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1.地遍の建立法

四無量の瞑想

四無量心観とは、慈悲喜捨の四つの心の状態を実現するべく修める瞑想法です。止と観との二法のいずれかで言えば、止に分類される瞑想です。

先に述べたように、四無量には段階があって、誰も最初からこれらを心の徳として備えている者などありません。故に、日頃の心がけや瞑想などによって、意識的に獲得しようとしなければこれらを得ることは出来ません。そして、これを常に保ちつけようと努力し、実際に獲得すれば、その福徳・功徳は文字通り無量のもとなるでしょう。

ただ、勘違いしてはならないのは、四無量心観を修めたからと言って、自分のたとえば人の好き・嫌いが無くなるわけでは必ずしも無いということです。これは、自分の好き・嫌いという、個人的感情的な価値基準に基づいた怒りや害意を抑え、それぞれに対して執着しないことを目指すものです。

四無量心観の典拠

ここでは、主として経量部の立場から批判的に説一切有部の教義の要を取りまとめたものであって、その故に説一切有部の正統な教義を記した綱要書とは言えないものですが、古来大乗の基礎として支那・日本ならびにチベットなど通じて必読・必修のものとして学ばれてきた、世親(Vasubandhu)菩薩の『阿毘達磨倶舎論』(玄奘三蔵訳)の所説に従って、四無量心観の次第を明かします。

もっとも、『倶舎論』が有部の正統な教義を代表するものとは必ずしも言えないとはいえ、大変優れた書であることに違いありません。四無量心の次第に関して言えば、内容的には阿含経説を踏まえ、有部の論蔵ならびに『大毘婆沙論』の所説をよくまとめたものとなっています。

余談ながら、世親菩薩の『倶舎論』に反駁して、有部の正統説を表すために述されたという衆賢『順正理論』がありますが、その書においても(細かな点で相違するところはあるものの)やはり四無量心を如何に修すべきかが懇切に説かれています。

初習業位云何修慈。謂先思惟自所受樂。或聞說佛菩薩聲聞及獨覺等所受快樂。便作是念。願諸有情一切等受如是快樂。若彼本來煩惱增盛不能如是平等運心應於有情分為三品。所謂親友處中怨讐。親復分三。謂上中下。中品唯一。怨亦分三謂下中上。總成七品。分品別已。先於上親發起真誠與樂勝解。此願成已。於中下親亦漸次修如是勝解。於親三品得平等已。次於中品下中上怨亦漸次修如是勝解。由數習力能於上怨起與樂願與上親等。修此勝解既得無退。次於所緣漸修令廣。謂漸運想思惟一邑一國一方一切世界。與樂行相無不遍滿。是為修習慈無量成。若於有情樂求德者能修慈定令速疾成。非於有情樂求失者。以斷善者有德可錄。麟喻獨覺有失可取。先福罪果現可見故。修悲喜法准此應知。謂觀有情沒眾苦海。便願令彼皆得解脫。及想有情得樂離苦。便深欣慰實為樂哉。修捨最初從處中起漸次乃至能於上親起平等心與處中等。此四無量人起非餘。隨得一時必成三種。生第三定等唯不成喜故。

初習業位において、どのように慈を修すべきであるかと言えば、 先ず自らが享受するところの安楽を思惟し、あるいは仏陀・菩薩・声聞、および独覚などが享受した所の(悟りの)快楽が説かれるのを聞いて、このような念をなすことである。「願わくは、諸々の有情(生命ある者ども)が、一切等しくこのような快楽を享受せんことを」と。
もし彼が生来、煩悩すこぶる強く、このように平等に心を用いることが出来ないならば、まさに有情を分類して三品(三類)とすべきである。いわゆる親友と処中と怨讐とである。親しみある者(親友)をまたさらに三に分け、上・中・下とする。中品は唯だ一つである。怨める者(怨讐)を、また三つに分かち下・中・上とする。(このように有情を分類すれば)総じて七品となる。分類し終われば、まず上親(最も親しみある者ら)について真誠に「安楽であれ」との勝解(強く明瞭な意思)を起こす。この願いをなし終わったならば、中・下の親しみある者らについても漸次にそのような思いを修していく。親しみある者らの三品について、平等なる思いを起こすことが出来たならば、次に中品(処中:怨親の思いなく、関心のない者ども)、そして下・中・上の怨める者どもについて、また漸次に(「安楽であれ」)とそのような勝解を起こしていく。数習力(繰り返し繰り返し行うことによって得られる力)によって、上怨(最も憎き怨める者)についても「安楽であれ」との願いを起こして、上親と等しいまでにする。この勝解を修して、既に挫けることがなくなったらならば、次にその対象を漸く広げていく。次第に想(対象を心に思い浮かべること)を起こし、一村・一国・一方・一切世界とを思惟して、「安楽であれ」との思いが遍満しないところはないというまでにする。これを慈無量の修習の成就とする。もし有情について、徳を楽求(願い求める)する者であれば、よく慈定を修し、速疾にこれを成就するならば、有情について、その失(過失・欠点)を楽求(探し求め)るようであってはならない。断善の者(悟りを得ることが出来ない者)でも福徳を録しうるのである。麒麟喩独覚(犀の角の喩えによって表される独覚の仏陀・聖者)にも失を見出しうるのである。(彼らが)先になした福徳・罪過の果報が、(その相貌において)現に見出しうるためである。
悲・喜を修する方法についても、これ(慈)に準じて知るべきである。まず有情が諸々の苦しみ満てる海に没しているのを観じ、そして「彼らが皆、解脱を得られんことを」と願う。また「生きとし生けるものが安楽を得、苦しみから離れる」との想いをなし、そして深く欣慰(慰め喜ぶこと)して、(有情が楽を得て、苦を離れることは)「実に楽しく嬉しいことである」とする。
捨を修するには、最初、処中より漸次に進め、上親についても平等の心を起こすことが、処中に等しいまでにするのである。
この四無量は、人にこそ起こるものであって余所に起ることはない。その内の一つを得た時には、必ず(四無量のうちの)三種を成就する。(なぜ三種と言って四種と言わないかと言えば)第三禅などにおいては、ただ喜を成就することがなく、(その他の三種が)生じるためである。

世親菩薩『阿毘達磨倶舎論』分別定品 (T29, P150c-P151a)
[日本語訳:沙門覺應]

このように、有部においても四無量を如何様に修すべきかが、詳細に説かれています。

『倶舎論』のなかで世親菩薩が説かれているように、親しみあるもの・愛するものを、その思いが強い順に上中下などと三分します。自分に関わりのないものはただ一つ。そして嫌いなもの・憎むものをまたその思い強さの順に上中下と三分します。

このように生きとし生けるものを分類すると、総じて七つの対象となりますが、これに自分を加えた都合八つの対象をもって、四無量観を修していきます。

幸せに、なりたい・・・?

まず、「自分自身が安楽であれ」などと想い願ったその次に、最も親しみある人・愛する人を具体的に想い描き、慈・悲・喜を修める対象としていきます。

ここで重要なのは、漫然と「私が好きなものが安楽であれ」などとするのではなく、これに習熟するまでは、その対象を具体的に思い描くことです。

「幸せになりたい」、それは誰しもにとってほとんどアタリマエのことでしょう。その「幸せ」とはいかなるものか具体的に思い浮かばず、知りはしなくとも、人は誰しも幸せになりたい。

しかし、それは日々ただ漠然と思っている、いや、意識的には思いもしないのであって、このように意識的に、強く願うことなどまずないでしょう。それはおそらく、普通のことではありません。が、それをここでは行います。「私が、この自分が本当に幸せであれ。敵意・害心、悩み苦しみがないようにあれ」と、心の底から、真から強く願うのです。

そして、自分の幸せを強く願う思いが確立されたならば、その次に、親しみある類を上中下と次第して対象とし、また次に処中、そして嫌悪する類を下中上と次第して、慈・悲・喜を修めていきます。かくし得るようになって後、対象を自身の身近なところから、村や町、国そして四方四維、十方世界へと広げていきます。

ここで、はじめから対象を広げて修めんとするのは“無理”です。ただの妄想に過ぎないものとなるでしょう。

しかしながら、ここで特にすべきではないことがあります。四無量心観・慈悲観に習熟するまでは、それがどれだけ愛する・親しみある人であっても、(性的な対象となりうる)異性あるいは同性の者はその対象から外すべきです。何故ならば、それらを対象とすることによって、むしろ貪欲(愛欲)を深めてしまう可能性が大きいためです。故に、慈悲観は、特に貪欲の強い者には推奨されない瞑想とされています。

さて、一般に大乗は「他を先として己を後とする」などということを言い、故に大乗は優れているのだなどということを言う人がいます。しかし、それは全く誤った認識というものです。それはそのような過つ認識にある人は異なった、はるか上の次元に立つ者についての話です。

実際はまず自分を度してのち他に向かう、というのが修道上の道理です。『十住毘婆沙論』にて、龍樹菩薩はこのように説かれます。

若人自度畏 能度歸依者 自未度疑悔 何能度所歸
若人自不善 不能令人善 若不自寂滅 安能令人寂

もし人が自ら畏れを除くならば、帰依する者(の畏れ)を除くことが出来るであろう。自ら未だ疑惑や後悔を除くことが出来ない者に、どうして帰依者のそれを除くことが出来るであろう。
もし人が自ら善で無いのならば、他者をして善ならしめることなど出来はしない。もし自ら寂滅に至っていなければ、どのように他者をして寂しることが出来るというのであろうか。

龍樹菩薩『十住毘婆沙論』 (T26, P24b)
[現代語訳:沙門覺應]

一体どうして自ら溺れもがている者が、他の溺れている者を救い出すことなど出来るでしょうか。巷間しばしば取り沙汰される宮沢賢治の言ったようなそれは、この道理を無視して言ったものであれば、ただの妄想・浪漫でしかありません。口だけ高尚の言辞、俗耳に入りやすき言葉を並べ立てるだけでは、己はもちろん誰一人として救うことなど出来はしません。

大乗の信徒すなわち菩提心を発した人ならば、たとえば四無量心を修めるときやはり最初に自らの幸福を願うのは同じですが、その動機を「他を助けるため、度すため、導くため」などとの誓願を建てるのが良いでしょう。

現実に出来ることは、それぞれ人の能力によって異なるでしょう。ある人は虫一匹の生命を助ける程度のことに留まり、ある人は多くの人々・神々ですら導きえるでしょうが、そういうものです。人はそれぞれ異なりますので、それで構いません。しかし、根本的な動機は同じです。自分の「出来うる限り」を最大限、現実に行えば良いでしょう。

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2.四無量心観の修習法

慈悲喜捨を増長させる修習

以下、人はいかに四無量心観を治めるべきかについて、上に挙げた『倶舎論』の所説に従って図としたものを示します。なお、この書に則った以下のような四無量心観は(おそらくは日本でも過去この書に従ったものが修められていたでしょうが、現在のチベット仏教にても実修されています。

図表:四無量心観の図解

一般に、「仏教は智慧と慈悲の宗教である」などと言われることがあります。

確かに、これは小乗の信徒でも大乗の門徒でも全く同様、慈悲をその内容に含む四無量心観をもって、我が心に根付く怒り・害心を抑え、そして和らげ怨親平等にして、その心でもって他に接することが奨められます。

特に、自己だけでなく他者を助け導き、円満なる菩提を求めんとする大乗の徒であると自身を見なすならばなおさら、四無量を修めること、そしてこれを基礎として積極的に働きかけることは不可欠です。

仏教では、あらゆる行為はまず心によってなされる、と説きます。故に、先ずその心を陶冶し、心の習慣を四無量心観などによって方向付けておく必要があると考えるためです。大乗の徒であっても、衆生を助け導くなどとの誓願を立てた菩薩が、町ではなく森林(阿蘭若)へとまず向かって孤独に瞑想を修める、禅波羅蜜を行じるのは、このような理由にもよるものです。

修身斉家治国平天下

「修身斉家治国平天下」とは、儒教の経書の一つに挙げられる『大学』に由来する言葉(章)で、「天下を治めるには、先ず自分自身を修めて家庭を和し、次に国を治めて天下を平らかにする」という意味のものです。無論、これは儒教の言葉であって、しかも「天下を平らかにする」の順序を説いたものです。

しかしながら、何事か大義をもって事を成さんとするとき、このように身近なところ、すなわち先ず何より自身から次第して事を進めていくことは理の当然と言え、故に多くのことに当てはまる言葉です。

世間には、慈悲などとやたらと口にしながら、実際は「鬼の空念仏」を地で行く人があります。ただ口で「生きとし生けるものが幸せでありますように」などと、繰り返し唱えたとしても意味はありません。ただ漠然と、「全ての生けるものは安楽であれ」などと言っても、それは例えば何の具体的努力も犠牲も払おうとせず、なんとなしに「戦争反対」「世界平和」を叫ぶのに等しく、現実的意味は乏しい、いや、意味などほとんど無いと言えます。

口に高尚・高邁なる言葉をするのは、誠に心地良く、その時だけでも自身を何か特別のもののようにしてくれることであるかもしれません。それはあるいは、一種の娯楽とすら言い得るものかも知れません。

しかし、自分の心身を修めず平静を保てず、家族・友人・隣人など他者と些細なことで諍いを絶えさせない者、自身とその思想が食い違うものに対してたちまち攻撃的になるような者が、「生きとし生けるものが云々」などとやたらと口にすることは、傍ら痛いというものでしょう。

鸚鵡よく言えども飛鳥を離れず

『礼記』曲礼上

まさしく、そのようなのを言った言葉です。四無量心を修めるについてもまた同様です。

さて、自身も他者と同様また社会の一員であり、世界を構成するものの一つです。一体どうして、我が最愛にして三界に唯一の寄る辺たる自分自身の安楽を願わぬ者が、他者の安楽と平安など真から願うことが出来るでしょうか。

故にまず、四無量心観を修するには、自分自身を対象として「私が安楽であれ。幸せであれ」「苦しみ無くあれ」「私が安楽であることは喜ばしく嬉しいことである」などと、真からの願いを確立しなければなりません。そして、その願いが確立されたならば、対象をもっとも親しみある人々・動物から親しみある者共、やや親しみある者共などへと、次第に推移させ、ついに最も憎むべき・嫌悪する人々・動物などを対象としていきます。そしてそのような、最も憎むべき相手であったとしても、もっとも親しみある相手と同様に、等しいまでにその安楽を願うことが出来るように修練していきます。

駑馬の安歩

無論、これは決して容易なことではありません。

故に、『倶舎論』においてすでに述べられているように、この想いを確立するには数習[さくじゅう]、すなわち繰り返し繰り返し、何度でも何度でも修めなければなりません。心の習性は、少しばかり瞑想したからと言って、やすやすと変えられるようなものではないからです。

そしてまた、ただ瞑想の中だけであれこれするだけではならず、自身のそれぞれの立場・境遇において、力を尽くして出来る限りのことをなし、わずかだとしても現実のものとしなければなりません。仏教において、瞑想することは大切な事で不可欠のことですが、それが全てでは決してありません。瞑想の経験が長い、それに関する知識が豊富である、瞑想で何か特別な経験をしたことがある、しかし、だとしてそれがどうしたというのでしょう。それが評価されか否かは、その人の普段の行いの質如何に依ります。

人は怒るものであり、自他を傷つけようとするものであり、欲張り嫉妬するものです。そして、親疎分け隔てして片一方を贔屓しようとするものです。怒らないこと、害しないようすること、自他の幸福を真から喜ぶこと、そして怨親平等で平静であろうとすることは、並大抵なことではありません。けれども、それは決して実現不可能なことではありません。努力していても怒りの想いが出ることはあるでしょう。害しよう、不利益を加えようと思うこともあるでしょう。

努力し始めたその途端に、すべてを完璧に行える人など誰もいはしません。

仏陀はこう説かれます。

Khantī paramaṃ tapo titikkhā, nibbānaṃ paramaṃ vadanti buddhā;
Na hi pabbajito parūpaghātī, na samaṇo hoti paraṃ viheṭhayanto.

「忍辱・忍耐は最上の苦行である。涅槃は最高のものである」と、諸々の仏陀は説く。他人を害する者は出家者ではない。他者を悩ます人は沙門ではない。

KN. Dhammapada, Buddhavaggo 184
[日本語訳:沙門覺應]

実に、耐え忍ぶことは苦行です。世間には、「仏陀はいかなる苦行も否定した」と捉え違いをしている人がありますが、否定したのは悟りを得るのに資することのない、仏教からすると不合理な苦行であって、すべての苦行ではありません。

(精神的だけでなく肉体的にも)耐え忍ぶことは、諸々の仏陀によって賞賛される苦行であり、菩提を得るに不可欠な行です。またこれは、精進によって成し遂げられるものです。

騏驥[きき]の跼躅[きょくちょく]は駑馬[どば]の安歩に如かず

『史記』淮陰公伝

それでも耐え忍びつつ、日々弛まず精進して我が心を陶冶しようとする人には、優れた、そして大なる利益がもたらされるに違いありません。慈悲喜捨という、勝れた心の徳が。

(四無量心観について関連するものに、四無量心という語については別項“四無量心観”にて解説し、また分別説部における“Metta Bhāvanā(慈観)”ならびに“Metta Sutta(慈経)”を紹介している。参照されたい。)

貧道覺應(慧照) 敬識
(By Araññaka bhikkhu Ñāṇajoti)

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