真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Metta sutta [慈経]

序説パリッタと儀礼 |  凡例発音について
Vandanā |  Saraṇataya |  Pañca sīla |  Aṭṭhaṅga sīla
Buddha guṇā |  Dhamma guṇā |  Saṅgha guṇā
Paritta Parikamma |  Maṅgala sutta  |  Ratana sutta |  Metta sutta |  Khandha sutta
Mora sutta |  Vaṭṭa sutta |  Dhajagga sutta |  Āṭānāṭiya sutta |  Aṅgulimāla sutta
Bojjhaṅga sutta |  Pubbaṇha sutta
Anekajāti gāthā |  Paṭiccasamuppāda |  Udāna gāthā |  Paccayuddesa
Dhammakāya gāthā |  Metta bhāvanā |  Asubha bhāvanā |  Patthanā
Himavanta gāthā |  Lakkhaṇattayaṃ |  Ovāda |  Patti dāna |  Ratanattaya pūjā

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1.Mettha sutta

慈経

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パーリ語原文
a. [ R-a. / J-a. ]
Yassānubhāvato yakkhā,
Neva dassenti bhīsanaṃ.
Yamhi cevānuyuñjanto,
Rattindivamatandito.

b. [ R-b. / J-b. ]
Sukhaṃ supati sutto ca,
Pāpaṃ kiñci na passati.
Evamādiguṇūpetaṃ,
Parittaṃ taṃ bhaṇāma he.

1. [ R-1. / J-1. ]
Karaṇīyamatthakusalena,
Yanta santaṃ padaṃ abhisamecca.
Sakko ujū ca suhujū ca,
Suvaco cassa mudu anatimānī.

2. [ R-2. / J-2. ]
Santussako ca subharo ca,
Appakicco ca sallahukavutti.
Santindriyo ca nipako ca,
Appagabbho kulesvananugiddho.

3. [ R-3. / J-3 ]
Na ca khuddamācare kiñci,
Yena viññū pare upavadeyyuṃ.
Sukhinova khemino hontu,
Sabbasattā bhavantu sukhitattā.

4. [ R-4. / J-4. ]
Ye keci pāṇabhūtatthi,
Tasā vā thāvarā vanavasesā.
Dīghā vā yeva mahantā,
Majjhimā rassakā aṇukathūlā.

5. [ R-5. / J-5. ]
Diṭṭhā vā yeva adiṭṭhā,
Ye va dūre vasanti avidūre.
Bhūtā va sambhavesī va,
Sabbasattā bhavantu sukhitattā.

6. [ R-6. / J-6. ]
Na paro paraṃ nikubbetha,
Nātimaññetha katthaci na kañci.
Byārosanā paṭighasaññā,
Nāññamaññassa dukkhamiccheyya.

7. [ R-7. / J-7. ]
Mātā yathā niyaṃ putta-
Māyusā ekaputtamanurakkhe.
Evampi sabbabhūtesu,
Mānasaṃ bhāvaye aparimāṇaṃ.

8. [ R-8. / J-8. ]
Mettañca sabbalokasmi,
Mānasaṃ bhāvaye aparimāṇaṃ.
Uddhaṃ adho ca tiriyañca,
Asambādhaṃ averamasapattaṃ.

9. [ R-9. / J-9. ]
Tiṭṭhaṃ caraṃ nisinno va,
Sayāno yāvatāssa vitamiddho.
Etaṃ satiṃ adhiṭṭheyya,
Brahmametaṃ vihāramidhamāhu.

10. [ R-10. / J-10. ]
Diṭṭhiñca anupaggamma,
Sīlavā dassanena sampanno.
Kāmesu vinaya gedhaṃ,
Na hi jātuggabbhaseyya puna retī.
Mettasuttaṃ niṭṭhitaṃ.

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カナ読み
a. [ P-a. / J-a. ]
ヤッサーヌバーヴァトー ヤッカー,
ネーワ ダッセンティ ビーサナム.
ヤムヒ チェーワーヌユンジャントー,
ラッティンディワマタンディトー.
b. [ P-b. / J-b. ]
スカム スパティ スットー チャ,
パーパム キンチ ナ パッサティ.
エーワマーディグヌーペータム,
パリッタム タム バナーマ ヘー.
1. [ P-1. / J-1. ]
カラニーヤマッタクサレーナ,
ヤンタ サンタム パダム アビサメッチャ.
サッコー ウジュー チャ スフジュー チャ,
スヴァチョー チャッサ ムドゥ アナティマーニー.
2. [ P-2. / J-2. ]
サントゥッサコー チャ スバロー チャ,
アッパキッチョー チャ サッラフカヴッティ.
サンティドリヨー チャ ニパコー チャ,
アッパガッボー クレスワナヌギッドー.
3. [ P-3. / J-3. ]
ナ チャ クッダマーチャレー キンチ,
イェーナ ヴィンニュー パレー ウパワデッユム.
スキノーワ ケーミノー ホーントゥ,
サッバサッター バワントゥ スキタッター.
4. [ P-4. / J-4. ]
イェー ケーチ パーナブータッティ,
タサー ワー ターワラー ワナワセーサー.
ディーガー ワー イェーワ マハンター,
マッジマー ラッサカー アヌカトゥーラ.
5. [ P-5. / J-5. ]
ディッター ワー イェーワ アディッター,
イェー ワ ドゥーレー ワサンティ アヴィドゥレー.
ブーター ワ サムバウェーシ ワ,
サッバサッター バヴァントゥ スキタッター.
6. [ P-6. / J-6. ]
ナ パロー パラム ニクッベータ,
ナーティマンニェータ カッタチ ナ カンチー.
ビャーローサナー パティガサンニャー,
ナーンニャマンニャッサ ドゥカミッチェッヤ.
7. [ P-7. / J-7. ]
マーター ヤター ニヤム プッタ,
マーユサー エーカプッタマヌラッケー.
エーヴァムピ サッバブーテース,
マーナサム バーワイェー アパリマーナム.
8. [ P-8. / J-8. ]
メッタンチャ サッバローカスミ,
マーナサム バーヴァイェー アパリマーナム.
ウッダム アドー チャ ティリヤンチャ,
アサムバーダム アウェーラマサパッタム.
9. [ P-9. / J-9. ]
ティッタム チャラム ニシンノー ワ,
サヤーノ ヤーワターッサ ウィタミッドー.
エータム サティム アディッテェッヤ,
ブラフマメータム ウィハーラミダマフ.
10. [ P-10. / J-10. ]
ディッティンチャ アヌパッガンマ,
シーラワー ダッサネーナ サンパンノー.
カーメース ウィナヤ ゲーダム,
ナ ヒ ジャートゥッガッバセッヤ プナ レーティ.

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日本語訳
a.-b. [ P-a. / R-a. ]
この(護経の)威力によって、夜叉達は恐るべきものを示さず、昼夜に(この護経に従って)怠らない者は、安らかに眠りに就き、いかなる悪夢をも見ることがない。さあ(友らよ)、この護経を誦えよう。
1. [ P-1. / R-1. ]
(涅槃という最高の)平安の境地に達した人がなすべきこと。(それは、)能力があり、正直で誠実であり、言葉優しく、柔和で、高慢であってはならない。
2. [ P-2. / R-2. ]
足ることを知り、(在家信者にとって)養い易く、雑務少なく、生活は簡素であり、諸々の感覚が静まり、賢明で、尊大でなく、諸々の(信者・布施者の)家で貪ることがない。
3. [ P-3. / R-3. ]
他の賢者から批難されるような下劣な行いを、決して行ってはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ。平穏であれ。安楽であれ。
4. [ P-4. / R-4. ]
生きとし生けるものはいかなるものでも、か弱きものでも屈強なものでも、長いもの、大きいもの、中くらいのもの、短いものでも、小さきものも太き(丸い)ものでも、
5. [ P-5. / R-5. ]
(目で)見えるものでも、見えないものでも、遠きに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、一切の生きとし生けるものは、安楽であれ。
6. [ P-6. / R-6. ]
誰であれ他人を欺いてはならない。何処にあろうとも他者を軽んじてはならない。敵意や怒りの想いをもって、互いに他人に苦しみを与えることを望んではならない。
7. [ P-7. / R-7. ]
あたかも母親が己が一人子を命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対してもまた、無量の(慈しみの)心を起こせ。
8. [ P-8. / R-8. ]
すべての世界に対して、上に、下に、また横に。障碍なく、恨みなく、敵意なき、慈しみの心を起こせ。
9. [ P-9. / R-9. ]
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)念いをたもて。これが梵住(崇高なる境地)である、と言われる。
10. [ P-10. / R-10. ]
諸々の邪見にとらわれず、戒をたもち、(真理についての正しい)知見を備え、色欲に対する貪りを除けば、決して再び母胎に宿ること(再生)はないであろう。

日本語訳:沙門 覺應

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2.解題

慈しみの経

Metta sutta[メッタ・スッタ]とは、日本語に直訳すれば「慈しみの経」・「慈経」ですが、それはそのままこの経の説く内容を端的に示すものとなります。これはまた、「なすべきこと」・「義務」を意味するKaraṇīya[カラニーヤ]の語を頭に付して、Karaṇīya mettha sutta[カラニーヤ メッタ スッタ]とも、しばしば呼称されます。

涅槃に至ることを望む者、また涅槃に達した者はいかに生きるべきか、総じて人はいかに生きるべきか、いかに「生きとし生けるものすべて」に対して慈しみの心をもって生きるかを説く小経です。

メッタ・スッタは、10の偈頌からなる小経で、Khuddaka Nikāya[クッダカ・ニカーヤ](小部)のkhuddakapāṭha[クッダカパータ]に第9章としてそのまま収められ、また同じくクッダカニカーヤ所収のSuttanipāta[スッタニパータ]にも、第1章第8経として収められています。ただし、パリッタとして用いられる場合は、上に載せたように、序分として二つの偈が冒頭に付加されて12の偈頌からなることがあります。この序分は、上座部の中でも国や派の違いによって異なったり、無い場合があります。

メッタ・スッタは、数あるパリッタの中でも最も唱えられることの多い、マンガラ・スッタやラタナ・スッタと共に、最も重要なものの一つです。おそらく、パリッタとしては最も唱えられる頻度が高いもので、祝福の意味で用いられます。僧侶を食事に招待したり、何か僧侶・寺院に布施したりした時、受戒や説法を聞く時には、まず間違いなくこのメッタ・スッタが唱えられます。また、人が出家して沙弥となった時や受戒して比丘となった時にも、やはりその者の安泰を願って、サンガにより唱えられます。

上座部では、序分で呼びかけているように、パリッタとしてこれを唱える者には、心の平安が得られることを説きます。また、心の平安だけではなく、実際に慈しみをもって生きる者には、具体的・物理的に諸危難のないこと、多くの功徳のあることも強調されます。ゆえに、オウムのように唱えるだけではなく、ここに説かれる内容を実現しようと努力する者にこそ、その功徳は顕れ得ます。

慈しみと愛

たとえば、キリスト教が「愛を説く宗教」であるのに対して、仏教は「慈しみ(慈悲)を説く宗教」である、と言われることがあります。

慈しみ。仏教において、真にそして常に、生きとし生けるものに対する慈しみの心を持つ者は、誰もこれを害し得ないと説かれます。大乗・小乗を問わず、慈しみの心をもって生きることの功徳・効能は、しばしば強く、そして随所に説かれます。大乗では、たとえば観音菩薩の功徳・慈悲が強く説かれている、(『法華経』の一章である)『観音経』が、日本など漢語仏教圏における代表的経典と言えるでしょう。

(もっとも、『観音経』の場合は、弘法大師空海が『法華経』全体を「薬の効能書き」と評したように、ただその効能・功徳が列挙されているだけで、具体的・実践的な指南はありません。むしろ、具体的な方法は、このメッタ・スッタはもそうですが、『倶舎論[くしゃろん]』など阿毘達磨の論書に詳細にされています。)

では、その慈しみとは何か。

慈、それはサンスクリットMaitra[マイトラ]、またパーリ語Metta[メッタ]あるいはMettā[メッター]の伝統的な漢訳語です。近年、仏教が広まりつつある西洋では、これをBenevolence(善意・好意)と英訳する場合もありますが、Loving-Kindness(情愛)あるいは単にLove(愛)との英訳語がつけられることが一般的で、定着しています。やはり、スリランカやビルマなどの仏典の英訳に携わっている学僧達も、(英語が出来ることが「高等教育を受け、学があることの証」となってしまっている彼らは、西洋人のあてた訳語を、疑問に思わず受け入れ従って、)Loving-KindnessあるいはLoveとの訳語を当たり前のように用いています。

しかし、これらは全く適訳と言えないのですが、歴史的なものでしょう、この言葉こそが西洋人にはしっくりとくるようです。そして、実際、適当な英単語が見あたりません。結局、いまだ西洋人・英語圏の人々には、これはキリスト教圏の人々と言っていいでしょうが、愛とは異なった「慈しみ」という概念が、いまだよくわかりかねるようです(最近はむしろ、これらの訳語について西洋人側からの疑問が提出されている)。

伝統的解釈では、これは阿毘達磨(アビダルマ)という仏教の一分野における話になり、ここではあまり深入りせず簡単に紹介しますが、「いかなる嫌悪をも全く伴わない善なる心の働き(Adosa[アドーサ])」・「敵愾心・害意を伴わない心の状態」などと定義されます。また、大乗では、これを基礎としてさらに、慈しみとは「与楽(他者に楽を与えようする想い)」であると言います。

このメッタ・スッタでは、「あたかも母親が己が一人子を命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対してもまた、無量の(慈しみの)心を起こせ。」と、それを(まっとうな)母親の一人子に対する思いに喩えています。

この喩えからすると、慈しみとは「母の愛」に等しいもの、と解し得るでしょう。何故、母親が己が一人子を命を賭して護るのか。それは、その子が「我が子」であると思うからでしょう。それが一人子であるならばなおさらです。(血のつながりの有無はともかく)「我が子」という思いがなければ、つまり「他人様の子」であれば、命を賭してこれを護る母親は普通ありません。

ここでは、それは「深く強い」という意味において喩えられたものであって、その対象が特定の何者か個人・個体ではなく、「一切の生きとし生けるもの」である点で、いわゆる母の我が子に対する愛とは異なります。実際、母(父)の我が子に対する愛は、仏教の見地からすれば、貪欲や無知に基づく、強力な煩悩です。であるからが故に、親はこの「親の愛なるもの」をコントロールして「正しく」子を守り、躾け、育てなければならないとします。

また、それらが人間であろうとなかろうと、虫であろうが動物であろうが、神であろうが餓鬼であろうが地獄の住人であろうが、どのような者であれ、それらは我々とまったく同様の、平等の存在であるという観点・前提に立っている点において、キリスト教などの説く愛(Agape[アガペー]、Caritas[カリタス])とも異なります。

慈しみとは

慈しみとは、その心に害意のないこと、敵意のないこと、嫌悪(怒り)のないこと。そして、相手が誰であれ何であれ、等しくその幸福を強く願う心の働きです。

それは、その対象が限定されないことから無量の心と言われ、他の「悲れみ」・「喜び」・「平静」の三つと共に、四無量心[しむりょうしん]あるいは四梵住[しぼんじゅう]とまとめて言われます。大乗・小乗がいずれも説くところです。その背景にあるのは、縁起や空そして平等という思想で、般若(智恵)がこれを支えます。仏教は慈悲だけを説く宗教ではなく、慈悲と智恵を説く宗教です。

さて、とは言うものの、慈しみとはどのようなものかを解釈するのに、あまり拘泥する必要などありません。たしかに、一つの言葉をいかに理解するかは、それが仏教徒にとって経典にある言葉ならなおさら、とても大事なことです。

上にあれこれと述べはしましたが、しかし、たとえ人がLove(愛)という概念、言葉でもって慈の原語であるMaitraあるいはMettaという語を解釈したり、説明したりしたとしても、たとえそれが適訳といえるものはなかったとしても、その人がそれで現実に生きとし生けるものを害する心を持たずに接し、その幸福を願いつつ生活していけるのならば良いでしょう。日本では、わざわざ珍妙な新しい訳語をひねり出す必要はなく、支那仏教以来、伝統的な訳語として用いられてきた「慈」という言葉でもって、そのまま理解すれば良いでしょう。ここで必要なのは、解釈ではなく、それを現実のものとすることです。

また、「安楽であれ」「幸せであれ」「生きとし生けるものが幸せでありますように」などと、他者に対していちいち口にする必要など、いわば「どうですか?私は慈しみを実践していますよ」などとわざわざ人に対して開陳する必要など、全くありません。

これは日本人だけに限ったことであるとは思いませんが、人は、一度定型的な言葉を作るとたちまちその内容を形骸化・形式化させ、これをオウムのように繰り返すだけ、言葉の上で言っているだけで中身を伴わない、ややもするとただ独善的なものになってしまうことがあるためです。それは時として鼻につくものとなり、その相手を怪訝に思わせ、不快にすらさせる行為とすらなるかもしれません。

(もっとも、自分が『法華経』に説かれるところの常不軽菩薩[じょうふきょうぼさつ]のごとき誓願を起こしているからそうするのだ、というのであれば、それも良いでしょうが。)

怒りと慈しみと、そして智慧と

怒りは、慈しみの真反対にある感情です。

仏教は、怒りは自他を破壊するものであり、苦しみをもたらすものであり、故に不善であり悪である、と説きます。

しかし、いくら仏教が慈しみを説き、怒りがいかに人を不幸にするかを説いていたとしても、いくら人がこの教えに従って慈しみの心を念じ続けようと努力していたとしても、人は、時として実につまらないことで怒るものです。

慈しみはすばらしい、慈しみを持つことで人は幸福になれる、様々な災難が降りかかることが無い、などと聞いて、「あぁ、そうかな」とその気になって、これを実行するとたちまち確かに幸福になった、その通りになった、などという人など無いでしょう。そのように思い込むことは可能かもしれません。が、怒りはなにも人だけはなく、生命に生来備わる、ごく普通の精神活動の一環です。そして、怒りの力は強大で刺激的です。そうやすやすと抑えられるようなものではありません。

また、自ら怒りの思いが出たとき、これを無理矢理「これは怒りではない。私は怒っていない」と思い込もうとしたり、あるいは臭いものに蓋をするように「慈しみ。慈しみ」などと念じ、いわば誤魔化したりすることは良くありません。

繰り返しますが、人によって程度の差はあるものの、いくら普段温厚な人であっても、本当につまらないことで怒ってしまうものです。ここで必要なのは、自心に怒りの怒った時、怒りを怒りとして認め、自らに怒りの起こったことを知ることです。

最初は、自心に怒りの起こった時、それを知るように勤め、そしてその怒りを身体的・言語的な行為として外に放出せぬよう、抑えるようにしていけば良いでしょう。そして、今はまだ納得できなくとも、仏教が怒りを不善である、悪である、自他を破壊する思いだと説いていることを忘れずにいることです。これは、戒を守ることによって実現されます。これは慈しみではなく、持戒と忍辱の行です。

もっとも、ただ怒りを抑えるだけでは、ある人々は身体または精神の病気になってしまうことがあるようです。故に慈しみを修めるには、ただ生きとし生けるものの幸せを願う、などというのだけではなく、怒りがどのようなものであるか、どれほど破壊的で無益なものであるかを知っていく必要があります。怒りの本質を見つめて、それがどのようなものであるかを少しずつでも知っていけば、怒りが起こっても直ちにその力が弱まり、持続することがなくなっていくでしょう。

慈観など瞑想を通じ、慈心を育てるのも良いでしょう。しかし、その場合、それが慈心などではなくて慢心などを育てるものにならないよう、よくよく自心を注視し、観察しなければなりません。瞑想の中で、慈しみを修しているつもりが、その内容が「俺様は、アワレな皆の者を慈しんでいるのである」という如きもの、「慈しみを持つことは気持ちいい」などと自己陶酔して悦にいるだけのものとなってしまうようでは、話になりません。

その対象を限定すること無く、そしてそれらは自分とまったく等しい存在であると認識していなければ、慈しみなどにはなりません。それは、せっせと自分の我見や慢心、愛欲に餌をやっているようなものです。そのようでは、やらないほうがマシでしょう。

この故に、慈しみだけでは駄目なのです。また一方に、智慧が必要です。

怒り、憎しみ、恨みの連鎖をたつために

怒りを抑え、怒らずに、慈しみの心をもって生きること。それは、容易なことでは決してありません。

しかし、怒りをもって怒りを静めることは出来ず、憎しみに憎しみをもって相対しても、その連鎖は留まることを知りません。それは、怒り・憎しみ・恨みを抑えること、許すこと、忘れることによってこそ実現されるものです。

これは、仏陀が全世界共通の、普遍の真理であると宣言されたことであり、またその真実性は歴史が十分に証明しているところです。しかし、人は、仏陀からも歴史からも学ぶことが出来ないようです。いや、言葉の上では何ら労することなく、実にサラッと言えてしまいますが、むしろ歴史は、その実現が極めて難しいことを証明しているとも言えるでしょう。

実際、「そうはいっても、そんなの難しい」という人もあるでしょう。しかし、難しい難しくないというのであれば、では問題解決の手段としては実に容易と言える怒りを用いれば、何でも物事が簡単に容易に収まるいうわけでもないでしょう。一時的に、怒りにもとづいた暴力的な物事の処理がうまくいったとしても、それが将来に禍根を残して、将来さらなる困難を惹起させるに過ぎません。

慈しみの念をもつこと。他者を慈しむこと。これは実現不可能のおとぎ話でも、金儲けや人寄せのための綺麗事などでもなく、解脱を求める、悟りを求めるなどといった宗教的な目的を持つ人だけが行うべき事でもなく、家族や近しい人々の安泰、平安なることを望み、ひいては社会、世界の平和を望む人であれば誰でも、これを理想とし、その実現に努力しなければならないことです。努力した最初から十全に、完全に実現することなど誰も出来ません。ですから、ゆっくりとでも、しかししっかりと、これを念じ続けて忘れないように努めて行けば良いことです。

瞬間的に激怒して辺り構わずわめき散らす人、怒りの念が出た時には必ずこれを外に発散させなければ気が済まない人、常にイライラしている人、なんにでも冷笑的・懐疑的でシラけている人、またそうでない人であっても、これら仏教の慈しみの教えを聞いて、実現不可能な口先だけの嘘であるとか、怒りを否定することは人間性を否定するに等しいとか、偽善であるとか言う人があるでしょう。しかし、これらはすべて頭の中だけであれこれ考えること、思うことではなく、自分で努力して実践し、その真偽を実際に確かめるべきことです。

慈しみの心をもって生きることは、自分だけではなく他者を、他者だけではなく自分を、大いに利する道です。

小苾蒭覺應 拝識
(horakuji@gmail.com)

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