真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.十六特勝とは

十六特勝

十六特勝とは、数(数えること)・相随(従うこと)・止(留めること)・観(観察すること)との四つ、あるいはこれに還(転じること)・浄(完全なる清浄)の二つを加えた六つの行・要素からなる、とされる安般念(アーナーパーナー・サティ)の内容で、呼吸と身心の状態など、念の対象となるものを十六に列挙したものです。

(安般念についての詳細は、前項“安般念(数息観)”を参照のこと。)

十六特勝という言葉自体は、安般を説く仏典のうち、『修行道地経』に見られるものです。また、『仏説大安般守意経』には、「特」の一文字を欠いた「十六勝」の文言で説かれています。

小乗(声聞乗)の典籍では、訶梨跋摩『成実論』にて、十六特勝ではなく「十六行」という文言によって示されています。また、分別説部無畏山寺派の優波底沙『解脱道論』では「十六処」との訳語にて。パーリ語の典籍では、Paṭisambhidāmagga(『無礙解道』)において、"soḷasavatthuka"(十六事)として列挙され注釈されています。これを受け、分別説部大寺派のBuddhaghosa[ブッダゴーサ]はその著Visuddhimagga(『清浄道論』)にて十六事についてさらに解釈しています。

大乗(菩薩乗)の典籍では、たとえば龍樹『大智度論』は、『成実論』と同じく「十六行」との名目でその内容を極簡潔に列挙しています。

それら経論では、同様に十六の数を挙げて、安般念における念の対象としていますが、その呼称と、その内容にはそれぞれの経論に由って若干の異なりが見られます。今は一応、先程からそうしているように、それが一般的に通用するようになっていることから、十六特勝との呼称をここでは用います。

もっとも、十六特勝はそもそも経典にある一説が根拠となって言われるものです。

経典の中でも、いま知られるものでこれを言えば、『雑阿含経』(第801経から第815経の一連の小経で、別いても第803経と第810経が重要)です。

これらにおおよそ対応するパーリ語経典は、Saṃyutta Nikāya, Mahāvagga, Ānāpānasaṃyutta(相応部大品「安般相応」)に所収の、Ekadhammasutta(「一法経」)に始まる諸経典です。また他に、Vinaya Piṭaka, Pārājika(「律蔵」波羅夷)、Majjhima Nikāya, Ānāpānasutta(中部『安那般那念経』)などにも同内容のものが伝えられています。

(安般念・十六特勝の根本的経典の一つ、“『雑阿含経』(安般念関連)”を参照のこと。)

十六特勝の内容

十六特勝は、言葉としてはその他の経論にもちらほらと見られるのですが、具体的にその内容を説くものとして現在伝わっているのは、管見では、今挙げた経論にほぼ限られているものと思われます。

支那の大乗諸師も、その諸著作の中で十六特勝の名目を挙げ、様々に引用していますが、根拠とする仏典が異なるためか、あるいは自らその内容を改変したのか、いずれにせよその内容にはばらつきが見られます。

(ここでは支那の大乗諸師の著作や見解は問題としません。)

さて、ではまず十六特勝の典拠となっている根本的な経説を見てみましょう。『雑阿含経』巻廿九(第803経)にて、仏陀はこのように説かれています。

念於內息。繫念善學。念於外息。繫念善學。息長息短。覺知一切身入息。於一切身入息善學。覺知一切身出息。於一切身出息善學。覺知一切身行息入息。於一切身行息入息善學。覺知一切身行息出息。於一切身行息出息善學。覺知喜。覺知樂。覺知心行。覺知心行息入息。於覺知心行息入息善學。覺知心行息出息。於覺知心行息出息善學。覺知心。覺知心悅。覺知心定。覺知心解脫入息。於覺知心解脫入息善學。覺知心解脫出息。於覺知心解脫出息善學。觀察無常。觀察斷。觀察無欲。觀察滅入息。於觀察滅入息善學。觀察滅出息。於觀察滅出息善學。是名修安那般那念。

①内息を念じ、(息の長きこと・息の短きことに)繋念して、善く学す。②外息を念じ、息の長きこと・息の短きことに繋念して、善く学す。③一切身を覚知して入息し、一切身において入息するを善く学す。一切身を覚知して出息し、一切身において出息するを善く学す。④一切身行息(身行の止息)を覚知して入息し、一切身行息において入息するを善く学す。一切身行息を覚知して出息し、一切身行息において出息するを善く学す。⑤喜を覚知し、⑥楽を覚知し、⑦心行を覚知す。⑧心行息(心行の止息)を覚知して入息し、心行息を覚知して入息するを善く学す。心行息を覚知して出息し、心行息を覚知して出息するを善く学す。⑨心を覚知し、⑩心悦を覚知し、⑪心定を覚知し、⑫心解脱を覚知して入息し、心解脱を覚知して入息するを善く学す。心解脱を覚知して出息し、心解脱を覚知して出息するを善く学す。⑬無常を観察し、⑭断を観察し、⑮無欲を観察し、⑯滅を観察して入息し、滅を観察して入息するを善く学す。滅を観察して出息し、滅を観察して出息するを善く学す。是れを安那般那念の修と名づける。(*便宜上、1から16の丸囲み文字を挿入した。)

『雑阿含経』巻二十九 (T2, P206b)
[訓読文:沙門覺應]

この経では、これを十六特勝などと総称して説かれてはいないものの、数としては十六と数え得る念の対象を、以上のように説かれてます(経文中、「善く学す」というのは「修める」「修行する」との意)。もっとも、数え方次第では三十二とも言え、実際パーリ経蔵所収のPaṭisambhidāmagga[パティサンビダーマッガ](『無礙解道』)では、三十二の対象として挙げることも行われています。

安般念が説かれる『雑阿含経』の一連の経中(No.810)では、これら十六特勝などと言われる十六のものは、①から④が身念処、⑤から⑧が受念処、⑨から⑫が心念処、⑬から⑯が法念処と、それぞれ順に四つずつを四念処の身受心法に配当して説かれています。

この安般念を成就することは、すなわち四念処そして七覚支を成じて、智慧と解脱の二法を究竟することであると説かれています。

これを表にて示せば以下のようなものとなります。

『雑阿含経』所説の安般念による修道構成
一法
四法
七法
二法
安般念
(十六特勝)
念息長 身念処 念覚分
択法覚分
精進覚分
喜覚分
猗覚分
定覚分
捨覚分
明・解脱
念息短
覚知一切身
覚知一切身行息
覚知喜 受念処 (七覚分)
覚知楽
覚知心行
覚知心行息
覚知心 心念処 (七覚分)
覚知心悦
覚知心定
覚知心解脱
観察無常 法念処 (七覚分)
観察断
観察無欲
観察滅

(安般念・十六特勝の根本的経典の一つ、“『雑阿含経』(安般念関連)”の解題ならびに第10項を参照のこと。)

次に、それぞれの経論において如何に十六特勝が説かれているかを、煩瑣となることをさけるために一々引用せず、ただ原文の語句をそのまま抜き出して列挙し、比較した表を、以下に示します。

十六特勝 諸説
No. 『雑阿含経』
(No.803)
十六勝
『大安般守意経』
十六特勝
『修行道地経』
十六行
『成実論』
十六行
『大智度論』
念息長 喘息長
即自知
数息長則知 念息長 観入息
念息短 喘息短
即自知
息短亦知 念息短 観出息
覚知
一切身
喘息動身
即自知
息動身則知 念息遍身 観息長息短
覚知
一切身行息
喘息微
即自知
息和釋即知 除諸身行 観息遍身
覚知喜 喘息快
即自知
遭喜悅則知 覚喜 除諸身行
覚知楽 喘息不快
即自知
遇安則知 覚楽 受喜
覚知心行 喘息止
即自知
心所趣即知 覚心行 受楽
覚知心行息 喘息不止
即自知
心柔順則知 除心行 受諸心行
覚知心 喘息歓心
即自知
心所覚即知 覚心 無作喜
覚知心悦 喘息不歓心
即自知
心歓喜則知 令心喜 心作攝
覚知心定 内心念萬物已去
不可復得喘息自知
心伏即知 令心摂 心作解脱
覚知心解脱 内無所復思
喘息自知
心解脱即知 令心解脱 観無常
観察無常 棄捐所思
喘息自知
見無常則知 無常行 観散壞
観察断 不棄捐所思
喘息自知
若無欲則知 斷行 観離欲
観察無欲 放棄躯命
喘息自知
観寂然即知 離行 観滅
観察滅 不放棄躯命
喘息自知
見道趣即知 滅行 観棄捨

次に、南方の分別説部の典籍ではどうか。

分別説部無畏山寺派の『解脱道論』と、これを種本として編集・改変・増広して著された大寺派の『清浄道論』の十六特勝を、原文からそれぞれ抜き出し列挙したものを、以下に示します。

本来ならば、先に安般念を説く仏典として挙げ、『解脱道論』ならびに『清浄道論』にても引用・註釈されている、相応部大品「安般相応」あるいは『無礙解道』の一説をまず出すべきですが、以下に示したそれらの論書の一説は、省略を用いているものの「一法経」の一説そのままですので、今は一応、斯くしています。

なお、『解脱道論』の引用箇所には誤記と思われるものがNo.3ならびにNo.4に認められるため、つづく解釋での文を取り出すことをもって、修正しています。

『解脱道論』と『清浄道論』における十六特勝
No. 十六処
『解脱道論』
Soḷasavatthuka(十六事)
Visuddhimagga(『清浄道論』)
若長出息。我息長出如是知之。若長息入。我長息入。如是知之 止観 Dīghaṃ vā assasanto dīghaṃ assasāmīti pajānāti. Dīghaṃ vā passasanto…pe…
(あるいは長く出息しては「私は長く出息している」と彼は知る。あるいは長く入息しては「私は長く入息する」と彼は知る。)
若短息入。我短息入。如是知之。若短息出。我短息出。如是知之 Rassaṃ vā assasanto…pe… rassaṃ vā passasanto rassaṃ passasāmīti pajānāti
(あるいは短く出息しては「私は短く入息している」と彼は知る。あるいは短く入息しては「私は短く出息する」と彼は知る。)
知一切身我入息。如是学 Sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmīti sikkhati. Sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmīti sikkhati.
(「私は身体全体を覚知して出息しよう」と彼は学び行う。「私は身体全体を覚知して入息せん」と彼は学び行う。)
令滅身行。我入息如是学 Passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmīti sikkhati. Passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmīti sikkhati.
(「私は身行を止息して出息しよう」と彼は学び行う。「私は身行を止息して入息せん」と彼は学び行う。)
知喜 Pītipaṭisaṃvedī…
(「私は喜びを覚知して・・・)
止観
知楽 Sukhapaṭisaṃvedī…
(「私は安楽を覚知して・・・)
知心所行 Cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī…
(「私は心行を覚知して・・・)
令滅心行 Passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ…
(「私は心行を止息して・・・)
知心 Cittapaṭisaṃvedī…
(「私は心を覚知して・・・)
令歓喜心 Abhippamodayaṃ cittaṃ…
(「私は心を大いに喜ばせて・・・)
令教化心 Samādahaṃ cittaṃ…
(「私は心を統一して・・・)
令解脱心 Vimocayaṃ cittaṃ …
(「私は心を解脱して・・・)
見無常 Aniccānupassī…
(「私は無常を観察して・・・)
見無欲 Virāgānupassī…
(「私は貪欲の無いことを観察して・・・)
見滅 Nirodhānupassī
(「私は滅を観察して・・・)
見出離如是覚。見出離我出息如是覚。見出離我出入息如是 Paṭinissaggānupassī assasissāmīti sikkhati. Paṭinissaggānupassī passasissāmīti sikkhatī
(「私は捨て去ることを観察して出息しよう」と彼は学び行う。「私は捨て去ることを観察しつつ入息せん」と彼は学び行う。)

このように、典拠とする経典が同一であるためでしょう、これは当然と言うべきですが、双方内容は完全に一致しています。

ただし、ブッダゴーサは"Assāsoti bahi nikkhamanavāto. Passāsoti anto pavisanavātoti vinayaṭṭhakathāyaṃ vuttaṃ"assāsaとは外に出る息である。passāsaとは内に入る息である、と律の註釈書に説かれている)ことを挙げ、続けて経の注釈書には正反対の事が説かれていることも紹介。しかし、「すべての胎児が産まれ出たときにするのは出息」であると言って、律の注釈書の説を支持し、"assasati"は出息であるとしています。

『解脱道論』では正反対の説を採っているので、『解脱道論』と『清浄道論』とでは、出入息の順がまるで逆になる点だけは異なります(ただし、『解脱道論』の場合は訳者によってそのように解され訳されただけの可能性もあるのですが、原典が伝わっていないためになんとも言えません)。

前項の安般念において述べたように、āna[アーナ](安)とāpāna[アーパーナ](般)のいずれが出息・入息を意味するのかについて見解が分かれていたことは、他の仏典においても知られます。私見では、ブッダゴーサの説は承服し難いものです。しかし、安般念の実践・修道面においては、ほとんどどうでも良いことであり、とりたてて問題とすべきことでもありません。

さて、これら十六特勝について、『解脱道論』は止観によって理解するべきであるとして、以下のように説いています。

於此十六處。初十二處成沙摩他毘婆舍那。見初無常。後四處唯成毘婆舍那。如是以沙摩他毘婆舍那可知。復次彼一切四種。一謂如是修令起觀具足。有時見現念入息現念出息。此謂修知長短。令滅身行令滅心行。令心歡喜。令教化心。令解脫心。此謂令起知一切身知樂知心所行。知心者此謂觀具足。常見無常所初四行。此謂有時見。

この十六処において、初めの十二処は沙摩他・毘婆舍那を成じ、初めて無常を見る。後の四処は唯だ毘婆舍那を成じる。是の如く沙摩他・毘婆舍那を以て知るべし。復た次に彼の一切は四種なり。一に謂く、是の如く修せば観の具足を起こさしむ。時有りて現に入息を念じ、現に出息を念じる。此れを修して長短を知ると謂ふ。身行を滅せしめ、心行を滅せしめ、心を歓喜せしめ、心を教化せしめ、心を解脱せしむ。此れを知一切身・知楽・知心所行を起こさしむと謂ふ。知心とは此れ観の具足を謂ふ。常に無常を見るを初めとする所の四行を、此れを時有りて見ると謂ふ。

優波底沙『解脱道論』巻七 行門品 (T32, P431b)
[訓読文:沙門覺應]

このように『解脱道論』では、初めの十二処は止と観とを成じ、後の四処は唯だ観のみの修習であると理解されています。

では次に、『清浄道論』ではいかに理解され説かれているか。以下に示します。

idaṃ catutthacatukkaṃ suddhavipassanāvaseneva vuttaṃ. Purimāni pana tīṇi samathavipassanāvasena. Evaṃ catunnaṃ catukkānaṃ vasena soḷasavatthukāya ānāpānassatiyā bhāvanā veditabbā.

この第四の四(事)[十六事のNo13から16まで]は、純粋なる観(suddhavipassanā)のみによって説かれたものである。しかし、先の三[十六事のNo.1から12まで]は止観(samathavipassanā)による。この様に、四つの四(事)の十六事からなるアーナーパーナサティの修習は知られるべきである。

Visuddhimagga, Ānāpānassatikathā 236
[日本語訳:沙門覺應]

『無礙解道』においては以上のような理解はされていないのですが、『清浄道論』は『解脱道論』の説を引き継いだものと見え、やはり同様に言っていることがわかります。

また、『清浄道論』でもやはり経説に従い、安般念における十六事のうち最初の四事(①から④)は身念処に該当するものとし、またその修習を満足することは四禅を得ることであるとしています。そしてこれは経説ではなく、また『解脱道論』の所説を継承したものですが、『清浄道論』では最初の四事は特に止(samatha)の修習であるとしています。

『雑阿含経』と『大安般守意経』の十六特勝

やや冗長となりましたが、上に示してきたように、十六特勝といっても、それぞれの仏典によって内容がやや異なります。また、その内容についての解釈も、部派や論書によって異なっています。

文字面だけでみたならば、『修行道地経』と『成実論』とでは、『修行道地経』のほうがより詳しく説いており、またその順序はパーリ経典の所説に合致するものとなっています。『成実論』は、『雑阿含経』の所説とよく一致しています。と言っても、異なるのはただ一箇所のみで、全体としてはほとんど同内容ではあるのですが。

すなわち、これら論書は等しく『雑阿含経』(あるいは今は伝わっていない他部派伝持の『雑阿含経』)の所説に従ったものであると言えるでしょう。

『大智度論』に挙げられている十六特勝は、『修行道地経』や『成実論』ならびに『解脱道論』などと比較したとき、若干ながら順序や内容に異なりが見られます。

対して『大安般守意経』は、快・不快、止・不止、歓心・不歓心、棄捐所思・不棄捐所思、放棄躯命・不放棄躯命などと、呼吸に伴なって起こる感覚・動作・心の状態のいわば好悪両面を見つめることを説いている点が、大きくその他と異なっています。

さて、十六特勝などとして挙げられる十六の事柄は、安般念の対象(業処)として列挙されたものです。安般念を修する中、呼吸を念じる中で、己の身心がそのような状態になったならば、それを対象にせよというのであって、そのような状態に強いてなれ、というのでは決してありません。また、それは安般を深める過程のおおよその流れとは言えても、必ずしも一から順に十六へと次第して経験されるべきことではありません。

(安般念についての詳細は、前項“安般念”を参照のこと。)

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2.安般念における十六の境

時に即して自ずから知る

いかに安般念を修するべきか。十六特勝におけるその要は何か。

先に観たように、十六特勝といっても、それを説く仏典によって内容に若干の異なりがあります。しかしながら、であったとしても十六特勝における要は、『大安般守意経』の一説によって示すことが出来ます。それは「即時自知(時に即して自ずから知る)」。すなわち「自分が今現在、いかなる呼吸、吸う息・吐く息をなしているか、そしてその息にまつわる身心の状態を見つめ知ること」です。

それはあるいは、諸(経)論に示されている、安般念を構成する四つあるいは六つの要素のうちの、相随(anugama)・止(sthāna)・観(upalakṣaṇā)で、初めはとくに相随が重要です。

決して、例えばまずは短い息から初めて次第に深く長い呼吸をしよう、つぎは呼吸を止めてみようなどと、自分からそのような呼吸をしようとすることではなく、また丹田に力を込めて云々、丹田で呼吸を云々などと、呼吸を操作することでは決してありません。

また例えば、現在一般に依用されることが多いと思われる『成実論』所説の十六特勝のうち、第三の「念息遍身」は、「呼吸したとき(息が体を出入りしているとき)に身体(肩・胸・腹など)が動いていることを知る」ことを意味するものであって、「気息が体に行き渡るのを感じる」などといった気功的な匂いのするもの、抽象的・情意的な感覚に訴えるようなものではありません。

このようなことを説く輩は案外多いようで、禅宗はもとより真言・天台の人にもしばしば見られます。

まずは鼻頭にて感じられる入出の息に意識を結び、漸々に心が静まっていくと、確かに息は長く細くなり、身体的感覚が薄れ、心は軽くなっていきます。しかし、その過程で感じられるのは、常に心地良いものだけではなく、激しい身体的な痛みや不快感が起こり、精神的な不快が襲ってくることも多々あるものです。また、それら望ましくない感覚のまったく起こらないこともあります。

いずれにせよ、どのようなものであれ、これを拒絶せず、あるいはまた望まずに、ただジッと見つめることが肝要です。

『大安般守意経』は、先に示したように他の十六特勝とは異なる説示がなされていますが、この点について言及したものであり、これは瑜伽行者には、大いに役立つ説示です。

ただ淡々として

呼吸とは体が自発的に、その時の自身の心身の状態に応じてなされるものです。

安般念は、呼吸を対象として他に 念を散ぜず集中する、呼吸の状態ならびに呼吸にともなう心身の状態をただ見つめ知る瞑想法です。初め呼吸に集中して数えることによって心を鎮め、そして呼吸の状態をただ淡々と見つめる。その結果として、心に妄念無く、喜楽が生じてくる。これに伴って、呼吸は長く深く、そして細く、やがて極限まで少なく 「なっていく」。

しかし、それもやはり淡々と観つめつづけ、それら感覚にとらわれずに、心の状態を見続け、ついに無常・無我・苦を現観するのが安般念です。

呼吸の吸う息・吐く息をその瞬間瞬間に見つめ続け、その長短をただ見つめる。自身が長い息をしている時は、長い息をしていると知る。短い息をしている時は、短い息をしていると知る。そして、その結果として心が軽やかとなり、あるいは静まってくれば、これを見つめ知る。自ずから呼吸も長く、そして細く微かになってくれば、これをまた「時に即して」知り、それにつれ体の感覚・心の状態も変化していくのを、それがどのようなものであっても、快・不快・好・悪・無記いずれのものであっても、その時に即して、やはりただ見つめ知る。

文字通り、今この瞬間、この瞬間の我が身心を見つめ知るのが十六特勝であり、すなわち安般念です。

また、先に述べたように、十六特勝は、必ずしもそのすべてを対象としなければならない過程ではありません。しかし、いきなり無常を観る、無欲、滅を観ることなど、全く不可能です。数息によって、普段の荒海のような心が凪ぎ落ち着いたならば、意識をまずは呼吸に従わせて、ただひたすら見つめていくと良いでしょう。

忍辱と精進と

もっとも、かく口で言うのは簡単、耳で聞くのもなにやら易しく感ぜられるものですが、実際に修してみるとそのような単純なことが大変難しく、むしろ苦痛であると感じて、挫折してしまう人が多くあります。そして、安般念が、自分に合う瞑想ではない、などと言い出す人もあるようです。

しかし、皮肉なものですが、むしろそのような人にこそ安般念はふさわしい瞑想かもしれません。

まず、安般念を修してたちまち悉地を得る、などということは誰にもほとんどないことです。しかし、静かな場所にて安般念など修し、呼吸に意識を留め、普段の荒海のような心を鎮め平らかにすることだけでも、大いに自身を益するものとはなるでしょう。

安般念は、何事も考えすぎる者や理屈っぽい者、思考や意識があちこちと飛ぶ落ち着きのない者に、特に推奨される瞑想法です。本当に合わないというのであれば、不浄観を修めたら良いでしょう。しかし、口や頭の中だけで「肉体は不浄」などというの簡単ですが、不浄観の実際は生半可なものではありません。愛欲(性欲)がすこぶる強いものに推奨される瞑想ですが、下手をすると厭世観が極度に強くなり、結果自殺するということになりかねない危ういものです。

不浄観は、日本では例えば九相観図などのように、死体が朽ちて白骨化していく様を図絵にして瞑想の対象とする場合もあります。しかし、実際の死体を目の前にするに如くものでは到底ありません。死体が腐って汚らしい様相を呈し、凄まじい腐臭を放っているのを眼前とした時、嫌悪の想いが起こって然るべきですが、その嫌悪の想いを自他への肉欲の減衰に利用するのが不浄観です。その故にまた、不浄観は怒りの強い者には逆効果となり、推奨されません。

無味無臭の図絵によって真に不浄観を修め得るのは、葬式などで目にするような綺麗な人の死体というのではなくて、腐乱死体や白骨などを確かに目前にした経験のある人にこそのものでしょう。

(不浄観についての詳細は、“不浄観”を参照のこと。)

さて、おそらく、一つのことに集中すること、それがしかも呼吸などという日頃ごく当たり前に、無意識にしているものであるならなおさら、これは退屈で苦痛なものと感じられるのでしょう。

しかし、そのように感じることは別段変わったことではなく、ごく当たり前のことです。人の心、その意識はそれだけ普段あちこちへ忙しく飛び回り、自分が特に好ましく思うものか、特に嫌い憎むものに対してしか、集中しようとしません。これを無理やり、そもそも意識を向ける必要のない呼吸に繋ぎ留めようというのですから、最初は苦痛であるほうが普通であると思います。

ですから、初めの幾許かの期間は、これは人やその環境によって異なるでしょうが、我慢して坐り続け、努力してあるいは呼吸を数え、そして意識を繋ぎ止めて、じっと己の身心を見つめんと努力すると良いでしょう。一時間程度も続けていられないようでは話になりませんが、二時間続けていられるようになれば、まずは「坐る準備」は整ったと言えるでしょう。

ただ長く続ければ良い、というものではありません。しかし、長く集中して続けられるようになればなるほど、逆に短時間でも瞑想に没頭出来るようになっていくものです。

これは受験勉強するのと同じことです。それまで勉強などしたことが無い者が、何か目的に向かって勉強しようとしたとして、最初に何がつらいかといえば、まず机の前で長時間、ジッと坐ることが一番苦痛であると言えるかも知れません。そして、ほとんどわからず、故に面白くもない参考書などにただただ取り組むまなければならないのは、それまでサボり続けた頭にとっては、苦行のように感じられるものです。

しかし、それでも努力して理解し、正解が出せるようになってくると、勉強も面白く、やりがいのあるものになっていきます。また、そうなれば、机に坐ればたちまち問題に集中して取り組めるようになっていくでしょう。

何事にも根気と努力が必要です。そして、その努力は正しい方法でなければなりません。その正しい方法とは、仏教では、まず経典や律蔵に従うこと、そして諸々の論書や過去の大徳たちが遺した修道書などの指南に従うことです。あるいは縁があれば、僧伽の瑜伽師の指導を仰ぐのもよいでしょう。けれども現実として、善知識にめぐり合って、その教導に浴することは実に困難なことです。

いや、末世にあって善き師に値遇することなど、まず望むべくもないことかもしれません。

安般念は、仏陀の教えを目の当たりにする勝れた術の一つです。これによって、わずかでも人が仏陀の教えという広大なる海に漕ぎ出し、あらたな地にたどり着くことを祈ってやみません。

下愚沙門覺應(慧照) 敬識
(By Araññaka bhikkhu Ñāṇajoti)

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