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1.四無量心とは

四無量心・四梵住

四無量心とは、慈・悲・喜・捨という言葉でその内容が表わされる、四つの心の働きです。

その対象を限定せず、怨親平等に生きとし生けるもの全てをその対象とすることから、無量といいます。また、この心を持つ者には、限りない福徳・果報をもたらすということからも、無量と言われます。

あるいは四無量心はまた、四梵住[しぼんじゅう]という言葉によっても表現されます。その故は、この四つの心を持つことによって、(現世において解脱することが叶わなければ)死後、天界のうち色界の最初である梵天界に生じることから梵住といい、あるいはこの心を持つものは崇高な境地(初禅)に達することなどから、梵住と言われます。

しかしさて、四無量心とは要略すれば以上のようなものですが、経説を直に知らず、論書に実際に触れずにこのような説明を聞くだけに留めてしまうと、実際のところこれだけではその内容を理解することが出来ず、言わば「わかったようでわからないもの」となってしまうかもしれません。

そこでここでは、まず四無量心の一々を原語から見、次に経典にある四無量(心)についての仏陀の説示のうち、阿含経にあるものの一部を被欄。

そして最後に、現在もその伝統が伝わっている、小乗(声聞乗)の説一切有部と分別説部(上座部)のうち、主に説一切有部の論書にある定義と、大乗の典籍にある定義に触れ、これによって四無量心の一々がいかなるものかを示します。

慈悲喜捨の原語とその語義
漢語 サンスクリット
(パーリ語)
語義
Maitrī[マイトリー]
Mettā[メッター])
好意・友情・善意
Karuṇā[カルナー]
(〃)
同情・憐愍
Muditā[ムディター]
(〃)
喜び
Upekṣhā[ウペークシャー]
Upekkhā[ウペッカー])
無関心・中立・平静

四無量心とは、サンスクリットCatur-apramāṇāni[チャトゥル・アプラマーナーニ]あるいはパーリ語Cattu-appamaññā[チャットゥ・アッパマンニャー]の漢訳語です。

無量と漢訳されているApramāṇāniあるいはAppamaññāは、現代語で言えば「際限がないこと」「無限であること」を意味する言葉です。

また四梵住という場合の梵住とは、サンスクリットならびにパーリ語Brahmavihāra[ブラフマヴィハーラ]の漢訳語で、直訳すれば「梵(Brahmā)の境地・住所」です。

四無量を説く経説

まず、『長阿含経』における四無量の説示から。この経は、釈迦牟尼が、前世において七人の王から帰依される大典尊という名の婆羅門であった前生譚を伝えるものです。

大典尊默識七王居士梵志意。謂我常與梵天相見。言語坐起。然我實不見梵天。不與言語。不可餐默。虛受此稱。我亦曾聞諸先宿言。於夏四月閑居靜處。修四無量者。梵天則下。與共相見。今我寧可修四無量。使梵天下。共相見不。

大典尊は、七王・居士・婆羅門らが「大典尊は常に梵天(の神々)と相見え、座しつつ立ちつつに相語らっている」と考えていることを知った。しかし、私は梵天の姿など見ることが出来ず、相語らうことなど出来ない。誤った称賛を(それが虚実であると知りながら)黙って受けることはできない。だが私は、かつて諸々の(婆羅門である)先人たちが、「雨季の四ヶ月のあいだ閑居において静かに過ごし、四無量を修したならば、梵天と相見える」と語らっているのを聞いた。そこで今、私はむしろ(雨季の四ヶ月間、)四無量を修して梵天と相見えてはどうであろうか。

『長阿含経』巻五 第一分「典尊経」第三(T1, P32b
[現代語訳:沙門覺應]

この経に対応する分別説部のパーリ語経典、Dīgha-Nikāya, Mahāvaggapāḷi(長部大品)所収のMahāgovinda-suttaでは、過去の婆羅門など先師たちが語った梵天と相見えて語らうことが出来る方法とは、四無量ではなくて「悲の禅定(karuṇaṃ jhāna)」であるとしています。もっとも、その経の後分において、慈悲喜捨すべてが梵天界に生じる術として説かれています。

そのように四無量が梵天界に生じる術として説くのは、同じくDīgha-Nikāya, Sīlakkhandhavaggapāḷi(長部戒蘊品)所収のTevijja-sutta(「三明経」)も同様で、そこでは若干ながらより詳しく説かれています。

また、『長阿含経』の他の小経の中では、四無量を修めることは「比丘の財産である」として説かれ、いかにこれを修めるべきかも簡潔に説かれています。それは以下のようなものです。

何謂比丘財寶豐饒。於是比丘修習慈心。遍滿一方。餘方亦爾。周遍廣普。無二無量。除眾結恨。心無嫉惡。靜默慈柔。以自娛樂。悲喜捨心亦復如是。是為比丘財寶豐饒。

何が比丘の財宝であり豊かさであろうか。比丘が慈心を修習して、一方に遍く満たすこと。余方にもまた同様にすることである。周遍に普く広く、無二無量に、諸々の執着・恨みを除き、心に嫉み(害意)なく、言葉少なくして、慈しんで柔軟であること。かくして自ら(その境地を)楽しむことである。悲心・喜心・捨心についてもまた同様にすることである。これが比丘の財産であり豊かさである。

『長阿含経』巻六 第二分「転輪聖王修行経」第二(T1, P42b
[現代語訳:沙門覺應]

次に『中阿含経』では、阿難尊者に引率された出家して間もない比丘たちへの教示として、釈迦牟尼がその教え(法数)を順次説かれていく中に、四無量が説かれます。

ここで、新参の比丘たちに(というよりもむしろ阿難尊者のために)説かれたこととはすなわち、五蘊・六内処・六外処・六識身・六更楽身・六覚身・六想身・六思身・六愛・六界(六大)・縁起・四念処・四正断・四如意足・四禅・四聖諦・四想であり、ここで次に四無量が説かれています。

また次いで四無色・四聖種・四沙門果・五熟解脱想・五解脱処・五根・五力・五出要界・七財・七力・七覚支・八支聖道と説かれ、最後に頂法及頂法退を説かれて、この経が終わっています。

阿難。我本爲汝説四無量。比丘者心與慈倶遍滿一方成就遊。如是二三四方四維上下普周一切。心與慈倶無結無怨無恚無諍。極廣甚大無量善修。遍滿一切世間成就遊。如是悲喜心與捨倶無結無怨無恚無諍。極廣甚大無量善修。遍滿一切世間成就遊。阿難。此四無量。汝當爲諸年少比丘説以教彼。若爲諸年少比丘。説教此四無量者。彼便得安隱得力得樂。身心不煩熱。終身行梵行。

阿難よ、私はおまえのために四無量について説こう。比丘は心に慈しみを具え、一方(の生けるもの全て)に遍く満すことを成しつつ遊行する。このように、二方・三方・四方・四維・上下のあらゆる方向(の生けるもの全て)に遍く(慈心を)廻らす。心に慈を具え、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈しみを)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。同様に、悲・喜もまた、捨とを具えて、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈心を)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。阿難よ、この四無量について、汝は諸々の出家して間もない比丘達に以上のように説教するべきである。もし諸々の出家して間もない比丘たちの為に、この四無量を説教したならば、すなわち安穏を得、力を得、楽を得て。身心に悩み煩いないであろう、終生これを行うことは崇高な行いである、と。

『中阿含経』巻廿一 長壽王品「説処経」第十五(T1, P563b
[現代語訳:沙門覺應]

先に挙げた『長阿含経』とほとんど同内容の、いかに四無量を修めるべきかが説かれ、次いで「これを説くことの功徳」について言及されています。

もっとも、これは四無量に限って言われたものではなく、先に列挙したもろもろの事柄を、比丘たちのために説く者が得る功徳です。

次に『増一阿含経』収集の一小経を引きます。

聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。爾爾時世尊告諸比丘。有四等心。云何爲四。慈悲喜護。以何等故名爲梵堂。比丘當知有梵大梵名千無與等者。無過上者統千國界。是彼之堂故名爲梵堂。比丘。此四梵堂所有力勢。能觀此千國界。是故名爲梵堂。是故諸比丘。若有比丘欲度欲界之天處無欲之地者。彼四部之衆當求方便成此四梵堂。如是諸比丘當作是學。爾時諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

このように聞いた。仏陀が舎衛国の祇樹給孤独園に在られた際、世尊は諸々の比丘にこう告げられた。「四等心がある。何が四であろうか。慈・悲・喜・護である。どのような理由からこれをまた梵堂と言うのであろうか。比丘たちよ、まさに知るべきである。梵天界には大梵天界があり、千と名付けられる。これに等しいものは無く、これより上のものも無く、千の世界を統べる。このような境涯であることから、(四等心を)名づけて梵堂というのである。比丘たちよ、この四梵堂には勝れた力があり、よくこの千の世界を観とおす。このようなことから、(四等心を)名づけて梵堂というのである。この故に比丘たちよ、もし比丘で欲界の天を超え、無欲の境地へ往かんと欲する者があれば、四部の衆にまさに様々な手段によって、この四梵堂を成すべきである。このように比丘たちも、また同様に学ぶべきである」と。その時、比丘たちは、仏の所説を聞いて歓喜した。

『増一阿含経』巻廿一 苦樂品第廿九 第十経(T2, P658c
[現代語訳:沙門覺應]

このように、『増一阿含経』の訳者、瞿曇僧伽提婆は、四無量心でなくて「四等心」、その内容は「慈・悲・喜・護」、そしてこれを梵住ではなくて「梵堂」と漢訳しています。ここでは如何に四等心(四無量心)を修めるかについては説かれず、なぜこれを梵堂(梵住)とも言うかの理由が明らかにされています。

それは梵天の世界、そしてその中でも最高位の大梵天界に生じるからであるといい、それがすなわち、四等心を修める功徳となっています。

さて、以上のように、諸経典において四無量(慈悲喜捨)は、過去から語り継がれてきた梵天を目の当たりにする方法、死後に梵天界に生まれ変わる方法として、比丘のおさめるべき心のあり方として説かれています。多くの場合、四無量は、四禅と共に説かれ、時には禅定そのものの一つとして説かれています。

またパーリ経典には、これは四無量ではなく慈に限って説かれたものですが、Metta sutta[メッタ・スッタ](慈経)があり、その内容を平易に明かしています。そしてそこでは、慈しみの心を保つことは「梵(崇高)の境地」であるとされています。

阿含経でも、特に慈のみが説かれる箇所は非常に多く、それに比すれば、四無量あるいは慈悲喜捨がまとまって説かれるのは、それほど多くはありません。

Metta suttaの原文ならびにその内容など詳細は、”上座部常用経典衆-Metta-sutta(慈経)-”を参照のこと。)

阿毘達磨における四無量の定義

つぎに、説一切有部の阿毘達磨(アビダルマ)においてなされている、四無量心についての見解・議論のうち、主だったものを見ることによって、さらに四無量心とは具体的になにかを明らかにします。

「六足発智」などとまとめて言われる説一切有部の伝える論蔵典籍のうちの一書、大目連尊者(大目乾連)による説示であるという『阿毘達磨法蘊足論』(『法蘊足論』)巻七「無量品第十二」(T26, P485b-P487c)では、四無量について、いわゆる阿毘達磨の観点からの詳細な定義がなされています。

また、尊者迦多衍尼子『阿毘達磨発智論』(『発智論』)の注釈書であり、説一切有部の教義や諸師の見解が豊富に記録されている『阿毘達磨大毘婆沙論』(『大毘婆沙論』)には、四無量についてまとめられた様々な説示が散説されています。

ここでは一応、煩を避けるために『法蘊足論』ならびに『発智論』を直接引くことはせず、『大毘婆沙論』の所説を説一切有部の主たる見解として支持し、これを通して説一切有部における四無量心の定義ならびにそれに対する見解を見ていきます。

四無量者。謂慈悲喜捨。慈謂與樂作意相應。無瞋善根為性。悲謂除苦作意相應。無瞋善根為性。有說。不害為性。喜謂慶慰作意相應喜根為性。有說。以善心所中欣為自性。捨謂平等作意相應。無貪善根為性。已說自性當說所以。問何故名無量。答由此四種緣無量有情故。生無量善法故。招無量勝果故。廣說此四亦如餘處。

四無量とは、慈・悲・喜・捨である。慈とは、(自他に対して)楽を与えようとする作意と相応する、無瞋の善根を自性とするものである。悲とは、(自他の)苦を除こうとする作意と相応する、無瞋の善根を自性とするものである。しかし一説には、(悲は)「不害」を自性とするとも言う。喜とは、(自他の幸福を)喜ぶ作意と相応する、喜根を自性とするものである。一説には、善心所の「欣」を自性とするとも言う。捨とは、平等なる作意と相応する、無貪の善根を自性とするものである。(四無量心の)自性を明かした次は、その所以を説くであろう。何故に「無量」と名づけるのであろうか。それは、この(慈・悲・喜・捨の)四種は、無量の生きとし生けるものを、その対象とするからである。無量の善法を生じるからである。無量の勝れた果報をもたらすからである。

『大毘婆沙論』巻百四十一 大種蘊第五中執受納息(T27, P726c
[現代語訳:沙門覺應]

このように、慈悲喜捨の一々について、それぞれ異なる定義がされています。また、なぜ「無量」というのかの所以も明らかにしています。

もっとも、慈と悲の異なりはあまり明瞭とされておらず、悲は「不害」であるとの一説を挙げていますが、いずれもが「無瞋(怒り・敵愾心の無いこと)」なる善心の状態とされています。

あるいはまた、他の章にては、以下のような問答をもって四無量の意義などを明らかにしています。

問何故靜慮無間說無量耶。答靜慮引起四無量故。復次靜慮無量更相引故。復次以四無量是靜慮中勝功德故。 <中略> 問何故名無量。無量是何義。答普緣有情對治無量戲論煩惱故名無量。問戲論有二種。一愛戲論。二見戲論。何無量。對治何戲論耶。答無量不能斷諸煩惱。但能制伏。或令轉遠。有時四種皆對治愛。有時四種皆對治見。

問い:何故に静慮に間をおかずして無量が説かれるのであろうか。答え:静慮が四無量を引き起こすためである。または、静慮と無量がさらに引き起こしあうためである。または、四無量は静慮における勝れた功徳であるためである。 <中略> 問い:何故に無量と言われるのであろうか。無量はどのような意味で言われるのか。答え:普く生きとし生けるものを対象とし、無量の戲論・煩悩を対治するために、無量と言われるのである。問い:戲論には二種ある。一つは愛戲論、二つには見戲論である。どの無量が、どの戲論を対治するのであろうか。答え:(四)無量は諸々の煩悩を断じることは出来ない。ただよく(煩悩を)制し抑えるだけである。あるいは(一時的に)転じて離れさせるだけである。ある時は(慈悲喜捨)四種すべてが愛を対治し、ある時は四種すべてが見を退治する。

『大毘婆沙論』巻八十一 結蘊第二中十門納息(T27, P420b-c
[現代語訳:沙門覺應]

ここでは、四無量が静慮(色界禅)と共に説かれるのかの理由、無量といわれる理由を明かしています。

そして、四無量は、いかなる煩悩も断じることは出来ず、ただこれを転じて離れさせるだけであるといい、特にここでは四無量によって、愛戲論(執着心に基づく言論)と見戲論(邪見に基づく言論)の双方が退治されることを説いています。これはそもそも、経典には四無量が「禅定(の特性)」として説かれていることに依るものでしょう。これについて、『大毘婆沙論』は他の箇所(T27, P819c)にてその理由を様々に挙げ論じています。

また、いま挙げた一説で中略した箇所には、慈悲喜捨のそれぞれによって退治(抑制)される煩悩が具体的にされています。そして、説一切有部の四大論師の一人でその見解が最も正統とされる、世友(Vasumitra[ヴァスミトラ])尊者の説も、「尊者世友作如是說。授與饒益是慈相。除去衰損是悲相。慶慰得捨是喜相。忘懷平等是捨相」と、短いながら紹介されています。

『大毘婆沙論』では、いま挙げた箇所以外に、「如契經說。修慈斷瞋。修悲斷害。修喜斷不樂。修捨斷貪瞋」という経説を挙げ、慈悲喜捨によって断じられるという煩悩がそれぞれ説かれているのに、何故これを不可とするのか、という議論が展開しています(T27, P427b)。

阿毘達磨において、四無量は多岐に渡って論じられており、今挙げたものだけでは全く不十分ですが、今はひとまずこれまでとしておきます。ここで、説一切有部における慈悲喜捨の定義の梗概を、表にまとめて以下に示します。

説一切有部(『大毘婆沙論』)における慈悲喜捨の定義
自性 相応する作意
[相:世友の説]
退治される煩悩
無瞋善根 与楽:(自他に)楽を与えようとする思い
[授與饒益]
断命瞋(殺意)
応瞋処瞋
無瞋善根
(不害)
抜苦:(自他の)苦を除こうとする思い
[除去衰損]
捶打瞋(害意)
不応瞋処瞋
喜根
(欣)
慶慰:(自他の幸福を)いたわり喜ぶ思い
[慶慰得捨]
-(不楽)
無貪善根 平等:(親疎・怨親)平等であろうとする思い
[忘懷平等]
貪(貪瞋)

ところで、一般に「慈悲とは抜苦与楽の意である」(語順としては本来「与楽抜苦」)などと言われます。それは、今見てきたような、阿毘達磨における四無量心の定義に根拠するものです。

四無量心とは何か。経説ならびに阿毘達磨の諸説にしたがい、これをまとめれば、それは慈(怒らないこと)・悲(害意のないこと)・喜(自他の幸福を喜ぶこと)・捨(親疎・怨親平等で執着心のないこと)です。

また、一口に四無量心と言っても、人のそれぞれ境地・境涯によって、浅深・広狭など段階があります。それは、修行者が努めてかくあろうとする思いによって、その実現にむけ日頃勤め励んで保つべき心的態度(忍辱・精進)であり、また瞑想によって獲得される禅定(の功徳)の一つ、そして仏道を成就した者が必然的に具えられる功徳(善なる心の性質)です。

(禅とは何かについての詳細は、禅についてを参照のこと。)

慈しみの境地と空性の境地

『大毘婆沙論』において、四無量は煩悩をただ抑制するだけで断じることは出来ない、としている点について関連する一節が、経論ではなく律蔵に見られます。それは、一般に第二結集と言われる、十事の非法を除滅を目的として七百人の阿羅漢が集合したのを伝える箇所にあるものです。

ここでは一応、説一切有部の律蔵の一つ『十誦律』の所説を示します。

上座問梨婆多。是夜心入何等三昧。答我多行慈三昧。上座言。汝長老具醯。此是小三昧行。汝夜行小三昧行。梨婆多答。此實小三昧行。我阿羅漢一切漏盡。是行長夜喜念。以是故。常行是三昧行。(中略) 問上座是夜入何等三昧。上座答。多行空三昧。梨婆多言。此是上三昧行。汝夜行上三昧行。上座答。此實上三昧行。

(薩婆伽羅)上座は梨婆多に問われた。「あなたはどのような三昧に入っていたのか」と。(梨婆多は)「私は多く慈三昧を行っています」と答えた。上座は、「年少の長老よ、それ(慈三昧)は小三昧行である。あなたは今夜、小三昧を行じたのだ」と言われた。梨婆多は、「確かに慈三昧は小三昧です。しかし、私は阿羅漢となってすべての煩悩を尽くし、これを長年修めてきました。故にこの慈三昧を常に行っています」と答えた。(中略) ( 梨婆多は)上座に、「今夜はどのような三昧に入っておられたのでしょうか」と問いかけた。(薩婆伽羅)上座は「多く空三昧を行った」と答えられたので、梨婆多は「それ(空三昧)は上三昧行です。あなたは今夜、上三昧行を行じられたのですね」と言った。上座は答える、「これ(空三昧)は確かに上三昧行である」と。

『十誦律』七百比丘集滅悪法品(T, P453a
[現代語訳:沙門覺應]

ここに登場する梨婆多[りばた]とは、「パーリ律」でいうRevata[レーヴァタ]であり、薩婆伽羅[さっばきゃら]はSabbakāmi[サッバカーミ]に該当する人(音写語ならびに他律の漢訳名とパーリ名が一致しないので、原典の名前がパーリ律と異なる可能性がある)です。薩婆伽羅は、阿難尊者の直弟子で、当時四方僧伽で最長老であったという人です。

分別説部の律蔵「パーリ律」・法蔵部の『四分律』・化地部の『五分律』の七百結集を伝える章にも、この一節と全く同様の話が見られます。漢訳では、『四分律』では「慈心三昧是小定」と、『五分律』では「我性多慈。今夜多遊此定。一切去言。此是麁定」と断じ、空三昧(空観)を、「大人之法」「大人法」と称揚しています。

「パーリ律」の該当箇所では、Mettāvihāra(慈しみの境地/慈住)は、Kullakavihāra(筏の境地?)であるとしています。この少々意味不明なKullakavihāraという言葉について、Buddhagosa[ブッダゴーサ]はその律蔵の注釈書(Aṭṭhakathā)、SamantapāsādikāにてUttānavihāra(浅い境地)のことであると註しています。また、律の復註書(Ṭīkā)であるVajirabuddhi(『金剛菩提』)では、これをKhuddakavihāra(劣った境地)であると釈しています。

なお、「パーリ律」にて空三昧に該当する言葉は、Suññatāvihāra(空性の境地/空性住)であり、これをMahāpurisavihāra(偉大なる人の境地/大人住)としています。

以上、諸律蔵では四無量(慈悲喜捨)についてではなく、慈の瞑想(境地)についてのみ語られているのですが、それが明らかに「劣ったもの」として承認されていることが知られます。この頃、すでに慈の瞑想・境地を、空の瞑想・境地に比して「一段劣ったもの」と見なしていた、(阿難尊者の直弟子たる)阿羅漢達があったというのです。また、それが論蔵(アビダルマ)ではなくて、律蔵に説かれている点は重要だと言えます。

そして、これについての議論、すなわち慈三昧と空三昧との優劣について、当時もやはり問題になっていたようで『大毘婆沙論』において取り上げられ論じられてる箇所が見られます。

もっとも、先にも触れた分別説部大寺派の教義を確立したブッダゴーサ大徳は、その主著Visuddhimagga(『清浄道論』)の中で、慈は解脱の、悲は空無辺処の、喜は識無辺処の、捨は無所有処の拠り所(Upanissaya)であると、それぞれ特定して説いています。そして、四無量は十波羅蜜すべてを満足させるものである、などと言っています。

これは余談となりますが、龍樹菩薩は「四無量心生六波羅蜜」(T25, P389a)などと、四無量心が六波羅蜜を生じるものであると説かれています。

さて、慈心をもつことは、比丘ならびに悟りを求める者のなすべきこと、ある意味義務であり、また理想的な心のありよう、修行が進むにつれ必然的に獲得されていく「怒らないこと」「怒りのないこと」という徳です。

しかし、それだけでは死後に梵天に転生するに留まるもの。決してそれが不要のものである、などということはないけれどもそれだけでは足りない、ということを、経説・律蔵の伝承ならびに阿毘達磨は示しています。

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2.大乗における四無量心

大乗が説く四無量心

では、大乗ではどのように説いているか。

無論、これだけで充分ということは全くありませんが、ここでは一応、漢語仏教圏における大乗の基本的見解を表すものとして、『大般若波羅密経』の龍樹菩薩による注釈書『大智度論』を支持。その中、四無量心を解釋する章である「釈初品中四無量義第三十三」の冒頭の一説を以下に引きます。

四無量心者。慈悲喜捨。慈名愛念眾生。常求安隱樂事以饒益之。悲名愍念眾生。受五道中種種身苦心苦。喜名欲令眾生。從樂得歡喜。捨名捨三種心。但念眾生不憎不愛。修慈心為除眾生中瞋覺故。修悲心為除眾生中惱覺故。修喜心為除不悅樂故。修捨心為除眾生中愛憎故。

四無量心とは、慈・悲・喜・捨である。慈とは、衆生(生けるもの)を愛しく念い、常にその利益を計って安穏で幸福であることを求めることである。悲とは、(地獄・餓鬼・畜生・人・天の)五つの生存において(生まれ変わり死に変わりして)様々な肉体的・精神的苦しみを受けている衆生を愍むことである。喜とは、衆生が安楽になるにしたがって歓喜させることである。捨とは、衆生を憎みもせず、愛しもせずにただ念じ、(慈・悲・喜の)三種の心を捨てることである。慈心を修めるのは衆生の中の怒りを除かんとするがためであり、悲心を修めるのは衆生の中の悩みを除かんとするがためであり、喜心を修めるのは(鬱鬱として)悦楽しない心を除かんとするがためであり、捨心を修めるのは衆生の中の愛憎を除かんとするがためである。

龍樹菩薩『大智度論』巻廿 釋初品中四無量義第三十三(T25, P208c
[現代語訳:沙門覺應]

『大智度論』の、この四無量の意義を明かした一章において龍樹菩薩が述べられていることを理解するには、「阿含経」の経説を初めとして、説一切有部を主として阿毘達磨の所説に触れておく必要があります。

このようなことは、何も龍樹菩薩の典籍に限ったことではなく、中観であれ法相(瑜伽行唯識)であれ、そして密教であれ、大乗の教えを志す者は必ず、その基礎として阿毘達磨、特に説一切有部の典籍の中でも『倶舎論』は必ず学び、通じていなければなりません。

さて、上に示した一説を載す一章では、四無量の意義やその功徳、ならびに修し方について、阿含経説に依り、そして「如是等阿毘曇分別說」などとあって、ほとんどまったく『大毘婆沙論』など説一切有部の論蔵の所説をうけて、改めて詳しく四無量を説き示しています。よって『大智度論』でも、やはり四無量心は四禅と四無色定の間に位置づけられています。

もっとも、四無量心観をして、空観などに比して劣ったものとする見解は打ち出されておらず、むしろ菩薩としては積極的にこれを修めるべきことが主張されています。いや、それはむしろ当然で、より高い勝れたものと比して「劣っている」からといって、「修さなくて良い」などということにはなりません。これも小乗における見解と同様です。

しかし、龍樹菩薩は『大智度論』のなかで、『大毘婆沙論』の編者である迦旃延尊者を名指しで批判し、その所説を否定して、大乗としての見解を打ち出していることも散見されます。

小慈と小悲

また、衆生の四無量の慈悲と、仏陀の慈悲とは異なったものであり、仏陀のそれは大、衆生のそれは小であるとしています。

あるいは声聞が行じるところの四無量心の慈悲は小、菩薩の十八不共法の慈悲ならびに仏陀のそれを大としています。これについて龍樹菩薩はこう説いています。

小慈但心念與眾生樂實無樂事。小悲名觀眾生種種身苦心苦。憐愍而已不能令脫。

小慈はただ、生ける者の安楽無事を心の中で念じるだけのことである。小悲は、生ける者の諸々の肉体的苦痛・精神的苦痛を観じ、憐憫することを名付けただけのものであって、(生ける者を)救うことなど出来はしない。

『大智度論』巻廿六 釋初品大慈大悲義第四十二(T25, P256b
[現代語訳:沙門覺應]

すでに先に示したように、四無量心とは静慮すなわち禅定と共に生じるもの、とされており、声聞も独覚も道果に至るには四禅など定を必ず得ているものとされますから、その二乗の聖者も四無量心は等しく備えているものです。

しかし、ここで指摘されているように、それはただ内に向かってただ心で思われるだけのもので、(外面的に云々ということではなく)社会的・具体的行動として現れるということはない、故に小である、というのがこの論旨です。

四無量観を修することの意義

ところで、慈悲喜捨の四無量心観を修したところで、実際にその対象が安楽になるわけではないことは、ここで龍樹菩薩に指摘されるまでもなく、すでに説一切有部においても理解されていたことです。対象が実際として安楽を得るわけでもないのに、それを「安楽であれ」などと思うことは顛倒ではないのか?という議論が、『倶舎論』においてなされています。

結論としては、その意楽[いぎょう](何事かを為さんとする意思)は善であるために、顛倒ではない、とされています。また仮にたとえ顛倒であったとしても、これをすることについて何も過失など無いために問題ない、とも言われています。

しかし、いずれにせよ、心で思い願うだけでは自分の役には多少なっても(先に述べたように四無量は煩悩を対治することは出来ても断ずることは出来ない)、他人の役には立たない、という事自体は動きません。

さて、また同じく『大智度論』に曰く。

大悲是菩薩根本

大悲は是れ菩薩の根本なり。

『大智度論』(T25, P389a

大悲をもって菩薩の根本、菩薩の菩薩たる所以とする点が、声聞と菩薩と異なりです。といっても、菩薩の大悲も口で言うだけ心で念ずるだけでは、言うところの小悲と何らかわりありません。大悲を動機として方便つまり具体的な行動を最重要視します。

しかしながら、菩薩乗の行者も声聞の行者も、最初は等しく森林山間にあって孤独に瞑想を修めることが勧められます。

ここでやや飛躍しますが、『大日経』より毘盧舎那如来の所説を引きます。

佛言菩提心為因。悲為根本。方便為究竟

仏言く、菩提心を因とし、悲を根本とし、方便を究竟とす。

『大毘盧遮那成仏神変加持経』巻一 入真言住心品第一(T18, P1c

いずれにせよ『大智度論』の所説は、四無量心がいかなるものであるかについて、特に大乗であるから云々ということはなく、阿含以来の所説に従ったものです。

ただし、四無量を修める動機が、自身が度脱するためではなく、他者を度脱せんとするためであるとしているところ、そしてその心をもって具体的に行動(方便)することを強調しているところが、小乗の所説には見られない、大乗の立場からのものです。

(四無量心観をいかに修すべきかについて、関連するものに分別説部における“Metta Bhāvanā(慈観)”ならびに“Metta Sutta(慈経)”)

貧道覺應(慧照) 敬識
(By Araññaka bhikkhu Ñāṇajoti)

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