真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.西洋における東洋的瞑想との邂逅

禅者 SUZUKI

ヨーロッパにおいて、その長い歴史にもかかわらず、キリスト教などの宗教で瞑想を行ってきたのは、ほとんど厳しい修道院生活を送っている司祭や僧侶に限られると言ってよく、その信奉者が瞑想をするというのはきわめて稀です。よって、ヨーロッパにおいては、歴史的に見ると、瞑想は「一般的なもの」とは言えません。

むしろ、建国して200年程度のアメリカにおいてのほうが、瞑想は一般社会に認知された、まったく一般的なものであるといえます。

これは、大正から昭和の戦前・戦後にかけ、日本の禅者であった鈴木大拙[すずき だいせつ]氏が、アメリカに渡って漢訳仏典を英訳、精力的に講演などして、特に「禅」を広く紹介したことによります。これがアメリカにおいて、仏教が広く紹介された初めであり、また瞑想がなんたるものであるかを知るきっかけとなっています。

(今でもそのような認識にある人も多くありますが、)当時の感覚から言えば、「Asia(東洋)という、劣悪・未開で薄気味の悪い地域」に、これほど洗練された知的な宗教があることを知らされ、当時の一部アメリカ人に一種のカルチャーショックをすら与えています。ただ単にエキゾティックで珍しいというのだけでなはく、禅の逆説を多用してモノの核心に迫らんとする態度が、西洋の文化人の知的好奇心をくすぐり、これをきっかけとして禅(ZEN)が「知的な瞑想」としてアメリカを始めとして、ヨーロッパでもよく知られるようになりました。

また鈴木大拙氏ならびにその後進の精力的な活動によって、無論、禅は支那発祥のものですが、いまや禅の日本語読みであるZEN[ゼン](現代の支那語読みでは「チャン」)が定着し、日本のものだと思っている人が多くあります。

実際のところ、いまだ現在も支那や台湾、朝鮮において禅系統の宗派は存在するには存在しています。しかし、それらはもはや、確たる伝統の上にたつものとは言い難い、その残滓にすぎません。

弓道・茶道・華道・剣道など、日本人がそれら技術を「道」として昇華させた、禅にまつわる日本の洗練された文化にも興味をもった者が多く、今も宗教を超えて禅を学びあるいは修め、その周辺文化に心酔している人があります。アメリカやヨーロッパはもとより、東南アジアでも、いまだその著作を読み、禅者SUZUKIを尊敬している人が少なくありません。

このようなことから、英語圏、特にアメリカでは、二十世紀末に流行したチベット仏教に続いて、パーリ語に基づく上座部仏教が近年流行してきているにも関わらず、漢語で言うところの業や法・達磨など仏教術語を言う場合は、大乗の伝統に基づいて、パーリ語のKamma[カンマ]やDhamma[ダンマ]ではなく、Karma[カルマ]やDharma[ダルマ]と、サンスクリットの綴りを用いるのが根付いています。

瞑想?カッコイィ

近年世間で持てはやされ、様々な西洋的・現代的亜流を生み出しているYoga[ヨーガ]は、1960年代頃から、アメリカで流行りだしたものです。そして、インド発祥でエキゾティックな要素を多く含むYogaは、「いわゆる宗教」に対する嫌悪感・不信感を抱く者が多くなりつつある西洋人、あるいは西洋教育を受けた者にも適合するような形に変えられ、やはりアメリカを中心として全世界に波及していったものと言えます。

これは日本人にとって意外なことかも知れませんが、今や西洋ではアメリカが最も瞑想の盛んな国となっており、ヨーロッパ各国もまた、瞑想を修める人々が急速に増加ています。多くの瞑想センターが、アメリカ国内各地またヨーロッパ諸国に存在し、様々な瞑想が行われています。そのほとんどが仏教系かインド教系のもので、特に上座部系統のものが最近とみに隆盛しています。

中には、むしろ宗教色や神秘主義を前面に打ち出して活動しているものもありますが、多くはその背後にある歴史や思想などを極力伏せ、宗教色を隠し、あるいは排除して、「科学的裏付け」などと言ったものが持ち出された、一種の健康体操、ダイエットの方法論としての一、ストレス解消法や精神安定法の一つ、あるいは時として旅先でのエキゾティックなアトラクション、エンターテイメントの一種としても行われることがあります。

さらには、西洋医学の世界においても、瞑想は心理療法の一環、一方法として注目され、その効果が医療として期待されてもいます。

ここ半世紀ほど前から、瞑想は、西洋においてまさに「流行」しています。瞑想していること、そしてさらに菜食主義者(ベジタリアン)であることは、簡単にいえば「カッコイイこと」であると。そしてこの流行は、急速に西洋世界に広まっているのみならず、面白い事に、西洋的なそれとして、また東洋に逆輸入されています。

とは言え、さすがに果食主義者(フルータリアン)までいくと「気違い染みている」と見られるのは、洋の東西を問わないようです。

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2.伝統と流行のはざまで

単なる技術、としての瞑想

しかし、ここにおいて瞑想は、アジアの宗教の中で培われてきた伝統的それとしてではなく、いかなる宗教にも関しない、純粋なテクニック(技術・技巧)として捉えられ、抽出されていることが多く見られます。瞑想はもはや「宗教行為ではない」と言うのです。

これはほとんど全ての種類の瞑想について言えることですが、特に一般にYogaといわれる瞑想法では著しい傾向と言えます。

古代、音楽や美術などの文化的活動・諸芸術が宗教と不可分であったのが、やがて分離し各個に発達していったのと同じような現象と言えるかもしれません。と言っても、彼らの「宗教」の定義がキリスト教など、セム族の宗教を基準にしたものなので、東洋人の目からすると、それが充分に宗教に見えることがままあります。

このような流れの中で、仏教の瞑想として宣伝され世に行われるようになったものもまた、そのような西洋化・合理化の波を免れなかったものが多いと言えます。

インドやビルマ、チベットあるいは日本で伝統的に行われていたものを、その指導者を招聘あるいは自身が現地で直接学ぶなどしてアメリカやヨーロッパに輸入。そして、西洋で行われ、西洋化された瞑想法やその指導法、瞑想センターの運営システムなどを、インドやビルマに逆輸入して、瞑想センターが運営されている、といった現象も見られます。

日本にもわずかながら彼らの施設が建てられ、日本語で「コースを受講」することが出来ます。が、日本はこの分野に関心が薄いようで、海外に比して盛んでなく、瞑想に関する書籍もそれほど多く出版されていません。

これによって、現在日本で紹介され実行されているそれらは、ともすると偏ったものになるようです。よって、この流れにある瞑想法を深く自分で知ろうと思うならば、やはり英語に堪能であって、英語で出版されている書籍を、直接そして多数読むことが必須となるでしょう。

瞑想は宗教に関係が無い?

たしかに、その種類にもよりますが、瞑想は人の宗教の別、信仰の有無を問わず行えます。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など唯一絶対の神を信じ、偶像崇拝を禁じている宗教の信者にも、また洋の東西を問わず近年その数が急速に増大している無神論者(Atheist)や不可知論者(Agnostic)にも、「何かに対する祈り」や信仰の強制を伴わない瞑想ならば行いやすいでしょう。

実際、近年、イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒、そして仏教徒とヒンドゥー教徒や無神論者などあらゆる(と言っても、そのほとんどが教育を受けた中産階級以上の時間と経済に余裕のある)人々が、同じ屋根の下、同じ方法で仲良く瞑想、などといった光景が、これは場所にもよりますが、海外の瞑想センターなどで日常的に見られるようになってきました。

これは一見、今までの常識は考えられない、宗教を越えた新しい動きと見ることが出来るでしょう。

そこで必要なのはただ、知的な自心の観察あるいは身体的運動のみで、祈りが無い、信仰も強制されない、故に「宗教ではない」というのです。

さらに、人によっては、たとえば仏教の瞑想をして「科学である」などと、やたらと言いたがりますが、さて、どうでしょう。

確かに、そのように見れば、瞑想はその種類によって、たとえばContemplation(じっと見つめる・観察する)やInsight(洞察)などの英訳語があるように、科学的「側面」が認められます。また、実際に瞑想を体験することによって得られる、身体的・精神的利益というものが、科学的データとして採られ、まさしく証明されていっています。

科学的データが取られたらたちまち「これはカガクだ!」などということは決して無いのすが、そのような事実をもって布教や人を説得する根拠とすることは、特に現代は要請されているのでしょう。

(日本人の禅家や密教家などの宗教家などは、そのような科学的証明などのためにデータをとられることをそれはそれは毛嫌いする者が多く、そのような動きはほとんど海外に限られています。「見透かされる」ことを嫌う日本人の性癖がまずあるのでしょう。また、己が信奉する対象を、カガクなるものの対象とされたら、その聖性が失われてしまう、などといった観念、一種の恐怖感があるのかもしれません。)

しかしながら、ただの健康目的または治療目的のものはともかく、しかし、仏教やインド教の説く瞑想では決してそれだけではなく、唯一神の非存在や汎神論、輪廻転生、業報思想を自明の常識、絶対の前提としています。よって、結局最後には、それへと誘導、あるいはそれが主張されることになります。

といっても、いきなりそれらが開陳されると、多くの場合、現代の合理主義的思考と、自然科学からすれば到底認められない、業報思想・輪廻転生など伝統的思想・宗教的世界観とが衝突し、人に葛藤あるいは不信、拒絶をもたらすことになりかねません。

そこで、これらを最初は敢えて隠し、積極的に瞑想体験者に言うことなしに、本人に自覚させることを良しとするもの、期待するものがあります。あるいは、自身達が理解できる範囲のものだけ取捨選択し、あとは不合理な前時代的遺産、単なる迷信(ゴミ)として処理しているものもあります。

しかし、それらは、永い歴史・伝統の中で不可分に伝えられてきたものであり、除去すればたちまち中身の無くなってしまうような種類のものでもあって、そう上手いようにはいかないようです。

仏教の瞑想、いや仏教そのものすら「宗教(などという低級なもの)ではない」「科学である」と言いたがる人々は、西洋教育をうけ、自然科学の知識をある程度備えた身で、それによって説明の付けられない事柄を受け入れることは出来ないのでしょう。

いや、宗教というものが、胡散臭い、前時代的なものであって、人はそこから脱却して自由になるべきであるという、啓蒙主義的見方が大勢を占める社会において、「この(合理的で賢い?)自分」が、そのような前時代的な宗教などと言うものに関わっていると見られるのが、自他共に対して「恥ずかしい」というのが、彼らの態度から伺えることがあります。

結局、これは瞑想の種類にもよりますが、ほとんどの瞑想はその入口こそ宗教の別を問うものではないように見えたとしても、その背景にある思想や歴史、その中や向かう出口となるとまったく宗教的です。

「科学である」、などという主張はまったく論外ですが、瞑想は宗教行為ではない、宗教を問わないというのも欺瞞である、と言えるかも知れません。

非人沙門覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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