真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.前方便

修行の条件

起きて半畳、寝て一畳

止観あるいは瑜伽、坐禅を修習するのに必要なもの。それは一メートル四方の平らかな場所、それだけです。

なるほど確かに、空間としてはそれだけあれば充分です。

市井の徒にはしばしば「修行する場所など、どこでも同じである。此方で出来ぬことは彼方でも出来ぬこと。十方世界一切処はこれ修行の場」などといった言を、したり顔で放つ者があります。

が、ただそれだけで実際に修行が出来るかといえば、出来ません。出来るわけがない。五分から三十分程度、しかも一日だけその真似事をするだけというのならわかりますが、じっくりと真剣に修行しようというものにそれだけ、などというのは全く非現実的です。

あえて非常に卑近な例えでこれについて言ってみたならば、将来を嘱望する我が幼な子があったとして、「場所はどこでも同じである」などと、選択の幅があって他のいくつか優良校などに入学し得るにも関わらず、その子を地元であるからとの理由だけで低能・非行の悪評名だたる学校に入学させる者は普通ないでしょう。

また、我が愛する年頃の娘があったとして、「ここで自らを守れなければ他所でも守れない」などと、その娘をたとえば強姦魔の頻出するので有名な近隣を夜一人歩きさせたり、一人暮らしさせたりする者があるでしょうか。

その昔、「ウーマンリブ」などという(今でこそ)けったいな言葉が流行したおり、永平寺が「ミニスカートにての拝観禁止」としたのを、「女性差別だ」の「どのような環境であれそれを耐えるのが修行であろう」などとワイワイ騒いだ、左巻き集団があったようですけれども。

あるいは、これも一種の環境と言えるものですが、大工にとっての大工道具、料理人には包丁など、床屋にはハサミなど、その用をなす道具の質や手入れなど非常に重要であるように、またその仕事場が清潔で行き届いていることが必要であるように、瑜伽行者にはその環境が身心を静寂とするに適したものであるかが非常に重要なものとなります。

弘法筆を選ばず

などと、巷間まことしやかに言われますが、実際のところ、弘法大師は狸毛の筆だのなんだのと選びに選んでこだわり抜いていた。

その弘法大師空海が、時の天皇に高野の地を賜ることを願い出たのも、かの地が瑜伽を修習するための環境に適していたためであり、明恵上人があちこちと動きまわられたのも、多くの場合、瑜伽を修習するための場所・適切な環境を探してのことでした。

その専門とするものに対して、なんらかこだわりを持たない一流の人など、私は知りません。

何も豪奢な、全てが完璧に整った場所を莫大な資金を投じて作らなければ修行など出来はしない、と言うのでは無論ありません。ただ、料理人が確かな料理をするのには手入れの行き届いた道具や清潔で整った調理場が必要であるように、修行者が止観を修習するには静かで食を手に入れやすいなど適切な環境が必要です。

多くの場合、環境というのは非常に重要なものであって、それは修行についても全く同様です。そもそもまず、人が生きるには、衣食住が不可欠です。

真に経論に依って仏道を修めんとする修行者は、適切な環境を探してそこに我が身をおき、一定期間ただひたすら専心に修行に励む必要があります。

理想と現実 ―The Utopia

とは言え、現実から乖離した書籍の上だけで、あれこれ少し舐めた程度に学んだような、いわば耳年増の信者・妄想の人が、現実をわきまえずまた身の程を知らずして、理想的な場所を探し求めて、あちこち悪い意味で彷徨するようなのが実際にあります。

また、よしんば理想的場所にて修行し得たとしても、閑静にして五欲を刺激することの少ない環境にあって、ただその環境にほとんど全面的に依存しての一時的平安を得ているだけであるのに、これをなんらか悉地を得たものと勘違いしてしまう者もゴロゴロとあります。

それは昔から変わらないことのようで、このようなのが仏陀ご在世の昔からあったと経典は伝えています。環境が変われば、忽ち心が乱れて五欲の奴婢となるのを、他者のせいである、俗世間が悪いとして、自分がその環境に依存し執着していたに過ぎないことを認めようとしない者すらもあります。

弘法大師が筆について非常にこだわっていた、あるいは現代でも一流の職人がその用いる道具にこだわり、細心の注意を払って扱うのも、それはむしろ彼らがすでに達人であるからこそのことです。何も知らない初心者が、いきなり狸毛だのなんだと言ったとしたら、傍ら痛いというものでしょう。

しかしこのように云えば、まるっきり二重拘束になってしまいます。ではどうすれば良いのか。

まずは自分を、その時点で最良の環境に、身を置くことです。あるいは自分でその環境をより良いものに変えることです。その場所が閑静であること、そしてなるだけ清潔であるに越したことはありません。

そして、なにより一番大事であるのは、己の現状では最良の環境に身を置いたならば、それで満足して不満を持たないことです。無い袖は振れません。そのようなことについて、二千年以来の昔から、様々に教導する言葉が今に伝わっています。

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2.小乗・大乗で説かれる止観修習のための諸条件

説一切有部(『倶舎論』)における前方便

釈尊ご入滅後、幾ばくかの時を経て形成されていった部派仏教(Sectarian Buddhism)と現代に呼称される仏教諸派の中でも、特に北・中インドで最大の勢力を有していたものに、説一切有部[せついっさいうぶ](Sarvāstivādin)という部派があります。この部派にはまた、説因部[せついんぶ]との異称もあります。

この部派の阿毘達磨の主要典籍の一つに、仏滅後二百年を過ぎた頃すなわち紀元前一世紀から後一世紀頃に生を受けたと言われる尊者Kātyāyanīputra[カートヤーヤニープトラ](漢訳名:迦多衍尼子[かたえんにし])というバラモン出身の学僧によって著された、『発智論[ほっちろん]』という書があります。

尊者カートヤーヤニープトラは、そもそも(根本の)上座部で出家していた人です。やがて、その抜きん出た才を発揮するようになっていたものの、ほんの些細なことを巡る論争が巻き起こすこととなって、ついに説一切有部を分出。そこで著されたのが『発智論』である、と伝承されています。

また、その注釈書という体裁をとりつつ、当時の学匠たちの様々な異見も記録されている、漢訳仏典としては最大の全二百巻という『大毘婆沙論[だいびばしゃろん]』という巨大な書があります。この書は、二世紀頃のガンダーラにおいて、五百人の阿羅漢らによって編纂されたと伝承されています。そこには、菩提を求めて修行する者が、まず調えるべき事柄を説いている記述があります。

それは、説一切有部の教学の概要を時に批判的に論じながらまとめられている、四世紀頃に活躍されたVasubandhu[ヴァスバンドゥ](漢訳名:世親)菩薩による、『倶舎論[くしゃろん]』にも要約されて説かれています。

ここでは、そのような説一切有部で説かれていた修道のための準備、修行者はいかにその条件を調えるべきか、どのような態度で望むべきであるかの規定の要を示します。

悟りの階梯を登るための備え
- 名目 意味
持戒 - 安住清浄尸羅 仏陀の説かれた浄戒を保って生活する。
三慧 1 聞所成慧 聞法 仏陀の教えを聞く。(修すべき道を尋ねる。)
2 思所成慧 思量 聞いた教えの意味を考究する。(道程を確認する。)
3 修所成慧 修定 考究した教えを実践する。(定を修習して現証する。)
身器
清浄
1 身心遠離 身遠離 悪しき友人から離れる。(俗世の事業から離れる。)
心遠離 悪しき思考から離れる。
2 喜足少欲 喜足 何であれ得た物で満足する。
小欲 無い物について、多く、良質なものを求めない。
3 住四聖種 衣服 衣服について、何であれ得たもので満足する。
飲食 飲食について、何であれ得たもので満足する。
臥具 臥具について、何であれ得たもので満足する。
楽断修 (安般念・不浄観により)煩悩を断じることを願う。

悟りへの階梯を登るためにはまず、普段余分な贅肉(悪習慣)をたっぷりつけて動きのすこぶる鈍くなっている、自分の身を軽く、そして強くしなければなりません。それは戒を守ることに依ってなしえます。これを安住尸良清浄と言います。

そして、非常に高い高い難所たる山に登ろうとするには、すでにその登頂に成功した先達にその行程とその状況とを聞いて地図を得、その情報を自らじっくりと考えまとめてコンパスを持ち、そうして初めて実際に登攀に赴く、というのが物事の筋というものでしょう。このようなのを仏教では、三慧[さんね]と言います。

もしなんら行くべき道を知らず、ただ闇雲に山頂を目指すようでは、たちまち麓の森などで迷うばかりとなってしまうでしょう。この場合、とにかく理屈はどうあれやってみれば良いのだ、などということは決してありません。

これはいわば、そのようにして山に入った愚か者が、たちまち(必然的)遭難者となって山岳救助隊のご厄介となり、ついには世間から白眼視されるのと同じような結果を生み出すでしょう。瞑想して頭を(ますます)違えてしまったようなのや、突き抜けた増上慢の輩となって周囲から疎まれるに至るようなのは、それこそゴロゴロ存在します。

また、その登攀している際に、無能であったり非常な悪人であったりする同伴者がいては具合が悪く、己の思考もすこぶる消極的・悲観的であったり、まるで登攀に関係のないことばかり考えていたりするようではいけません。また、いざ登攀に取り掛かっているときには、自分が携行する装備品で全てなんとかしなければならず、また携行していない品を欲しがりまくっても意味などなく、むしろ不満がたまるばかりで、これではまるで仕様がありません。

登山者は、あるものを工夫して用いて満足し、ただひたすら、この一歩一歩の自らの歩みによって、目指す山頂にたどり着くことを願い、目指すのです。このようにすることを、身器清浄[しんきしょうじょう]といいます。

それは、およそ仏教全てに通じて説かれるもので、説一切有部に限られて説かれるものではありません。説一切有部の典籍に説かれるこのような道筋は、諸々の経典に説かれていることをまとめたものであり、簡にして要を得た、非常に理にかなったものです。

菩提を求めて道を修めんとする人には、まずこの次第を憶念して修することを、私は勧めます。

上座部(『清浄道論』)における前方便

現在、部派仏教(小乗・声聞乗)のなか唯一現存する部派であり、上座部と通称される分別説部大寺派において、絶対の権威をもって今に通用している、五世紀中頃のセイロン島にてインド僧Buddhaghosa[ブッダゴーサ]によって著された修道書があります。“Visuddhimagga”(『清浄道論』)です。

この書は、セイロンにのみ伝わり、仏陀が話されていた言語すなわちマガダ語から直接シンハラ語に翻訳されていた、経・律・論の三蔵に対する「正統な」注釈書など文献群を参照し著されたものである、とセイロンでは伝説されています。

もっとも、この書は、漢訳本のみ現在完全に伝わっている分別説部無畏山寺派の『解脱道論』という書と比較されたことにより、ブッダゴーサがこれを種本としてその構成をほとんど全く踏襲し、増広改変して著したものであったことが現在知られています。なお、その伝説に言われる、セイロンにのみ伝わっていたという注釈書類は現在全く存在していません。

いずれにせよ、セイロンの分別説部大寺派すなわち、今言われるところの上座部の修道法など細かい規定を知りたいと欲する者は誰であれ、この『清浄道論』に触れないわけにはいきません。実際、この書では大変細々しく修道法の一々の意味内容や位置づけなどを規定しており、この書に説かれていることがすなわち現在の上座部の正統な修道法となっています。

さて、大徳ブッダゴーサは、瑜伽(yoga)を修習しようと欲する者は、これは主に出家者に対してのことであって、しかも長期に渡って行おうとせんとする者に対して言われていることであるのですが、まず以下に挙げる瑜伽を修習するに十の障碍となる条件を取り除かなければならない、と言います。

なお、この前提として、瑜伽行者が浄戒を保って生活することが絶対の条件とされています。

瑜伽の修習にあたって先ず排除すべき十の障碍
- dasa palibodha
(十障碍)
意味 排除すべき具体的事柄
1 Āvāsa
(住所)
内室や坊、伽藍全体 普請や所有物、住所に対する執着
2 Kula
(家)
家族や檀越(檀家)の家 家族や檀越の家に住すことによる、そこへの依存心・愛着心
3 Lābha
(利得)
衣食住薬の布施 布施のために訪れる多数の信者への応対
4 Gaṇa
(衆)
経の学徒や阿毘達磨の学徒 経や阿毘達磨についての教授。学徒への応対
5 Kamma
(業)
普請奉行(現場監督) 精舎・自坊の工事についての手配。工事の現場監督
6 Addhāna
(行路)
旅行。外出 精舎など住処からの外出。外からの招待への応答
7 Ñāti
(親族)
和上・阿闍梨など師や同門や弟子、あるいは家族・親戚 (左記の意味での)親族の疾病
8 Ābādha
(病)
あらゆる種の疾患 自身の疾病
9 Gantha
(典籍)
仏典の学習、読誦 仏典の暗唱、精読、研究
10 Iddhividhā
(神変)
神通力 凡俗(聖果に至っていない者)の神通力

これら瑜伽の修習についての十の障碍を取り除いたならば、次に修行者は瑜伽を修習するに適切な場所を探してそこで住さなければなりません。

これについて、ブッダゴーサは、瑜伽の修習に不適切である十八の精舎(寺院・僧院)を挙げ、さらにそれらの過失を一々述べ、そのような場所を避けるべきことを言います。では、その十八の不適当な精舎とはなんであるか。

瑜伽を修習するに不適当な精舎の十八過
- 避けるべき精舎 理由
1 大精舎 大きな僧院では、諸々の義務・雑務があって必ずこれを為さねば悪作(犯戒)となる。また比丘や沙弥の喧騒あって、定を修してもこれを得難いため。
2 新築の精舎 新しい僧院で、一部の建物など未完である場合、その工事の手伝いをしなければ、他比丘の不興を買うなど軋轢が生じるため。
3 荒廃した精舎 古く荒廃した僧院では、自坊・他坊を問わず、その破損した箇所を修理・補修しなければ、他比丘の不興を買うなど軋轢が生じるため。
4 街道沿いの精舎 表通りに面した僧院では、しばしば(遊行中の)客比丘などの訪問・滞在があり、その応対に追われて定を修める機会を失うため。
5 泉ある精舎 境内に泉の湧く僧院では、その水を汲みに来る者があって騒がしく、また衣を染めるのに来訪する比丘の応対で多忙となるため。
6 野菜ある精舎 諸々の山菜・野草・野菜の採れる僧院では、その菜を詰み取りに女等がやってきて歌など唄い、奇声を上げるなどして騷しいため。
7 華ある精舎 諸々の花が咲き誇れる僧院では、それを詰みに(或いは愛でに)女等がやってきて歌など唄い、奇声を上げるなどして騷しいため。
8 果実ある精舎 諸々の果実が採れる僧院では、それを請いに人々が来る。断れば怒り、力づくで取る。それを指摘すれば罵倒され、当地に住むのを妨害される迄に至るため。
9 有名な精舎 世に名だたる、人々の信仰を集める山などにある僧院では、四方から人々がこれを礼拝しようと雲集して騒がしく、心落ち着かないため。
10 都市に近い精舎 都市に近い僧院では、有力者や物売り等、僧院の境内を我が物顔に使用・闊歩する輩があるなど、不快な出来事が多く起こりうるため。
11 潅木林に近い精舎 林に近い、又は境内に林ある僧院では、薪拾いに女等がやってきて騷しい。また木を切り来る者もあって、それを指摘すれば罵倒され、当地に住むのを妨害される迄に至るため。
12 田に囲まれた精舎 田に近い、田に囲まれた僧院では、人々が境内にて脱穀など農作業して不快となる。また、荘園を有する豊かな僧院では、寺男が寺内に牛を飼い、その牛が他人の畑を荒らすなどして、ついには告訴されるため。
13 不和合の精舎 互いに敵対し合っている比丘らが住する僧院では、彼らが闘争しだしたとき、彼らの仲裁に入ったならば、かえって「汝が来てから我等は堕落した」などと、責任転化して自分のせいであると責められるため。
14 交易所に近い精舎 港や市など交易地に側近い僧院では、商人らが場所や水、タライなどをくれとやって来て邪魔し、不快であるため。
15 辺境の精舎 辺境にある僧院では、人々は仏法僧の三宝に対して信仰していないため。
16 国境側の精舎 国境の近くにある僧院では、両国の王などから、間諜(スパイ)であるとの嫌疑をかけられる恐れがあるため。
17 不穏当な精舎 夜叉や悪鬼など、不穏当な神霊(非人)の棲息する、不穏当な僧院では、生命に危害を加えられる恐れがあるため。
18 善友なき精舎 善友たる阿闍梨や和上の得られない僧院では、善友を得られない大過失があるため。

以上のような理由から、該当する精舎は瑜伽を修習して三摩地を得ようとするに相応しくなく、よってこれらは避けるべきとされています。

ここで理由として挙げられている数々の事項は、なんとも実に生々しいものとなっています。これらは若干、こと細か過ぎるがために、むしろ特定の地域や時代に限定されたもので、現代ではあまり用を為さないものとなっているように感じられる人もあるかもしれません。しかし現在でも、南方の大きな僧院では内輪のいざこざや軋轢はつきものであり、また寺院同士の不仲あるいは檀越との衝突なども大して珍しい話ではありません。

なお、これらの条件は、種本とされた『解脱道論』にはまったく挙げられていません。著者のブッダゴーサは、これら十八過のいずれかに該当する僧院を避けるべきと言うことについて、当時のセイロンで用いられていたという諸注釈書に書かれていたことであるなどと言っています。

あるいは、セイロンでブッダゴーサが見聞きし、あるいは体験した事柄に基づいて、その記述を詳細にしたものであるかもしれません。どのような典籍を根拠にしかは定かではないにしろ、5世紀頃のセイロンでは、以上のような事例が実際に、そして多くあったのでしょう。その故にこのように具体的過失として挙げられたと考えられます。

また、このような具体例が多く列挙されているところを見ると、1500年ほど昔のセイロンにおいてすらも、瑜伽の修習に適切な場所を探すこと、その様な場所で実際に修道に励むことが困難であったことが想像されます。そして、それは今も変わりません。

とにかく、これらが示しているのは、瑜伽を修習するにおいて、騷しい女等の来る場所、さらに出家・在家を問わず、他者との軋轢を生むような場所を避けるべきことです。これは実際、大変重要なことです。

環境とは、まこと人に重大な影響をあたえるものです。しかも、現代的に精神衛生の観点から言って、人間関係が円滑である環境に身を置くことはきわめて大切な、もっとも必要な条件でしょう。人間関係が上手くいく場所においては、その物質的環境の少々の劣悪さなど瑣末な問題である、とさえ言える場合があります。実際、ここでブッダゴーサが強調しているのは、ほとんど人間関係・社会的云々について言っていることであって、意志的云々でも、物質的云々でもありません。

おそらく一般の人がイメージするのとは異なって、修行というのは、世間から隔絶した深山幽谷に一人籠って出来るようなものではありません。

ほとんど必ず、まずそれを支えてくれる周囲の人々が不可欠であり、また往々にして道を共にする同朋というものが伴うものです。出家者であればなおさら、サンガという組織、出家者の共同体という社会に依存し、そこでの特別な法律に従って生活しているのですから、それらとの関係がうまく行かないようであれば、現実的には修行などとても出来はしません。

確かに、ブッダゴーサが懇切にあれこれと示している、これら条件の全く当てはまらない場所で瑜伽を修習しえるということは、大変稀ながらも、しかし大切なことです。

大乗(智顗『修習止観坐禅法要』)における前方便

古来、漢語仏教圏において、止観あるいは坐禅を修習するの優れた指南書として珍重されてきた書に、智者大師と尊称される智顗[ちぎ]の『修習止観坐禅法要』一巻があります。

智顗とは、六世紀中頃の陳末から随初頭の支那において大いにその名を馳せた、その当時はほとんど唯一の大学僧で、支那の天台教学を大成した、天台宗第三祖に挙げられる人です。

この書は通称『天台小止観』とも支那以来言われてきました。それは、この書の後に、智顗が講義したのを弟子灌頂が筆録して著した『摩訶止観』十巻という書があるためです。もっとも近年、本書の本来の題目は『略明開矇坐禅止観要門』であると、関口真大博士の研究によって明らかにされています。博士は、種々伝わる版本を綿密に校訂された結果、大正新脩大蔵経所収のものとは異なったもの定本として出版しています。

また、智顗にはこれら二書の他に、止観の修習について記した『釈禅波羅蜜次第法門』十巻ならびに『六妙法門』一巻の書があり、これらもまた古来珍重されています。しかし、この書の原題が『略明開矇坐禅止観要門』とされているように、なるほど簡にして要を得ているという点で、この書に如くものではありません。

また、天台教学が不可分に織り込まれたような内容でも全く無い、天台教学の特殊にほとんど関しない内容であるため、この書は天台宗だけではなく、その他多くの宗において読まれてきました。

その内容には、多少なりとも支那的・道教的香りの漂う記述や、智顗が曲解或いは誤解して用いている語が若干見られます。しかし、全体としては、インド以来の伝統を引き継ぐ瑜伽修習の指南書として用いるに、充分に価値ある優れたものです。

ここで紹介するのは、その『修習止観坐禅法要』の冒頭において説かれる、止観を修行しようと志す者が、まず調えるべき諸々の条件を列挙したものです。これを二十五方便といいます。

廿五方便
- 意味
具縁 1 持戒清浄 僧俗それぞれに応じた戒・律を受け、それに則って生活すること。もし戒を犯すこと重大であれば、法に従って懺悔すること。 環境の整備
2 衣食具足 衣食について必要最低限のもので満足すること。食は乞食などで得たもの、あるいは僧院で用意されたものを摂ること。
3 閑居静処 深山幽谷、または集落から最低1マイル離れた閑静な場所、あるいは人里から離れた静かな僧院にて住すること。
4 息諸縁務 世間の仕事・生業、親族・知人との交信・交通、工芸・医術・占術・算術、仏典の学習・読誦などから、すべて離れること。
5 近善知識 止観修習を援助・後援する外護者、切磋琢磨して修道しえる同朋、修道に関する諸々の実際を教授する師を得ること。
呵欲 6 男女あるいは宝物など見た目の美しい、視覚に訴えて魅了するものに対し、その過失を知って、欲情を起こさないこと。 五欲の制御
7 楽器あるいは男女の歌声など、聴覚に訴えて魅了するものに対し、その過失を知って、欲情を起こさないこと。
8 男女の香料、食物の匂いあるいは薫香の香りなど、嗅覚に訴えて魅了するものに対し、その過失を知って、欲情を起こさないこと。
9 食物の苦味・酸味・甘味・辛味・塩味・薄味など、味覚に訴えて魅了するものに対し、その過失を知って、欲情を起こさないこと。
10 男女の柔らかさや滑らかさ、気温の冷暖など、触覚に訴えて魅了するものに対し、その過失を知って、欲情を起こさないこと。
棄蓋 11 貪欲 意根すなわち心が過去・未来・現在の事柄、記憶や妄想に欲心を起こして執着するのを防ぐこと。 五蓋の抑制
12 瞋恚 何者かが過去・未来・現在の自身あるいは親しい者を悩害し、悩害すると考えて、彼に対して怒り・害意を覚えて強めることを防ぐこと。
13 睡眠 心が重く沈んで無気力となるのと、諸々の感覚に締まりなく弛み、あるいはそのまま眠りこんでしまうことを防ぐこと。
15 掉悔 そわそわと落ち着かずにあれこれしようとすること、過去に為した悪業への後悔で心が沈みこむことを防ぐこと。
15 自らが修行して結果を出すことの可能性を疑い、師の資質を疑い、受けたところの教えの価値・真偽を疑うことを防ぐこと。
調和 16 摂る食事の量を多くし過ぎず、また少なくし過ぎずすること。身体に毒となり得るるものを摂らぬようにすること。 心身の調整
17 睡眠 寝過ぎないこと(一般的に言われる八時間睡眠など寝過ぎ。四~五時間も寝れば充分。最初はつらくとも、これに慣れること)。
18 姿勢を正し、息を整え、また心を調えること。これら三は同時になすべきこと。定に入る際、入っている際、そして定から出る際と、それぞれの分際に応じた方法でもって、この三を調える(その方法は本書に云々と説かれる)。
19
20
方便行 21 世間のすべての妄想転倒から離れ、すべての禅定と智慧の法門を得たいと願い欲すること。悟りへの志をもつこと。 堅固菩提心
22 精進 火を揉み起こすには、煙が出ても火を見るまで止めぬように、戒を持ち、五蓋を捨て、日々弛まなく努力し続けること。
23 世間の騙し欺き、幻の如き物事は卑しむべきものであり、(出世間の)禅定と智慧とは尊ぶべきものであることを忘れないこと。
24 巧慧 たちまち苦に転じる世間の虚しき楽と、禅定・智慧による平安で寂然として苦から離れたる楽との得失・軽重を計ること。
25 一心 世間を疎い離れ、禅定・智慧の尊貴たるを確信して、ひたすらに止観を修行しようとの揺るぎ無き一大決心をすること。

もっとも、これら廿五方便は『修習止観坐禅法要』においてのみ示されているものではなくて、すでに『釈禅波羅蜜次第法門』においても見られるものです。これらは阿含経や『仏遺教経』、また有部の典籍などで、修道法について説かれていたものをまとめ示した、インド以来の常識的事柄であると言えるものです。

故にこれは別段、特に大乗でのみとか大乗であるからこのように説かれているとかいうような類のものではありません。

さて、これら止観を修習する前に調えるべきとされている諸条件の中には、むしろ実際に止観の修習に依ってこそ、その修習を進めていくうちに整えられるものがあります。

例えば、智顗が「棄蓋」として挙げている五蓋と呼称される五つの煩悩などは、禅那(初禅以上)に至っている時にこそ制しえるものです。ただ我慢する程度のことで最初からこれらを全く制しえるのであれば、そもそも止観など修する必要などありません。これは呵欲、五欲の制御についても似たようなことが言えます。

故にこれは、おかしな言い方となりますが、仏教的・伝統的な意味でというのではなく、常識的な意味でそれらの情が起こった時にはこれを悪と知って抑えよ、と言っているものと理解しなければ不合理となるでしょう。

無常迅速

さて、いずれにせよ、これら一々とかたじけなくも説き勧められた諸条件を我が身に備えることは、率直に言って容易なことではありません。また、これらが諸典籍に挙げられているものであるからといって、これら条件に「無闇矢鱈に」こだわってしまうのは本末転倒となってしまうでしょう。

我々の人生、このように過ごせる時は誠に限られています。私にはもう、時間が少しばかりしか無い。その死は、いますぐにでも私に襲いかかって来ます。そのような時に、我々は準備ばかりにあれこれ気をもみ、手間取るわけには行きません。

理想を云えば、その全てを具えるのがもちろん一番です。しかし、理想ばかり言っていても仕方ありません。現在の自身がその出来うる限りにおいて具え、止観の修習へと進んでいけば良いでしょう。

そして、気づくでしょう。これら諸大徳に依って挙げられた諸条件が、まことに理にかなったもので、それらを具えることが確かに良いであろうことが。そしてそれらは、むしろ止観の修習をすすめて仏法のかたじけなさを知るにつれ、また自身によって整えていけるものでもあることが。

小苾蒭覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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