真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 悟りへの道

瞑想とは何か |  伝統と流行のはざまで |  なぜ仏教では瞑想するのか |  悟りへの道

← 前の項を見る・最初の項へ戻る →

・ トップページに戻る

1.魔境

小人の学は耳より入りて口より出ず

仏教の瞑想は、止観[しかん]です。

(止観については”止観とは何か”を参照のこと。)

止観によって、仏教の修行者は、その目的を達成することが出来ます。もっとも、これは気をつけなければならないことですが、瞑想することだけが「悟りへの道」ではありません。戒学・定学・慧学の三学を実践すること、あるいは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を実践することが、「悟りへの道」です。

これは瞑想修行者に多く見られることですが、戒を軽んじ、ただ瞑想だけを行って、そこで体験した尋常ならざる感覚、経験などに舞い上がり、この体験に執着し、瞑想に異常なまでに固執するようになる者が多くあります。また、ありとあらゆる瞑想法を知りたい、試したいとばかりに貪欲に様々なものに手を付け、一応それらについての書籍を読みあさるなどして知識をかき集め、初心の者、無知の者に得々と説きたがる者も、よく見られます。

時として、そのような人々は、自説に反する他者、あるいは自身より知識量において劣る者と、口角泡を飛ばして論争。なんとか勝とうとして躍起になるのですが、この場合、論争に勝ってもなんの役にも立ちません。

『荀子』に言われる「小人の学は耳より入りて口より出ず」と言ったところでしょう。無益なことです。

魔境

瞑想中に経験した恍惚感あるいは覚醒感などが、その体験をした人にとって、その後の人生が変わるほど衝撃的だった場合、それをもって自身が行っている瞑想法の正しいことの証明とし、「異常に」のめり込んでいくことがあります。

しかし、その様な経験や感覚など、仏教以外の瞑想法でも得られるものである場合が数多くあります。故にその様な経験など、自身が行っている瞑想法の正しさや、悟りに近付いていることを証明するものではありません。これを伝統的に魔境といい、たいへん多くの瞑想修行者が陥ってしまう深い坑です。これは、いわゆる定[じょう]や三昧、等持と言われる精神状態に対し、異常なまでに執着することを意味します。

(詳細は”止観とは何か”を参照のこと。)

瞑想修行者の中には、自らのわずかな瞑想体験に基づいて、その瞑想法が絶対無二であり、またその体験へと導いてくれた師の指導法・指導内容は至上のものである、という思考を持つ者が現れます。実際、瞑想修行中には、師の指導法・指導内容に全幅の信頼をおく必要がある場合があります。

しかし、これもまた瞑想修行者にとっての大きな坑となってしまいます。

師を信頼する余り、あるいは絶対化する余り、自分が学んだ以外の瞑想を認めない、認められないという、ありがちの愚を犯す者が多くみられます。これは小乗から大乗を問わず、瞑想修行者に多く認められる現象です。

瞑想によって浄められた「はず」の心が、自身が知っていること、信じていること以外のものを受け入れられなくなって、ある場合には攻撃性すら伴う、強い排他性をもつことがしばしばあるのです。

瞑想に達した、はずの短気で強欲な指導者たち

瞑想に長けている、その指導方法が優れているからと言って、その人の人格が優れているとは、必ずしも言えません。

瞑想修行の指導者や長年の修行者の中には、まことに本末転倒なことですが、高慢・傲慢な性格を醸成してしまっている者がしばしば見られます。また、これらの膝下に入ってその指導を受けている瞑想修行者には、それを見抜けない者、見抜けなくなってしまっている者が、上記の理由からかなり多数存在します。

(“Kesamuttisutta ―カーラーマへの教え”を参照のこと。)

そのようなことにならないためには、瞑想修行に入る前に、経論を充分に学んでおくのも良いでしょう。いや、師の資質をその膝下に入るまえに十二分に見極める必要があります。

もっとも、経論を充分に学ぶについても、また有能な師を必要とする者が多く、師の資質を見極めるといっても何を基準にしてよいかわからず、現実には縁にまかせてその膝下に入ることになってしまうでしょう。その人の宿善の有無・多少によって大きく異なる点です。

まず、そもそも日本では、長く培われた伝統的な経論の学習過程が、現在の日本仏教の各宗派においてほぼ消滅しており、また密教・禅のいずれにおいても瞑想の優れた指導者がすでに過去の人となって久しい、と言ってよい状態にあります。故に、日本で優れた師に巡り会うなど、ほとんど不可能と思えるほど、大変難しいこととなっています。

いや、真言宗や天台宗など密教を伝える宗では、今も一応、「事相家」などといわれる瑜伽・観法の所作や奥伝に通じた者らがあるにはあります。

しかし、そのような「事相家」などと言われる者のほとんど多くが、非常に短気で甚だ怒りっぽく、何か自分の気に入らないことがあればどなりちらすような者ばかりです。しかしそれでは、彼らの伝え行なっている法、彼らが最勝最極だと称するところの密教の三密瑜伽が、彼ら自身の徳・人格に対してなんの役にも立たないことの証明となってしまっています。しかし、その矛盾に気づく者は、密教行者にはほとんどいません。

それは密教自体に非があるというのではなく、彼らが伝え行なっているのが単なる作法・所作の範疇でしかなく、修習や瑜伽などという次元以前のものとなってしまっているためなのでしょう。

結局、志あっても師なき人のその行き先は、自身の機根(能力)や宿縁にのみ、大きく左右されたものとなるでしょう。

もっとも、これは伝統的な学習課程が依然として根強く残る外国、たとえばビルマやタイの瞑想道場においても、実はまったく同様のことが言えます。

多くの本を出版するなどし、世界中で瞑想指導や講演会を行っているような著名な指導者・僧侶であっても、人格が優れているから有名、などというわけでは決してありません。しかし、世の中はそうしたもので高名、ということだけで盲目的に従っている人々、その指導者の本質にまったく気づかずに盲従する人々も、五万といます。

いや、若かりし頃、彼らも有名になり出した頃は、実際良かったのかもしれません。

しかし、高名となり、人々が篤く彼を信奉してあたかも阿羅漢あるいは生き仏のごとく扱うようになり、寄進などが多く集まるようになって豊かとなり、それが年を経て常態化したことによって堕落してしまったのかもしれません。高踏的で、自分の思うようにならなければイライラし、あるいは言葉を荒げ、またはたちまち癇癪を起こす。嫉妬深く、欲深い。あるいは自分が「高僧」として処遇されなければたちまち不機嫌となるなどの「高名な指導者」は少なくありません。密教の事相家などと大した変わりはないのです。

古来、偉大な僧侶と讃えられ続ける多くの大徳達が、ほとんど口をそろえて、禅宗で言われるところの「八風に動ぜざれ」などと世間の毀誉褒貶に惑わされないこと、清貧であるべきことなどの教誡を残しています。それは、古来同様の事例が数多くあったためでしょう。

遠い過去から言われ続けているように、良師にめぐり遇う、ということは本当に稀な、誠に得難いことの一つです。

戒は是れ汝の大師

そこで、もし良師に遇えなかったとしたら、「戒」がさらに大きな意味をもちます。『遺教経』ではこのように説いています。

汝等比丘。於我滅後當尊重珍敬波羅提木叉。如闇遇明貧人得宝。當知此則是汝大師。若我住世無異此也。

比丘達よ、私が入滅した後には波羅提木叉[はらだいもくしゃ]を尊いものとして大切にし、最大の敬意を払わなければならない。それは暗闇の中で光明に出会い、貧しい人が財宝を得るようなものである。このように考えよ、波羅提木叉は汝の大師であると。

『仏遺教経』 (T12. P1110C)

波羅提木叉とは、サンスクリットPrātimokṣa[プラーティモークシャ]あるいはパーリ語Pātimokkha[パーティモッカ]の音写語で、簡単に言えば、「仏陀の説かれた戒や律の条項をまとめたもの」のことです。出家者ならば具足戒などと言われる律、在家信者は五戒・八斎戒などの戒を指す言葉です。漢訳では、戒本などと言います。

さて、瞑想修行者にとって、五戒を守るのは当然のことです。瞑想修行者やその指導者には、五戒さえ守っていれば充分などと考えている者もあるようですが、実際として瞑想修行者にとって、五戒だけでは不十分である場合があります。いや、先に挙げた理由からすれば、五戒だけでは不十分です。

(五戒については”戒律講説-五戒-”を参照のこと。)

そこで、五戒を補完するものとして十善戒(十善業道)は、瞑想修行者にとって大変有益です。みずから十善戒を守ろうと努力し、実際に守って生活することによって、その道は、さらにならされ平らかなものとなります。あるいは、先に挙げた『仏遺教経』を読んだり、日本やチベット、インドにおける過去の偉大な瞑想者たちの著作などを読んだりしておくのも良いでしょう。

(『遺教経』については”『仏遺教経』を読む”を参照のこと。)

← 前の項を見る・最初の項へ戻る →

・  目次へ戻る

・ “仏教の瞑想”へ戻る

2.悟りへの道

求めて求めず ―捨ててこそ

先に言ったことと矛盾する物言いとなりますが、知能があまり高くない者(凡庸の人)が、むやみやたらに経論を読みあさり、ただ知識をその頭に詰め込もうとするのは、無駄であったり、むしろ逆効果で有害であったりすることがあります。

これによってまたもう一点、心に留めておくと良いでしょう。

言うまでもなく、仏教の修行者が瞑想するのは、苦海からの解脱を志し、悟りを求めるからに他なりません。しかし、本格的に瞑想修行に入って、修行者がその生活に馴染んできたならば、明恵上人が言うところの徒者[いたずらもの]になるのが良いでしょう。

徒者とは、瞑想に懸命に励むという気持ちを捨て、悟りを得んとする欲求を捨て、何も期待せず、何事も自心の中に作り出そうとせずに、ただただ毎日淡々と、(瞑想を含めて)すべきことをする者のことです。求めて始めたことを、求める心を捨ててやれというのですから、「矛盾したことを言う」「そもそもブッダの言ったことと違う」と思う者もあるかもしれません。

確かに、これは一見矛盾した物言いです。しかし、人がその修行の中において様々な問題に突き当たったとき、この言葉の本当の意味、価値を知るでしょう。

禅宗で言われる、「飢来喫飯困来眠著」(『臨済録』)という言葉は、真摯な瞑想修行者にとって、大変有益なものです。

(関連する教えとして、別項“Bhaddekarattasutta(『祥染経』)”を参照のこと。)

悟りへの道 ―Just like a razor's edge

ただ瞑想すればよい、などというのは仏道ではありません。繰り返しますが、三学を実践すること、あるいは六波羅蜜さらには十波羅密を実践することが、悟りへの道です。

しかし、何事も為すのにその基本が大事であるように、仏教修行者は、三学の始めである戒学を学び実践することが大変重要です。

瞑想には、ある人には有効な方法でも、ある人には無効であり、逆効果となるようなもの、あるいは実践するのに適切な時期というものがあります。また、人によって、その気質や能力、生まれも育ちも異なるが故に、理解力や実行力にも相当に隔たりがあります。

よって、その道はある人にとっては達しやすい道、安楽な道かもしれませんが、ある人にとっては、いや、ほとんどすべての人にとって、それはあまりに長く苦しく困難な道となるでしょう。

「真理は普遍で、万人に開かれた者であるならば、私にも開かれたものであり、私も直接触れて知ることが出来るのだ」といった言葉は、なるほど道理です。しかし、現実には、「あの人に出来るのだから、私にも出来る」、「こんな私でも、やってみたらすぐ出来た!」などと、簡単に言えるようなものでもありません。世の中にはそのような宣伝をする人もいるでしょう。

しかし、現実はそんなものではありません。人は皆、同じ人間ですが、人は皆、それぞれ違います。

ただ、幸運にもこの道のあることを知り、この悟りへの道を行かんと決心して歩き続ける限り、時に後退することもあるでしょうが、いつか必ず、その道の向こうへたどり着くことが出来るでしょう。いや、みずからこの門をくぐってみれば、ただちにそれが可能ではあることを、おのずから理解するでしょう。

ただそれを理解するのには、それほどの時間は要しません。

なぜ私は瞑想するのか

なぜ仏教を学ぶのか、なぜ私は仏教を、そしてその瞑想を修めるのか、という動機・意思はまことに重要です。

良い種からは良い芽が、良い華が、そして良い果実が得られるように、いかなる種を自心にまず植えつけたかは、その後を大きく左右するものとなるでしょう。無論それだけで十分ということはなく、種がよく生育するに適した環境、諸条件を整える必要もあります。

しかし言うまでもなく、人間には多くの人があり、そのそれぞれの人が皆異なっています。

瞑想を修める動機は、ある人は娯楽として、またある人は心身の健康のため、いや好奇心から、ただ義務としてなど、様々でしょう。しかし、いかなるものであれ仏教の瞑想は、苦海からの解脱、果てしない苦しみの連鎖をついに止めるためのもの、そして世に対して仏教的見地から貢献するためのものです。

あるいは初めは何と無い縁から瞑想を始めたというのであっても、これが自他の苦を減じ滅する優れた道であると気づいたならば、自らの動機を正しく改め、そして何らか誓願を立てたることを勧めます。

現実には、最初から良い種を植え付けえる人など極限られています。いや、種は充分に上等であったにも関わらず、それを自らの怠惰、愚行によって腐らせてしまうこともあります。しかし、良い農夫がそうであるように、私たちの努力次第で、日々年々これを改めていくことは十分可能です。途中でその困難さに挫折したり、ある程度の収穫で満足し中途半端に辞めてしまったりする人もあるでしょう。

過ぎ去った時間を取り戻すことなど出来ず、人生にやり直しなど決して効きはしません。どれだけ悔いたとして、自らがなした過去が消し去られ、精算されることなどありません。しかしまた、種を植える時期が一生に一回きりということは、ほとんどの場合ありません。失敗はつきものです。その失敗からこそ、次に向けて多くを学べば良いでしょう。

渡ってこその船

ある人々にとっては、むしろあまりに魅力的であるが故にむしろ苦しみに満ちた世界、またある人々にとっては息することすら苦しく、虚しく感じながらもなんとか生きなければならない過酷にして冷酷な世界、この三毒の流れ急なる大河、底なしの荒海を渡り超えるための様々な筏や船を、仏陀ならびにサンガは残し、伝えてきました。

仏教は、人それぞれの立場・能力に応じて様々に説かれたものであり、修行法は唯一ではありません。仏陀という偉大な王が遺し、僧伽という相続者が引き継ぎ守り磨いてきた、その全てが価値ある宝です。

真理に至るのに、易く・安楽な道はありません。

それぞれ人々によって異なる今立っている位置から、相応に勤めて励み、苦しみ悩みつつも一歩一歩近づく以外方法はありません。ここに安直で短い近道は誰人にも存在しません。そして、そこへ至る道は多岐にわたりますが、自身が行ける道はただ一つです。

無常迅速、生死事大。多岐亡羊として、行くべき道を決めあぐねる猶予は我々にはありません。

肝要なのは、種々様々にある教えの優劣を論じて争うことでなく、 みずからの立場・能力にふさわしい教えに従って現実に今これを修め、爪で岩を刻むようにではあっても、少しづつ迷妄を滅ぼし、苦から離れ、平安を得んとすることです。苦海を超えるため、激流を渡るための筏や船の見た目や技術、速度など、その優劣を競うことではなく、実際にこれを渡って彼岸へ到達することです。

これを忘れると、といっても実際は多くの人がすっかり忘れてしまうのですが、船の優劣ばかりを論じるようになり、あるいはその見た目を良くすることや他の船の粗探しに懸命となって、海どころか小川すら渡るどころではなくなってしまいます。

人が、そのうちのいずれの船によってであろうとも、暴流にさらわれ苦海に沈むことを良しとせず抗い、果敢にこれを渡っていくことを願ってやみません。それがたとえわずかであっても、人が、悟りの高みへと昇りゆくことを願ってやみません。

非人沙門覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

← 前の項を見る・最初の項へ戻る →

・  目次へ戻る

・ “仏教の瞑想”へ戻る

瞑想とは何か |  伝統と流行のはざまで |  なぜ仏教では瞑想するのか |  悟りへの道

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。