccasādhanavasena ca pavattito catudhā bhedo hoti. tasmā cattāro satipaṭṭhānāti vuccanti.

それぞれ諸々の対象において、入出して停留する(処である)が故にupaṭṭhānato、出発点paṭṭhānaである。まさに念satiの出発点が、念住satipaṭṭhānaである。そして身・受・心・法において、不浄・苦・無常・無我の相の把握により、また浄・楽・常・我の想の放棄という作用の成就により転ぜられることによって、(念住には)四種の別け隔てがある。その故に、四念住と云われるのである。

Visuddhimagga, ñāṇadassanavisuddhiniddesa, 819
[日本語訳:沙門覺應]

私が救いがたい劣機であるため、拙訳が少々問題のあるものとなってしまったように思いますが、このようにブッダゴーサは、身・受・心・法のそれぞれを不浄・苦・無常・無我と把握し、また常・楽・浄・我の(顛倒)想を捨離するものとして、四念住を見ています。

そして、これがとりもなおさず分別説部大寺派(上座部)における正統な見解、四念住に対する理解の仕方・位置づけです。

これは、先に四念住の通仏教的理解を挙げておきましたが、そのままであることがわかるでしょう。

説一切有部における四念住の定義

次に、説一切有部における四念住の定義・位置づけを示します。

それについて、ここでは説一切有部の純粋なる綱要書とは言えないものであるけれども、しかし、北伝仏教などと現代に言われるカシミール・チベット・支那・日本などの仏教諸国通じて、非常に重要な書として古来学ばれ用いられてきた『倶舎論』を用います。

ただし、『倶舎論』はいわゆる修道書とは異なるものです。

故にそれは、『念処経』などの契経に詳細にされていることもあって、具体的に四念住をいかに修習するかの詳細は示されず、その定義や修道における位置づけなどが示されているにとどまります。

しかし、四念住についての説一切有部(『大毘婆沙論』など)の見解を簡潔にまとめつつ、さらに世親菩薩の所見、これは経量部ならびに大乗の唯識ひいては中観派にも連なるものですが、簡潔に説かれています。故に、それらをまとめて見るにすこぶる益のあるものです。

また、インドからチベット、また中国そして日本といった、大乗の系統で四念住が古来どのように理解されてきたかを知るにも、いや、これはなにも四念住に限って言うことではありませんが、『倶舎論』に触れないわけにはいきません。

ただし、大乗における四念住の定義や位置づけなどその見解を知るには、阿含の所説と『倶舎論』の所論とを基礎として学んだうえで、さらに『大般若経』・『華厳経』・『大智度論』・『瑜伽師地論』などなど、大乗の諸経・諸論を学ばなければなりませんけれども。

さて、また毎度のことながら少々長くなりますが、以下に『倶舎論』が四念住について論じている重要な一節と、その現代語訳を併せて示します。

それに際し、『倶舎論』はサンスクリット原典が伝わっているため、それを直に引いて訳するが良いかと考えられるかも知れません。が、ここでは漢語仏教圏での理解、古来日本でいかに理解されてきたかを知るために、敢えて漢訳本を用います。

とは言いながら、せっかく伝わっている原典を全く用いないのは愚というもの。ですので、漢訳本を現代語訳するに際してはサンスクリット原典(Pradhan版)を参照し、重要な語句には対応する原語を、そして経典からの引用がなされている場合はその典拠を括弧内に適宜付しておきます。

論曰。依已修成滿勝奢摩他。為毘鉢舍那修四念住。如何修習四念住耶。謂以自共相觀身受心法。身受心法各別自性名為自相。一切有為皆非常性。一切有漏皆是苦性。及一切法空非我性名為共相。身自性者。大種造色。受心自性如自名顯。法自性者。除三餘法。傳說。在定以極微剎那。各別觀身名身念住滿。餘三滿相如應當知。何等名為四念住體。此四念住體各有三。自性相雜所緣別故。自性念住以慧為體。此慧有三種。謂聞等所成。即此亦名三種念住。相雜念住以慧所餘俱有為體。所緣念住以慧所緣諸法為體。寧知自性是慧非餘。經說。於身住循身觀名身念住。餘三亦然。諸循觀名唯目慧體。非慧無有循觀用故。何緣於慧立念住名。毘婆沙師說。此品念增故。是念力持慧得轉義。如斧破木由楔力持。理實應言慧令念住。是故於慧立念住名。隨慧所觀能明記故。由此無滅作如是言。若有能於身住循身觀。緣身念得住乃至廣說。世尊亦說。若有於身住循身觀者念便住不謬。
…中略…此四念住說次隨生。生復何緣次第如是。隨境麁者應先觀故。或諸欲貪於身處轉。故四念住觀身在初。然貪於身由欣樂受。欣樂於受由心不調。心之不調由惑未斷。故觀受等如是次第。此四念住如次治彼淨樂常我四種顛倒。故唯有四不增不減。

 論じて曰く、すぐれた奢摩他śamathaすでに修め、成就したことに依って、毘鉢舍那vipaśyanāのために四念住を修める。では何が四念住の修習であるかと言えば、自相と共相[ぐうそう]とを以って、身・受・心・法を観察することである。
 身・受・心・法のそれぞれ異なっている自性[じしょう]svabhāvaを名づけて、自相svalakṣaṇaという。一切の有為はすべて、常ならざる性anityatāである。一切の有漏[うろ]はすべて苦なる性duḥkhatāであり、及び一切の法は空性śūnyatāであって、我ならざる性anātmatāであるのを名づけて、共相sāmānyalakṣaṇaという。
 身の自性とは、(地・水・火・風の)四大種と(それらで構成される)四大所造色とである。受と心の自性は、それ名自身によって顕われているであろう。法の自性とは、(前の身・受・心)三つを除くその他の物事である。
(説一切有部の論師が)伝説するには、「定 samāhitaにあって、極微[ごくみ]paramāṇuと刹那kṣaṇikaとを以って、各別に身を観ることを名づけて、身念住kāyasmṛtyupasthānaの完成niṣpannaであると。他の三の完成についても同様に知るべきである」と云う(けれども、それは不当であろう)。
 何が四念住の自性であろうか?この四念住の本体には各々三つある。自性・相雑・所縁とが別であるためである。自性念住は慧prajñāを以って体<自性>とする。この慧には三種あるが、それは聞等<聞・思・修>の所成慧である。すなわち、これをまた三種念住と名づける。相雑念住は、慧と共なる(心の)働きを以って体とする。所縁念住は、慧の対象となる諸法を以って体とする。
 では、どのように知るというのであろうか、(念住の)自性が慧であってその他のものでないということを?それは経に説かれているのである、「身において循身観kāyānupaśinに住することを名づけて、身念住smṛtyupasthānaとする。他の三もまた同様である」と。諸々の循観anupaśyanāの名は唯だ、慧を体とするのである。慧でなければ、循観の働きなどあり得ないためである。
 では、どのようなことから慧(を本質とするもの)について(「慧住」でなくて)「念住」との名を立てたのであろう。(説一切有部の)論師は説く、「これは念(の働き)が増すためである。念の力が支え持ち、慧(の働き)に転じる意味からである。たとえば斧が木を倒すのに、楔[くさび]の力が支えとなるようなものである」と。
 (私世親の見解からすれば)理としては、まさしく慧こそが念を住させるものであることから、その故に慧が生じることに於いて念住と名づけると云うべきである。(念住の念は)慧が観たままに、よく(その認識対象を)明記するためである。
 これによって、アニルッダAniruddhaはこのような発言をされている。「もしよく身に於いて循身観に住したならば、身を所縁とする念kāyālambanānusmṛtiが確立される」〈『雑阿含経』巻十九〉と、また続けてさらに詳しく説かれている。世尊もまた説かれている、「もし身に於いて循身観に住したならば、念はすなわち留まって、謬ることがない」〈『雑阿含経』巻十一〉と。
…中略…
 この四念住が(身・受・心・法との)次第で説かれたのは、それが生じる順に従っているのである。
 生じるというが、どのような理由で次第してそのようであるのか?対象の麁大なものから(微細なものへと)順に観じていかなければならない為である。あるいは、諸々の欲貪kāmarāgaは身体において生じるものである。その故に、四念住は身を観じることが初めにあるのである。けれども、身を貪することは、(楽なる)受を願い求めることに起因する。受を願い求めることは、心が調御されないことに起因する。心が調御されないことは、惑〈煩悩〉がいまだ断じられていないことに起因するのである。故に、受などを観じるに、そのような順となっているのである。
 この四念処はその順に、浄・楽・我・常の四転倒を治する。故にただ四あるのみで、それより多くも少なくもないのである。

世親菩薩『阿毘達磨倶舎論』巻廿三 分別賢聖品 (T29, P119a)
[現代語訳:沙門覺應]

以上のように、『倶舎論』では、「四念住は観の修習の為のものである」と位置づけられています。

けれども、ここで、それまでの『倶舎論』における持息念(安般念)や不浄観についての所論を知る者であれば、それは奢摩他すなわち止として説かれているのですが、そのような「四念住は観の修習の為のものである」という位置づけについて、疑問を起こす者があるかもしれません。

そのような疑問が生じるのも無理ないことでしょう。

何故ならば、経説では、特に四念住の最初の身念住の内容として、持息念や不浄観が説かれているためです。これは一体いかなることか、と。

結論から言うとそれは、持息念や不浄観とが、いわば止と観との重層構造(あるいは相関性)をもった修習法であるためです。それは例えば、特に持息念を専らに説く経典、たとえば『雑阿含経』の一連の経典群に触れたならば、理解できることでしょう。

その場合、特にいわゆる十六特勝について正確に把握することに努めなければなりません。

そもそも、上に引いた『倶舎論』の一節の冒頭で念住の定義がなされているその内容に注意したならば、その疑問はある程度消えるであろうと思われます。

さて、では説一切有部の定義する念住とは何か。

それは、身・受・心・法のそれぞれ自相、すなわち対象の本質の異なりに従ってそれを観じ、しかしまたそれらの共相、すなわちそれぞれに共通する非常性・苦性・空性・非我性を観ることです。

(観に対し、止と位置づけられる修習法については、前項“五停心観”を参照のこと。)

今見たように、説一切有部では、念住とは、その名に念との名を冠してはいるけれども、慧(prajñā)をその自性(svābhava)とするとしています。けれどもそこで、「であるとするならば、何故に慧住といわずに念住というのか?」との問いを立て、「念の働きが無ければ循観(anupaśyanā / 随観)の用などあり得ないためである」と、人が容易く起こすであろうその疑問に答えています。

ではここで、この『倶舎論』の所説の典拠となっている、「なぜ念住というのか」の理由を挙げ連ねる『大毘婆沙論』一節を、これもまた少々長いものとなってしまいますが種々の有益な解釈が挙げ連ねてあるため、以下に紹介します。

問念住以何為自性。為以念為以慧耶。若以念者。此說云何通。如說於身循身觀。乃至廣說。若以慧者。何故名念住。又契經說當云何通。如說於何處應觀念根。謂於四念住。答應說慧為自性。問若爾。何故名念住耶。答念於此住等住。各住故名念住。如象馬等所住處名象馬等住。此亦如是。有說。此由念力能於所緣起差別廣博作用。而不失壞故名念住。有說。由念力故此瑜伽師審記所緣。於所緣境忘已還憶。故名念住。有說。此修行者於所緣中先以念安住然後觀察。復於所緣先通達已後以念安住為守護故。如守門者故名念住。有說。此修行者於所緣境。先以念攝持。後以慧觀察。而斷煩惱。譬如田夫先以左手攬取草等。後以右手執鎌刈之。此亦如是。故名念住。有說。此瑜伽師被念鎧甲。於心相續上。執慧刀杖在生死陣中。不為煩惱怨所降伏。而能降伏於彼故名念住。有說。為遮取自性過故說名念住。若名慧住者便有取自性過失。有說。為顯非唯自性能有所作故名念住。由是等緣。但名念住不名慧住。

 問:念住とは何を自性とするのであろうか。念であろうか?慧であろうか?もし念であるというならば、この説はどのように解釈すべきであろう、(契経にある)「身循身觀乃至広説」という説については。もし慧であるというならば、何故に念住というのであろう。また契経の説をどのように解釈すべきというのか。「何処に於いて當に念根を観ずべきであろうか。それは四念住である」との説である。
 答:まさに慧が自性であると説くべきである。
 問:もしそうであるならば、何故に念住というのであろうか?
 答:念はここにおいて住し〈留まり〉、等住し、各住するために念住という。象や馬などが住む場所を、象や馬などの住というようなものである。これ(念住という名)もまた同様である。
 ある者はこのようにも説く、「これは念力によって、よく所縁〈認識対象〉を分別し詳細に作用して、(対象を)失うことがないために念住という」と。
 ある者はこのように説く、「念力によって、この瑜伽師〈瞑想修行者〉は審らかに対象を認識し、所縁の境〈モノゴト〉を忘れたとしても、また思い出すことによって、念住と言うのである」と。
 ある者はこのように説く、「この修行者は、所縁の中で先ず念を以って安住し、その後に観察する。また所縁について先ず通達して後に、念を以って安住し、(心を)守護することから、守門者〈五根を守護して五欲に惑わせぬ者〉の様であることから、念住と言うのである」と。
 ある者はこのように説く、「この修行者が、所縁の境を先ず念を以って摂持し、後に慧を以って観察し、そして煩悩を断ずるのである。譬えば農夫が先ず左手で以って草などを掴み、後に右手で以って鎌を手にして、これを刈るようなものである。これもまた同様である。そのことから念住と言うのである」と。
 ある者はこのように説く、「これは瑜伽師が、念という甲冑を被り、心相続の上に慧という刀杖を手にすれば、生死という戦場にあっても煩悩という怨敵に打ち負かされること無く、むしろよく彼〈煩悩〉を打ち負かすことから、念住と言うのである」と。
 ある者はこのように説く、「自性を認める過失を防ぐために、念住と言うのである。もし慧住と言ったならば、自性を認める過失があるであろう」と。
 ある者はこのように説く、「唯だ自性のみが能く作すところではないことを顕そうとすることから、念住と言うのである」と。
 これらの縁によって、ただ念住と言って慧住とは言わないのである。

『大毘婆沙論』巻百八十七 (T27, P938b)
[現代語訳:沙門覺應]

ところで、四念住は、阿含経にてその他の修道法やなどを総括して説かれる、三十七菩提分法の一つです。

それは、四念住を初めとして、四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八聖道の七つの範疇で、計三十七支あることからまた七科三十七道品ともいわれます。

『倶舎論』ではそれら三十七菩提分法について論じる中、その七つの範疇が説かれた順序には特に意味が無く、ただその数の順にまとめられたものであるとしています。ただし、一説として以下の様な見解もあることも紹介されています。が、それもやはり『大毘婆沙論』にそのようにあるのを概説したものです。

その『倶舎論』の一節を示しましょう。

有餘。於此不破契經所說次第立念住等。謂修行者將修行時。於多境中其心馳散。先修念住制伏其心故。契經言。此四念住能於境界繫縛其心。及正遣除耽嗜依念。是故念住說在最初。

ある者らはこれ〈三十七菩提分法〉について、契経に説かれるその順序を乱すこと無く、念住など(についての所見)を立てる。「修行者がまさに修行しようとする時、多くの境〈認識対象〉に対して、その心があちこちと飛び回ることから、先ず念住を修め、その心を制し伏すのである」。故に契経に言われる、「この四念住は、よく境界に於いてその心を繋ぎ止め、そして正しく貪欲に基づいた念〈思考〉を除くのである」〈『中阿含経』巻五十二「調御地経」〉と。このことから念住を説いて(三十七菩提分法の)最初とするのである。

世親菩薩『阿毘達磨倶舎論』巻廿五 分別賢聖品 (T29. P133a)
[日本語訳:沙門覺應]

阿含経の所説から察するに、三十七道品とまとめられ云われる諸々の修道法は当初、それぞれ別個の独立したものであったようです。

ただその中の幾つか、例えば四念住と七覚支などは、もとより関連して説かれることがままあったようで、実際諸経においてそれは散見されます。それら別個に説かれていた修習法・修習内容が、やがて三十七道品としてまとめられるようになると、それに対する以上のような理解が生まれるようになったのでしょう。

経量部における四念住の理解

説一切有部から派生したと伝えられる、経量部のものと目される『成実論[じょうじつろん]』という典籍があります。

日本には奈良期から鎌倉期初頭まで、その『成実論』を専らに研究する、成実宗というものが存していました。これは今言うような宗派というより、学派と称すべきようなものであり、宗派として独立して存在していたというのでは無かったようです。

往古、『成実論』は宗派問わず学ばれていた書ではありますが、支那以来の日本における中観派、三論宗の付属宗派とでも言うべきものとして、特に学習されていました。

さて、その『成実論』では、非常に短い一節でではありますが、以下のように四念住を止観のいずれかに分類して理解するということが行われています。

四憶處中三憶處名止第四憶處名觀。

四念住のうち、(身念住・受念住・心念住の)三念住を止と名づけ、第四念住〈法念住〉を観と名づける。

訶梨跋摩『成実論』巻十五 止観品 (T32, P358b)
[現代語訳:沙門覺應]

これは三十七道品のそれぞれが、止観のいずれに属するものかを述べる一節にあるものです。

このような見解は、いや、そのような理解の仕方自体も『婆沙論』や『倶舎論』などの説一切有部の典籍では見られなかったもので、今は一応経量部独自のものであろうと考えられるものです。

八正道の「正念」=「四念住」

さて、仏陀の説かれた修習法としてまとめられた三十七道品において、修習法として具体的な術が示されているものは、実は四念住以外にありません。

そのような点からも、これは冒頭で示した大乗の典籍『大智度論』の中でも言及されていたことですが、仏教には多くの修習法が説かれているとは言え、特に四念住がまず最も重要な修習法であると言われます。

就中、身念住については、その他の内的・精神的対象とする念住と異なり、身体といういわば物質を対象とすることもあり、具体的に種々の修習法が説かれています。

あるいは、先程挙げた世親菩薩の『倶舎論』の中で紹介された一説にあったように、身体という麁大なものであるからこそ、様々に説き示すことが出来た、ということもあったに違いありません。

ここに改めて再度、その一節を示しておきましょう。

此四念住說次隨生。生復何緣次第如是。隨境麁者應先觀故。或諸欲貪於身處轉。故四念住觀身在初。然貪於身由欣樂受。欣樂於受由心不調。心之不調由惑未斷。故觀受等如是次第。此四念住如次治彼淨樂常我四種顛倒。故唯有四不增不減。

 この四念住が(身・受・心・法との)次第で説かれたのは、それが生じる順に従っているのである。
 生じるというが、どのような理由で次第してそのようであるのか?対象の麁大なものから(微細なものへと)順に観じていかなければならない為である。
 あるいは、諸々の欲貪kāmarāgaは身体において生じるものである。その故に、四念住は身を観じることが初めにあるのである。
 けれども、身を貪することは、(楽なる)受を願い求めることに起因する。受を願い求めることは、心が調御されないことに起因する。心が調御されないことは、惑〈煩悩〉がいまだ断じられていないことに起因するのである。故に、受などを観じるに、そのような順となっているのである。
 この四念処はその順に、浄・楽・我・常の四転倒を治する。故にただ四あるのみで、それより多くも少なくもないのである。

世親菩薩『阿毘達磨倶舎論』巻廿三 分別賢聖品 (T29, P119a)
[現代語訳:沙門覺應]

諸々の「阿含経」においては、四念住と共に七覚支が多くの場合同時に説き示されるのですが、七覚支は修習法というよりむしろ、四念住によって開発・陶冶された心に生じる徳性です。

覚支とはサンスクリットbodhyangaあるいはパーリ語bojjhaṅgaの漢訳語ですが、そのようなことから「覚bodhi;菩提〉anga;要素・部分〉」と言われます。それはあくまで四念住によって生じた「七つの菩提(覚)の要素」です。

その故に、これを「七覚支とは独立した修習法の総体である」などと誤解して、七覚支法なるものを自身に具えようと務めても、それはまったく虚しい努力となってしまうでしょう。

四念住なくして七覚支はありえません。

では、最後に、各部派が四念住の一々をどのように見ていたかの比較表を、参考までに以下に示します。

四念住の止観という観点からの位置づけ
- 分別説部 説一切有部 経量部
無畏山寺派(法喜部) 大寺派(上座部)
身念住 止観
受念住 止観
心念住
法念住

これら部派において共通するのは最後の法念住をこそ観であると見ていたことで、それ以外については各部派相違しています。

では、なぜ、法念住をもって観とするのか。

それは諸々の事象・ものごとの無常・苦・空性・非我を全く現観するのが、縁起せる諸々の事象を全く明らかにしえるのが、法念住においてだからこそです。

ここにおいて「法を見たもの」「如実知見」した者が、声聞乗でいうところの四双八輩の最初たる預流果(須陀洹[しゅだおん])、菩薩乗でいうところの不退転(阿毘跋致[あびばっち])といった聖道に入り、ついには悉地を得るためです。

ところで近年、ビルマ発のヴィパッサナー・ムーブメントとでも呼称すべき、「ヴィパッサナーだけで良い」「ヴィパッサナー(観)の瞑想こそ修めるべきで、サマタ(止)の瞑想は不要でむしろ時に害毒」などといった、仏教の瞑想についての見解を持つ一類の人々が、世界中にあるようです。

そして、そのような人々の中には、「四念住は観の修習法である」「仏教の瞑想とは純粋なヴィパッサナーだけである」などと考え、人にそう教えている者らがあるようです。

確かに、いま上に示したように、これは分別説部大寺派(上座部)の見解などではなく、説一切有部によるものですが、「一応」四念住をもって観の修習であるとする見解はあります。しかしながらそれも、すでに上に示したように、ただちに「四念住=観」とされるのでは決してありません。

一概にあるいは一面的に、止と観とをまったく別個のものとして断定し、それぞれ切り離して実践するような仕方がそもそも誤っているとも言えるのですが、諸部派によってその理解が異なっていることを承知した上であえて言うならば、四念住とはいわゆる止観双運・止観双修の修習法です。

実に、仏陀によって開示された菩提への道、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道[はっしょうどう]のうちの正念とは、まさしくこの四念住を意味するものに他なりません。

正念とは、俗間の僧職者や学者がもっともらしく説明するような、「正しい念い」などといった漠然として抽象的ものではなく、上に示した如きまったく具体的修習法なのです。

非人沙門覺應(比丘慧照) 敬識
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)

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