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1.安般念(アーナーパーナ・サティ)とは

Ānāpāna smṛti

Yo have daharo bhikkhu, yuñjati buddhasāsane;
Somaṃ lokaṃ pabhāseti, abbhā muttova candimā.

実に、年若き比丘であれ、目覚めた者(仏陀)の教えに打ち込むならば、彼はこの世を照らす。――雲に陰らぬ月のように。

KN, Dhammapada, Bhikkhuvagga 382
[日本語訳:沙門覺應]

Ānāpānasatī yassa, paripuṇṇā subhāvitā;
Anupubbaṃ paricitā, yathā buddhena desitā;
Somaṃ lokaṃ pabhāseti, abbhā muttova candimā.

仏陀が示されたその如くに、安般念(アーナーパーナサティ)をよく修習して完成し、次第して積み重ねてきた者はこの世を照らす。――雲に陰らぬ月のように。

KN, Theragāthā 548 (Mahākappinattheragāthā)
[日本語訳:沙門覺應]

善修息念滿 漸習隨佛教 彼能明照世 如日出重雲

(持)息念を善く修して満たし、佛の教へに随て漸く習せば、彼能く明るく世を照らす。重き雲を出でた日の如し。

『阿毘達磨大毘婆沙論』巻廿六 (T27, P135b)

画像:あの空の月のように

安般念[あんぱんねん](安那般那念)とは、呼吸を軸としてこれを念じつつ、身心そして法を観察して悟りにいたらんとする、仏教の瞑想法の一つです。曇りなき満月に喩えられる円満なる悟りへと導く止観双運の翼、それが安般念です。

安般(安那般那)とは、āna[アーナ]とapāna[アパーナ]の複合語である、サンスクリットならびにパーリ語のānāpāna[アーナーパーナ]の音写語です。念は、サンスクリットsmṛti[スムルティ]あるいはパーリ語のsati[サティ]の漢訳語です。

あるいはこれは、数息観との名で呼ばれることが多いものであるかも知れません。

しかし、後述しますが、それはやや不適切な訳語であるために、やはり安般念や安那般那念、もしくは原語のままにアーナーパーナ・スムルティ(アーナーパーナ・サティ)、あるいはこの訳語である持息念、安般守意という呼称が用いられたほうが適切なものです。

(念については、別項“念とは何か”を参照のこと。)

安般念を抜きにして仏教の瞑想を語ることなど出来ない、などと言うと語弊があるかも知れませんが、しかし、それが仏教の瞑想の要石であることに違いない、大変重要なものです。

実際、安般念は、その他の宗教・教えに見られない「仏教に特有の瞑想」です。

仏教の瞑想を修習するにあたっての基礎、初学の者の初門として、そしてまた解脱を求め森林・山野にて一人瞑想に打ち込む人の優れた法として、安般念は決して欠くことの出来ないものです。

多くの仏典が説いているように、安般念を行う者は、サンスクリットでaraṇya[アランヤ]、漢語経典では阿蘭若[あらんにゃ]と音写され空閑処[くうげんしょ]などと漢訳される、人里・人間から一定の距離をおいた森林・山野などの閑静な土地に身を置き、食を節し睡眠を貪らず、じっくりとこれを修める時間を取ることが必要です。

過去の日本の大徳たちの多くも、これを実修していたことが知られます。

例えば空海などは、高雄にて空観や数息観に没頭中であることを理由に、平城天皇からの「屏風四帖に支那のすぐれた古詩を書いて欲しい」との依頼を本心では断りたくも、結局は嫌々ながら書くことにしている手紙が残っています。

沙門空海言。去六月廿七日。主殿助布勢海。将五彩呉綾錦縁五尺屏風四帖到山房来。奉宣聖旨令空海書兩巻古今詩人秀句者。忽奉天命驚悚難喩。空海聞。物類殊形事群分體。舟車別用文武異才。若當其能事則通快。用失其宜雖勞無益。空海元耽觀牛之念。久絶返鵲之書。達夜數息誰勞穿被。終日修心。何能墨池。人曹喜謬對漢主之邸。欲辞不能強揮龍管。

 沙門空海申し上げます。去る六月二十七日、主殿助布施海[とのもんのすけ ふせのあま]が、五彩の呉綾に錦の縁をあしらった五尺の屏風[びょうぶ]を四帖持って、(高雄山神護寺の)住房にやって来ました。そして(天皇の)聖旨を奉宣いたしました。「空海に両巻の古今の詩人の優れた句を書かせよ」と。(私空海は)突然、天子の命を賜り、驚き恐れることは例えようも無いほどでした。
  空海が伝え聞くところによると、物はそれぞれ形を異にし、その様々な働きも本質を分かっています。舟と車とでは働きが別であって、文筆と武術とでは(必要な)才能が異なっています。もし(何事かを成すについて)その才能が妥当であれば、結果が満足なものとなることは快いものです。その働きが順当で無くなってしまえば、いくら努力したとしても結果は得られません。
 空海は、芯から(四大皆空と観る)「観牛の念」にふけり、ひさしく返鵲の書〈書の技巧的あれこれ〉を絶っております。終夜に数息観を行じながら、誰が書に没頭することがあるでしょうか。終日に修心に努めていながら、どうして書に務めることなど出来るでしょうか。人〈空海〉は、(東漢の能筆家であった)曹喜ではなく、何かのお間違いで漢主の邸(に比せられる皇宮)からのお召に預かったに過ぎません。これを辞退させて頂きたいと思いますが、しかし(恐れ多いことで)出来ません。そこで強いて龍管〈筆〉を揮います。

『遍照発揮性霊集』巻三 「勅賜屏風書了即獻表幷詩」(Vol.8, P40)

これは、天皇に対する手紙の中で認められている、ある意味文学表現上で「数息」という言葉が用いられているに過ぎないかもしれません。

が、むしろそのように手紙の中で用いられている点で、日常的にそれが行われ、また重要なものとして理解されていた一つの証左となるともいうことが出来るでしょう。

安般念を説く仏典

安般念、すなわちĀnāpānasmṛtiあるいはĀnāpānasatiがいかなる修習であるかは、その術を具体的に説く漢訳仏典がいくつか伝わっています。

まず読むべき経典は、漢訳仏典の中からは、求那跋陀羅訳『雑阿含経』巻廿九に修められる第801経から815経までの一連の経、伽提婆訳『増一阿含経』巻二「広演品第三」(第八経)ならびに巻七の「安般品第十七」(第一経)でこれらは特に重要です。

(『雑阿含経』については“『雑阿含経』(安般念の修習)”の項にて、一連の小経を註付きで現代語訳しているため、詳細を知りたい者は参照のこと。)

ならびに、これは漢訳経典としては最初期の古訳と今言われるものであって読解に難があり、さらに経文と註釈との別が、明瞭に判別しがたい状態で伝わっているものですが、安世高訳『仏説大安般守意経』二巻(以下『安般守意経』)も、一応読むことが勧められる経の一つです。

次に、説一切有部の教義の批判的綱要書として知られる『阿毘達磨倶舎論』三十巻や『成実論』十六巻、そして竺法護訳『修行道地経』七巻、佛陀跋陀羅訳『達磨多羅禅経』二巻、鳩摩羅什訳『坐禅三昧経』二巻の五つの仏典を挙げることが出来ます。

先の二書は、小乗の書ではあっても大乗の修学に必須とされてきたものです。瞑想について特化して著されたものではありませんが、瞑想についての説示も中に含まれており、それらもまた重要視されてきたものです。

残りの三書は、古来支那にて瞑想を如何に修めるべきかをよくまとめて説いた仏典(禅経)として重用されたもので、実際瞑想修行者に有用にして有益な教えに満ちています。

これは私見ですが、中でも『修行道地経』は重要であると考えます。

もっとも、『修行道地経』は、巻名に「経」との文字が付されていますが、いわゆる経典ではありません。その序に、「偷迦遮復彌経晋名修行道地。・・・造立修行道地経者。天竺沙門。厥名衆護」とあるように、修行道地とは偷迦遮復彌(Yogācārabhūmi[もしくはYogācāryabhūmi)の訳語であり、またその著者はインド僧衆護(Saṃgharakṣa?)であると記されています。この書は、原題を日本語に訳すれば「ヨーガ行の階梯」となる、瞑想修行の指南書のようなものです。

漢訳仏典には、経と論とに区別をつけずに「経」と題に付せられたものが、特に漢訳が始まってまもない初期(古訳・旧訳)のものに多く見られます。

『達磨多羅禅経』ならびに『坐禅三昧経』も同様に、経典ではありません。

『達磨多羅禅経』は、その巻名にあるように、達磨多羅(Dharmatāla)という説一切有部のインド僧によって修禅についてまとめられた論書です。『坐禅三昧経』にはその著者が記されてはいません。あるいは、その訳者である鳩摩羅什(Kumārajīva)自身が、幾多の梵本のうちから修禅に関するものを編集して著したものかもしれません。が、確かなことは不明です。

『成実論』は、訶梨跋摩(Harivarman)によって著され、鳩摩羅什によって訳された論書で、四聖諦を軸に修道法などを様々に論じているものであり、おそらく経量部に属するものと思われています。

また、スリランカの分別説部が伝えたパーリ語仏典では、上に挙げた『雑阿含経』に対応するパーリ経典、すなわちSaṃyutta Nikāya, Mahāvagga, Ānāpānasaṃyutta(相応部大品安般相応)にある、Ekadhammasutta(「一法経」)に始まる一連の二十経。『中阿含経』に対応するMajjhima Nikāya, Uparipaṇṇāsa(中部後分五十)に所収のĀnāpānassatisutta(『安般念経』)があります。

また、「パーリ律」のPārājikaにては、安般念について相応部にある一経とほぼ全く同様の一節が説かれています。さらにKhuddaka Nikāya(小部)のPaṭisambhidāmagga(『無礙解道』)にもまた、安般念について詳細にする一章が設けられています。

また、Dīgha Nikāya(長部)所収のMahāsatipaṭṭhānasutta(『大念処経』)には、簡潔ながらその要が説かれています。

(パーリ語経典の相応部大品安般相応については、“Saṃyutta Nikāya, Ānāpānasaṃyutta[相応部「安般相応」]”の項にて一連の20経、中部『安般念経』については“Majjhima Nikāya, Ānāpānasatisutta[中部『安般念経』]”の項にて、そのパーリ原文と日本語訳を併記しているため、詳細を知りたい者は参照のこと。)

これらの漢語仏典もしくはパーリ語仏典は、安般念を修する者は誰でも、すべからく読むべき根本的経典といえるものです。

そして、分別説部大寺派の修道法を完全に規定し、絶対的権威ある書として今に至っている、五世紀頃に著されたBuddhaghosa[ブッダゴーサ]のVisuddhimagga(『清浄道論』)には、特に相応部にある経典への詳細な注釈を付けることによって、詳しく安般念の次第を明かしています。

さらに言うならば、『清浄道論』に先行して著されその種本となった、優波底沙(Upatissa)が著し、現カンボジア出身と思われる僧伽婆羅による漢訳のみが現存する『解脱道論』にも、安般念について非常に詳しく述べる一章が見られます。

この書は、原典がサンスクリットであったかパーリ語であったかも判然としていませんが、三つに分かれていた分別説部のうち、今は滅びて存在していない無畏山寺派(法喜部)の見解を伺い知り得る貴重な書です。

その中には、むしろ今の分別説部大寺派(上座部)の正統説とされる見解よりもより古いと思われるものを伝えており、ブッダゴーサの見解を知る上でも重要な書となっています。

安般念とは

ānāpāna smṛtiという言葉について、以上に挙げた仏典のうち、『仏説大安般守意経』ならびに『修行道地経』、『解脱道論』ならびに『清浄道論』がその語義について触れており、以下のように説示しています。

まず、『安般守意経』の一節から。しかし、その前にこの経について知っておかなければならないことがあります。

『安般守意経』は、前述したように、経文とそれに対する注釈とがまぜこぜになって判別しがたい状態で伝わっているものです。故に今、この経全体の文言をそのまま「経説」として受け入れることは出来ないもので、いわば『大安般守意経(附註)』として読まなければなりません。

何者によってそのような註が付されたのか。康僧会[こうそうえ]によるこの経の序には、陳慧[ぢんね]によって註が付されたものをさらに康僧会自身が斟酌、すなわち編集したものであると記されています。

仏典が漢訳されて間もない頃のものであり、それらが明瞭に区別されずになされてしまったことは、致し方ないことなのかもしれません。また、注釈文であろう箇所では、あれこれ様々に注釈はされているもののサンスクリットなどインド語からするとありえない支那的解釈がなされている場合もあり、頼りにしがたいような点もみられます。

さて、『大安般守意経』では、以下のように説かれています。

聽說安般守意。何等為安。何等為般。安名為入息。般名為出息。念息不離是名為安般。守意者欲得止意。在行者新學者。有四種安般守意行。除兩惡十六勝。即時自知乃安般守意行令得止意。何等為四種。一為數。二為相隨。三為止。四為觀。

安般守意を説くのを聴け。何が安であり、何が般であるか。安を入息と名づけ、般を出息と名づける。息を念じて(他に意識が)離れないことを、名づけて安般という。守意とは、意を止めんとすることである。行者で新学の者には、四種の安般守意の行がある。これらは二つの過失を除き、十六勝あって、時に即して自ずから知る。安般守意の行は心を寂滅させるであろう。なにが四種であろうか。一に数、二に相随、三に止、四に観である。

『仏説大安般守意経』巻上 (T15, P165a)
[現代語訳:沙門覺應]

しかしまた、『修行道地経』では以下のように言っています。

今當解說數息之法何謂數息。何謂為安。何謂為般。出息為安入息為般。隨息出入而無他念。是謂數息出入。何謂修行數息守意能致寂然。數息守意有四事行無二瑕穢十六特勝。(中略) 何謂四事。一謂數息。二謂相隨。三謂止觀。四謂還淨。

今から数息の法の、何が数息であり、何が安であり、何が般であるかを解き示そう。出息を安といい、入息を般という。息の出入に随い他に妄念の無いことを、数息出入という。何が数息守意の修行であって、(心を)寂然に至らすのであろうか。数息守意には四事あって、二つの過失が無く、十六特勝がある。 (中略) 何が四事であろうか。一に数息、二に相随、三に止観、四に還淨である。

衆護『修行道地経』巻五 数息品 (T15, P215c - P216a)
[現代語訳:沙門覺應]

これら二つの禅経は、ānāpāna smṛtiの語義をまず定義し、次にその二つの効能、そしてその方法に四種あることを示しています。

かなり似通った一節ですが、若干ながら双方の内容には相違が見られます。

では次に、『解脱道論』ではどうか。

問曰。云何念安般。何修何相何味何處何功德。云何修行。答曰。安者入。般者出。於出入相。彼念隨念正念。此謂念安般。心住不亂此謂修。令起安般想為相。觸思惟為味。斷覺為處。何功德者。若人修行念安般。成寂寂成勝妙成莊嚴。可愛自娛樂。若數數起惡不善法令除滅。身成不懈怠。眼亦不懈怠。身成不動不搖。心成不動不搖。令滿四念處。令滿七覺意。令滿解脫。世尊所嘆。聖所住止。梵所住止。如來所住止。云何修者。 (中略) 復次先師說四種修念安般。所謂算隨逐安置隨觀。

問うて曰く。何が念安般であろう。どのような修、どのような相、どのような味、どのような処、どのような功徳があろうか。どのように修行するのであろうか。答えて曰く。安とは入であり、般とは出である。(呼吸の)出入の相における彼念・随念・正念、これを念安般と言う。心を安定させて乱すことのないことを、修という。安般想を起こさせることが、相である。触の思惟が、味である。覚を断じることが、処である。どのような功徳があるかと言えば、もし人が念安般を修行したならば、寂寂を成じ、勝妙を成じ、荘厳可愛を成じ、自ら(その境地を)楽しむであろう。もし様々に悪・不善の法が(心に)起こったとしてもこれを除滅し、身体に懈怠を起こさず、眼もまた懈怠することがない。身は不動にして揺るがず、心も不動にして揺るがず、四念処を満足させ、七覚意を満足させ、解脱を成就させる。これは世尊が賞賛する法であり、聖者の境地、婆羅門の境地、如来の境地である。修とは如何なるものかと言えば、(以下、十六処いわゆる十六特勝が説かれるが長くなるため中略。詳細は次項“十六特勝”を参照のこと)。 また次に、先師は念安般を修行するのに四種あることを説かれている。いわゆる算・随逐・安置・随観である。

優波底沙『解脱道論』巻七 行門品 (T32, P429c - P430b)
[現代語訳:沙門覺應]

入息出息?出息入息?

『大安般守意経』など以上に挙げた仏典では、安那般那(ānāpāna)を、安(āna)と般(apāna)とに分割して理解することが行われています。

これは修道上さして重要なことではありませんが、先に挙げた仏典は、安(āna)と般(apāna)との語義について、まるで逆のことを説いています。これは、数息観を修めるに際し、初めに息を吸うべきか吐くべきか、という問題にも関するものです。

先に挙げた他の経典を見てみると、『雑阿含経』では、安般を説く段にて「念於内息。繫念善学。念於外息。繫念善学」と初めており、まず入息から安般を始めるべきと説いています。対して『増一阿含経』では「出息長知息長。入息長亦知息長」とあって、その逆を説いています。

そしてまた、『達磨多羅禅経』は「入息與出息繫心隨憶念」といい、同じく『坐禅三昧経』も「念入息出息生滅無常」などと『雑阿含経』と同様に説いていると言えます。

では、小乗諸派はどう説いているか。

説一切有部は、例えば『大毘婆沙論』に「答先數入息。後數出息。以生時息入死時息出故云々」(T27, P135a)と、赤子が生まれて初めてするのは入息であり、死にゆく者が最後にするのは出息であるからとの理由を第一に挙げて、入息から始めるべきことを主張しています。この主張は有部のその他論書、例えば世親『阿毘達磨倶舎論』(T29, P118b)にも引き継がれていることが見られます。

なお、ānāpānaの語義に関しても、『倶舎論』に「論曰。言息念者。即契經中所説阿那阿波那念。言阿那者。謂持息入。是引外風令入身義。阿波那者。謂持息出。是引内風令出身義」(T29, P118a)とあるように、安那(āna)を入息、阿波那(apāna)を出息としている点、『安般守意経』と『解脱道論』と同様の見解を取っていることが知られます。

しかし、分別説部大寺派のブッダゴーサ(『清浄道論』)は、説一切有部の挙げる理由とは正反対のことを言って、息を吐き出すことから始めるべきであると主張しています。

また同様に、経量部に属したと臆される訶梨跋摩は、『成実論』にて「問曰。息起時先出耶先入耶。答曰。生時先出死時後入。出入第四禪亦如是」(T32, P356b)と述べていることから、おそらく経量部(?)は後者の見解を取っていたのであろうと思われます。

私見ながら、小乗諸派の中でもこのブッダゴーサならびに訶梨跋摩の挙げる出息からすべきとする理由は承服しがたいものです。しかし、ともかくも彼らは、このように有部とは反対のことを主張しています。

次に大乗、支那においてはどの見解が取られているか。例えば智者大師智顗は、その著『釈禅波羅蜜次第法門』の中で、「阿那波那者。此是外國語。秦言阿那為入息。波那為出息。安般守意三昧經言。安之言生。般之言滅」(T46, P508c)と言っており、『安般守意経』と同様の見解を採っています。

しかし、ここで引かれている『安般守意三昧経』とは何か不明で、あるいは『安般守意経』と『坐禅三昧経』のことでしょうか。

次に、『六妙門』(T46, P549c)における所説に依って、智者大師は、安般念は有部と同じく、息を吸うことから始めるべきとの見解をとっていることが知られます。

現在の真言宗では、有部や天台と同様の見解を採っていてしかるべきだと思われますが、数息観は最初に息を吐き出すことから始めるべきと、現在一般に言われています。

もっとも、現在の真言宗において斯く言う人々の論拠は不明で、おそらく仏典の所説ではなく、気功が云々、prāṇa[プラーナ]あるいはśakti[シャクティ]が何々と言う人々に引きづられてのことだと思われます。

なお、現在巷間に流布しているパーリ語の辞書、例えば少々古いものであるものの現在も最も用いられているPTS(Pāli Text Society)の巴英辞書では、ānaは入息、apānaは出息であるとの説明が付されています。

安般念(数息観)は呼吸法や気功法などではない

画像:安般念を呼吸法とする誤解に基づいて著された『釈尊の呼吸法』

このように、今の我々には全く相対する二つの説が残されています。

言葉の解釈からしても、現在に到るまでどちらが「正しい」かなどわかっていません。そして、経験上、これは安般念ということに関して言えば、息の出入いずれかを先とするかの順序の正否など、修道に差し障るものでは全くありません。よって今は一応、自身が依る経論の説に従って行えばよいでしょう。

もっとも、安般念を、気功などと関連付けて「呼吸法である」などと捉えて考える人々は、息を吐き出すことから始めるべきであって、すこぶる重要な事項であると主張しており、これが禅宗など一部に常識として捉えられているように思われます。あるいは『天台小止観』の所説の影響もあるのでしょう。

しかし、そもそも安般念が呼吸法であるとするのは大なる誤解であると、経説ならびに論書によっても断じことが出来ます。

故に息を吐き出すことを重要だと考え、これに拘泥することは、そもそも安般念の意図から大きく外れたものです。

気が云々、プラーナが何何という思想を否定するものではありません。が、日本では、まず禅宗の方法論(誤解)を継承したうえで、あるいは門外の翁が完全に安般念を誤解して著した『釈尊の呼吸法』などといった通俗本によってもまた、安般念について誤解に誤解を重ねているようです。

安般念を呼吸法であると見ている人々、「気が云々」といった理由で出息を先とする、という人々は、世間での通説などに対する態度を改め、禅宗のみで用いられる典籍や私的見解に満ちた通俗的瞑想概論書の類などではなく、直に経典・論書をこそ読み直す必要があるでしょう。

安般念とは、呼吸法・気功法などではないのです。

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2.安般念の内容

安般念の四種・六種の内容

『安般守意経』ならびに『修行道地経』では、安般念とは、時に即して自ずから知ることで二種の過失が無く、十六(特)勝あって、これに四種の方法があることを説いています。もっとも、『安般守意経』の安般念には四種の方法があるという一節は、おそらく経文ではなく註釈です。

『解脱道論』は、彼念・随念・正念(呼吸に意を留めること)を安般念であるとし、心を安定させて乱さないことの修行として、十六処という、これは十六特勝と同様のものですが、十六の安般念の対象があると説きます。そして、「先師說四種修念安般」とやはり四種の方法が伝承されていることを記しています。その四種とは算・隨逐・安置・隨観であるといいます。

これは内容的にも『安般守意経』の説く数・相随・止・観と全く一致するものです。

(十六特勝についての詳細は、次項の”十六特勝”を参照のこと。)

また『安般守意経』は、ここで「在行者新學者。有四種安般守意行」と、“新学の者”には安般念に四種があると説いていますが、他の箇所にてはこの四種を含めた、「六事」ということを説いています。

これは、『安般守意経』と『解脱道論』が同じく説く四種の安般念に還と浄とを付したもの、『修行道地経』のいう四事、数息・相随・止観・還浄の止観を止と観に、還浄を還と浄に開いたものと言え、内容的にはやはり同じものです。

『解脱道論』には、還と浄とは、まったく同じ言葉としては見られませんが、内容として同様のことを説いている箇所が認められます。

ちなみに、これらの仏典に見られる六事と同様のことを、説一切有部は六因と言い、『大毘婆沙論』にて「持息念由六因故應知其相。一數二隨三止四觀五轉六淨」(T27, P134c)、ならびに『阿毘達磨倶舎論』にて「六因。一數二隨三止四觀五轉六淨」(T29, P118a)とその内容を明かしています。

なお、六因のサンスクリット原語は、Ṣaṭ-kārana(「六つの原因・理由」の意)であることが『倶舎論』の梵本から知られます。

『成実論』では「有論師言。以六因緣故名具足。所謂數隨止觀轉緣清淨」(T32, P356b)と、有部と全く同様の説を示しています。この「論師」とは、毘婆沙師すなわち有部の論師を示唆したものでしょう。

以下、まず『安般守意経』に説かれる六事と、それに対する経文に見られる意義を二通り、括弧内に示しました。

また、参考までに、『大毘婆沙論』ならびに『倶舎論』が云う六因を併記し、さらに続けて括弧内にそのサンスクリット原語ならびにその意味を示します。サンスクリット原語は、『倶舎論』の梵本の該当箇所からから抜き出したものです。

Ānāpāna smṛtiの六事 ・六因
- 『安般守意経』
六事(意義)
『大毘婆沙論』・『倶舎論』・(『成実論』)
六因(サンスクリット原語/日本語訳)
安般念
ānāpāna-
smṛti
数 (遮意・単) 数 (gaṇanā / 数えること)
相随 (斂意・複) 隨 (anugama / 従うこと)
止 (定意・一意) 止 (sthāna / 止めること)
観 (離意・知意) 観 (upalakṣaṇā / 近づいて観ること・審察)
還 (一意・道行) 転 (vivartanā / 転じること・変化・変質)
淨 (守意・道入) 浄 (pariśuddhi / 完全なる清浄)

これら六事・六因のうち、数・相随・止・観の四種は、その安般念の修行内容・規定であり、還・浄は、その修行の結果を言ったものです。最後の二つは内容的に修道した結果に直結するものですから、まず修道上注意をはらうべきは初めの4つです。

これらは上から次第して行じられるべきものです。

要約すれば、安般念の六事・六因とは、呼吸を数えて他に意識を散らさないこと、呼吸の状態に念を従わせること、呼吸を念じて心を定めること、呼吸にともなう身心の状態を観察することであり、これによって(四向四果の)道に入り、そして果を得るものです。

ただし、これは一応注意しておくべきことなのですが、第三の止・安置について、これを『安般守意経』や『解脱道論』、『清浄道論』などでは禅定を意味するものとしているのに対し、『倶舎論』では「止謂繫念唯在鼻端。或在眉間乃至足指。隨所樂處安止其心。觀息住身如珠中縷。為冷為煖為損為益」、そして『成実論』では「止名令心住出入息」として、禅を必ずしも意図していないなど、若干ながら相違しています。

言葉としては同じ安般念であっても、部派によってその内容・方法が異なっているのです。

(よくよく見ていくと、どうやら安般念の修道には、少なくとも現在知られる範囲においては、異なる二つの系統があったようです。たとえば、分別説部と説一切有部とでは、安般念の位置づけや具体的修道内容が、時としてまるで異なった正反対のことを言っています。これについては、いずれ改めて紹介します。)

なお、『清浄道論』でブッダゴーサは、これに六種ではなく八種あるとして以下のように説いています。

tatrāyaṃ manasikāravidhi. gaṇanā anubandhanā, phusanā ṭhapanā sallakkhaṇā; vivaṭṭanā pārisuddhi, tesañca paṭipassanāti. tattha gaṇanāti gaṇanāyeva. anubandhanāti anuvahanā. phusanāti phuṭṭhaṭṭhānaṃ. Ṭhapanāti appanā. sallakkhaṇāti vipassanā. vivaṭṭanāti maggo. pārisuddhīti phalaṃ. tesañca paṭipassanāti paccavekkhaṇā.

これが、(安般念に)意を用いることの術である。
数(gaṇanā)・随逐(anubandhanā)・触(phusanā)・安置(ṭhapanā)・等観(sallakkhaṇā)・還(vivaṭṭanā)・浄(pārisuddhi)、そしてそれら(還と浄と)を観ること(tesañca paṭipassanā)である。
そこで、「数」とは、(出息と入息を)数えること(gaṇanā)である。「随逐」とは、(出息と入息に)従うこと(anuvahanā)である。「触」とは、(出息と入息とが)触れる場(phuṭṭhaṭṭhānaṃ)である。「安置」とは、(対象に念を)留めることである(appanā)[禅(安止定)]。「等観」とは、毘鉢舎那(vipassanā)である。「還」とは、(聖者の)道(magga)である。「浄」とは、(聖者の)果(phala)である。「そしてそれらを観ること」とは、(道と果との)注視(paccavekkhaṇā)である。

Buddhaghosa, Visuddhimagga
[日本語訳:沙門覺應]

これは、先に見た『解脱道論』などの所説を受け、六種をさらに詳説し、八種とまとめて挙げたものでしょう。これは彼自身の見解に依るものと思われますが、触(phusanā)を挿入してより具体的にしたことでしょう。その他は別段、ただ数を増やしているだけで、他説と比してみるべきものはないようです。

『清浄道論』の中でブッダゴーサは、『無礙解道』の所説を頻繁に引用しつつ、またこれに従う『解脱道論』の所説を時には反対し否定し、時には完全に取り込んでさらに(自身の)見解を付け加えて敷衍するなどしています。要するに大掛かりな編集と改変を行っています。

余談ながら、『清浄道論』は、分別説部大寺派の(伝説ではスリランカにのみ伝わっていた三蔵への正統なる伝承を取りまとめたものとされるも、実際は無畏山寺派の『解脱道論』をタネ本としてこれを批判的に再構成した、むしろブッダゴーサの個人的な?)見解にもとづく修道法を体系立てて説く優れた書で、ありとあらゆる点を実に細かく規定しています。

現在、上座部を名乗って南方に伝わっている分別説部では、この書を絶対の権威あるもの、「純粋なる上座部の教えを実践する、最も正統な修道書」として位置づけ、修道は経説よりももっぱらこの書が説くところに依って行われます。

といっても、現在のタイやビルマにおける分別説部の瞑想指導者には、この書からごく部分的な瞑想についての術を抜き出し、さらに個人的にアレンジしたものを、「これが最高にして唯一の方法」などと弟子たちに行わせている者が多くあります。

ところで、冒頭述べたように、一般に数息観とは、ānāpānasmṛtiあるいはānāpānasati(安般念)の同義語、あるいは全く同様のものだと認識されている場合があります。

けれども、上に挙げた経文からすると、それは一面的な理解に基づく誤解を引き起こす可能性の大なる言葉となったといえるかもしれません。

数息観という言葉は、諸々の漢訳経典に見られる言葉で、ānāpānasmṛtiの漢訳語として当てられたものです。それは、既に示したように、六種の内容からなる安般念の最初、「数」だけを抽出し、もって安般念を示したものとしたのでしょう。

しかし、厳密にこれを言い表す場合、数息観とは、安般念の触りだけを言ったものである、とは言えるでしょうが、数息観を安般念と全く同様の言葉とするのは、不正確となります。正確な訳語としては「出入息念(あるいは入出息念)」であり、また玄奘三蔵の訳語「持息念」はその要を得た妥当なものと言えるでしょう。

そもそも経説には、「息を数える」という方法など説かれておらず、この点からすると「安般念=数息観」などと決して出来るものではありません。

いずれにせよ、数息観という言葉は、安般念の一側面・一方法をあらわしているに過ぎないものです。

息を数える ―両悪・二瑕穢を離れる

安般念において数息、「息を数える」という方法が説かれるのは、ほとんど論書に見られることであって、管見によれば、経典としては『安般守意経』以外に見ることが出来ません。

そして、その「息を数える」ということが説かれている一節は、前述したように、おそらく註釈であって経説ではありません。

『解脱道論』に「先師説」とあるように、この方法は仏陀によって開示された法ではなく、仏滅後の弟子、瑜伽行者たる比丘らによって編み出された方法のようです。実際、諸経論に説かれる十六特勝と言われる安般念の内容を見たとき、そこに「息を数える」などという方法は一切みることが出来ません。

呼吸を数える仕方は、仏典によって入息からか出息からかの違いがありますが、入息あるいは出息を一つと数え、十まで数えたら十一と数えずに、また一から数えることがほとんどの仏典に共通する方法です。

『安般守意経』ならびに『修行道地経』では、数息は一から十へと数えて一からまた数えることのみを説いています。なお『安般守意経』には、十という数が福であるため、などという解釈が加えられています。

『大毘婆沙論』では、息の数え方に五種あることを述べており、一から十まで数えて一からまた数える方法が支持されてはいますが、人によって異なる種種の方法が取られていたことが知られます。しかし、『倶舎論』では一から十まで数えてまた一から数えることのみを説いています。

これらを受けてのことでしょう、数息は十まで、というのは支那以来、日本の真言宗や天台宗、禅宗でも常識的なこととして言われています。

分別説部ではどうか?

無畏山寺派の『解脱道論』では、五まで数えてまた一から数えるか、十まで数えてまた一から数えるかの二つの方法を提示しています。

また大寺派の『清浄道論』では、五以上十以下の範囲で数息すべきことをいい、その理由として、数が少なすぎるのはあたかも狭い牛小屋に多くの牛が押し込められたように心が窮屈を感じる過失があり、その数える数が多すぎると数に心がとらわれて散乱してしまう過失があるためだと説いています。

大寺派の流れにある現在のビルマでは、「八正道を尊ぶがゆえに八を超えない」ということを言う一派、瑜伽者らがあり、これを実践しています。

では呼吸を数えるにあたり、その呼吸は口でするべきか、鼻でするべきか?

これは理由のあることなのですが、口は閉じ、呼吸はすべて鼻を通して行います。

しかし、近年ヨーガの影響を受けた人々などは、おそらくヨーガのprāṇāyāma[プラーナーヤーマ]と安般念を混同し、「入息は鼻にて、出息は口にて」などと自明のことのように言います。けれども、実はそのように言う経論などなく、彼らの言に根拠などありません。

また、息を数えるのにあたって注意すべき点の要を言えば、これは当たり前のことと言うべきでしょうが、まず数を間違えないこと、数を混乱させないことです。

そして、いまだ“我が身が”息を吐ききっていないのに、あるいは息を吸いきっていないのに、次の数を早くも数え出すこと。またはその逆で、息が吐ききられ、“我が身が”息を吸い始めているのに、あるいは息が吸いきられ、“我が身が”息を吐き始めているのに、次の数を数えないことです。

さて、これら二つの呼吸の数え方は、『安般守意経』にて「両悪」、『修行道地経』では「二瑕穢」との訳語で言われているもので、つまりはいい加減に呼吸を数えることです。

いまここで“我が身が”などと、何度も少々くどい言い回しで強調しましたが、それは数えられる対象である呼吸は、常日頃から無意識に行われているところの呼吸であって、意識してなされる呼吸ではないためです。

「意識して呼吸し、その呼吸の回数を数える」のではなく、「呼吸のみに意識を向けて、数える」のが、安般念の数息です。

ここは非常に重要な点であるにも関わらず、多くの人が逆さまに受け取っていることのようです。

これについて、『倶舎論』ではこのように説かれます。

數謂繫心緣入出息不作加行。放捨身心唯念憶持入出息數。從一至十不減不增。恐心於現。極聚散故。然於此中容有三失。一數減失。於二謂一。二數增失。於一謂二。三雜亂失。於入謂出於出謂入。若離如是三種過失名為正數。若十中間心散亂者。復應從一次第數之。終而復始乃至得定。

数(gaṇanā)とは、入出の息を対象として心に繋げるのに際し、加行[意識的な呼吸]をしないことである。身と心とについて力を抜き、ただ入出の息を念じて憶持し、これを数えて一から十までとして、それから増やすことも減らしていくこともしない。心がその様子[=数?]について、極度に集散することを恐れるためである。そうする中には三つの過失がある。一つは数減の失。二を一ということである。二には数増の失。一を二と言うことである。三には雑乱の失。入息を出息と言い、出息を入息ということである。もしこれら三種の過失が無ければ、これを正数という。もし十まで数える間に心が散乱したならば、また一より数え直す。(十まで)数え終わったならばまた(一から)数え始め、そのように(繰り返)して定を得るにいたらなければならない。

世親菩薩『阿毘達磨倶舎論』巻廿二 賢聖品 (T29, P118a)
[現代語訳:沙門覺應]

安般念を修習する行者は、まず「息を数える」という手段をもって、心を鎮静させていきます。

念の定点

図解:安般念の念の置き場所 (C) 法楽寺. 無断転載等厳禁

しかし、呼吸に意識を向けこれを数えると言っても、意識を向ける場をどこか定位置に置かなければなりません。つまり、どこで呼吸を覚知するかの基準点が必要です。

そして、全ての仏典がほぼ同じ場所を指定しています。鼻頭・鼻端です。『無礙解道』、そしてその説を引き継ぐ『解脱道論』ならびに『清浄道論』では、鼻頭もしくは上唇と上唇周辺も可であることを説いています。

『倶舎論』では、「繫念唯在鼻端。或在眉間乃至足指」と、基本的に鼻端を指定しながらも眉間から足の指までと、ずいぶんと広範囲を許しています。しかし、これについては別して論じなければならないものです。故に、ここでは特に、『倶舎論』などに見られる説一切有部の説く安般念の修習法の実際には触れません。

さて、鼻頭と言っても、文字通りの鼻頭[はながしら]というのではなく、鼻腔の最端部、鼻の穴の鼻先側周辺です。それは入出する呼吸を、それがたとえわずかばかりの弱い感覚(触覚)であっても、これを捕らえる場所、意識を留める場所です。

上唇ともされているのは、鼻の低いものは、むしろ上唇のほうが呼吸を感知しやすいためです(『清浄道論』説)。

『無礙解道』などに基づき、意識を鼻頭に留めるとき、注意しなければならないのは、息の入出を感知したときに、鼻頭におけるその呼吸の感覚に引きづられて意識の置き場をフラフラと、鼻腔の内外などとあちこちに移動させないことです。

意識を一点に留めることは案外困難なようで、多くの人々が鼻頭に「留める」ことが出来ずに、入出する息に意識が引きずられてしまうようです。

画像:『解脱道論』における、安般念を修習するための鋸の譬喩の図

『無礙解道』にては、鋸[のこぎり]を用いた喩えをもって、鼻頭に念を随逐(安置・触)するとはいかなることを言うのかの説明をしています。その要を言えば、鋸によって木(丸太)を切るとき、常に鋸の刃は木との接点を往来して、それによって木を断ち切っていくけれども、鋸で木を切る者は、その往来する刃に意識を従わせるのではなく、刃と木との接点にこそ念を従わせるのである、というものです。『解脱道論』にて優波底沙長老はこの譬喩を用いて安般念の修習法を説明し、ブッダゴーサもこの譬えを『清浄道論』の中に取り入れ、用いています。

ところで、何者がこのような滑稽を始めたのか知れませんが、日本において、分別説部の瞑想が現代的・西洋的に改変されたものを修めている者の中には、「サティを入れる」などという、奇妙奇天烈な表現を用いる一群の人々があるようです。これは日本語で言う「念を入れる(落ち度の無いように充分に吟味すること)」の「念」を、パーリ語のサティに置き換えたものと言えるでしょうか。表現上・言葉上のことに過ぎないとするにしても、日本語としてもパーリ語の解釈としても実におかしく、また語感として滑稽の感が漂っています。

大乗や日本における止観や安般念についての知識などほとんど無く、それが存在していることすら知らず、地に足が着いていないが為のことなのでしょう。

あるいは、日本の禅宗の衆徒を初めとして安般念(持息念)を行う人々には、意識を留める場所を「丹田である」「臍下丹田でなければならない」などと主張する一類の者があります。しかし、まず経説にその根拠はありません。たとえば白隠の説などと混同してしまっているのでしょう。

南方の上座部の瞑想者にも、禅宗のように丹田などとは言いませんが、「呼吸時の腹部の膨らみ・絞みに意識を留めよ」という者たちがありますが、同様に根拠はありません。

ここでは、あくまで経説に基づいての説を紹介しています。

経説に基づく方法、ということに関して言えば、やはり腹部というのは根拠がありません。そして腹部、特に臍周遍では、その対象が動いてしまうので、念を留める場所としては適切ではないでしょう。故にこれについて一昔、スリランカならびにビルマでも論争が起こっています。

もっとも、集中し得ればそれで良い、禅定に至り得るならばどのような方法であっても良い、という観点からすれば、他の方法も十分ありえることでしょう。しかし、仏教では、数息観ならびに不浄観は、ただ集中するだけを内容・目的としているのではなく、諸法を観ることもその内容に含まれているので、特に優れた仏教の瞑想として長く用いられてきただけの理由が、そこにあります。

また、集中し得ればそれで良い、というのでは、次の段階で迷うこととなるかもしれません。ただ集中するだけが目的というならば、覚醒剤など薬物を用いても強力な集中力を一時的に得ることが出来るでしょう。無論、それは正しく有益な方法などでは到底ありません。

さて、安般念について、「思考を停止させることが目的の瞑想」などと言えば、まったく単純に「思考停止は悪」と考えている人の多いであろう巷にて、直ちに拒絶反応を示す者が現れるかもしれません。しかし、安般念は、呼吸を数え、呼吸にのみ意識を向けることに依って、心に妄念(尋・伺 / vitarkavicāra / 粗雑な思考・微細なる思索)の起ることを止息させ、諸法の実相(モノのありのまま)を現観することを目指すものです。

誤解を恐れずに言えば、そしてこれはまことに舌足らずな物言いとなりますが、そもそも止の修習にしろ観の修習にしろ仏教の瞑想は、「思考すること」を要請するものではなく、その全く逆のまず「考えを止めること」を志向します。これを経てこそ人は、真に法を観ることが可能となります。

(瞑想を深めていく過程で心がいかなる状態になるかについては、“禅について”を参照のこと。)

呼吸するのではなく、呼吸に従ってこれを知る ― 十六特勝

呼吸を数えることによって雑念の起こることがなくなって心が落ち着き、念が確立されれば、次は一般に十六特勝と言われる、十六種の呼吸を軸に身心の状態を念または観察の対象とする修習に移行します。

(十六特勝についての詳細は、次項の”十六特勝”を参照のこと。)

その時、これはもっとも安般念にて重要な点の一つですが、『安般守意経』の言葉によって言えば、「即時自知(時に即して自ずから知る)」こと。すなわち「自分が今現在、いかなる呼吸、吸う息・吐く息をなしているか、そしてその息にまつわる身心の状態を見つめ知ること」です。

これを説一切有部系の仏典では相随(anugama)と言い、分別説部系は随逐(anubandhanā)と言います。

決して、例えば深く長い呼吸をしよう、つぎは呼吸を止めてみようなどと、自分からそのような呼吸をしようとすることではなく、そしてそのような呼吸をすることによって心を制御しようとするのではなく、また丹田に力を込めて云々、丹田で呼吸を云々などと、呼吸を操作することではありません。

先に数息を説明する中で引用した『倶舎論』でも「繫心緣入出息不作加行」と、意図的に出入息しないことを説いています。

また、以下に引く『解脱道論』でもこれについて同様に示されています。

若最長息。若最短息。不應作意。若作處[*意の誤り?]最長最短息。其身及心皆成懈怠動搖。此是過患。

あるいは「出来るだけ長く息をしよう」あるいは「出来るだけ短く息をしよう」などと意図してはならない。もし意図的に出来るだけ長く・出来るだけ短くと呼吸したならば、その身体および心の双方は懈怠し動揺する。これは過失である。

優波底沙『解脱道論』巻七 行門品 (T32, P430a)
[現代語訳:沙門覺應]

呼吸の状態と心の状態とが密接に関連するものであることは、『成実論』ならびに『無礙解道』・『解脱道論』、『清浄道論』も等しく説くところです。いや、『成実論』などの言を待たずとも、心が粗雑であるときは息も荒くなることを経験的・常識的に知っている人は多くあるでしょう。

しかし、呼吸によって精神を鎮めるというのは「呼吸法」と言うべきものです。世間で様々に行われている呼吸法には、身心に良い作用をもたらす優れたものが多くあり、これを否定するわけではありません。けれども安般念は、まず呼吸を観ることによって心を鎮め、さらにその心も対象として観ていくものです。

それは、いわゆる呼吸法とはその背景にある思想が別の、方法としてもまったく相反するものです。

先にも述べ、またここにも繰り返しますが、安般念・数息観は呼吸法でも気功法でもありません。

そもそも普段の生活でそうあるように、呼吸とは体が自発的に、その時の自身の心身の状態に応じてなされるものです。安般念は、呼吸を対象として他に念を散ぜず集中する、呼吸の状態ならびに呼吸にともなう心身の状態をただ見つめ知る瞑想法です。

初め呼吸をのみ対象としてこれに集中し、心を鎮め、そしてさらに呼吸の状態をただ淡々と見つめる。その結果として、心に妄念無く、喜楽が生じる。これに伴って、呼吸は長く深く、そして細く、やがて極限まで少なく「なっていく」。しかし、それもやはり淡々と見て、それら感覚にとらわれずに心の状態を見続け、ついには無常・無我・苦を現観して涅槃に到達するのが安般念です。

『雑阿含経』では、安般念は四念処そして七覚分(七覚支)を満足するものであると説かれています。そして、『安般守意経』では、安般念は三十七道品すべてを含む瞑想であるとし、中でも四念処と七覚支を満足するものである、としています。

『解脱道論』も同様に、これは『雑阿含経』に対応するSaṃyutta Nikāya(相応部)の該当経典に基づいてのことでしょう、安般念を成就すれば四念処・七覚支を成就すると説いています。

(『雑阿含経』において、安般念を四念処ならびに七覚分とに開いて説かれている経説についての詳細は、“『雑阿含経』―安般念関連”の当該経典を参照のこと。)

安般念などと一口にいっても、これを説く経典や小乗諸部派の典籍によって、その位置づけや修習法について異なっている場合があります。

これは、それぞれが展開し伝持してきた阿毘達磨など、それぞれの部派の教義・教学の違いに主に依るものです。今は、小乗十八部あるいは二十部のうちでは説一切有部か分別説部しかその伝統が伝わっていませんので、実修にあたっては、いずれか一方の方法に依って行えばよいでしょう。

大乗では、主に説一切有部の方法論が採られているので、説一切有部の論書を学んでおくことは必須です。とはいえ、これら部派の教学にあまりに拘泥しすぎると、実修していく上の障害となってしまう場合があります。この点、注意が必要です。

切磋琢磨

ここに今、人をして実際に彼岸へと運ぶ舟の一つたる、安般念が如何なるものかをわずかでも世に知らしめんとして、自らの浅学無知を曝すの恥を顧みず、徒に諸説枚挙したのみの冗長駄文を記しました。

おそらくは貧道の不精進、無能によって、誤りも多々あるでしょう。故にあえて個人的経験などは全くここに記していません。よって、これを実修せんと志す者は、まず自ら経典に当たってこれを極力確実に読むことを勧めます。

次に、それが小乗であれ大乗であれ、自らに縁のある宗派の論書いずれかにあたり、あるいは様々な論書を渉猟してその髄を探り、現実に実行することを奨めます。

その術を知らず、そして行くべき道を知らずして瞑想するのは、全く見当違いの方向へ行ってしまうことが多いという点で甚だ危険です。それはあたかも、先人の遺した詳細なる地図と、そして羅針盤とがありながら、これをまるで無視し読まずして、宝の眠る暗く深い深い森へと飛び込むようなものです。

もっとも、人の中には、その森の中にいること自体が目的と化し、満足してしまって、森の中に眠る宝など眼中に無ような者も少なからず見られます。

仏教の瞑想は、ただ実行することが重要とばかりに、坐っていれば良い、長い期間続けていれば良いというものでは決してありません。このような人々は、支那以来の禅宗において「暗証の禅師」などと呼ばれるものです。その経験が長いから優れている、多くの有益な事柄に通じている、などということは全くありません。

また、紙が擦れ、綴糸が切れるほど経論を読み込み、その詳細を、実に細かい点まで知り尽くしたとして、他人の正否をあれこれ言うばかりで自らは一向に修さない、あるいは修したくとも一刻も坐っていられないというならば、まさに「小人の学は耳から入って口に出ず」であって無益にしてむしろ愚かであるとすら言えるものです。

いずれにせよ、安般念は、仏教の瞑想を代表するものの一つで、誠に重要な瞑想法、諸仏ならびに僧伽が遺した宝です。この宝は、望めば誰であっても手に入れることができますが、しかし手に入れたならば自ら「懸命に」磨かなければ、その美しい輝きを見せることは決してありません。

悟りがこの世で最上のものであると考えるならば、一体どうしてそれを安易にして軽軽に手に入れられるものだなどと言えるでしょうか。

悟りへの道

ある人々はいいます。この道は易く、安楽な道であると。

表現の仕方でしょうが、これは道果に至った人々にとっての安楽な道です。道を進むうち、道に向かううちに、漸漸として法を観じ、点点とその途上に悪業悪果という重担をおろしていくうち、身心は軽く健やかとなっていくでしょう。

しかし、道に到る過程は難路であって、易く安楽な近道などありません。世間でこれを「安楽である」などと容易く言い、人々に宣伝する人は、その道を地図で眺めて知るだけの人、言うだけの口舌の徒です。

そして、これは今時分の傾向なのかも知れませんが、何でもその対象の水準にまで登ろうと努力することはせず、対象を自分の(低い)水準にまで引きずり下ろして、それらが本来的に手軽で単純なものであるかのように考えようとする人が多いようです。よって、「易く、安楽な道」などと聞いて魅力を感じてしまうのでしょう。

しかし、これは当然というべきか、そのようでは結局何も得ることは出来ないでしょう。

道を知ることと、歩むことは違います。

仏教を信仰した途端に人生が薔薇色、瞑想するとすべてが良い方に転換する、出家すればそれまでの人生の行業が清算される、などということは全く無く、まずはそれぞれの人のそれまでの人生に、己の業の習気にまともに直面しなければならないでしょう。それは決して生易しいものではありません。

安般念は、易々と修して直ちに果を得られるようなものではありません。諸経典にて説かれているように、これを修して果を得るには不退の決意と長期間の勇猛精進、そして適切な環境が必要です。

とはいえ、人は弱いもので、そのように勇猛精進出来る人など極々限られています。そして、出家ですらそれが困難であるのに、在家ではなおさら適切な環境に身を置くことは困難であるでしょう。

スリランカのジャングル奥地にある洞窟や、ヒマラヤの裾野にひろがるインド・ラダックの山村あるいはインド・シッキムの山村などに存する洞窟や小屋、小寺院など、瞑想に関していえばこれ以上理想的な場所はないと言っていいほどの土地は、世界にまだいくつか存在しており、そこで瞑想に専念する人は少数ながら存在しています。

実の所、禅定を修めるにこの上ないと言えるような場所は、日本にも場所だけならば多数存在しているのですが、長期間にわたって出家者・瑜伽者を支える人々や施設、そしてなにより習慣が不在です。

しかし、そのような土地での生活は、寒暑や猛獣・毒蛇・毒虫など、まったく過酷な自然と相対するものである場合が多く、故に多くの人にとって恐るべき多くの困難、おそらくインフラが整備されてその点何不自由なく暮らしている現代日本人には想像もつかないような困苦が伴ないます。

けれども、環境についてないものねだりしても仕方ありません。場所は少しでも静かで良い場所があれば、まずは一応そこで満足したら良いでしょう。勇猛精進などと言いつつ、あるいは懈怠し堕落し、あるいは悪に身を染めて途端に後悔し、多くの挫折を味わいながらも、それでも少しずつ、経説に則ってこれを繰り返し繰り返し修めることは、自身にいずれ大なる利益をもたらすことのきっかけとなるでしょう

失敗すること、挫折せんとすることは、人には常のものです。失敗して当然、挫けて当たり前です。何事も一筋縄でいかないのは、大抵人が三十年も生きてみれば身にしみて知っていることでしょう。

そして何事も、地道ながらも日々の弛まない努力こそが、ついに大事をなすものであることも解っていることでしょう。その努力は正しいものでなければついに徒労となってしまいます。

しかし、その「正しい」努力の仕方は、まったく幸運なことに現在の我々のもとにまで伝承されています。

ここに一発大逆転などありはしません。人の機根によってその果の大小遅速はあるものですが、しかし、たゆまず行えば行ったなりの結果が必ずあります。

少しでも多くの人が、善知識に巡り会ってその膝下に入り、仏教の大海に漕ぎ出すことを祈ります。仏陀の遺宝を、それがたとえ小さな欠片であっても継ぐ人となることを祈ります。

非人沙門覺應(慧照) 敬識
(By Araññaka bhikkhu Ñāṇajoti)

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