真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ はじめに

はじめに |  仏教の世界観 |  仏教の目標 |  経典とは何か |  小乗と大乗

← 前の項を見る・次の項を見る →

関連コンテンツ
上座部常用経典集 |  真言宗在家勤行式 |  真言宗常用経典集 |  『仏遺教経』

・ トップページに戻る

1.はじめに

仏陀の教え

写真:菩提樹(インド・クシーナガル)

ここでは、約2500年前に説かれてから世界各地において連綿として伝わる仏教、仏陀の教えを紹介しています。

それをここで私は、学術的に概論を述べるのではなく、仏教の歴史、思想史を述べるのではなく、宗派の別を用いず、仏教諸派諸宗にて用いられている主立った経典などを通して行っています。

(といっても、まだまだ作業中で諸宗というにはほど遠い状態ですが。)

ただ客観的・比較的にどうこうといったような学問的・傍観者的解説は、基本的にはしていません。仏教にすでに信仰を持っている者はもとより、特に信仰は無いが興味があるといった者を対象とし、あくまで主体的に実践されることを前提に、仏教が理解されることを期待し、それを目的とした解説をしています。

仏教は難解 ―梵天勧請―

さて、いきなり率直に言ってしまいますが、仏教は難解な宗教です。

近年は「猿でもわかる仏教」 などと言った調子の、あたかも仏教は簡単でわかりやすいかのような表題がつけられた、「身近に感じられて、親しみやすく、わかりやすそう」な解説書が、書店の棚を賑わすなどし ています。

しかし、敷居が高くしている、あるいはお高くとまっているというのではありませんが、 事実として仏教は、そう簡単に理解出来るようなものではありません。実際、ちょっと仏教に興味を覚えて、書店などで「わかりやすそう」な解説書を読んでみたけれども、結局なんのことだかわからなかった、という人も多いことでしょう。

仏教が難解で、人の安易な理解を許さないものであることは、仏教の教祖である釈尊が、今から時をさかのぼること約2500年前に、インドは菩提樹の下で悟られ、仏陀となられたときの消息を知れば、おのずから納得できることでしょう。

釈尊は、悟られた当初、その悟られた真理を、ただちに世の人々に説き広めようとはしなかったという説話が、ごく一部の経典にではありますが、伝えられています。

その説によると、「自分の悟った真理はあまりに深淵であり、世間で欲のままに生きている人々には理解しがたく、説法したとしても結局は徒労に終わるだろう」と、仏陀は独り静かに生涯を閉じようとされたのでした。しかし、そんな釈尊の前に、梵天というインドの神が現れて、世間に釈尊の悟った真理を伝えることを懇願します。

これによって、ついに釈尊は、真実に対する眼[まなこ]あり、耳ある人の為に説法することを決意された、と伝える経典があるのです。ちなみに、このエピソードを梵天勧請[ぼんてんかんじょう]と言います。

このようなエピソードを聞いた途端に、「非科学的だ」「馬鹿らしい」「とうてい事実としては受け取れない」などと考える人もいるでしょう。または、「これらエピソードは、当時なんらか似た事実があり、それを神話化して形成されたものなのだろう」と、推測する人もいるかもしれません。

しかし、これを無理やり現代的感覚をもって、あるいは当時の感覚を推測して解釈する必要などはありません。信じられなくとも、まずは「その話のまま」を知っておけば良いことです。今は仏教が難解であることを、仏陀ご自身が宣言している経典があることを挙げて、その証としておきます。

真理はシンプル ≠ 真理は易しい

さて、仏陀がその教えを世の中に説法された結果、それからおよそ2500年の長い時を経た今も、我々は仏陀の教えに触れることが出来るのですが、それが難解であること自体は、なんら変わりありません。

むしろ、2500年という時間を経たことにより、そして、仏陀の教えを信奉する弟子達の組織がバラバラに分かれてしまったことにより、あるいは日本の場合、インドから支那・朝鮮を経て伝わったことによって、ますます難解となってしまったと考えて差し支えありません。

ある人々、たとえば物理学者や数学者など科学者や哲学者は、「真理はシンプルである」との信念のもと、日々学問に研鑽しているようです。そして同様に、仏教者の中にもやはり、「真理はシンプルである」と説く者があります。科学の場合、宇宙の諸現象は、実にシンプルでエレガントですらある公式(真理)に還元して説明し得るものであり、実際それが現在解明されている限りにおいてなされています。

そして仏教もまた、その教えの核心とは何かを示そうとした場合、これも実に短い言葉によってなすことができます。このように見た時、真理はシンプルだと言えるでしょう。

しかし、仮に真理がシンプルであったとしても、シンプルに説明できるものであったとしても、シンプルであるが故に、むしろ理解困難なこともあるようです。時としてその表現があまりに簡単な為に、その意味するところが全くどういうことかわからないことがあります。そこでこれを理解しやすくする為に、話を込み入らせて難しくしたほうが良い場合もあります。

シンプルに表現できるからといって、それがすなわち理解がたやすいと言う事にはなりません。

なんでも自分の頭では理解できない難しいことは悪くて、理解できる簡単なことが良いなどと考え、全てをお気軽お手軽の、単純な理解で済まそうとする今日的態度。ある意味では軽薄な態度で、これらを理解しようとすれば、たちまち壁に突き当たるか中途半端な理解に留まるか、はてまたは、途中であきらめて放り出すことになってしまうかもしれません。

また、ただ頭で理解しただけならば、現実と乖離[かいり]した、観念の世界でのお遊戯に過ぎなくなってしまう可能性が高いでしょう。

実際、「わかっちゃいるけど、やめられない」などと言った物言いが世間ではしばしばなされますが、これは「(わかったつもりで、)わかってはいないから、やめられない」のです。「わかったつもり」になること、させることは、比較的簡単だと言えます。TVコマーシャルなどその良い例でしょう。

しかし、これは何にでも言えることだと思いますが、一つのことが「わかる」ようになるには、相当な時間と努力が必要です。いや、自分が「わかっていないこと」をまず理解するのに、まず相当な時間がかかってしまうかもしれません。

自らがこれを知り、見る道

仏教が時を経てますます難解になっていった事情には、仏教が、インドから様々な風土や慣習などが異なる土地を経て広まったという事情も勿論あるでしょうが、「シンプルな真理」を理解しようと、わかりやすくしようとした結果、実に難しい説明となってしまった、という場合もあったかもしれません。

けれども、これを我が身が実践しようとした時、およそシンプルで易しいなどといったものからほど遠いものであることを、人は知るでしょう。

しかし、それはあくまで理解が困難であるというのであって、決して理解出来ないと言うのではありません。実践するのは容易ではないといっても、実現不可能というのではありません。仏教を理解するということ、仏教の説く真理を知るということは、実践をともなってこそ深まるもので、頭の中であれこれ考えるだけでは理解できず、また何も知らずにただ信じるというのでも同様です。

相当な時間を掛け、相応の段階を経てじっくり理解していこうという決意と態度、そして優れた智慧があり、正しい知識を持って、口だけではなく実行している人との縁があれば、仏教が、実に明晰な論理性と実践体系をそなえ、しかもそれを自分自身で確かめることが出来る、優れた道であることが理解できるでしょう。

そして、仏教を理解することが、日本という国の歴史・文化・伝統や、ひいてはアジア諸国の文化や思想をも知ることに繋がり、予想以上に多くのものを得ることにつながるかもしれません。いや、なによりも自分自身にもたらされる利益は、きっとはかりしれないものとなるでしょう。

仏教は、たやすくお気軽に理解出来るものではありません。しかし、その扉は万人に対して開かれており、これに真剣に取り掛かる者には、それが遥かであっても確かな道であることを見ることが出来るでしょう。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “仏陀の教え”へ戻る

2.釈迦に説法

唱えるだけなら意味がない

写真:仏陀頭部(パキスタン・ラホール博物館所造)

日本ではしばしば、仏前や先祖が祀られた仏壇の前などで、「経を読む」「お経を上げる」「お勤めをする」などと言って実践されている方がおられます。

しかし、実際の所、自分たちが唱えている経典にいかなる意味内容のことが説かれているかを充分了解して、読経を行っている方はほとんどいないようです。

経典とは、ブッダが人々を悟りに導くために説かれたものです。にもかかわらず、「仏様にお経をあげる」とはどういうことでしょう。いわゆる「釈迦に説法」そのままをやっていることになります。しかも、説法している当人にはまるでその意味がわかっていないのであれば、もはやこれは何かの冗談とすら言えるでしょう。

また、口をパクパク開閉し、訳もわからぬ言葉をブツブツと発するだけなら、九官鳥やオウムでも出来ることです。「お経を聴くと、なぜだか心が安らぐ」などと言う人も中にはいます。が、下手な読経を聴くより、鳥のさえずり、風にそよぐ草木の音色の方が、遙かに耳に心地良いでしょう。

ただ声を出すことが重要だというのであれば、カラオケでも行ってお気に入りの歌でも唄えば、日頃のストレスも一時的にしろ発散されて、よほど有意義です。

もちろん、個人の嗜好ですから、「意味なんかどうでも良い。私は読経を聞くことがなによりも好きなのだ」というなら、それも良いでしょう。しかし、仏教からすれば、そのようなことに意味などありません。

合掌するだけではアリガタクなどない

世間には、「合掌するだけでありがたい」などと言って悦に入ってしまう人もいますが、合掌など猿や犬・猫でも出来る所作にすぎません。なにがありがたいというのでしょう。

もともと合掌など、挨拶の方法、表敬の手段くらいのものです。

合掌は、日本で言うお辞儀のようなもので、礼儀作法の一つでしかないのです。「礼」を否定するわけでもなく、それらにまったく意味など無いわけではありません。他者に礼をつくすことはあたりまえのことで、とても重要なことです。しかし、それらを行ったところで、宗教的・仏教的に「なにがどうなる」ようなものではないのです。

このような言葉を聞いて、「私も前から“合掌”などという行為を、形式的に行うのには疑問を感じていた。私は心の中でこそ深く信仰し、形式的な所作にすぎない合掌などしないことにしよう。だいたい合掌することはどうも気恥ずかしい。要は『心』が大事なんでしょ?」などと言って、実際に実行する人があります。

まず、このような人は、「心が大事」という意味を完全にはき違えているようで、さらに基本的な礼儀ということを忘れてしまっているようです。これではいけません。

しかし逆に、信じる以前、読経などする以前に、まずブッダの教説として伝えられてきた経典や文句が、いかなる意味内容を持つものであるかをある程度理解し、また、それらが何を目的としてあるかを知ったならばどうでしょうか。仏教が敬して合掌するに値し、信じて行ずるに価する教えであることが、十分に納得できた時はどうでしょうか。

その時こそ、単なる作法や慣習、迷信のようないい加減なものとしてではなく、明確な意義あるものとして読経などを行い、仏教を実践していくことが出来るようになるでしょう。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “仏陀の教え”へ戻る

3.聞思修

観念のお遊戯 -浪漫佛教-

写真:ジャータカ-燃灯仏授記-(パキスタン・ラホール博物館所造)

このようなことがよく見られます。なんとか自分たちを西洋化しよう、「先進化」しようとしてひたすらこれを学ぶも、西洋の思想に結局なじめなかった、水が合わなかった、世間で「知識人」「文化人」などと言われる日本人が、今更ながら仏教の思想に触れて感銘を受け、さかんに仏教の思想の素晴らしさを、テレビや書籍の上などで喧伝。

しかし、その当の本人の生活に、仏教が反映されることなどほとんどなく、単なる観念の世界で「仏教はいい」「仏教が好き」などと悦に入ってしまうだけ、ということが。

さまざまな分野の知識を得ることは、そしてそれを深めることは、その人の見識を深め、視野を広げる上で有益な場合もあるでしょう。

けれども、なにかみずからの為になる、優れたことを知ったとして、それを口だけで称賛しながら実行しなければ、それはただの知的好奇心を充たすだけの娯楽、知的遊戯の一種に過ぎません。

仏教は、知的遊戯の対象、知的娯楽の一種にもなり得るもので、現実としてそのように扱われている場合もありますが、元来そのような「観念のお遊戯」とはほど遠いものです。

また一方では、耳ざわりだけは良いものの、中身はからきし無い言葉だけをいたずらに列挙して虚飾した、いわば商品化された仏教が、最近盛んに持てはやされているようです。

無思考の状態を「癒し」「安らぎ」だと言い、見つめるべき現在の自分を見ずして、どこか外に「自分探し」に旅立たせることを推奨。あるいは、「人間だもの」などと安易な現実肯定の言葉を持てはやし、むやみに「ありがたい」・「生かされている」等と口にして、不当に他者に依存する事を正当化したりすることが、仏教であるかのように言われているようです。

三慧 ―しっかりと聞き、よく考え、実行して確かめていく

はじめから、知的好奇心を満たすためだけ、あるいはただその人の考える常識として、仏教を学んでいる人もいるでしょう。また、世間のコロコロ変わる流行に身を任せているだけで、別段仏教そのものに興味があるわけでも、真剣にこれを学ぼうと思ってはいない人もいるでしょう。

それらは個人の問題ですから、そのような人はそれでかまいません。しかし、きっかけはどうであれ、仏教を真剣に学んでみる気が起こった人は、じっくりと仏教を学んでみると良いでしょう。

これは非常に重要なことですが、仏教は「信仰が何より大事」などと、頭ごなしにいきなり言うことはありません。

確かに信仰は必要です。信仰無くして仏教を深く実践していくことなど不可能とすら言えるでしょう。しかし、いきなり何も知らない者に対して「信仰が必要だ」・「信仰こそがもっとも大切」などと説いている仏教の一宗派を名乗る者があったならば、眉つばものだと思ったほうが良いでしょう。

まずは、自分がその説をしっかりと聞き、筋道立てて考えた上で、それを実行して自らそれが真実であるか否かを確かめたら良いでしょう。これは「まず拝み方を習い、拝んでみよ。熱心に拝んでみたならば願いが叶う。それは自らが確かめるべきことである」などという、拝み屋がよく言うような低劣な話をしているのではありません。

その芽をいかに育てるか、あるいは摘み取ってしまうかは、自分で選択していけば良いことです。積善の徳がある人には、その育てかたを教授してくれる人、育てる助けをしてくれる人に、きっと出会うことが出来るでしょう。

聞いて、考え、実践してみて、それがなるほど確かである、と自分で確認し智慧を育んでいくこと、信仰を育み確立していくこと。これを仏教では、「聞思修[もんししゅ]」の三慧[さんね]と言います。いきなり信じて伏し拝む必要はありません。

また、「八万四千の法門」などと言われる広大な教えが説かれる仏教について、それら全てのことを知ることは、もとよりほとんど不可能のことですが、実際としてそれほど多くの事を知る必要などありません。

例えその知ったところは少なくとも、それを実行してみずからそれを確かめていくことこそが、まずなにより肝要です。

仏道は峻険なるも、仏門は広く開かれている

たとえば『般若心経』は、現在の日本で最も普及しており、親しまれている経典であると言えるでしょう。しかし、何も知らない者がいきなりこれを理解しようとするのは無謀であり、土台無理な話です。

それは、算数が出来ない者が、いきなり微分・積分など数学や、あるいは物理学をやろうとするようなものです。日本語を学ぼうとする者が、平仮名・片仮名からではなく、高等教育で用いられる漢字から学習しようとするようなものです。教える側もまた然りで、これをいきなり教えようとすることは、実に乱暴なやり方であると言わざるを得ません。

実際、仏教になんとなく興味をもったという人が、世間で非常に親しまれている『般若心経』とはどんなものかと、様々な解説書を読んでみたけれどさっぱりわからなかった、などという事はよく聞く話です。それら解説書の著者の中には、実際に自身が解って書いているのかどうか、かなり怪しく思われる者が多いようです。

また、自分が理解出来ないといって、しまいには「『般若心経』で説かれていることは虚構」「『般若心経』は間違い」とまで主張し出す人も出てきてしまいます。

仏陀が種々様々に説かれたの教えのうち、何が今の自分に適当な教えであるかは人によって様々です。自分に適当であるから他者にも適当である、自分が最高だと思うから他者にも最高であり、そうあるべきだ、などといった種類の主張は虚しいものです。

また、これも似たようなものですが、「自分が信奉している教え、宗派は最高である、ゆえにこれを信じ、そこに所属する自分は正しく最高であり、その他は全く誤りであって糺すべきである」といった類の、権威主義的・事大主義的な思考を強く持つ者も現実に多く存在しています。

が、それはただ自分の慢心を膨らませているだけ、自分の慢心や虚栄心に根拠を与えてさらに質の悪いものにしているだけです。それは、往々にして他者との争いを引き起こすだけの愚かな行為、全く本末転倒の行いです。

誰でも仏教を信仰し、学んでいくうちに、仏陀ひいては三宝によって示された数ある教えの中の一つを、個人として主とすることとなるでしょう。そうすることは仏道を志す全ての人にとって、誰であれ必要なことです。しかし、そこで自分が信仰する教えこそが全てであるとか、唯一であるなどと、派閥主義・宗派主義を持たないよう、くれぐれも気をつけなければなりません。

また、仏教を客観的・傍観者的に、「あれもある、これもある。こんなものもある。ここではこう言うが、こちらではこう。あれがこうなって、こうなった」などと外から眺めるだけでも、全く仕方がありません。それは、どこか行きたい土地があったとしても、実際に行くことなしに目的地までの様々な道を、ただ地図上でだけ眺めて口であれこれ言っているだけのようなものです。

道は多岐にわたる。しかし、己が行ける道は一つ

本当に目的地に行きたいのであれば、無論のこと地図も必要ですが、なにより自分が実際にその足で現地に赴いて歩くことです。その道を実際に行くときの感覚、その景色、その土地にそよぐ風、暑さ寒さ、においなど風情や、思いがけず訪れるであろう多くの困難さは、地図を眺めるだけでは決して経験できず、どうしても理解できないことです。

そしてまた、同時に二つの道を行くことなど、誰にも決して出来はしません。

そこで多岐亡羊[たきぼうよう]として、いずれの道を行くべきかあれこれ迷っていても、人として生を受け得たこの「得難い人生」はたちまち終わりを迎えてしまうこと、この厳然として冷酷とすら思える事実を忘れてはいけません。

仏陀の教え、それは人を、自らを平安の境地へと導く優れた道です。この道に至る門は様々に開かれています。人によっては、その進む道によっては、奥に行くに従って狭く峻険となり、難路となるかもしれません。が、その門は実に広く、上下四方に開いています。

この門として、諸宗諸派で用いられている種々の経典を用いることは、平易にして日常に容易にこれに触れることが出来得る実践的なものであり、開かれたものであると私は考えます。

これによって、少しずつ段階的にでも、この優れた道を理解する一助となれば幸甚です。

貧道覺應 拝識
(horakuji@gmail.com)

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “仏陀の教え”へ戻る

はじめに |  仏教の世界観 |  仏教の目標 |  経典とは何か |  小乗と大乗

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。