真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.廻向文

原文
願以此功徳 [がんにしくどく]
普及於一切 [ふぎゅうおいっさい]
我等与衆生 [がとうよしゅじょう]
皆共成仏道 [かいぐじょうぶつどう]

読み下し文
願わくは此の功徳を以[もっ]て、
普[あまね]く一切に及ぼし、
我等[われら]と衆生[しゅじょう]と、
皆共に仏道を成[じょう]ぜん(ことを)。

現代語訳
願わくは私の行った善い行いの果報が、
この世のありとあらゆる存在すべてに行きわたり、
自分を含めたすべての人々と生きとし生けるものとが、
皆と共にあらゆるものに対しての慈しみの心を持ちつつ自らが勤め励む道を日々たえまなく進んでいきますように。

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2.解説

廻向と功徳

廻向[えこう]とは、「みずからが行った善い行いの、その安楽な果報を自分だけのものとはせず、あえて自分以外の者に廻[めぐら]し向けて、その幸せと安楽を願う」ことを意味します。

ちなみに、この廻向文の文言は、『妙法蓮華経』(通称『法華経』)の化城喩品[けじょうゆぼん]第七の一説を抜粋したものです。

さて、まず一句目の願以此功徳は、訓読すると「願わくは此の功徳を以て」となります。「此の功徳」と言うからには、廻向をする人が、まず功徳とは何かを知っている必要があるでしょう。

功徳とはなんでしょう。功徳という言葉には、いくつかの意味がありますが、おおよそ「善い行いそのもの」または「善い行いに備わった善い性質」、「善い行いをしたことによって起こった良い結果」という意味があります。

善い行い

では善い行いとはなんでしょう。

読経や礼拝、念佛すること、布施すること、法事を行うこと、巡礼すること等でしょうか。意味あるものとして理解され、実行さるべきものとして経を読み、それを自分自身が、確かに真実であると充分に納得したうえでの信仰をもって、礼拝や念仏し、戒律を守って仏陀の教えの通りに修行に励む聖僧達に、心からの尊敬をもって布施を行い、みずからを反省し懺悔するために巡礼し、みずからの日々の行いを正していこうとすることは、確かに「善い行い」と言えるでしょう。

しかし、確たる信仰ももたず、ただ口に仏陀や菩薩の名を唱え、漫然と礼拝を繰り返すだけだとしたら、それが何になると言うのでしょうか。難しい漢字が羅列された、意味の全くわからぬ経文を読んだとして、それがどうしたというのでしょう。

戒律の一つも守らず、女性と交わって当然の如く妻帯し、公然と酒を飲んで憚[はばか]らず、当たり前のように世間並以上の俗な営みをして恥じない僧侶と称する人々に、読経や祈祷、戒名の代金としての金品を、法事等の時に渡すことが功徳でしょうか。

文化的慣習

霊場と呼ばれている場所を、物見遊山半分に巡って、納経帳と銘打たれたスタンプ帳に朱印を集める、いわばスタンプラリーをすることが、「善い行い」などといえるでしょうか。それらは、日本で文化的、習慣的に、当たり前のように行われている行為ではあります。

しかし、それらの行為は、「善い行い」とは異なるものです。形ばかりのそれらしい行いをいくら積み重ねてみたとしても、それによってみずからの心が浄められ、その後の自分の行いが正されないのであれば、意味など全くないと言っても差し支えないのです。

「私には難しいことはわからないし、もちろんお経の意味もわからない。けれど読経や寺詣でをしていると、何故だか心がスッと洗われる。それでもいいのでは?」と思われている方も多いようです。しかし、それはその場の「それらしい雰囲気」に惑わされ、単に習慣的にそう思いこんでいるだけで、その後の普段の心情や行いに、何の変化もないことがほとんどであろうと思います。「その場限りで元の木阿弥」では意味がないのです。

戒をたもつ

善い行いとは、形ばかりの行いを一時的にすることではなく、常に自分の心や、その身の行いを正して、日々生きようとすることです。具体的にそれは、十善戒などの戒めを持ち、慈しみの心をもって、落ち着いて生きることから始まります。

たとえば、十善戒の第一に挙げられる「不殺生(いかなる命であれ、生きとし生けるものすべてに敬意をもって、故意に傷つけたり殺したりしない)」という戒めを守ることは、まさしく「功徳(善い行いそのもの)」であると言えます。

人間である以上、いや、生命である以上、私達は自分以外の命を犠牲にしなければ、生きてゆくことなど出来ません。我々は他の命を奪うことによってしか、みずからの命を長らえることが出来ないのです。よって、「不殺生」を、言葉通り徹底的に実行することは実際上不可能です。

しかし、だからといって、相手がどのようなものであっても命を奪って良い権利など、誰であれ持っていないのです。それは何故か。我々が自分の命を大切にし、それを奪われ、傷つけられることを恐れているように、他のすべての生命も、自らの命こそかけがえのない大切なものとして、それが傷つけられ、奪われることを恐れているからです。

慈悲

だからこそ、それがどのようなものであっても、命そのものが、かけがえのない大切なものであると考え、小さな虫でも不用意に殺さないよう、また傷つけないよう、よく注意して日々生きることが必要となってくるのです。そして、そのように日々生きる人には、やがて慈しみや悲[あわ]れみなどの優れた性質が、心に少しずつ備わっていくでしょう。これこそ「功徳(善い行いに備わった善い性質)」です。

それは、読経や礼拝を繰り返すより格段に貴く、また必要なことであって、多大な「功徳(善い行いをしたことによって起こった良い結果)」をもたらすものだと言えるのです。

勿論、それ以外の不偸盗[ふちゅうとう]・不邪淫[ふじゃいん]・不妄語[ふもうご]・不綺語[ふきご]・不両説[ふりょうぜつ]・不悪口[ふあっく]・不慳貪[ふけんどん]・不瞋恚[ふしんに]・不邪見[ふじゃけん]といった戒めの一々についても、全く同様のことが言えます。

明恵上人「阿留辺幾夜宇和」

また、鎌倉時代初期の高僧、明恵[みょうえ]上人の言葉のように、阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)の七文字を心がけ、今の自分の境遇・能力、立場に応じた行いを全うし、すべきでないことを為さないよう努めて生きることも、「善い行い」であると言えます。

さて、功徳とは、そのような「善い行いそのもの」であるとともに、それを心がけて生きる人に、自然とそなわってくる優しさや落ち着き、賢明さなどの「善い性質」であり、または「良い結果」であるわけです。形ばかりの行いをいくら積み重ねたとしても、自らの心情や行いが、より善く変化していかなければ、それは功徳を積んだことには、全くならないのです。

長くなりましたが、一句目の意味をまとめますと、「願わくは、(私の行った)善い行いの果報[かほう]が」となります。

慈しみの心

ところで、仏教には因果応報という、「善い行いには、安楽な結果」が、「悪い行いには、苦しみの結果」がもたらされるとする、大原則があります。それは、どこまでも自業自得[じごうじとく]のものです。

しかし、いくら自業自得であると言っても、人が何か善いと思われる行いをしたとして、それが「この行いは私が行ったことで、私の功徳。私は私。よそはよそ。それぞれ勝手にすればいい」などといった考えによったものであれば、それは善い行いとは言い難くなってしまいます。

「自分の行いが、それが例え少しであっても、自分以外の他のものに善い影響や結果をもたらすように」との、他に対する慈しみの心をもちつつ行われ、またそう願うことによってこそ、その行いは善いものとなると言えるからです。

生きとし生けるものすべて

そして、その「他のもの」という対象が、「私の愛する誰々に限って」、「私の大嫌いな、憎き彼奴[きゃつ]を除いて」などといった、自分の好き嫌い、愛し憎しということを超えて、「生きとし生けるものすべて」であれば、さらに善いものとなると言えるのです。

これを、廻向文の二句目「普及於一切」という文句によって表しています。一切というのは、「すべて」という意味で、ここでは「この世のありとあらゆる全ての存在」を指しています。よって、これは「この世のありとあらゆる存在、全てに行きわたるように」という意味になります。

ただし、いきなり「この世のありとあらゆる存在」などと言ってみても、それは具体性に欠けた言葉の上だけのもの、漠然とした観念の上だけのものとなってしまいがちです。

そこで、まずは「好きな人、親しい人(もの)」、「どちらでもない人(もの)」、「嫌いな人、憎い人(もの)」と、三種類にわけ、それぞれの人やものを具体的に思い浮かべながら、その皆に等しく良い結果や影響がもたらされるようにと、その幸せを心から願うことから始めると良いでしょう。

「好きな人、親しい人」の幸せを願うのは、難しいことではないと思いますが、反対に「嫌いな人、憎い人」を呪い、恨み、貶し、その不幸を強く望むことは容易に行えても、その幸せを願うのは簡単なことではありません。ですが、人を呪わば穴二つ。人を恨んでみたところで、他人は勿論、結局は自分をも不幸にしてしまうだけなのです。

だからこそ、むしろ自分が嫌悪や憎悪を持っている人に対してこそ、慈しみの心をもってその安楽と幸福を願い、みずからが持つ嫌悪や憎悪の念を弱め、ついには無くそうと、努める必要があるのです。

もっとも愛すべき者

三句目の我等与衆生の「我等」というのは、「自分を含めた、すべての人々」を指しています。ここでの「与」は、「我等」と「衆生」を並べてつなぐ為の、「~と」という意味です。衆生[しゅじょう]というのは「生きとし生けるもの」を意味する仏教語です。ですので、この句は「自分を含めたすべての人々と、生きとし生けるものとが」という意味になります。

ところで、ここで「自分をふくめた」とすることは、とても重要なことだと言えます。人にとって自分とは、この世で最も愛すべき存在であり、最も大切な存在です。人は時として、自分を投げ打ってでも、命さえ惜しまずに他のために尽くす、いわゆる「自己犠牲」をすることがあります。このようなことから、「人には、自分よりも他者が大切であることがある。人間は、世の中に自分以上に大切な存在を持ちうる。そのような心情こそ、真の愛だ」などと、考えることが出来るかも知れません。

しかし、それでも、やはり自分が最も大切だからこそ、そのような行いが出来るのです。それは実は、誰かの為に何かをする、誰かを守るという自分の信条が大切で、それがたとえ自分の命を失うことになっても、自分の信条を貫くことの方が大事だと考えているだけだといえるのです。

例えば、「君を本当に愛している。何よりも。勿論自分よりも大切だ。君の為なら死をもいとわない」などと、若さ溢れる愛の言葉を語ってみたところで、その人が本当に愛し、大切にしているのは「君の為なら死をもいとわない、と思っている自分(の意志)」なのです。

人は一人では生きてはいけない? -情けは人の為ならず-

さて、また「人は一人では生きていけない」、とは巷間しばしば言われます。本当でしょうか?

それは、「人は」などと限られたことではないでしょう。この世の全てのものが、他とのつながりの中でしか存在出来ないのです。よって、自分が「より良く」生きていくためには、自分以外の存在も「より良く」なければ、自分もより良くなることは出来ないと言えるのです。

しかし、人は、自分がより良くなろうとするあまり、周囲の他者をないがしろにし、むしろ不幸にさえしてしまうことが、往々にしてあります。それによって一時的には、物質的に豊かになったりすることも出来るでしょう。現実に、世界にはそういう人はたくさんあって、そういう人こそが社会の実権を握っていると言っても過言ではないかもしれません。

ところが、より良くなろうと思っているのは他者もまったく同じであり、それを力まかせに妨害すれば当然、他者の怒りや恨み、羨みや妬みを買ってしまい、最終的に自分に甚大な不利益をもたらすことになってしまいます。これでは本末転倒といえるでしょう。

そこで、この世で最もかけがえのない、最も大切な自分自身が、本当により良くあろうとするならば、「情けは人の為ならず」。他者に対して心からの思いやりをもって接し、困難に遭遇している人には、出来うる限り、助けの手を差し伸べるようにしなければなりません。

自分以外の人を、生命を助けるということは、自分自身のためする行為に他ならないのです。「他人の為にはならない」ではなく、「他人の為ではなく、自分の為」なのです。

真に自分に利益をもたらそう、と思うならば、周囲の利益をも考え、与えなければならないわけです。

仏の道 -七仏通誡偈-

最後の句、皆共成仏道の、「皆共(皆共に)」は、三句目の「我等与衆生(我等と衆生と)」を受けたもので、次の「成仏道(仏道を成ぜん)」にかかります。

さて、ここで仏道とありますが、「仏の道」とは、どういうことを言うのでしょうか。

仏の道とは、「阿羅漢になるための教え、または修行法」、あるいは「仏陀になるための教え、または修行法」であるなどと言うと、仰々しく、途方もないような事に聞こえてしまいますし、なにやら非現実的に思える方もいるでしょう。

伝統的に、仏の道つまり仏の教えとは、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(諸の悪を作すこと莫れ。衆ての善を奉行)し、自らの其の意[こころ]を浄めること。是が諸[もろもろ]の仏の教えである)」という短い言葉によって説明されることがあります。この言葉は、七仏通戒偈[しちぶつつうかいげ]と言って、多くの経典に説かれている非常に有名なものです。

これをより現代的に、わかりやすく言おうとするならば、「様々な悪しき行いを、みずからを戒めることによって行わぬよう努め、出来うる限りの善い行いをなすよう日々に励み、みずからの心を浄めていくこと」となるでしょう。

また、ここでさらに、「仏の道」とは何かを、漠然とでも理解の手がかりとなるよう、より簡単な言葉で表すとするならば、「少ないものでも足ることを知り、日々心静かに、怒らず、あらゆるものに対しての慈しみの心を持って勤め励む道」である、とも言うことが出来ます。そのような「仏の道」を「皆共に成ぜん」。つまり自分一人だけではなく、「皆が成し遂げられるように」というのです。

以上、最後の句は、「生命ある者、皆が、あらゆるものに対しての慈しみの心を持ちつつ、みずから勤め励む道を、日々たえまなく進んでいきますように」という、願いの言葉です。

以上をまとめますと、この「廻向文」は、「願わくは、私の行った善い行いの果報が、この世のありとあらゆる存在すべてに行きわたり、自分を含めたすべての人々と、生きとし生けるものとが、皆と共に、あらゆるものに対しての慈しみの心を持ちつつ、みずから勤め励む道を、日々たえまなく進んでいきますように」という、願いの言葉であることが、おわかりいただけると思います。

回向文、それはただ読経の終わりに唱えるだけの呪文のような言葉ではありません。自身が日々に行い、日々願うべき言葉なのです。

善く生きることこそ

最後に繰り返し申しますが、功徳となる行為は、ただ読経や念佛、題目をあげることでも、真言を念誦することでも、祈祷や法事などの儀式を執り行うこと、巡礼などで寺社に参詣することでもありません。

そしてまた、それは「先祖は大切にしなければならない」・「先祖を供養することは必要」・「ご先祖さまに回向する」などと言って、わずかばかり焼け残った骨やその灰、または位牌という木片を祀って、その前でモジャモジャやることでもありません。

率直に言って、それらは単なる日本の文化的慣習の枠を出ない、本来仏教とは関係のないものです。人によっては、そのような行為に大金をかけ、それを立派にやり遂げる事が仏の道にかなうものと信じている人もあるようです。

これらのことが、全く無価値な、無意味なものだというのではありません。私達は確かに、肉体的にも精神的にも、先祖から様々なものを受け継いでいます。ですから、これを尊敬し大切に思うことは、大変結構なことであると言えるでしょう。

先祖を大切にする?

しかし、ではその先祖達が作り上げ、継承してきた文化・伝統や物事、金言、知恵、精神などが、実際どれほど大切にされ、護られ生かされているのでしょうか。(不本意かも知れませんが)私達が両親から、先祖から、受け継いだこの身体を、どれほど生かしているでしょうか。

「先祖を大切にする」、「先祖の恩に報いる」というのであれば、自分がしっかりと生きること、より善く生きることが第一です。そして、それを、自分の子孫、次の世代に継承させてこそ、「先祖を大切にする」と言えるのではないでしょうか。

すべての人が「信仰を持つことが大切」などと言って、宗教的なものごとを、やたらとありがたがる必要などまったくありません。

信仰を持つこと自体は、貴いことでも大切なことでもないのです。それは、何を信じるか、またはそれを信じたことによって、どのように自分の心と身体の行いが変化するかで、貴いことでも愚かなことでもありえるからです。

人生は理不尽

人生は苦しみの連続ですが、時としてそれを一時でも忘れさせてくれる幸福があります。けれども、やはり、いやそれだからこそ人生は悲劇です。人生は、世界はまったく理不尽で、いつ、そして何故に我々は死ぬかまったくわかりません。そして、我々の「この」人生は、一度きりでやり直しなどききません。

人生が理不尽であることを、認めたがらない人がいます。そうではない、と。人は生まれたときゼロであり、人生山あり谷ありでも、結局人が死ぬときはまたゼロになってチャラ、つまり理不尽ではないと。幸運な人です、そのような人は。

しかし、人生を、始めから納得ずくで生き抜くことなど、誰も決して出来ないのです。

そのような人生の中で、仏教を信仰したからといって、たちまち人生がバラ色になることも、この苦しみが一瞬にして消え去るなどということも、例外はあるとしても、まずありません。そして、仏教が自分をより善く導く教えであると納得し、これを実行に移そうとしたとしても、いきなりこれを十全に行うことなど、とても出来ることではありません。

人は生来的に欲張るものであり、満足を知らないものです。それでも少しずつ努めて、怒らず欲張らずに、十善戒などの「善い行い」を日々行って、生きとし生けるものに対して慈しみの心をもって廻向しつつ、毎日を過ごしていけば、きっと仏教のその説き示す幸福、平安に近づいていくことは出来るでしょう。そして、ただ口でパクパクと唱えることなどせず、確固とした信念の元に戒を保ち、正しく冥想したならば、道はきっと開けます。

沙門 覺應

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