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1.瞑想とは

瞑想とは

写真:モヘンジョ・ダロから発掘された冥想する人を刻んだと思われる印章

「瞑想」とは、一般に、足を組むなどして座り、目を閉じて心を落ち着けるなどの行為全般を言うものです。

たとえば『広辞苑(第六版)』では、「めいそう【瞑想・瞑想】」の項にて、「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと。」などと説明しています。

世間では、瞑想というと、ただちに禅やヨーガを想起する人が多いかもしれません。禅とは、大まかに言えば、仏教の伝来によって支那で誕生し、日本で継承されてきた、仏教の一派である禅宗の行う瞑想法あるいはその思想全体。ヨーガとは、古代インドから継承され様々に発展してきた、宗教的修練法の一つです。

考古学的には、現在確認されている限りで、インド西部(現パキスタン周辺)が瞑想を行っていた最古の地域です。今から約五千年から三千五百年前に栄えたインダス文明の遺跡Mohenjo-Daro[モヘンジョダロ]から、人が瞑想を行っているような姿が刻まれている印章が発見されているのです。もっとも、これだけでは果たしてそれが本当に瞑想を行っている姿をかたどったものなのか、もし瞑想しているとしたら何を目的にしていたのかなどは、わかろうはずもありません。

ただし、インダス文明の特色を色濃く継承しているインドにおいて瞑想が特に発達した事実を考えれば、この印章が瞑想の姿を写したモノであろうことが推測出来、わざわざ印章にされていることから、それが何らか高貴あるいは高尚な行為とされていたとの予測が出来ます。

そして、この印章がやはり瞑想中の行者を描いた物であるならば、やがてインドで高度に発達していく瞑想という行為が、インドにアーリア人が侵入する以前からこの地で行われていた、アーリア人に起源するものではなかったことが知られるでしょう。

多くの宗教で行われる瞑想

しかし、現在にまで瞑想を伝え行ってきたのは、なにも仏教を含むインド発祥の宗教に限ったことではありません。

例えば、異端とされ弾圧されたグノーシス派や、正教(オーソドックス)の静寂主義(ヘシカズム)、旧教(カトリック)の修道院などキリスト教においても行われ、イスラム教のスーフィズムも瞑想の一種と言えるものが行われています。世界宗教と言われている仏教・キリスト教・イスラム教のいずれでも、なんらかの形で瞑想を行ってきているのです。

また他にも、支那の道教(タオイズム)、北米のネイティブアメリカンやオーストラリアのアボリジニーの精霊信仰の中など、異なる風土・風習・歴史をもつ国や地域において行われてきました。

それらで行われてきた瞑想には、一般的なイメージの通り単純に目を閉じ心を落ち着けようとするものから、心と体の調和をはかって健康を維持あるいは回復せんとするもの、呼吸を整えることによって心身を制御しようとするもの。時として一種の麻薬を併用するなどして、自然界に満ちる神霊や精霊、祖霊の声を聞かんとするためのものや、(唯一絶対なる)神の光を体験しようとするもの。

または、(世界の根本的な存在原理としての)神と合一せんとするもの。この世の真理を見通す智慧を獲得せんとするものなどがあり、種種の宗教において、様々な目的をもって行われてきました。

よって、瞑想と一口にいってもその内容は様々であり、一般的な意味や辞書での説明で言われるような、座ったり目を閉じたりして、考えたり想像したりすることが「瞑想である」とは必ずしも言えず、ゆえに「これこそが瞑想である」などといえるものはありません。

瞑想(冥想)という言葉

ところで、「瞑想」という言葉自体は、仏教に由来するものではなく、『荘子』など道教に由来する言葉です。瞑想という言葉について、『岩波仏教辞典』に簡便な説明が加えられているので、以下に引用しておきます。

瞑想
〈冥想〉とも書く。〈冥想〉は漢語としては、目を閉じて深く思索するという意味。東晋の支遁(あるいは支道林、314-366)の「詠懐詩」に「道会冥想を貴び、罔象 玄珠を掇る」とあり、大道に合一するために冥想が貴ばれいる。深い精神集中のなかで根源的な真理と一体化することを「冥」の字を用いて表すことは、『荘子』およびその郭象の注にしばしば見られる。「冥冥に視、無声に聴く。冥冥の中、独り暁を見、無声の中、独り和を聞く」〔『荘子』天地〕、「冥然として造化と一と為る」〔『荘子』養生主、郭象注〕など。「瞑想」もそうした『荘子』の思想を背景として出てきたものと考えられる。
しかし、伝統的な仏教ではこの語はほとんど用いられてない。近代になって、仏教がヨーロッパで研究・実践されるようになると、禅やチベット仏教の実修がヨーガなどとともに、meditationcontemplationとして理解されるようになった。それが邦訳されて〈瞑想〉と呼ばれるようになった。ヨーロッパにおいても、カトリックやキリスト教神秘主義の伝統では瞑想を重視する。ここから、仏教の瞑想もこれらのヨーロッパの伝統と比較され、また、心理学や精神医学の領域に取り入れられたりして、広く普及するようになった。

『岩波仏教辞典』岩波書店

以上のように、瞑想あるいは冥想という言葉自体は、支那において主として道教から発せられたものです。しかも、日本では、西洋のMeditationの訳語として近代において当てられたものであって、伝統的にそのような言葉が使われてきたわけではありません。

Meditation, Contemplation & Insight

ここで、またついでに、英語で瞑想の訳語として用いられている語について触れておきましょう。

日本語で「熟慮」「内省」などを意味する、英語のMeditation[メディテイション]という単語は、一説に「熟考する」を意味するラテン語の動詞Meditariに由来する、medit(考える)+ate(させる)から来たものだと言われます。

たとえば、発刊以来思想界に多大な影響を及ぼしてきた、デカルトの“Meditationes de prima philosophia”(『第一哲学に関する省察』1604)は、『省察録』なる邦題で日本でも知られていますが、そこでは邦題通り「省察」の意味で用いられています。

次に、日本語で「じっと見つめること」あるいは「熟考」「沈思」を意味するContemplation[コンテンプレイション]は、ラテン語のContemplatus(じっと見つめる)から来たものです。この語は、強意を意味する接頭辞con-と、「寺院・神殿」あるいは「占いのための特別な場所」を意味するtemplum(>tempe)からなっているものです。

ギリシャ哲学にて、実践的態度に対する静観的態度、知的にものごとの本質を見きわめんとする態度をいう、ギリシャ語のTheōria[テオーリア]に対応する語です。

あるいはまた最近の英語圏では、特に仏教の瞑想の一つ、観(サンスクリット:vipaśyanā[ヴィパシュヤナー]・パーリ語:vipassanā[ヴィパッサナー])を、insight[インサイト]と英訳して用いることが一般的となっています。この語は中期英語で、そのままin-(中を)+sight(見る)となっており、「洞察」あるいは「直感的理解」との意味です。

いずれにせよ、英語では、少なくともその言葉上は、いわゆる瞑想とは何事か知的な行為であると捉えられています。

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2.仏教における瞑想の原語と原義

BhāvanāYoga

では、そもそも仏教における瞑想に該当する原語、瞑想と訳される言葉は何か。

仏教における、いわゆる瞑想という言葉に該当する原語、それはサンスクリットならびにパーリ語のbhāvanā[バーヴァナー]とyoga[ヨーガ]です。

以下、話が若干込み入ってまったく一般的でなくなり、すでに衒学的[げんがくてき](pedantic)の臭気が漂う内容であるのに、それがさらに強くなってしまうことは非常に不本意です。しかしながら、仏教における瞑想の本質を知るため、これは重要な言葉であるため、やや詳細にしていきます。

まず、bhāvanāとは、「開発」・「発展」・「増大」などをそもそもの意味とする言葉です。これは、「開発する」・「耕す」・「増やす」などを意味する動詞bhāveti[バーヴェーティ]が名詞化したものです。

そして、このbhāvetiという動詞は、√bhū+e+ti という構造になっています。語根の√bhū は、「有ること」・「~であること」を意味するものです。なぜ語根の bhū bhāv になるかというと、語基を作るのに ūāv と音変化したことによります。

次に、語根のあとにくる e は接尾辞で、この場合「~させる」という使役動詞を構成する縁語です。最後にくっついている ti というのは、現在・能動・三人称単数を意味する動詞活用で、人称や時制などによって変化します。伝統的なインド語の文法書では、ある動詞を示すのに三人称単数を用いるのが一般的ですので、ここでもこれに習っています。

さて、このようなことから、bhāvetiという動詞の原義は、何事かを「~であらせる」「~にさせる」という意味のもので、これが転じて「開発する」などの意味となったものであることが知られるでしょう。

そして、このように語源から見ていくと、仏教においていわゆる瞑想(meditation)を意味する言葉として用いられる言葉の一つ、bhāvanāという言葉の核には、何事かを自らが目的とするものに「させるもの」「変えるもの」という意味があることが、以上のことから理解できたのではないでしょうか。

それは、まさに仏教の瞑想の本質を表したものです。

漢語では、これを修行[しゅぎょう]あるいは修習[しゅじゅう]と訳し、現代日本語でも単に「瞑想」、あるいは「修めること」などと訳している場合があります。

次に、yogaは、「つなぎ止めること」を原義とする、√yuj[ユジュ]から派生した言葉です。一般には、「(牛馬や車の)軛[くびき]」「束縛」あるいは「相応」・「関係」を意味する言葉として用いられ、転じて「瞑想」や「修行」、「努力」をも意味するようになった言葉です。時には束縛という点から、煩悩について言われる言葉でもあります。漢訳では、多く瑜伽[ゆが]と音写され、いわゆる瞑想を意味するものとして、たとえば日本では真言宗や天台宗、あるいは法相宗にて用いられてきました。

さて、いずれの語も、仏教でのいわゆる瞑想に対応する言葉です。が、それぞれを原義を踏まえて言うとすれば、bhāvanāは「(心を)良く変えること」または「(心を)開発すること」で、yogaは「(心を対象に)結びつけること」あるいは「(心を真理と)相応すること」と言い得ます。

また参考までに、仏教がインドから伝わり、現在に至るまでチベット人のほとんどが仏教徒でその伝統を強く保持し、世界的にもその瞑想の伝統の豊かで優れていることが認めれているチベットでは、どのように訳されているか、すなわち理解されているかを見てみましょう。

bhāvanāは、チベット語ではgom[ゴン]と訳されます。その意味は「精通すること」、あるいは「慣れ親しむこと」。すなわち、bhāvanāはチベットにおいて「心に精通すること」・「心に習熟すること」と解されています。

DhyānaSamādhi

また、サンスクリットdhyāna[ディアーナ](パーリ語ではjhāna[ジャーナ])とsamādhi[サマーディ]も、本来的には「瞑想(など)によって達する、ある心的状態」を意味するものですが、巷間では瞑想を指し示すものとして用いられる言葉です。

これら、サンスクリットdhyānaあるいはパーリ語のjhānaという語は、「明らめる」「知る」などを意味する√dhyai からの派生したもので、「瞑想」から「思想」、「沈思」を意味する言葉です。仏教では特に、「深い瞑想の境地」、具体的には「(瞑想によって)強力な集中力を保ちつつ、ある特定の心の働きを伴っている心の状態」を指して用いられます。漢語では、これを禅那[ぜんな]と音写しています。

特に日本から世界に広く知れ渡った「禅(ZEN)」は、この禅那の略語で、禅という思想とそれにもとづく瞑想を示す言葉として、世界中で通用する語になっています。

samādhi[サマーディ]は、サンスクリットならびにパーリ語で、「正しく」「等しく」「共に」を意味する接頭辞samに、「定める」・「整える」を意味する√dhāから成る言葉(sam+ā+√dhā)の音写語で、「専心」・「集中」・「瞑想によって集中した心の状態」・「整えられた心の状態」または「瞑想」を指し示す言葉です。この音写語に、三昧[さんまい]・三摩地[さんまぢ]という言葉があります。

(禅とはなにかの詳細については、“禅について”を参照のこと。)

三昧は、日本の一般社会でも、「~三昧」などと何事かに集中・没頭しているときにしばしば用いられる、比較的なじみがある言葉と言えるでしょう。この漢訳語には、定[じょう]や等持[とうじ]がありますが、適訳です。

SādhanaPatipatti

さらにまた、サンスクリットならびにパーリ語のsādhana[サーダナ]という言葉も、広義の瞑想を示す言葉として、これは特に密教にて用いられます。この言葉は「善い」「十分である」などを意味する√sādh[サードゥ]から起こった言葉で、「証すこと」・「完遂」・「成就」あるいは「借金の完済」を意味する言葉です。日本では近年、この言葉を成就法と訳すことが多いようです。悟りを証すること、悟りを成就する術である、瞑想法を指す言葉です。

正規のサンスクリットとは異なるブッディスト・サンスクリット(ハイブリッド・サンスクリット)でいう、pratipatti[プラティパッティ]、パーリ語でpatipatti[パティパッティ]という言葉も、広義では瞑想を指すものです。仏教では教義の学習と瞑想の実践を、たとえば日本語では「教と行」あるいは密教で「教相と事相」などと対比して言うのですが、patipattiは、まさに「行」に該当する言葉です。

実際、しばしば上座部仏教国では、「教え」あるいは律蔵・経蔵・論蔵の三蔵の学習いわゆる座学を意味するpariyatti[パリヤッティ]に対するものとして、patipatiという語が用いられていますが、それはその内容から瞑想を意味する言葉でもあります。

瞑想 ― この心を育てるもの

その原語から見てみるによって、仏教において瞑想がどのようなものであるか、その思想内容・位置づけが明らかになるでしょう。

仏教では、瞑想とは心を育てるものです。心を整え、見つめ、これを知る。そして、真理と相応させていくことです。

心を育てるものとしての仏教の瞑想は、伝統的に、まず大きく分けて二種類の方法が説かれています。それはまず、集中力をつけることに依って、波立ち濁った湖面のような普段の心を沈め清め、そしてなんら色眼鏡を付けずして、静まり凪いだ湖上にてその底を覗き見るようなものです。これを伝統的に止観と言います。文字通り、止めて観る、ということを行うのです。

それらは、さらにそれぞれ種々様々な修習法が、経論の中あるいは後代の禅師たちの書の中で具体的に説かれています。しかしやはり、それも結局は、主眼である「心をいかにするか」ということからはみ出しません。

(仏教の瞑想についての詳細は、別項“止観とは何か”ならびに“如実知自心”を参照のこと。)

仏教の瞑想は、リラックスすることや健康を目的とするものではなく、いやそれもまた修習している中で享受し得る利点の一つではあるのですが、あくまでも心を育てることを目的としたものです。

仏教とYoga

上に挙げた言葉のほとんどは、日本にあまりなじみのない、一般的なものではないものかもしれません。

しかし、Yogaというと、やったことがない人でも一度は聞いたことはあるほど、特に60年代頃からのことでしょうか、日本でも普及した言葉であるでしょう。いや、ヨーガではなく、これは誤った呼称なのですが「ヨガ」と呼ぶ人のほうが多いでしょうか。それは、インド発祥のエキゾティックな「健康体操」である、と思っている人もあるかもしれません。

けれども今流行りのそれは、インド教の伝統に淵源するもので、その起源はまったくの宗教行為、修行法の一つです。

伝統的インド教の中には、ヨーガ学派なるものが、インド正統バラモン思想を意味する六派哲学などと総称されるものの中にあります。そこでは、ヨーガに六つの別を設けています。現在世間で流行しているものは、13世紀ごろに提唱されたHaṭha yoga[ハタ・ヨーガ」(あるいはHaṭha vidyā[ハタ・ヴィドゥヤー])という範疇に入るもので、比較的新しい、まだ歴史の浅いものです。そしてそれは、現在の状況とは正反対で、それら諸ヨーガの中では傍流といえるものです。

Yogaという言葉自体は、仏教誕生より以前、「感覚の制御」を指す言葉として使用されていたことが、現在知られています。しかし、実は、インド教におけるヨーガの伝統、特にヨーガ学派に淵源するそれは、すでに高度に発達していた仏教の教義と瞑想法に、仏教の論敵であったインド教が逆に触発されて、紀元前2-5世紀頃に徐々に形成され(Patañjali[パタンジャリ]に帰せられる“Yoga sūtra[ヨーガ・スートラ]”なる聖典が編纂)、発達してきたものです。

それぞれ背景にある思想をまったく異にしているので、同じYogaといっても、現代流行するそれがそうであるように、仏教で説くところのものと、伝統的インド教のものとは別物です。

仏教はその誕生以来、その教義からすると必然的に、心の分析を深めてきました。と、同時に、いわゆる瞑想について緻密な体系を築きあげてきました。これにむしろ影響を受けたのが、特に六派哲学の中でもサーンキャ派やヨーガ派で、彼らは仏教に非常に対抗し、しかし多くの影響を受けて形成されたものです。

といっても、仏教にもまた、インド教において発達した瞑想法を逆に取り入れるなどして、仏教なかでも密教にて、仏教的な思想の裏付けがなされ実践されています。これは特に、チベット仏教において伝承され、今に伝えられています。

非人沙門覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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