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‡ 田辺大根の歴史

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1.棉作と田辺大根(江戸時代の田辺)

「たなべ大根ふやしたろう会」世話人 吉村直樹

写真:田辺大根

近世江戸時代に入ると、田辺は幕府直轄領(天領)となります。江戸幕府の経済体制は農業を基盤としています。年貢を最大限納めさせる農村支配システムが実施され、農地が拡大されました。

耕地面積拡大のため北田辺村、南田辺村隣接の荒れ地が開墾され松原新田(現在の南田辺から鶴ヶ丘一帯)、猿山新田(現在の西田辺あたり、昔はこのあたりにも猿がいたといわれます)となりました。この新田地域も後世、田辺大根の大栽培地になります。

江戸時代中期まで大和川は現在の流れと違って柏原から八尾、布施を北上し大阪城の東北あたりで寝屋川に合流していました。大和川は中河内地域の農業用水であるとともに川船で物資を運ぶ水路として活用されましたが、降雨の時期、大和川は氾濫して流域周辺にたびたび洪水被害を起こしました。田辺もその被害を受けていたようです。

一七〇四年(宝永元年)中甚兵衛によって大和川の付け替え工事が行われ大和川は現在の流れになります(今年は大和川付け替え三〇〇周年です)。←【注:平成16年時点】

この結果、河内平野は洪水もない肥沃な農作地になってゆきます。湿地帯だった各地に新田が開発されていきます。河内木綿の産地の誕生です。田辺も棉作を中心とした農村地帯となってゆきます。棉作は田辺大根や天王寺蕪と関係がありました。

江戸時代中期の田辺の古文書によりますと耕地総面積に対して畑作が多く、約六割を占めています。畑作のほとんどが棉作でした。

江戸時代も中期に入ると商品経済が発達し、農村にも浸透してゆきます。従来の稲作中心農業から商品作物の栽培が増えてゆきます。田辺では棉作だったのです。

当時の棉業の中心地だった平野郷に近かったのも大きな理由でしょう。文政、天保年間には棉品種が改良に改良を重ねられ優良種を続出しました。

文政の頃、田辺にいた松田佐二郎という人が田邊土佐という品種を生み出しています。棉作は日清戦争後、外国から棉花が輸入され出し廃れてゆきます。それまでは田辺一帯は棉花詰みの時期には純白の棉の花で雪が降ったようだったといいます。

棉作のすきまに栽培されたのが天王寺蕪でした。天王寺蕪は棉木と棉木の間で栽培され、棉木のおかげで風に当たらず暖気が保たれたため品質が良く、需要も多かったようです。そして天王寺蕪以上に田辺の名物として有名だったのが田辺大根です。

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2.田辺の灌漑と肥料

いい農作物を育てるには肥料が必要です。戦後のある時期まで最高の肥料は人糞、屎尿でした。農家の人が謝礼のお金や野菜を持って民家の便所に肥えにする屎尿を汲みに来ました。畑には肥溜めがありました。

屎尿は貴重な資源としてリサイクルされていました。屎尿の権利について明治の新政府が江戸時代からの下肥制度を改めようとしました。明治三年、大阪ではこれに反対する農民の大暴動が起きたという記録があります。それほど屎尿は大切な肥料だったのです。田辺は四天王寺の近く、中世の頃から四天王寺四十八坊の屎尿をもらう権利をもっていたようです。これもいい天王寺蕪や田辺大根を産出する土台になっていたのでしょう。

田邊町史によると「本町は、土地平坦にして排水困難、ただわずかに小溝にて緩緩と排水することになれば、悪水の停滞することしばしなり」と書かれ農業用水の便は悪かったようです。灌漑には股ヶ池(現桃ヶ池)、池田池(現長池)の溜池水が掘り割りを使って村中を通り東方の駒川に流されました。しかしそれだけでは十分でなく村の方々に井戸が掘られました。日照りが続くと男も女も昼夜の井戸汲み仕事でした。「嫁にやるまい天王寺田邊深い野井戸で水汲ます」という言葉が田辺の農作業の厳しさを語っています。

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3.田辺の都市化による農業の衰退

明治二十九年、住吉郡は東成郡に合併され田辺村は東成郡の管轄となります。この頃には田辺大根は全国的にも有名な大根となっていました。

明治六年に創立された田辺小学校の校章は昔、田辺大根をデザインしたものでした。田辺大根はそれほど地域を代表する野菜だったのです。

純農村地帯の田辺は鉄道の開設とともに都市化へと徐々に変貌してゆきます。大正元年に南海平野線(廃線)が開通すると交通の便もよくなり都市大阪市の影響を大きく受けるようになり、次第に商業化して行きます。

大正三年、田辺村は田辺町となります。この年始まった第一次世界大戦による好況と大阪市の商工業の発展にともない、田辺では若者達が農業から離れてゆきます。また田辺は大阪市郊外の住宅地として宅地開発が進みます。

大阪市からの移住者が増え日用雑貨、食料品の小売店の数が増え農業専業であった人々がどんどん小売業を兼業します。純農村地帯が住宅地、都市になってゆきます。

大正十二年に大阪鉄道(現近畿日本鉄道南大阪線)が開通します。大正十四年、田辺町は膨張する大阪市に併合されます。昭和二年に市バスが町を通り、さらに昭和四年に阪和電気鉄道(現JR阪和線)が開通し、都市化に拍車がかかります。

田辺から田畑が減り、農業をする人が少なくなります。田辺大根の生産も減少して行きます。「田邊町史」は田邊大根が滅亡してゆく様子を次のように書いています。
「近年ベタ虫と称する害虫発生して其の栽培を妨げ、且つ大根の主栽培地たりし松原(現在の南田辺から鶴ヶ丘周辺)の地方は住宅地と化し、加ふるに近年紀州大根の勢力益増大して、永年各方面の賞賛を得し田邊大根は、唯僅かに松原南方の畑に其の名残を止むるのみとなりぬ」
と記録しています。

田辺大根はこのようにして、人々の前から姿を消してゆきました。今、私たちは様々な人々の縁と協力により再びまぼろしの大根を復活普及することが出来ました。

田辺大根は形、大きさは不揃いですが、現在市場に並んでいる大根が失った大根本来のおいしさと持ち味を備えたすばらしい大根だと思います。九月中頃に種を蒔き、十二月中頃に収穫できます。収穫時期には地域の人々が育てた大根を持ち寄って品評会や試食会などのイベントを行います。

田辺大根を通じて人々の交流の輪が広がり、コミュニティーが促進されます。私たちにとって田辺大根は珍しい伝統野菜というだけでなく、まちづくりの大事な材料なのです。(平成16年3月1日発行.大阪「食」文化専門誌 『浮瀬』 No.4,P9-P11より抜粋

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