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1.三帰・三竟

三帰

原文
弟子某甲[でしむこう]
盡未来際[じんみらいさい]
帰依仏[きえぶつ]
帰依法[きえほう]
帰依僧[きえそう]

読み下し文
弟子某甲[むこう]は、
未来際[みらいさい]が盡[つ]きるまで、
仏に帰依し、
法に帰依し、
僧に帰依す。

現代語訳
仏陀の弟子たらんとする「わたし」は、
未来の果てが尽きるまで、
仏陀を深く信じ、
仏陀の説かれた真理を深く信じ、
仏陀の教えを実践する出家僧の集いを深く信じる。

三竟

原文
弟子某甲 [でしむこう]
盡未来際 [じんみらいさい]
帰依仏竟 [きえぶっきょう]
帰依法竟 [きえほうきょう]
帰依僧竟 [きえそうきょう]

読み下し文
弟子某甲[むこう]は、
未来際[みらいさい]が盡[つ]きるまで、
仏に帰依し竟[おわ]り、
法に帰依し竟[おわ]り、
僧に帰依し竟[おわ]んぬ。

現代語訳
仏陀の弟子たる「わたし」は、
未来の果てが尽きるまで、
すでに仏教を深く信じ、
すでに仏教を深く信じ、
すでに仏陀の教えを実践する出家僧の集いを深く信じている。

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2.解説

三帰とは

三帰[さんき]とは、三帰依を略した言葉です。その三とは、三宝[さんぼう]を意味します。三宝とは、仏陀と仏法と僧伽の、「三つの優れたもの」を指します。

仏陀とは、その言葉通り、釈尊を始めとする最高の悟りを得た、諸々のブッダのことです。

つぎの仏法ですが、法という言葉はサンスクリットDharma[ダルマ]あるいはパーリ語Dhamma[ダンマ]の漢訳語で、「(本質的な)モノ」・「真理」・「教え」・「道徳」・「掟」など様々な意味をもちます。しかし、ここでは、「(仏陀の)教え」と「真理」を併せて、「仏陀の説かれた真理」という意味と捉えると良いでしょう。

つぎに僧伽[そうぎゃ]は、サンスクリットSaṃgha[サンガ]あるいはパーリ語Saṇghaの音写語です。この言葉は、「誰か特定の僧侶」を指す言葉などではなく、四人以上で構成され、戒律を遵守[じゅんしゅ]して出家生活を送りつつ、仏陀の教えを守り伝えて実践する「僧侶の組織」を意味します。要は、僧侶の集いのことです。

(僧伽についての詳細は”僧伽(サンガ)-比丘達の集い-”を参照のこと。)

三宝それぞれをまた、このようなものと想起して帰依すると良いでしょう。「仏陀を師」とし、「法を薬」とし、「僧伽を友」であるとの思いを起こして、帰依するのです。

様々な言葉で唱えられている三帰依文

三帰依文は、国や宗派によって用いられる言語や若干の語句の違いがありますが、約二千五百年前の仏教誕生当時から、仏教徒の間で行われてきたものです。いかなる国においても、伝統的に必ず三返唱えることになっています。

近年は、世界中の仏教徒が集まった場合には、東南アジア諸国での経典に用いられている、パーリ語という言葉で、やはり三返繰り返して合唱することが多くあります。同じく仏教が連綿と伝わっているチベットにても、チベット語による三帰を、やはり三返繰り返し唱えます。

もっとも、チベット仏教の場合は、自身の仏教の師(ラマ)に対する帰依文を最初に加えて、「四帰」にする場合があります。僧が「僧侶の集い」であるのに対し、師は「特定の僧侶(時として在家者)」で、ここに師の存在を重要視するチベット仏教の伝統と特色が現れています。

参考までに、以下に上に挙げたものとは別の漢語の三帰依文を二つと、サンスクリット、パーリ語、チベット語による三帰依文をローマナイズしたもの、ならびにその読みを挙げておきます。さらに、最近は英語圏での仏教徒が急激に増えてきており、従来のパーリ語仏教圏・チベット語仏教圏・漢語仏教圏に加えて、英語仏教圏というべきものも形成しだされています。そこでは、英語で三帰依文を唱えることもありますので、さらに英語での三帰依文をも二種、併記しておきます。これらは世界中の仏教を信仰している人々が用いている三帰依文のおおよそ全てです。

発音に関して、サンスクリットについて言うと、北インドのバラモン達は、「a」は日本語の「あ」というよりもむしろ、英語などの発音記号として用いられる「æ」つまり「あ」と「え」の、現代の日本語には無い中間音で発音する場合が多いようです。

また、パーリ語の読みに関しては、同じ文句を唱えながらスリランカとビルマ、タイの間で発音や抑揚・テンポがかなり相違しています。今は一応、パーリ語の発音に関して最も正当であると自称している、スリランカで行われているものを挙げておきました。

漢語 三帰依文 (「説一切有部」所伝に依る)
帰依仏 両足尊
[きえぶつ りょうそくそん]
帰依法 離欲尊
[きえほう りよくそん]
帰依僧 衆中尊
[きえそう しゅちゅうそん]

漢語 三帰依文 (『華厳経』に依る)
自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上心
[じきえぶ とうがんしゅじょう たいげたいどう ほつむじょうい]
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
[じきえほう とうがんしゅじょう じんにゅきょうぞう ちえにょかい]
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無礙
[じきえそう とうがんしゅじょう とうりだいしゅ いっさいむげ]

サンスクリット 三帰依文
Buddha śaraṇaṃ gacchāmi
[ブッダン シャラナン ガッチャーミ]
Dharmaṃ śaraṇaṃ gacchāmi
[ダルマン シャラナン ガッチャーミ]
Saṃghaṃ śaraṇaṃ gacchāmi
[サンガン シャラナン ガッチャーミ]

パーリ語 三帰依文
Buddha saraṇaṃ gacchāmi
[ブッダン サレナン ガッチャーミ]
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi
[ダンマン サレナン ガッチャーミ]
Saṇghaṃ saraṇaṃ gacchāmi
[サンガン サレナン ガッチャーミ]

チベット語 三帰依文
Bla-ma la kyabs-su-mch'iho
[ラマ ラ キャプスーチォ]
Sans rgyas la kyabs-su-mch'iho
[センギェー ラ キャプスーチォ]
Chos la kyabs-su-mch'iho
[チュー ラ キャプスーチォ]
Dge-'dun la kyabs-su-mch'iho
[ゲンドゥン ラ キャプスーチォ]

英語 三帰依文 (1)
I take refuge in the Buddha.
I take refuge in the Dharma.
I take refuge in the Sangha.

英語 三帰依文 (2)
I go for refuge in the Buddha.
I go for refuge in the Dharma.
I go for refuge in the Sangha.

仏教徒としての最低条件

さて、仏教徒としての必要最低条件は、「三宝に帰依」することです。そして、その上でさらに、五戒を受けることが一般的です。

ですので、厳密に言えば、どこかの寺の檀家になっても、どこか仏教系新興宗教の会費を払っても、名実ともに仏教徒になったことにはなりません。まず「三宝に深い信を起こして篤く敬い、三帰依文を唱え」、つぎに「五戒を受け、それを出来るだけ守り、みずからを慎んで生きることを宣言」すれば、仏教徒になったことになります。

弟子某甲とは、「仏陀の弟子たる私は」という意味で、それを唱える本人を指す言葉です。ところで、某甲[むこう]の「某」は、訓読では「なにがし」と読みます。本来、某甲の部分は、自分の名前に入れ替えて唱えるべきものなのです。しかし、大勢で唱えた場合にバラバラになるのを防ぐ為に、慣習として某甲[むこう]と唱えます。

未来の果てが尽きるまで

盡未来際とは、その字が示すとおり、「未来の果てが尽きるまで」ということです。仏教では、「世界は始まりも終わりも無く、ただ生じては滅することを無限に繰り返している」と考えますので、「未来のはてが尽きる」ことはありません。つまりは「永遠に」ということですが、輪廻からの仏教は解脱を志す宗教ですので、「完全な悟りを得て、輪廻転生する苦なる生存が尽きるまで」という意味になります。

もっとも、先ほど三帰依文は、「世界中の仏教徒が唱える共通した言葉」などと言いましたが、すでに上に様々な言葉による三帰依文を挙げて示したように、「未来の果てが尽きるまで」などと言うのは、大乗だけに限られます。これは大乗の教えからくる言い方で、いわゆる小乗では、考え方の違いから、この様な言い方はしません。

ちなみに、「この人生限り」という場合には、尽形寿盡[じんぎょうじゅじん]という言葉に換えて唱えます。これは、人が出家して僧侶となる場合に用いられる言い方で、主に僧侶の受戒式にて使用されます。

南無

帰依仏 帰依法 帰依僧とは、「仏陀を深く信じ、仏教を深く信じ、戒律を守り生活する僧達を深く信じて篤く敬う」という意味となります。

ところで、サンスクリット(インドに伝わる聖なる言葉。一般に梵語と言われる)には、「ナマス」という言葉があります。これを漢訳した言葉が、帰依[きえ]または帰命[きみょう]です。訳さずにその発音だけを漢字に写した言葉が南無[なむ]です。

帰依[きえ]というのは、「自分の身も心も投げ出して信じる」ということです。ですので、例えば南無阿弥陀仏は、「阿弥陀仏に帰依する」という意味になります。

三竟とは

三竟[さんきょう]の「竟」という字には、「おわる」・「きわまる」・「つきる」・「ついに」等の意味があります。弟子某甲は、「仏陀の弟子たる私は」を、盡未来際は「永遠に」という意味で、すでに上で説明したとおりです。

帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟は、「すでに仏陀を深く信じ、すでに仏陀を深く信じ、すでに戒律を守り生活する僧達を深く信じて篤く敬っている」ことを意味しています。

つまり、三竟とは、自分が「三宝に帰依し竟った」ことを表明し、確認する言葉となります。「三帰の念押し」という意味と考えていいでしょう。

沙門 覺應

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