真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ なぜ仏教では瞑想するのか

瞑想とは何か |  伝統と流行のはざまで |  なぜ仏教では瞑想するのか |  悟りへの道

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ トップページに戻る

1.戒定慧の三学

仏教の修道法

仏教は悟りの獲得、苦しみの生存からの開放、輪廻転生からの解脱を目標とする仏教では、修行者はその実践にあたって、必ず三学[さんがく]を修めなければなりません。

三学とは、釈尊によって教えが説かれて以来、その弟子達によってその教えが仏教として伝えられた初めからの、修行の根本的枠組みです。三学とは、七衆それぞれの立場によって異る戒あるいは律を守ろうと努力し、実際に守る、戒学[かいがく]。瞑想を修める定学[じょうがく]。 あるがままにモノの本質を見て知る、慧学[えがく]という三つの階梯からなっています。これを一般に、戒定慧[かいじょうえ]の三学と言います。

仏教には、大乗と小乗という二つの流れがあります。大乗・小乗のそれぞれ諸派は、その歴史の中で、修道論を多岐にわたって説いてきましたが、しかし、この三学の枠からはみ出るものではありません。

三学は、日々に戒めを保った生活を送った上で、瞑想によって精神を安定させて煩悩から離れ、物と心を観察してその本質を見極める智慧を磨いていく、という過程で行われも のです。よって、三学の中のいずれかを行えば良い、というものでは決してなく、それぞれ次第して行わなければなりません。

このことから、戒を守らないで良い、瞑想などする必要もない、ただ強い信仰心を持って生きることこそ必要であってそれが仏教であるなどといった教義を有する、仏教を名乗る宗派・団体があったとしても、それは仏教とは異なるものです。

定は樹

三学を喩えて言うならば、「戒は大地」であり、「定は樹」であり、「慧はその果実」です。大地がなければ樹が根付くことも、その実がなることもありえません。

この譬えのように、戒を保った生活という堅固な大地がなければ、瞑想において心の安定という樹が根付かず育たず、よって智慧という実りも得ることは出来ません。

戒という大地を耕さずして、ただ瞑想という樹を大きく育て、そこから智慧という実りを得ようと期待する者があります。戒や律などというものを、形骸化した教条的な意味のないものと見なし、ただ瞑想だけに励んで悟りを得ようと言うのです。ぬかるんで不安定な大地、耕されずに荒れた大地であっても、樹がある程度育つことは可能でしょう。実際、奔放な生活を送っておきながらも、時に瞑想だけを集中的に行い、そこでなんらか通常ならざる経験をすることは可能です。いや、そのようなことは容易と言えるでしょう。

しかし、そのような不安定な、あるいは痩せた地盤の上にたつ樹ではがっしりとして太く大きくなることはなく、そこから豊かな実り、大きな実りを得ることは出来ません。ついにそのような人は、悟りを得ることは出来ないのです。

(戒学については 戒律講説 を参照のこと。)

ここで定学ならびに慧学について、つまり仏教の瞑想について少しばかり紹介します。仏教の瞑想とは、「仏教に特有の瞑想」と言い換えが可能でしょう。仏教の瞑想、それは止観[しかん]です。

非人沙門覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ “仏教の瞑想”へ戻る

2.ブッダ-菩提樹下の瞑想-

 

準備中

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ “仏教の瞑想”へ戻る

瞑想とは何か |  伝統と流行のはざまで |  なぜ仏教では瞑想するのか |  悟りへの道

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。