真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.五停心観

瑜伽の初門

五停心観とは、貪瞋痴の三毒に基づく心の働きを停止させ、全き悟りを獲得する条件・基礎を整えるために修すべきものとされる、五つの瞑想法の総称です。

その五つとはすなわち、不浄観・慈悲観・因縁観・界分別観・持息念(数息観)です。

五停心観
- 内容
不浄観 我が身並びに五欲の対象が不浄であり、欣求し執着するに全く足りないことを知るための修習法。 貪欲を対治
慈悲観 対象についての怨親、無関心を問わず、生きとし生けるものすべてに対しての慈心あるいは悲心を起こして修得・増長するための修習法。 瞋恚を対治
因縁観 すべての事象が原因と条件に依って形作られた仮初のものであることを観じる修習法。 癡を対治
界分別観 我が身が、六界(六大)すなわち地・水・火・風・空・識、或いは空と識を除いた四界によって成っており、その一一を確認し、念ずる修習法。 我見を対治
持息念
(数息観)
呼吸を数え、呼吸の状態を念の対象の軸として、それに伴なう身心の状態を念じて散心を停め、ついには諸法の無常なることを観る修習法。 尋・伺を抑制

五停心観あるいは五停心という言葉は、経説や阿毘達磨の論書そのものに見られるものではなく、支那で撰述された経論の注釈書にて用いられだしたものです。有部の諸説に従いつつ、仏教の瞑想を代表すると言える諸の修習法を、よくまとめたものとなっています。

しかし、経論の所説に従って言えば、これは説一切有部はもとより分別説部の論蔵・註釈書類においてその他の瞑想法も説かれてはいるのですが、特に不浄観と持息念が重要視されています。別いてもそのうち持息念は、その瞑想対象が限定され安定していることから、もっとも優れていると称揚される瞑想法です。

またあるいは、界分別観に替えて観仏(念仏観)をあてる説もあります。

観仏とは、仏陀など勝れて徳あり優れた相好あるものを対象として観想する瞑想法で、口でただ「南無阿弥陀仏」などと唱えるだけのものでなく、本来的な意味での「念仏(心に仏を念じ留めること)」です。密教(金剛乗)で説かれる本尊観がそれであり、さらにいえば道場観なども観仏の一種です。分別説部でいうBuddha-anussati(仏随念)は、一応これにあたります。

観仏は、止観のいずれかで言うならば正しく止(śamatha)の瞑想の範疇に入るものです。これは、密教の先徳たちが基本として観想を大変重要視したように、眼を閉じてもその対象がありありと現前するまでに修習しなければなりません。

しばしばこの観において、光明を伴った対象が、すなわち光明を発する仏・菩薩の姿が現前する場合があります。これは観仏においてだけではなく、他の止に分類される瞑想法を修する中、仏・菩薩の姿などは現れなくとも、瞑想中に光を見ることがあります。

しかし、それは瞑想を深める過程で当然現れるべき一体験に過ぎず、それは一応瞑想の深まりを示す兆候ではあるものの、初禅ですらありません。あるいは、瑜伽者のそれを見んとする強い願望に基づく、ただの妄想・幻想にすぎません。このような体験を何事か大層なものと捉え違えして囚われるのは、いわゆる魔境に陥ることとなりますので注意が必要です。

補足となりますが、先に触れた分別説部でいうBuddha-anussati(仏随念)は観仏の一つではあるのですが、しかし、これはむしろ「南無阿弥陀仏」的なものとして行われています。

なぜなら、分別説部では仏陀の姿を観想する、というのではなく、仏陀の徳を念じる、というように定義しているためです。具体的には仏陀の九徳(Buddha guṇā)、支那・日本でいう如來の十号を念じるものであるとして捉えています。実際には、ひたすら仏陀の九徳をただただ唱え続けるということになっていることから、ある意味で浄土宗の「南無阿弥陀仏」的なものと言えるのです。

さて、このような五停心観のヒントとなったものと思われるものに、曇摩蜜多訳の仏陀蜜多『五門禅経要用法』があり、ここでは安般・不淨・慈心・観縁・念仏の五門が説かれています。なお著者の仏陀蜜多は、世親の師であったと言われる四世紀頃の北西インドの大徳です。

ところで五停心観は、五停心「観」との言葉が用いられているものの、それら五つの瞑想法は、有部では止観のうちいずれかで言えば止(śamatha)の瞑想に配当されるものです。

支那以来、これは用いられてきた言葉上の問題なのですが、しばしば止の瞑想そのものであったり、止の要素が強い瞑想法であっても、その語尾に「観」を付して呼称されているものが多くあります。

そのため、現代において、止観の別を把握していない者が容易く混乱するようなものとなってしまっている感があります。「戒律」などといった言葉と同様の問題を孕んだものの一つであると言えます。

もっとも、五停心観の中に挙げられる持息念(数息観)は、一応止の範疇に入れられるものではありますが、持息念を修する中で止から観へと移行していくなど止観の両方の要素があり、一概に全く止の瞑想であるとは断じられないものです。

(詳細は、“安般念”ならびに“十六特勝”を参照のこと。)

瑜伽行者の気質に応じて

五停心観としてまとめられている五つの瞑想それらすべてを、瑜伽行者は必ずしも修する必要はありません。

瑜伽行者は、そのうちのいずれかを自らの気性に応じて選択し、あるいは師によって與えられ、修することが奨められます。ここで求められているのはそのうち一つの瞑想に拘泥することではなく、解脱を得ること、心清浄を得ることです。

貪行(欲心・性欲などが強く激しい者)の人は不浄観を、瞋行(怒りっぽくすぐにイライラして他と衝突する)の人は慈悲観、癡行(我見、断見あるいは常見を持って何事も固定的に見る)の人は因縁観もしくは界分別観、尋行(何事もあれこれと思考を巡らせ心が乱れ落ち着きが無い)の人は持息念を修することが適しているとされます。

驕慢行(あながちに己を誇って他を見下す)の人は、特に指定されていません。

(五停心観それぞれについての詳細は、“不浄観”・“四無量心観”・“安般念”・“十六特勝”を参照のこと。)

ただし、たとえば『大智度論』にて龍樹菩薩は、異なる病にはそれぞれ異なる薬が処方されるのと同様に、そしてその病に不適当な薬を服用したときにむしろその薬が毒となることすらあるように、瑜伽行者は自身の気質にそぐう、適した瞑想法を選択すべきことを説いています。なんとなれば、例えば瞋行の人が不浄観を修するとむしろその瞋りを増す恐れがあり、貪行の人が慈悲観を修すると愛欲や執着などを更に増す危険があるためです。

小乗(声聞乗)のなかで部派としては唯一残っている分別説部でも同様に、瑜伽者の気質に応じて、これには六種あるとされているのですが、止の修習の対象を選択すべきことがやはり言われています(『清浄道論』)。

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2.伝統的修道階梯

持戒・三慧・少欲知足 ―瑜伽を修習するための前提・条件

五停心観は、説一切有部における修道階梯に従って言えば、加行位[けぎょうい](加行道)の三賢の最初に修められるべきものとして挙げられます。加行とは、「繰り返し行うこと」を意味する言葉です。すなわち五停心観とは、瑜伽の初門として説かれる瞑想です。

(ただし、先に述べたように、五停心観という言葉をもってまとめられたものを説くのは支那以来であり、インドの説一切有部の典籍たとえば『倶舎論』では、三賢で修すべきものとして説かれるのは不浄観と持息念の二つのみ。)

さて、瞑想を修するにあたって瑜伽行者は、まず戒を持たなければなりません。これを『倶舎論』では、「安住清浄尸羅」と言います。手前勝手な解釈をもって戒や律を、あるいは不合理な教条主義的前時代の遺産などと見做して軽んじる人も多くあるようです。

しかし、悟りを求める者にまず求められることは、まず戒を持つこと。出家者ならば律を持つことです。これに大乗・小乗の異なりはなく、三乗通じて説かれる最初の条件です。密教においても、これは全く同じです。それは例えば『善無畏三蔵禅要』においても知られるでしょう。

(戒についての詳細は、戒律講説の“戒について”の各項を参照のこと。)

次に行者は、仏教を聞法したことによる、聞所成慧(聞慧)から思所成慧(思慧)そして修所成慧(修慧)の、いわゆる三慧を起こしていきます。

では、ここに言う「三慧」とは何か。

まず聞所成慧とは、仏陀の教えを聞いたことによって生じる智慧、その教えを言語として把握し理解することです。次に思所成慧とは、正しい道理を思惟することによって生じる智慧です。そして修所成慧とは、(聞き、思惟したところの法によって)定を実修することによって生じる智慧、教えの内容の完全なる理解・習得です。ここに言う修とは、ただ瞑想するというのではなくて、禅定いわゆる四禅を修めることを意味します。

あるいは仏法を聞き、これを言語として理解するもその意義内容を未だ理解出来ずにいるのが聞慧。ある程度、その意義内容を把握するも、聞いた文言を幾度も参照し、さらに思惟しなければならない程の理解が思慧。もはや文言を一度も参照する必要がなくなり、その意義内容の完全な理解に至ったのが修慧です。

それは譬えば、ある者が底深き水場に入るとして、水泳を習ったことのない者が、浮き輪など何かを掴まえて離せない状態であるのが聞慧。習ってはいるものの未だ習得しきれていない者が、或る時は浮き輪など離せず、また或る時は浮き輪などを離して浮かんでいられるような状態であるのが思慧。完全に習得し、浮き輪などにまったく頼らず浮かび、泳ぎ渡れる状態であるのが修慧です。

肝要は、実際に瑜伽を修める前に教えを確かに聞き、そしてその内容を頭で考え、確かに理解しておく必要があることです。しかしながら、真の修所成慧は、加行位において実際に瞑想していく中で四禅を得てこそ生じ得るもので、修行する以前から備え得るものではありません。

故にここでの修所成慧の意味は、前者のそれではなく、譬喩によって示される程度の理解、すなわち聞いた教えを文章としてはっきり理解し、再び参照する必要のないまでに完全に記憶していることです。

そして次に、これは外的・身体的な条件を整えるためのものである、「身器清浄」の三因を満たします。

身器清浄の三因とは、身心遠離・喜足少欲・住四聖種の三つです。最初の身心遠離は、世俗の事柄から身を遠ざけ、不善の思考から心を遠ざけること。後の二つは内容的にほとんど同じことを行っているのですが、要するに修行するについて最低限の資具について得たもので満足し、新たに欲して求めないこと、すなわち少欲知足することです。

(瑜伽を修習する上での諸条件について、別項“前方便”にて触れている。参照せよ。)

暗証の禅師

何も訳がわからない状態で瞑想し始める、などということは仏教において全く推奨されません。

譬えば、蒼海の彼方にある孤島へと向かわんとする者があったとして、まず自ら行くべき島への地図あるいは海図を見、目的地への行程を把握せずして、あるいは船の操法や方位磁針・天空・気象の読み方を学ばずして、波高き大海へと挑むのは全く賢明な方法ではなく、むしろ甚だ無謀というものでしょう。誰でもただ海に漕ぎ出すことまでは出来るでしょう。

では大海にただ漕ぎ出しただけで遥かなる目的の地へ辿りつけるかとなれば、それはほとんど絶望的です。

瑜伽行者もまた如り。

不立文字・教外別伝などの禅家の言葉、あるいは道元禅師の只管打坐を文字通り受け取った一部の禅家の者などが、「あれこれ細かいことにこだわるのは執着である」「経典など糞拭き紙にすぎない」などと言う場合があるかもしれません。あるいは経文を無視し、伝統教学を軽視・蔑視して、「ただ座れ」などといたずらに坐禅に打ち込むことを良とする人々もあるかもしれません。

あるいは臨済禅師の猿真似をし、大声でとただわめき散らすだけであったり、奇を衒った言葉を並べ立てて人を困惑させて喜ぶのみの人もあるかもしれません。

しかし、そのようであるのは、まさしく支那以来揶揄されるところの暗証の禅師、あるいは野狐禅を地で行くものでしょう。またこのようなのは、行き過ぎた本覚思想の悪い例の一つです。禅を中途半端にかじっただけならば、いわば現代的意味で「支那製(Made in China)の悟り」を得るにとどまるでしょう。闇雲に学を捨て、禅家の教えに何事かを求めても得られるものなど全くありません。

世間の有閑人によく見られるような、禅がただの知的遊戯にとどまって、本人はただ冷笑主義的で高慢な愚か者となるに陥るようならば、下手に禅など学ばないほうが良いでしょう。

もっとも、ただ無闇に経文を諳んじ、教学を深めて博士・学僧となったとしても、それだけでは諳んじているところの経文の類など、臨済禅師が言ったところの「拭不浄故紙」(『臨済録』示衆)にもならないものとなってしまうに違いありません。

いずれにせよ、兼好法師に「文字の法師、暗証の禅師、たがひに測りて己に如かずと思へる」(『徒然草』)と揶揄されたようなものとなってしまっては、詮ないことです。

説一切有部(『阿毘達磨倶舎論』)における修道階梯

さて、加行位にある瑜伽行者は、そのうちのいずれかを修し、数習[さくじゅう]して成就し、定(心一境性)を得なければなりません。

譬えば、波だち揺らめく湖面が、天空や周囲の山並みなど景色を反射してありありと映し出すことは決して出来ないように、止を成就し定を得ていない状態では、真の意味での観(Vipaśyanā)は修習し得るものではありません。定を得て初めて、観の瞑想の範疇に入る別相念住、すなわち四念住(四念処)を実際に修習し得るようになります。

「道果」に至るには、これは説一切有部や分別説部そして大乗の諸派を問わず、四禅もしくは八等至などといわれる定を得ていること(中でも特に四禅を得ていること)が、必須の条件とされています。

ただし、滅尽定あるいは金剛喩定などと言われる最高の禅定に至ったか否かは、般涅槃の要件とは必ずしもされません。滅尽定は、声聞の聖者で言えば不還果に至って初めて得うるものとされます。しかしながら、滅尽定に至ることがすなわち解脱ではないことは、三乗に通じる説です。

余談ながら、滅尽定=解脱ではないものの、阿羅漢・辟支仏ではなく仏果・無上菩提を目指す菩薩乗の場合は、無上菩提に達する以前、最終的に金剛三昧に至ることが自明とされます。

密教では、この三昧においてなお現等覚しえなかった一切義成就菩薩に対し、五相成身観が示されてついに成仏にいたるという説示がされています。

禅定を得て四念住を修すに至った行者は、まず身・受・心・法の四つについて、「身の自相は不浄」・「受の自相は苦」・「心の自相は非常」・「法の自相は非我」と各別に観じ、浄・楽・常・我の四顛倒を対治していきます。これに習熟すると、次は三賢の最後となる総相念住に移行。四念住のうち法念住において、一切の共相として「非常・苦・空・非我」を観ていきます。

これら三賢を修めて後、四善根に至って瑜伽行者は、主として法念住において四聖諦を対象とし、四諦十六行相観を行じていきます。

『倶舎論』に基づく修道階梯(有漏)における五停心の位置
身器清浄 身心遠離 俗事・喧騒から身を遠ざけ、不善の思考から心を遠ざける。
喜足少欲 少欲知足。今得ている物で喜び満足し、新たに求めない。
住四聖種 衣服・飲食・臥具について得た物で滿足し、楽断修を行じる。
加行位 三賢 順解脱分
(外凡)
五停心 不浄観
慈悲観
因縁観
界分別観
持息念
別相念住 四念住
総相念住
四善根 順决択分
(内凡)
法念住
(四諦十六行相)
世第一法

四善根を成就した瑜伽行者は、ここで初めて無漏智を生じて見道(預流向)に入ります。そして、また続いて四諦を対象として観じ、修道(預流果から阿羅漢向)・無学道(阿羅漢果)と悟りの階梯を登っていくものとされます。

瑜伽行者はまず加行位において、これはその人の機根にも依りますが、相当に長い期間をかけ修行していきます。上のように表にして示してしまえば案外簡単なことのように思われるかもしれませんが、そもそもまず身器清浄を備えることは普通一般の家庭生活を送る人には簡単なことではないでしょう。

そしてまた、「禅定を得る」などと簡単に言いますが、実際これは相当困難なこととなるでしょう。

禅定がいかなるもの、いかなる心的状態であるものかは、ここでは煩雑となるため示しませんが、部派それぞれが伝持する阿毘達磨や修道書などによって厳密に定義されています。そして禅定のいかなる心的状態のものであるかは、心・心所の立て方など「法」に関する見解が異なっている説一切有部と分別説部とでは、(大幅に異なるとまでは言えませんが)異なっています。

(禅とは具体的にいかなることを言うかについては、“禅について”を参照のこと。)

これら阿毘曇の所説を知らずに禅定が云々と語れるものではありませんが、また同時にそれら二つの部派の説く定義・見方が若干異なっていることも一応知っておいたほうが良いでしょう。

まれに自分が得た何か尋常ならざる瞑想体験をただ得たことをもって、禅定を得た、と単純に考える人があります。しかし、往々にして勘違いのようです。

そもそも、これは非常に重要なことですが、瞑想の中で得た何事か不可思議な体験・異常な体験などを、それが真のものであれ偽のものであれ、瑜伽の師は一応例外としても、誰であろうと人に話すべきでは「決して」ありません。仮に禅定を得たとしても、それを他者に語る必要など全くありません。

また、出家者ならばこれを在家の者に口にすることは、仏陀によって固く禁じられています。これは下手をすると波羅夷罪(大妄語)にすら該当し得ることで、比丘であればもっとも注意すべきことの一つです。仮に本当に得たとしても、やはり語ってはならないこととされ、語れば罪となります。しかしながら現実には、僧俗問わず、多くの人がムズムズと他人に話したくなってしまうようで、現実に他者に軽薄にもペラペラと話している輩があります。

が、これは諸煩悩に基づく愚行・無知な行為というものです。他者を鼓舞するため、あるいは他の三摩地を進展させるために敢えてするのだ、などという「大義」を掲げる出家者があるかもしれませんが、それは浅薄な考えというものです。それは無意味な、自身にも他者にも無益な行為でしかなく、百害あって一利なし。多くの場合有害でしかないものです。

これは誠に重要で心すべきことです。

今はむしろ蛇足であるかも知れませんが、参考までに、『倶舎論』(ならびに『大毘婆沙論』)における見道以降すなわち四向四果に至った声聞の位置づけなどを表にして以下に示します。

『倶舎論』等における悟り(無漏)の階梯
- 四向四果
(四双八輩)
七聖
鈍根(信根) 利根(慧根)
見道 預流向 隨信行 随法行
修道 預流果 信解
(信解脱)
見至
(見到)
一来向 家家
一来果
不還向 一間
(一種)
不還果 中般涅槃 身証
〈滅尽定を得た者〉
生般涅槃
行般涅槃
無行般涅槃
上流色究竟
阿羅漢向
無学道 阿羅漢果 (時解脱) (不時解脱)
慧解脱〈滅尽定を得ていない者〉
倶解脱〈滅尽定をすでに得た者〉

ここで、見道と修道すなわち預流向ならびに預流果の聖者について、補足すべき点があるので、さらにそれを表として以下に示します。

『倶舎論』における見道・修道の十六心(見道の十五心)
- 四聖諦 八忍八智十六心
見道 預流向 苦聖諦
(苦諦)
欲界 苦法智忍
苦法智
色界
無色界
苦類智忍
苦類智
苦集聖諦
(集諦)
欲界 集法智忍
集法智
色界
無色界
集類智忍
集類智
苦滅聖諦
(滅諦)
欲界 滅法智忍
滅法智
色界
無色界
滅類智忍
滅類智
苦滅道聖諦
(道諦)
欲界 道法智忍
道法智
色界
無色界
道類智忍
修道 預流果 道類智

今挙げた十六心(八忍八智)の忍と智とは、サンスクリットkṣānti[クシャーンティ]とjñāna[ジュニャーナ]の漢訳語ですが、忍は煩悩を断じ、智は択滅を獲得するものとされます。

見道(預流向)に入った者は、それぞれ欲界と色界・無色界における、四聖諦について苦集滅道と次第して(それが正しく真理であるとの)正しい認識を漸く獲得していきます。そして十五心となる道類智忍から、十六心の道類智に至って修道(預流果)となり、この認識を数習して確実のものとします。

さて、加行位から見道に到るまでの瑜伽行者が賢者、見道に入って無学道までが四向四果のいずれかにある者が声聞の聖者[しょうじゃ]と呼ばれます。具体的に、修行者で聖者の位に登ったとされるのには、見道の十五心のうち、はじめの苦法忍智に至った者からとなります。

賢者は、三賢と四善根にあるものを併せ、七賢と呼称されます。聖者は、まずその機根によって二つに分類されています。その強い信仰心をもって預流向に至ったものを随信行、勝れた慧によって至ったものを隨法行と言い、修道に入って以降もその境地に応じて、それぞれ異なった呼称が与えられています。

そもそもこれは阿含経に説かれているものですが、このような分類によって、上の表に示したように聖者には七種(随信行・随法行・信解・見至・身証・慧解脱・倶解脱)があるとされ、これを併せて七聖と総称しています。

なお、阿羅漢には、その能力などによって六種あるいは九種の別があるといい、これを六種阿羅漢・九無学などと言います。

まず六種阿羅漢とは、退法・思法・護法・安住法・堪達法・不動法の六種の阿羅漢をいい、説一切有部では、そのうち前五者が時解脱の阿羅漢、最後の不動法の阿羅漢が不時解脱の阿羅漢であるとされます。その違いは、見至より身証を経て阿羅漢果に至ったかどうか、すなわち滅尽定を得て後に阿羅漢になったかどうかです。この不時解脱の阿羅漢が、これは倶解脱の阿羅漢に他ならないのですが、もっとも勝れた阿羅漢であるとみなされます。

では、この時解脱の阿羅漢と不時解脱の阿羅漢とは何かにも、一応ここで触れておきましょう。時解脱の羅漢とは、自らの命根が尽きるの時を待ってのみ、般涅槃すなわち身体的苦からも離脱して死去し得る羅漢。不時解脱の羅漢とは、自らの命根尽きる時を自在に出来る者のことです。

病などによって耐え難い痛みを終わらすため、あるいは自身がそれ以上世に留まっても益することが少ないと自ら判断した時に、前世の果報として未だ猶予ある命根を棄て、(予定より)早く死ぬという、ある意味自殺を自由自在に出来る羅漢です。または逆に、自身が久しく世に留まる必要があった場合、命根すなわち前世の宿業によって予定された寿命を引き伸ばし得も出来る羅漢が、不時解脱の阿羅漢です。

ちなみに、仏陀釈尊はその晩年、耐え難い激痛に襲われ下血されています。鍛冶工チュンダの食事の布施に因むものであったといいます。しかし、釈尊は、その激しい痛みと病いに押されてそのまま涅槃されることを良とせず、また阿難尊者が釈尊に寿命を久しく伸ばされることを懇願しなかったために、ただ三ヶ月のみ命根を伸ばされたのだと伝えられます。そうしてついに、沙羅双樹のもと、仏陀は安らかな般涅槃を迎えられています。

さて、九無学(あるいは九種阿羅漢)とは、先の六種阿羅漢のうち不動法の阿羅漢を先と後との二つに分けたものに、辟支仏・仏陀を加えたものです。

これら一般には煩雑とすら思われるであろう賢者・聖者の分類は(であるからが故に、たちまち「後代の挿入である」などと考える人があるかもしれませんが)、漢訳四阿含(例えば『中阿含経』「福田経」など)に通じて説かれているものであり、またパーリの経蔵ならびに阿毘達磨蔵にも説かれているものです。

さて、預流向から阿羅漢向までの無学には、総じて18の別があることから十八有学、阿羅漢には九種の別があることからこれを九無学などといい、伝統的にこれを併せて二十七賢聖[けんじょう]と呼称します。

仏教における賢者と聖者とは以上のようなものであって、部派それぞれによって(といっても今知り得るのはそのうちのわずかなものに過ぎませんが)定義されています。

(ただし、言葉は同一でもその解釈や位置づけが部派によって若干異なっている場合がある。例えば、六種阿羅漢に関して異なった見解を表し、有部の説に論難しているものに“『成実論』止観品”がある。なお『成実論』一時品などでは、十六心すべてが見道に属するものとして、有部と異なる見解を示している。)

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分別説部(『清浄道論』)における修道階梯

分別説部における修道階梯は、5世紀頃のセイロンにおいて、Buddhaghosa[ブッダゴーサ]大徳によって著されたと伝えられる、Visuddhimagga(『清浄道論』)という修道書によって示されています。

ちなみに、スリランカと東南アジアでは、主にスリランカにて著され、パーリ語によって伝えられてきた分別説部大寺派の三蔵と注釈書文献群によって、その伝統を伝えています。

特に修道に関しては、大徳の『清浄道論』にほとんど全面的に依拠してきました。また経蔵・論蔵に関しても、もっぱら大徳によるとされている注釈書に全く依って理解されています。大徳の残した修道書・注釈書類があってこその部派であり、故にこれらを無視しては、分別説部大寺派すなわち今言われる上座部などありえないと言っていいほどのものです。

この『清浄道論』は、分別説部の修道体系や見解を決定づけているもので、実際に様々なことを微に入り細に入り規定しており、分別説部の正統とされる見解を表するものです。

もっとも、ここでやや横道にそれますが、『清浄道論』をはじめ阿毘達磨が現在も常識的に学ばれている国は、この部派が信仰されてきた東南アジア・南アジアでも極めて限られており、大勢としてはミャンマー以外にないと言えます。これがそのまま、それら諸国での瞑想など修道についての態度や実修度を表している、とすら言えます。

実際、カンボジア・ラオス・スリランカなどは、一般的に、僧侶はただ経典・語学を学習するのみであって、修道ということについてまるで論外と言える状況です。

端的に言うと、彼らは在家信者からの「(在家信者の前では)それらしく振る舞い、時には法話すること」「儀礼を行うこと」等の要請にむしろ従うことをもって、生業としています。

タイも全体としてはまったくこれと同じことが言えるのですが、そのような状況を打開せんとする刷新運動といえる動きが近年わずかながらあり、森林に住し律を厳持し瞑想に打ち込むごく一部の僧があります。

ただし、その中には、あるいはチベット仏教の教えや禅など大乗の思想を受け入れていたり、あるいは『清浄道論』や阿毘達磨の所説を無視あるいは否定し、合理主義的に理解し得る経説にのみ基づいて打ち立てた自説に従っていたりするなど、この部派の正統とは離れていると言えるものもあります。

さて以下、『清浄道論』において説かれる、分別説部の修道階梯を極めて簡潔にながら示します。

分別説部における「道」に到るまでの修道階梯
- 七清浄 内容
慧根 戒清浄
Sīlavisuddhi
四種戒(波羅提木叉律儀戒・根律儀戒・活命遍清戒・資具依止戒)の護持。
心清浄
Cittavisuddhi
近至定ならびに八等至(八禅)の獲得。
慧体 見清浄
Diṭṭhivisuddhi
名色(四界・十八界・十二処・五蘊)を如実に見る。
度疑清浄
Kaṅkhāvitaraṇa-
visuddhi
三世に関する疑惑(輪廻についての疑惑)を遮断し超度する。正見・如実知見。
道非道智見清浄
Maggāmaggañāṇadassana-
visuddhi
道と非道とを知る。無常(無相)・苦(無願)・無我(空)隨観、ならびに生滅隨観(真の意味でのVipassanā)を修める。
行道智見清浄
Paṭipadāñāṇadassana-
visuddhi
八智および諦随順智の獲得。
智見清浄
Ñāṇadassanavisuddhi
(それぞれ種姓智の獲得を経てより)慧を得る。これにより聖者(四双八輩)となる。

以上のように、といっても上に示したその内容の説明では全く足りないのですが、先に示した『倶舎論』に基づく修道階梯とはかなり相異するものとなっています。

ただし、分別説部においてもまた瑜伽行者はまず持戒し、四禅八定を得てより、慧の修習と獲得に入っていくことを説いています。内容的には七清浄の最初の二清浄、慧根の戒清浄は、有部が言うところの持戒・身器清浄、心清浄は五停心に同するものであると言えます。

これはやや余談となりますが、ブッダゴーサは『清浄道論』において、これ以前に瞑想修行するための場所、師などについての諸条件を事細かに指定しており、これは有部で言う身器清浄をより詳しく明かしたものと言えるのですが、これは6世紀、支那は随初頭に活躍した大学僧、天台山の智者大師智顗による名著『修習止観坐禅法要』で説かれる廿五方便と実によく似通ったものとなっています。瞑想修行者にとって、その気候・風土は異なっても、その前提・条件はインド・スリランカ・支那、そして日本でもほとんど同一でその差はありません。

(小乗・大乗の説く修行に対する準備・諸条件については、別項“前方便”を参照のこと。)

さて、また分別説部大寺派(『清浄道論』)では、心清浄を獲得するための方法、止(samatha)の瞑想の対象として、計四十の業処(kammaṭṭhāna[カンマッターナ])を七つの範疇に分類して挙げています。これら業処は、無畏山寺派の修道書である『解脱道論』に説かれていた三十八の業処を、ブッダゴーサが敷衍して説いているものです。

この業処なる語は、分別説部に独特のものであり、経論に見られない語です。

分別説部では時として若干経説を離れたことを説いており、例えばすべての経典は色界の禅定の段階について四禅をのみ説いているのとは異なって、色界禅に四禅ではなく五禅のあることを説いています。これは分別説部の「分別説」部たる所以たる、すなわち独自の阿毘達磨説を重要視し採用した結果です。もっとも、経説を離れたところで云々する教義を確立しているのは、部派の多くに通じて言えることのようですけれども。

(四禅・五禅など禅定ならびに諸部派における禅定の定義についての詳細は、“禅について”を参照のこと。)

また、止の瞑想よりも観の瞑想を専ら修すことによっても心清浄を得うる(vipassanāyānikanaya)ということも説いています。これは分別説部に独特のものであり、経説から離れた分別説部の独自説です。

(この問題については、別項“Yuganaddhasutta ―止観双運の教え”にて触れているので参照のこと。)

ところで、有部においても瑜伽行者の傾向として、止か観のどちらかに重点をおいて、あるいは止と観との修習の先後関係を真逆にして修め見道に至る、奢摩他行者・毘鉢舍那行者のあることを説いています。「加行時において」止を特に多く修した者は後に観によって、観を特に多く修した者は後に止によって、見道に至るというものです。

いずれにせよ止に全く依らないで観だけで達しうるなどという説は、経説はもとより、現在確認し得るその他の部派の典籍においても、見出しがたいようです。

以下、『清浄道論』にて示される止の瞑想における四十業処を表にして挙げます。

分別説部大寺派における止の四十業処
- 業処
十遍
Kasiṇa
Pathavī 地大
Āpo 水大
Tejo 火大
Vāyo 風大
Nīla
Pīla
Lohita
Odāta
Āloka 光明
Paricchinnākāsa 虚空
十不浄
Asubha
Uddhumataka 膨張相
Vinīlaka 雑青相
Vipubbaka 漏膿相
Vicchiddaka 断壊相
Vikhāyitaka 食残相
Vikkhittaka 散乱相
Hatavikkhittaka 斬斫離散相
Lohitaka 血塗相
Puḷuvaka 蟲聚相
Aṭṭhika 骸骨相
十随念
Anussati
Buddhānussati 佛随念
Dhammānussati 法随念
Samghānussati 僧随念
Sīlānussati 戒随念
Cāgānussati 捨随念
Devatānussati 天随念
Marananussati 死随念
Kāyagatāsati 身至念
Ānāpānassati 安般念
Upasamānussati 寂止随念
四梵住
Brahmavihāra
Mettā
Karunā
Muditā
Upekkhā
四無色
Āruppa
Ākāsānañcāyatana 空無辺処
Viññāṇañcāyatana 識無辺処
Ākiñcaññāyatana 無所有処
Nevasaññānāsaññāyatana 非想非非想処
一想
Āhārepaṭikulasaññā
Āhārepaṭikulasaññā 食厭想
一差別
Catudhātuvavatthāna
Catudhātuvavatthāna 四界差別

このように、分別説部(ブッダゴーサ)が業処として挙げているものは、概して経説に則ったものと言えます。またその位置づけ・効用が異なりますが、有部で説かれる四無量・八解脱・八勝処・十遍などと大体において同するものです。

十遍の中でも地遍などは、有部に比してその製作法や色形などを事細かに指定してしていますが、それは密教にて説かれる一部の曼荼羅のそれに極めて似たものとなっています。実際、分別説部では地遍の対象を、pathavīmaṇḍalaあるいはkasiṇamaṇḍalaと呼称しています。もっとも曼荼羅といっても、密教のような特殊で複雑な意味合いは持たされていません。

ただこれは、真言密教で瞑想の対象として描かれ、用いられる月輪観本尊と、その形状からすれば、ほとんどまったく一緒のものです。

(地遍については、別項“地遍の修習”にて詳細にしている。)

さて、ちなみにここで言われる七清浄は、漢訳阿含では、『中阿含経』「七車経」において、戒浄・心浄・見浄・疑蓋浄・道非道知見浄・道迹知見浄・道迹断智浄と説かれているものに同じです。それは、満慈子(富楼那)尊者が舎利弗尊者からの問いに答えることによって、次第して行いついに涅槃に至る道として明らかにされているものです(T1, P430b-c)。

他の阿含には七浄とは説かれず、『雑阿含経』(第565経)では、四清浄として戒清浄・心清浄・見清浄・解脱清浄のみが説かれ(大正2, P148下段)、あるいは『長阿含経』では、四浄として戒浄・心淨・見浄・度疑浄のみが説かれています(T1, P51a)。

また、訶梨跋摩 『成実論』においては、七浄としてその処々に説かれ論じられており(T32, P277a)、弥勒菩薩(チベット伝では無着菩薩)『瑜伽師地論』にても、漸次に修してついに涅槃を究竟するものとして、分別説部のそれとは異なる形で七清浄が詳説されています(T30, P838a)。

さて、七清浄最後の智見清浄に至るということが、分別説部においては、真の意味での慧(paññāṇa)の獲得であるとされ、これがすなわち道(magga)に至ること、有部で言うところの見道・修道・無学道に至ることを意味します。

続いて分別説部における四向四果の聖者の分類を示します。

分別説部における智見清浄(慧)を得た七種の聖者
- 七聖
信根
Saddhindriya
定根
Samādhindriya
慧根
Paññindriya
預流道
Sotāpatti-
magga
随信行
Saddhānusārin
身証
Kāyasakkin
随法行
Dhammānusārin
信解脱
Saddhāvimutta
見到
Diṭṭhippatta
一来道
Sakadāgāmi-
magga
不還道
Anāgāmi-
magga
(時解脱人)
Puggalo-
samayavimutto
阿羅漢道
Arahatta-
magga
倶解脱
Ubhatobbāga-
vimutta
慧解脱
Paññāvimutta
(不時解脱人)
Puggalo-
asamayavimutto

分別説部においてもやはり経説に基づき、聖者に七種あることを言いますが、その分類は説一切有部(『倶舎論』)のそれとはやや異なっています。

聖者の境地に至った術・機根とその後の過程として、二種ではなく三種を挙げていることがまず大きく異なっています。また、同じく経説に従って聖者に七種あるとはしているものの、道に初めて入った者、すなわち預流向に至った者は、一瞬と言うにも満たない三、四刹那の後に、自ずから預流果に至るとしているので、預流向の者など実際には存在しえず、故に現実に認められるのは五種のみとなる点もまた、大きく異なる点です。

このような説を立てていることもあり、分別説部は、阿毘達磨蔵典籍の一つKathāvattu(『論事』)において、有部などが言う四諦のそれぞれによって段階的に煩悩を滅するという説を邪説であると攻撃しています。

また分別説部では、悟りには正等覚(Sammā sambodhi)・独覚(Pacceka-bodhi)・無上声聞覚(Aggasāvaka-bodhi)・大声聞覚(Mahāsāvaka-bodhi)・初因声聞覚(Pakatisāvaka-bodhi)と、大きく分けて五つの浅深があるとされます。そのうち今の人が獲得し得るのは、その中でも最も浅い悟りである初因声聞覚のみであるとされています。人は、正等覚を得た仏陀はもとより独覚(縁覚)の仏陀にも成り得ず、ただその弟子でも最も低いとされる智慧をもつ阿羅漢にのみ成り得る、というのがその見解です。

分別説部大寺派における菩提(悟り・智慧)の浅深
- 業処
正等覚
Sammā sambodhi
釈迦牟尼仏など過去二十八仏。あらゆる無上正等正覚を得た仏陀の悟り。ただし、分別説部を含め小乗においては、人は決して仏陀にはなり得ないとする。
独覚
Pacceka-bodhi
無師・独悟し、また己の悟ったところを世間に開陳し、広めようとせず、人知れず涅槃する仏陀の悟り。縁覚とも。
無上声聞覚
Aggasāvaka-bodhi
舎利弗尊者や目連尊者など、仏陀の直弟子の阿羅漢中でもひときわ智慧の優れていた声聞(弟子)の悟り。
大声聞覚
Mahāsāvaka-bodhi
仏陀の直弟子、あるいは仏滅後の声聞で、優れた智慧を持っていた阿羅漢の悟り。
初因声聞覚
Pakatisāvaka-bodhi
阿羅漢ではあるけれども、しかし最も智慧の劣る声聞の悟り。現在の我々が成り得るのは、この初因声聞覚の阿羅漢に限られる、と分別説部は言う。

とは言え、阿羅漢は阿羅漢に違わず、また阿羅漢になるにはやはり仏陀らと同じく、十波羅蜜を長大な時間(阿僧祇劫)をかけて満足しなければ成り得ないとされます。しかし、これはその人の機根によって甚だしく期間が異なるとされますが、いずれにせよ長大な時間を経なければならないというのは同じです。

なお、分別説部の阿毘達磨の体系についての概論書Abhidhammatthasaṅgaha(『摂阿毘達磨義論』)という、インドの学僧Anuruddha[アヌルッダ]によって11世紀頃、パーリ語で著された書があります。これは比較的新しい時代に著されたものですが、分別説部の阿毘達磨などについてよくまとめられている非常に勝れた書です。『清浄道論』ならびに『摂阿毘達磨義論』の二書によって、分別説部の修道ならびに阿毘達磨の梗概を知ることが出来るでしょう。

現在の分別説部(ビルマに限られる)では、過去の日本仏教において新学の者・新発意などにまず『倶舎論』本頌を丸暗記させて学習したのと同様、(パーリ語の学習を伝統的な文法書に依って一応済ませて後、)まずこの書の丸暗記によって阿毘達磨の学習を開始し、次いで様々な論書・律蔵・『清浄道論』の学習へと移行していきます。なお、現在のチベット仏教では、『倶舎論』本頌を素読するという伝統を保っています。

これは全く余談となりますが、分別説部の論蔵七典籍の一つに、(最も成立が早いと言われる)Puggarapaññatti(『人施設論』)という、特に人をその境地や能力などによって数々に分類・定義した論書があります。先に有部にては、有学の聖者を十八に分類する呼称があり、また無学たる阿羅漢には六種阿羅漢・九無学の別が説かれていることを紹介しましたが、分別説部ではこの論書において、聖者に限らずすべての人間を分別して説いています。

『人施設論』において、修行者からしばしば注目されるものとしては、今生において五無間業を犯した者などとは別に、人には「到ることが不可能の者(悟り得ない者)」(puggalo abhabbāgamano)があることを説いている点をまず挙げることが出来ます。そのような人は何をしたところで決して悟ることは出来ないとされます。これは有部において言われる断善根者、大乗一般において言われる一闡提(icchantika)に類するもの、唯識において説かれる五姓各別説の無種性に同じものです。

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『大智度論』における菩薩の修道階梯

ここで一応、大乗における修道階梯の一部を紹介するために、『摩訶般若波羅蜜経』(以下『般若経』)に説かれる十地に、これは『華厳経』(『十地経』)などに説かれる十地とは異なるものですが、龍樹菩薩によるその注釈書『大智度論』において註されたものを、以下に示します。

まず、『般若経』にはこのような所説は無いのですが、龍樹菩薩はそこで示される十地、すなわち乾慧地[けんねぢ]・性地[しょうち]・八人地[はちにんち]・見地[けんち]・薄地[はくち]・離欲地[りよくち]・已作地[いさぢ]・辟支仏地[びゃくしぶっち]・菩薩地[ぼさつぢ]・佛地[ぶっち]について、声聞と菩薩とに共通するもの、共地[ぐうち]であるとして示しています。しかし、それでもここには声聞と菩薩とでは異なりがあるとし、以下のように註されています。

『大智度論』における十地(共地)の階梯
- 声聞 菩薩
乾慧地 三賢 五停心観等によって禅定を得る以前の位 初発心から柔順法忍を得る以前の位
性地 四善根 すでに禅定を得た位 柔順法忍 禅定を得る位
八人地 須陀洹向 苦法忍より道比智忍までの十五心 無生法忍
見地 須陀洹果 阿鞞跋致地
薄地 須陀洹果あるいは斯陀含
阿鞞跋致地より成仏以前
離欲地 阿那含 離欲によって五神通を得る位
已作地 阿羅漢 仏陀(無上正等覚者)
辟支佛地 過去世に辟支仏となる因縁を植えていたため、今世において决定して出家し成道する位。または因縁の法をのみ観察することによって成道する位。
菩薩地 乾慧地から離欲地まで、或は歓喜地から法雲地まで、或は初発心時より金剛三昧を得るまでの位。
佛地 菩薩が一切種智の諸仏法について、自地においては行、他地においては観の、二つを具足して登る位。無上正等覚を證得する位。

このように、これは『大智度論』にほとんど通じて言えることですが、龍樹菩薩は説一切有部所説の修道階梯を声聞のものとして挙げています。

さて『大智度論』では、上に挙げた十地すべてが、無上道(佛地)に至るための助けとなるものであるとしています。そして、菩薩は声聞と同様に四念処など三十七品、ならびに六波羅蜜を修することをもって、それらをすべて踏み越えていかなければならないとしています。と言っても、たとえば声聞の阿羅漢や、縁覚(独覚)たる辟支仏は、その境地を獲得した時点で「終了」ですので、その境地には赴かず、これらを文字通り超えるという意味でのものだとされます。この十地の詳細は、釋発趣品などにおいて示されています。

そして次に、『大智度論』には『十地経』所説の十地も、これはただ菩薩乗の者のみに該当する階梯「但菩薩地」であるといい大乗で一般的に用いられる菩薩の階梯ですが、併せて説かれています。しかし、『大智度論』にはそれについての詳細は述べられていませんので、ここでは『華厳経』十地品の注釈である、同じく龍樹菩薩による『十住毘婆沙論』の所説に従ってこれを示します。

もっとも、『十住毘婆沙論』は、十地すべてに注釈がなされているものではなく、ただ初地と二地についてのみ詳細にされています。しかしながら、その冒頭、簡略にこれを示す一説があるため、今は一応それに従っています。

『十地経』に基づく十地(但菩薩地)の階梯
- 内容
歓喜地 始めて善法の味を知り、心に多くの歓喜を生じる。
離垢地 十善道を行じて諸垢を離れる。
発光地 広くそして多く学んで衆生の為に説法し、よく(世を)照らし出す。
焔慧地 布施・持戒・多聞の徳が転た増し、その威德が熾盛となる。
難勝地 功德力がいよいよ盛んとなって、一切の諸魔もこれを破壊しえない。
現前地 魔を遮り、諸々の菩薩道の法がすべて現前する。
遠行地 三界遠近を去って法王の位を得る。
不動地 天魔・梵天・沙門・婆羅門の誰であれ、その誓願を動かし得ない(不退転)。
善慧地 智慧転た明らかとなり、柔軟たること増上となる。
法雲地 十方無量の世界において、雨が等しく全てに降るように、法の雨を降らす。

今挙げた十地のその内容は、内容というよりもその名の由来を示したものに過ぎません。『十地経』については、世親菩薩による注釈書『十地経論』がまた重要であり、これによっても十地の詳細を知ることが出来ます。ただし、この十地については、インド以来支那においても大乗の諸師はさまざまな見解を立てており、その位置づけは一様ではありません。

ところで、阿羅漢あるいは独覚、そして仏陀になるためには、長大な時間(阿僧祇劫)をかけて波羅蜜を満足しなければならないことを説くという点で、その内容に若干の違いはありますが、声聞の諸部派も大乗の諸派も同じでそれほど変わりありません。例えば声聞乗のうち有部では主に四波羅蜜を説き、分別説部では十波羅蜜を説き、大乗すなわち菩薩乗では特に六波羅蜜を説きます(その上で声聞乗では仏陀には到底なれないとし、菩薩乗はなりうるとしています)。

そして修道法に関しても、上に若干触れた『大智度論』だけでなく、そもそも多くの大乗の経典・論書が、安般念そして四念処をはじめとする三十七道品を重要視し、あるいは修道における精髄としてみなしている点など阿含以来通じて見られることです。

故に、修道面から見た場合、双方にそれほど決定的な差は認められません。むしろ双方同様なのは同じく「仏教」である以上、当然のことであるでしょう。密教(金剛乗)についても、傍からすれば外見上相当に隔たったものと思えるかもしれませんが、それらを踏まえてみていく限りにおいて、案外異なりはありません。

もっとも、これは余談となりますが、チベットについてはまた置くとして日本ではこのことについて、平安期初頭に弘法大師空海が請来した真言密教に対し、最澄の最大の論敵でもあった、徳一[とくいつ]という法相宗の大碩学にして頭陀を常に行じていたという高徳が鋭く論難しています。

それは(大乗)仏教一般の見地からの密教についての誠に理に叶った諸々の不審点で、『弁顕密二教論』がその返答かとも言われていますが、実は空海はこれにまともに応答できていません。

さて、一般に、この世のこの身をもって現等覚を果たすこと、「即身成仏」を目指すとされる密教も、「来たれ見よ」と言われ、自らが見て確かめる教えであって修せば直ちに知り得るなどと宣伝する分別説部も、その修道者が、真摯に修道に取り組んで少分の果を得ることは出来たとしても、果たしてその言葉通りにそれぞれ目指すところを究竟することが出来難いという点でも同様です。

つまるところ双方何が決定的に異なるかというと、これはかなり大雑把な、乱暴な物言いであると言われるかもしれませんが、まずは慈悲についての態度や、それに基づいて建てられる誓願の広狭です。その因(誓願の大小・広狭)によってその果(菩提の浅深・功徳の大小)も異なるということが言われます。

しかし、もっとも大なるのは法(色・心・空・縁起)についての理解、涅槃等に関する位置づけ(声聞乗では総じて涅槃を三界の外にある、文字通り「実在する世界」「完璧な世界」と見なす)などの見解だと言うことが出来ます。

大乗からすれば、声聞のその理解すなわち智慧は浅い、いまだ不完全なもの、すなわち「小乗」であるという見解です(大乗・小乗という場合に用いられている漢語の小の意味は、大きい小さいの小というのではなく、不完全・欠けている・劣っているという意味での小)。

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3.いかに仏教を学び、修めるべきか

金杖の喩え

以上のように、部派それぞれによって、といっても今挙げたのはその流れが伝わっているわずか二つのみ、しかも極簡略したもので大乗についてはただごく一部ですが、建てられている修道階梯は異なり、仮に同じ言葉を使ってはいてもその内容や位置づけが相違している場合があります。

そもそも仏陀ご入滅の後、一味和合を旨とするはずの仏陀の教えを護持し伝える僧伽は分裂し、ついには十八から二十とまで細分しました。

今伝わるそれら部派の典籍はごく限られわずかしかありませんが、それらによると、経蔵の内容はほとんど同じくしながらも、部派それぞれの伝承・見解は時に同じく、時に大きく異なっています。それらの修道過程の別を成り立たせているのは、その部派があるいは仏説もしくは仏陀の大弟子所説として伝持してきた論蔵、そしてそれに基づいて構築し伝承された教義体系です。故にそれらを詳しく理解するには、各々の阿毘達磨の学習が必須となります。

大乗はそれら諸部派のいずれかの僧伽・伝統に与しつつ伝えられ、チベット・支那から日本にまで運ばれ伝承されてきました。大乗では声聞乗の説を踏まえた上で、たとえば修行者の境地として十地のあることを説き、あるいは総じては菩薩の階梯に五位あって具には五十二の境地があると説いています。

また、法相(唯識)の代表的典籍の一つ『瑜伽師地論』では、十七地の修道階梯が説かれるなど、やはり大乗でも基本を同じくしながらも、諸派それぞれの見解によって様々な階梯が建てられています。

このように、仏滅後に僧伽が分裂しそれぞれ相異なる教義を建立して、しかしそれぞれが仏陀の教えとして伝えてきたことを、、古来支那では「金杖の喩え」によって理解してきました。たとえ金の杖が砕けて複数の破片となったとしても、しかし砕けたとはいえ依然として金としての価値は変わらず、(その破片それぞれの形も大きさも異なっていても)それぞれ珍重すべきものである、という理解です。日本でもこの理解を継承し、仏陀滅後久しからずして声聞の僧伽が分裂し、それぞれ異なる伝承を残していることを斯く理解してきました。このような理解は、例えば凝然大徳『八宗綱要』などにて見ることができるでしょう。

そのいずれもが、仏陀の教えに基づいてそれぞれの見解を建てこれを伝承し、時代の波に揉まれて栄枯盛衰を見、紆余曲折を経ながらも、およそ2500年の時を乗り越え、仏陀の教え、法という宝を伝承してきた僧伽という黄金です。

それぞれ三蔵を護持してインド各地はもとよりインド亜大陸に広まって後世に伝え、その伝えるところの法を最尊・最勝として互いに論難・論争しあってこれを磨き、また影響し合うなどしてきました。しかしながら、それを今にまで残り伝えているのは、声聞乗の独立した一部派としては唯一残り伝わった分別説部と、チベット(ならびにチベット文化圏)そして支那、日本に伝わった大乗の僧伽です。そして、独立した部派としては滅んだものの、その大乗の中に保存された説一切有部の伝統だけです。

もっとも、近現代にかけ漢語仏教の保存に最大の功績をなし、また全体として漢訳経典に基づく仏教をもっとも古い形で様々に残していると言って良い日本仏教の場合は、近現代の明治維新に起こった廃仏毀釈や経済不況・戦争など世情混乱によって、(縷のようなものであったとは言え一応あった)律の伝統が断たれため僧伽が完全に消滅してしまいました。再度の復興が俟たれているところです。

余談ながら、たとえば真言宗では、このように仏教内部においても大別して声聞と大乗との二つ(これに縁覚を加えて三つ)があり、さらに声聞ならびに大乗にも諸派あって見解を別にしていることを、空海は自身が相承された密教からの観点により、『秘蔵宝鑰』あるいは『秘密曼荼羅十住心論』にて明らかにし、そして一応その浅深広狭を言いながら、畢竟全ての立場の真理性を認め包含する姿勢をとっています。これらは現代、おそらく解説無しには到底読解困難なものとなっていますが、本来的な意味での一乗思想が説かれる、非常に勝れた書です。

ただし、これを安易・安直に理解すると、すべての道は一つところを目指している、皆同じ山の頂上を登っているのだ、などという拙いものとなってしまうかもしれません。確かにある意味においては、ある観点からすればそうとも言えますが、畢竟違います。

無論、真言以外の宗に属する人からすれば、自宗がその他の宗より低いものとされていることが我慢ならん、所詮はこれも自宗を独り善とする駄本である、などと断じることになってしまうかもしれません。しかし、人にとってこれほど困難なこともないでしょうが、自宗に拘泥せずに読めば、その思想的意義の偉大さ、弘法大師として信仰される空海という比丘のいかに偉大であったかを知ることとなるでしょう。

多聞は生死を度せず

それら相異なる部派の諸説を、それらはそれぞれ異なる土地や歴史のもとに育まれたものですが、ただ単純にいずれもが仏陀の教えであるなどと言って、闇雲にまぜこぜにして理解することなど出来ず、またすべきではありません。

故にまずは一応、己に機に依り、縁あるものに従って、それぞれの伝承・伝統に従って学び行っていけば良いでしょう。

もっとも、龍樹菩薩が説一切有部で出家し、かつ上座部や大衆部など諸部の説を被欄、声聞乗を併せ学んだ上で、大乗の大論師として活躍されたように。あるいは無着菩薩が上座部(化地部)で出家して後、発心して大乗に転向、数々の唯識の諸典籍を著したように。またそもそも、説一切有部から大乗の基礎学として引き継がれた『倶舎論』は、無着菩薩の実弟であったという世親菩薩が、説一切有部にありながら特に経量部の立場から批判的に有部の説をまとめたとされるものです。

しかして世親菩薩は、声聞の悟りの理解は浅いものに留まるに過ぎないと、ついに大乗に転向。数々の唯識の典籍を説かれていたと伝えられるように、いずれか部派の律を受持しつつ、声聞乗の諸説を学んでさらに大乗を修め説くことは、大乗の僧によって、ごく当たり前になされてきたことです。

インド以来、チベット・支那から日本では、特に説一切有部の教義を引き継ぎ、『倶舎論』を代表としてその典籍を学ぶことは必須とされてきました。また説一切有部だけはなく、その他の部派の教義を伝える多くの典籍も学ぶべきものとして伝えられてきました。実際、古来必須のものとして学ばれています。

もっとも、日本の場合、この傾向は南都六宗と真言系統に保存され、天台系統の宗派(いわゆる鎌倉新仏教など)には弱いようです。もっとも、『倶舎論』に限って言えば、世親菩薩を敬愛してやまなかったという親鸞の影響によって、近代にまで真宗からも大家といわれる人が幾許か出ています。

故にそれらに関する理解がないと、唯識・中観・密教のいずれであろうと、大乗を理解することはほとんど不可能とすら言えるかも知れません。

現在の日本では、いずれの宗派においてもこの基礎的な学習も理解も決定的に欠落してしまっており、自宗が所依とする極々一部の経典類を、しかもつまみ読みする程度の学習しかせぬようになっています。そしてただもっぱら「お祖師さま」の伝記の類を学び、世間に対してこれを説くことに力をそそぐようになっているといえます。

その故に、それぞれ宗派の門徒が、根拠なき好き勝手な自己流解釈や全くの誤解に基づく説をふるってまったく支離滅裂となっていることが多くあります。大乗などと言ってはいても、彼らをひっくり返して叩いてみても大乗のダの字も出て来はしないでしょう。これは要するに、彼らが説くのが「仏教」でもなんでも無くなってしまっている、とすら言える状況です。

対してそれら基礎を確実に踏まえたうえで、整然と順序建てて自宗・自派が正統とする見解に基づく仏教を説く、南方やチベット仏教の伝統のほうが、仏教に興味をもつ今日の人にむしろ魅力的に感じられるのは、このような点も大きな原因の一つのように思われます。

彼らは、仏教がそもそもそういう宗教であるように、「人生の苦しみ」を教えの正面に据えて布教しています。

ただし、南方など本国から出て海外において布教している僧侶の言葉や態度と、その本国での僧侶一般が用いているその言葉や態度は、多くの場合甚だしく異なっていることを知っておく必要はあります。本国から離れて海外にいる僧侶の話など真に受け、その本国を想像するのは、まるで宛が外れたものとなるでしょう。

それに対し、現代の日本仏教の各宗派が、その人生の苦しみなどを問題の核におかず、なんとない情緒や趣だけのもの、もっぱら葬式業務に依る傍らに、「お祖師様は偉かった。アリガタイアリガタイ」程度のことを饒舌来る程度のものになっているのは、日本人自身の精神性を反映しているのかもしれません。日本仏教には非常に勝れた教えと伝統が豊富に完全には断絶せず保存されているというのに、全く切なく勿体のない話です。

仏陀の教え、法はまことに広大です。その高いことは須弥山にはるかにまさり、その深いことは大海にまさります。しかしながら、解脱を求める者には、この広大なる法を極め尽くす必要はありません。我が機根を量らず、身の程を知らずして、ただ闇雲に諸説渉猟しても益することは多くありません。むしろそうすることによって、ただこの大海をあてども無く彷徨するばかりの流浪者となるか、あるいは口説・言舌の徒となって、ただ自身の信奉する説以外を徒に批判・誹謗して事を得たりとするだけの愚者とすらなってしまうでしょう。

多聞は労して功なし。解了は妄想を長ず。若し見に所見なく知に所知を絶せば。一微塵の中より大千の経巻を出す

慈雲尊者『慈雲尊者短編法語集』

さて、以上の如く諸説の皮相のみを挙げ連ねた上で、かつ斯くの如くいうのは矛盾のように感ぜられるかもしれませんが、世間には、なにかの事柄について得られる限りの情報をかき集め、これについて客観的・俯瞰的態度を取っていさえいれば良い、とただいたずらにされているような傾向があるようです。

確かにそのような視点を持つことは、ある場合においては大変重要で不可欠のことでしょう。しかし、それはすべての場合に該当するものではありません。むしろ、かくすることによって自身の依って立つところの足場を全く見失い、あるいは喪失し、愚かなとすら言える相対主義、(これは何も今に始まったことではないかもしれませんが)ご都合主義・事大主義的に陥ってしまうことがままあるためです。

光る物貴くは、蛍・玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天・小野皇などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず。只仏の出世の本意を知らん事を励むべし。文盲無智の姿なりとも、是をぞ梵天・帝釈天も拝し給ふべき。

『栂尾明恵上人伝記』

知れば知るほど自らが無知であることを知っていく、と言ったごとき意味ではなく、学べば学ぶほど文字通り愚かになっていくといった過失は、多くの人が犯してしまうところのもののようです。

しかしながら、このことは学ばなければ知りえない、悟り得ないことであって、初めから闇雲に学を捨てて知り得るものではありません。いきなり「書を捨てよ」では、町に出る前に迷ってしまうでしょう。

とは言え、ただ地図を眺めるのみでその地に自ら決して赴かず歩かず、傍観者的にこれを並べて頭の中であれこれ想像するだけ、あるいは客観的(比較的)ということに囚われてむしろ主観を失い、ために多岐亡羊として行くべき道を決めあぐねているようでは、美しくも醜くもある、ひどく魅力的で、そのためにこそむしろ苦しみに満ちたこの悲劇的かつ喜劇的なこの人生は、なすすべもなしに虚しく終焉を迎えてしまうこととなるでしょう。

死にいく私

それ生は吾が好むにあらず。死はまた人の悪むなり。しかれども猶、生まれ之[ゆ]き生まれ之いて六趣に輪転し、死に去り死に去て三途に沈淪す。我を生じる父母も生の由来を知らず、生を受くる我が身もまた、死の所去を悟らず。過去を顧みれば、冥冥としてその首[はじめ]を見ず。未来に臨めば、漠漠としてその尾[おわり]を尋ねず。三辰、頂に戴けども暗きこと狗の眼に同じく、五嶽、足を載すれども迷えること羊の目に似たり。日夕に営営として衣食の獄に繋がれ、遠近に趁り逐て名利の坑に堕つ。

弘法大師 空海『秘蔵宝鑰』巻上・第一異生羝羊心

死んでしまう、この私はいつか、いや明日にでも次の瞬間にでも死んでしまう。普通、誰にも“その時”がいつであるのかまったくわからず、あるいは突然あるいはゆっくりと、しかしながら確実に、絶対に迫ってきます。

故に、またはこう思う人もあるでしょう、ならば何をしても虚しいだけである、所詮は死を迎えて終わりである、と。

“終わり”ならどんなにいいかしれませんが、しかし、それで終わりでは決してありません。我々の心は、悟りに至らない限り、死を超えて流転しつづけます。

もしくは、死後のことなど知りはしないが、いずれ死んでしまうことばかり考えてなんとする、その前にやるべきことがあるだろう、いつ来るかわかりもしない死についてばかり思い悩むことこそ虚しい、という人もあるでしょう。

しかし、仏教においては、であるからがこそ、今ここで問題とすべきは吾がこの生における生死の一大事と考えます。

来世があったとしても、問題はまさに吾がこの人生で、自らが自らを救うのは今この生以外にありません。そこで、たとえ過ちを犯そうとも、仏道を志し解脱を求める者に必要なのは、まず自らが触れ得たものを(これは非常に表現が難しいところですが)“古き伝統”にしたがって学び、その立場に従って、頭燃を払うが如くにつとめて修めること。その説かれるところの果を自らわずかばかりでも、しかしながら確かに証していくことです。

これはすべて社会的な義務をうっちゃって、仏教という宗教に没頭せよ、という意味などでは全くありません。そのような意味で在家の人が皆“頭燃を払って”いたならば、たちまち家庭が崩壊するどころか、社会が立ち行かなくなってしまうでしょう。

そこまで行かなくとも、今まで仏教になど触れたこともないような者が、たまたま何らかのきっかけで仏教に触れてたちまち変にのめり込み、瞑想などに没頭してむしろおかしくなってしまったり、概説書程度の本を数冊ばかり少々読んだのみでさも昔からすべてを常識的に知っていたかのように、たちまちあれこれ物を言いたてたがるような輩があります。

これは、悪平等教育・偏向平等思想が身に染み込ませられている、いわゆる団塊の世代の者、新老人と言われるような輩に非常に強い傾向のようです。明恵上人の残された至言、“あるべきようわ”を念頭に置くことを勧めます。

甚深微妙なる法を見ること、それは決して容易なことではありません。しかし、上にわずかながら示したように、今の我々には幸いにも、声聞乗の人にも大乗の人にも通じて修められるべき、これを見るに親切なる指南がいくつかのこされています。

自らの機に従い縁に順い、それらいずれかの指南に従いつつ、一歩づつでも法を現証する階梯を登り進む、少しでも多くの人が現れるのを願ってやみません。

非人沙門覺應(慧照) 敬識
(By Araññaka bhikkhu Ñāṇajoti)

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