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‡ 『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』

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1.現代語訳全文

仏垂般涅槃略説教誡経 仏遺教経

姚秦三蔵法師 鳩摩羅什 訳

 論釈大科。分けて七分とす
 一.序分

釈迦牟尼仏は、ブッダとして初めてなされた説法の際にアーンニャータ・コーンダーンニャを悟りへと導き、その人生の最後にはスバッダラを得度された。

(仏陀はその生涯において、)教えを説くべき者、仏道に導き引き入れるべき者など皆を導き尽くされ、サーラ樹の間において、今まさに涅槃に入ろうとされていた。この時、時間は中夜であり、あたりはひっそりとして音もなかった。そこで(仏陀は、まさに入滅される直前に)、弟子達のために略してその教えの要をお説きになったのである。

 二.修習世間功徳分。分して七とす
 初.邪業の誡め

「比丘達よ、私が入滅した後には波羅提木叉を最も尊いものとして大切にし、最大の敬意を払わなければならない。それは暗闇の中で光明に出会うようなもの、貧しい人が財宝を得るようなものである。まさに知らなければならない、波羅提木叉こそ修行者達の大師であることを。もし、私が今入滅せず、久しく命を留めたとしても、波羅提木叉に説いたことに異なること(をこれ以上説くこと)はない」

「浄戒を受けた者は、販売・貿易など商売に関わってはならない。田畑や家屋などを所有し、雇用人や奴隷、家畜を養うなどしてはならない。すべての農耕や様々な財宝など、火の燃えさかる穴を避けるように疎い離れるべきである。草木を伐採し、土を耕し、地面を掘るなどしてはならない。薬を調合し、吉凶の占いを行い、星宿を見、月の満ち欠けを計るなどする占星術を行ってはならない。それらは皆、僧侶としてふさわしくない行いである」

「身をつつしみ、午前中にのみ食事をして、(律の規定に背かず)清浄に自活せよ。世俗の事柄に関わったり、俗人のために使いとなったり、呪術をなしたり、仙薬を作ったり、高貴な人々と深く交際して馴れ合ったりしてはならない。これらの行いは全て出家僧侶がなすべきことではない。自ら心を奮い立たせて常に気をつけ、ただ涅槃を求めよ。罪過を包み隠して悪行・非法を行うなど、比丘達の集いを惑わすことが無いように」

「(飲食・袈裟衣・臥具・薬の)四事供養については量を知り足ることを知ってわずかに供養を受け、それを蓄えてはならない。これらはすなわち、要略した(出家僧侶としての)持戒の相である」

「戒とは正順解脱の根本である。ゆえに波羅提木叉と名づけたのである。この戒に従うことによってこそ様々な禅定の境地、および苦しみを滅し去る智慧を獲得することが出来る。このことから、比丘達よ、浄戒を持ってこれを犯すようなことがあってはならない」

「もし人が、確かに浄戒を持ったならば、ここにまさしく善法がある。だが、もし浄戒を持つことが無ければ、諸々の善功徳が得られることはない。これによって知るべきである。戒こそが、涅槃という最上の平安を得る功徳が生じる元であることを」

 二.根心の誡め

「汝ら比丘達は、すでに具足戒を受け持っている。(ならば次には、眼・耳・鼻・舌・身体という五つの感覚器官である)五根を制御し、自らの思うがままに(色形・音・匂い・味・触り心地に対する五つの欲望である)五欲に溺れることがないように。譬えば、牛を放牧する者が杖を手に持って牛に見せつけ、牛が勝手気ままに他人の農作物を食べてしまわぬようにするようなものである」

「もし五根を勝手気ままにさせたならば、五欲が際限の無いものとなるばかりではない。それはまるで、人が暴れ馬に乗るときに、轡を噛ませてそれを制御しなければ、その馬がその人を穴に転落させようとするようなものである」

「(自然災害や病気・怪我などの)災いによる苦しみは、人の一生涯を超えて受け続けるものではない。しかし、五根を放逸にした結果として起こる災い・苦しみは、幾世にもわたって自ら受け続けることになる。その害は大変に重大なものとなろう。よくよく慎まねばならない」

「このことから智慧ある者は、(五根を)制御して(五欲に)惑わされることがない。五根を制御することは、あたかも捕縛した盗賊を扱うかのようにして、決して勝手気ままにさせてはならない。たとえもし、五根の感じるままに五欲に溺れたとしても、それら欲望にもとづく快楽・満足などすべては程なく変化し、結局は虚しいものとなるであろう」

「この五根は心をその主とする。このことから、比丘達よ、まさしく確かに心を制御しなければならない。心が怖るべきものであることは毒蛇・悪獣・怨賊・大火よりも甚だしく、それらを遙かに凌駕するものであることは、いくら強調しても強調し足りぬほどである」

「譬えば、ある者が手に蜜を入れる容器を持ち、平静を欠いて落ち着きなく、ただ目先の蜜ばかりに心を奪われてしまったならば、(その蜜のある蜂の巣のすぐ下に口を開ける)深い坑に気づくことはないようなものである。また、あるいは狂った象を制御し得る鉄鉤が無いようなものであり、あるいは猿が木に登って跳びはね回って手がつけられないようなものである」

「ただちに心を監視して放逸たらしめないようにしなければならない。この心を勝手気ままにすれば、人は善事を失うのだ。よく気をつけて注意深く、心を気ままにさせることなく一つ事に留めていれば、事として成就出来ぬものは無いであろう」

「このことから、比丘達よ、まさに勤め励んで精進し、自らの心を制御しなければならない」

 三.多求の誡め

「比丘達よ、(托鉢によって得た)諸々の飲食は、(その見た目・音・匂い・味・舌触りに頓着することなく、ただ身体を維持するための)薬を服用するかのように摂るようにせよ。(得た食事が)良いものであっても悪いものであっても、頓着あるいは嫌悪の思いを起こさぬように。わずかに得たもので身体を維持し、飢えと乾きとを除け」

「蜜蜂が花から蜜を採るのに、ただその蜜だけを採って花の色や香りを損なうことがないように、比丘もまたそのように飲食の供養を受けるのである」

「人々からの食事の供養を受け、それでわずかに自身を養え。より多くの供養を求めて、人々の善心を損なってはならない。たとえば、智慧ある者が、牛を労働に使役するのにその限界をよく見極め、ほどほどに使って牛を疲弊させないようなものである」

 四.睡眠の誡め

「比丘達よ、昼は勤めて善法を修習し、時間を無駄にしてはならない。初夜にも後夜にもまた、善法を修習することを止めてはならない。中夜に誦経して休息せよ。心昏く呆けて一生を空しく過ごし、得るものが何も無いようではならない」

「まさに無常の火が諸々の世間(の事象・事物)を焼くことを心にとどめ、速やかに自らが自らを救うことを求めよ。心昏く呆けていてはならない。諸々の煩悩という賊が、常に人を殺そうと窺っていることは、仇敵とも比較できないほどである。どうして心昏く呆けているままにして、自心を奮い立たせ覚醒させないでいいということがあろうか」

「煩悩という毒蛇は、汝の部屋で眠っているようなものである。まさに持戒という鉤をもって速やかに煩悩という毒蛇を取り除かなければならない。心昏く呆けるという蛇を排除してからこそ、安眠するべきである。これを排除しないでいながら眠るのは、恥を知らぬ者である」

「慚恥という服は、諸々の装飾の中で第一に優れたものである。慚は鉄の鉤棒のようによく人の非法を制するのだ。このことから、比丘達よ、つねに慚恥せよ。ひと時も恥じることを捨ててはならない。もし慚恥を忘れたならば、たちまち諸々の功徳を失うであろう」
「慚ある者には、すなわち善法がある。恥を知らない者は、諸々の禽獣と異なることはない」

 五.瞋恚の誡め

「比丘達よ、もし何者かによって自らの手足をバラバラに切り裂かれたとしても、よく自分の心を制して、怒り・怨んではならない」

「また、まさによく口を慎み、粗暴な言葉を発してはならない。もし怒りの心を制しなければ、それは自ら仏道を妨げて、諸々の功徳を失うこととなるのだ。堪え忍ぶという徳には、戒を持って苦行することすらも及ばないほどである。よく堪え忍ぶことを行う者は、これを名づけて有力の大人とするべきである」

「もし他者からの罵詈雑言という毒をむしろ喜んで受け、あたかも甘露を飲むように受け入れることが出来ないならば、入道智慧の人とは言えないのである。なんとなれば、怒りの害は、よく諸々の善法を破り評判を損なうのだから。そして、現世だけでなく来世においても、(怒りを制せられない者など)人々は眼にすることすら嫌うであろう」

「まさに知るべきである、怒りの心は猛火よりも甚だしい破壊をもたらすものであると。常によく(自心を怒りから)護って支配されぬように」

「功徳を盗み取る賊の中で、怒りに勝るものは無い。在家者は欲を楽しみ、道を修することのない人々である。宗教的徳義から自ら制することが無くとも、怒りは抑えるべきものとされているのである。出家して道を修め無欲を奉じる人であるのに、怒りの心を抱くことなど全くあってはならない。それは譬えば、澄み切った青空に浮かぶ白い雲であるのに、稲妻を発することがおかしいようなものである」

  六.憍慢の誡め

「比丘達よ、自らの(剃り上げた)頭をなでてみよ。すでに身を飾ることを捨て、壊色の袈裟をまとい、鉄鉢を携えて、托鉢によって生活しているのである。自身は出家修行者なのだ。もし驕り高ぶりの心が起こったならば、速やかにそれを取り除かなければならない」

「驕り高ぶりの心を強くさせることは、世俗の在家者ですら良しとされるものではない。まして出家入道の人で、解脱を求めて自らその身を降し、托鉢する者ならばなおさらである」

 七.諂曲の誡め

「比丘達よ、他者から良く思われようと諂いおもねる心は、仏道と相違するものである。このことから、まさによく自らの心を質直にしなければならない」

「まさに知るべきである、他者に諂いおもねることは、人を欺くことに他ならないことを。入道の人に、それは相応しい行いではない。このことから、修行者たちよ、まさによくよく心を正して、正直をもって自らの本分とせよ」

 三.成就出世間大人功徳分八
 初.少欲の功徳

「比丘達よ、まさに知るべきである、多欲の人は、多くを求めるがために苦悩もまた多い。少欲の人は、求めることなく欲することないために多欲の人のような憂いがない。すぐにでも少欲をこそ修習すべきである。少欲がよく諸々の善功徳を生じることは言うまでもない」

「少欲の人は、諂いおもねって他者に気に入られようとすることは無い。また、(色形や香り等の)諸々の感覚に心を囚われることもない。少欲を行じる者は、心が坦々として憂いや恐れることが無い。何事につけゆとりあり、常に足りないと不満であることが無い。少欲の者にはすなわち涅槃がある。これを少欲と名づけるのである」

  二.知足の功徳

「比丘達よ、もし諸々の苦悩から脱却せんと欲するならば、よく知足の教えを観ぜよ。知足の法とは、富楽にして安穏へと導くものである。足ることを知る人は、地面で寝るような暮らしであっても、なお安楽である。足ることを知らない者は、たとえ神々の家で暮らしたとしても満足することはない。足ることを知らない者は裕福であっても(心が)貧しい」

「足ることを知る人は、貧しくとも心豊かである。足ることを知らない者は、常に五欲に振り回され、足ることを知る者から憐まれる。これを知足と名づけるのである」

 三.遠離の功徳

「比丘達よ、もし寂静にして無為なる安楽を求めるならば、まさに喧噪を離れて人気の無き閑静な地に住まうがよい。静寂な地を好んで道を修める人は、帝釈天や諸々の神々が篤く敬うところである。このことから、家族や友人など様々な人々との関わり交わりを捨て、ひっそりとして静かな地に独り住まい、苦の根源を滅することを願うが良い」

「もし人々との交わりを喜ぶようであれば、様々な悩みに苛まれるであろう。譬えば、大きな樹に多くの鳥が群がれば、折れたり枯れたりする患いがあるようなものである」

「世間への束縛・執着は、諸々の苦悩に沈ませるものである。譬えば、老いた象が泥沼にはまって溺れ、自分で出ることが出来なくなるようなものである。これを遠離と名づけるのである」

 四.精進の功徳

「比丘達よ、もし勤め励んで精進したならば、事として成就できないことはない。このことから、修行者たちよ、まさに勤め励んで精進せよ。譬えば、少量の水であっても常に流れつづければ、石に穴を穿つようなものである」

「もし行者の心が度々なまけて怠ったならば、それは譬えば、火を摩擦熱によって起こそうとしているのに途中で止め、火を起こそうとしているのに火を得ることが出来なくなるようなものである。これを精進と名づけるのである」

 五.不忘念の功徳

「比丘達よ、善知識を求め、善護助を求めることも大切であるが、不妄念ほどではない。もし不忘念があれば、諸々の煩悩の賊が(その心に)侵入することは出来ない。このことから、修行者達よ、常に集中して心を静かにせよ」

「もし念を失したならば、諸々の功徳を失うであろう。もし念の力が強固であれば、五欲という賊に侵入されたとしても、これに害されることはない。譬えば、鎧を着けて戦場に赴いたならば、畏れることがないようなものである。これを不忘念と名づけるのである」

 六.禅定の功徳

「比丘達よ、もし心をよく制したならば、心はすなわち定にある。心に定があれば、よく世間の生滅するモノゴトの真実なる姿を知る。このことから、修行者たちよ、常に精進して諸々の定を修習するべきである」

「もし定を得たならば、心が乱れることはない。譬えば水を大切にする家は、よく堤防を管理保全するようなものである。行者もまた同様である。智慧の水を得るために、正しく禅定を修めて(智慧という水を)漏らして失わせないのである。これを名づけて定というのである」

  七.智慧の功徳

「比丘達よ、もし智慧があれば(モノゴトを)貪り執着することはない。常に自らを省察し、智慧を失うことのないようにしない。そのような者は、私の教えの中において解脱を得るであろう。もしそうでない者ならば、すでに出家修行者ではない。また在家信者でもない。名づけようのない者である」

「真実の智慧とは、この老い・病い・死の海を渡る堅牢な舟である。または無明という暗闇における大いなる灯明である。すべての病苦の良薬である。煩悩という樹を伐採する鋭利な斧である」

「このことから、修行者達よ、まさに聞・思・修の智慧をもって、自らまたそれを磨き強めなければならない。もし人に智慧の輝きがあるならば、それがたとい肉眼であったとしても、その人は真理を明らかに見る人である。これを智慧というのである」

  八.究竟の功徳

「比丘達よ、もし様々に無意味な議論をしたならば、その心は乱れる。(心が乱れたままであれば)出家したといっても解脱することは出来ない」

「このことから、修行者たちよ、まさに速やかに心を乱す無意味な議論を止めるべきである。もし汝が、寂滅の安楽を得ようと願うならば、ただまさに無意味な議論による患いを滅ぼすべきである。これを不戯論と名づけるのである」

  四.顕示畢竟甚深功徳分

「比丘達よ、諸々の功徳ある行いの中でも、常に一心に諸々の放逸なる心を捨て去ることは、あたかも怨敵を自らに近づけないようにするがよい」

大悲世尊がお説きになったこれら数数の利益ある行いは、仏陀自らはすでに悉く窮め尽くされた。

「修行者達よ、ただまさに勤め励み、これらを行ずるがよい。あるいは山間、あるいは空沢にても、もしくは樹下やひっそりとした人気無き地、静かな部屋にあっても、示された教えを心に留めて忘れ去ることのないように。常にまさに自ら勤め励み、精進してこれら教えに順って修行せよ」

「人生において何事も成し遂げず、虚しく過ごして死を迎えることになれば、後に悔み憂いることとなろう」

「私は、あたかも良医のように患者の病をよく知って適した薬を処方するのかのように説くのである。その薬を服用するか服用しないかは、(患者本人の責任であって)医者の責任ではない。また、善く導く者が、人を善く導くようなものである。この(善なる道への道程を)聞いて行かないのは、導く者の過失ではないのだ」

 五.顕示入證決定分

「修行者達よ、もし苦諦・集諦・滅諦・道諦の四聖諦について、疑問や解らぬ所があるのであれば、速やかにこれを問え。疑問を残して答えを求めないことの無いように」

その時、世尊はこのように三度問いかけられたが、誰一人として問いを発する者は無かった。なんとなれば、(世尊の臨終に集った)比丘達には(四聖諦についての)疑いを残した者が無かったためである。

その時、アヌルッダは、比丘達の心を察してブッダに申し上げた。

「世尊、月を熱きものとし、太陽を冷たきものと出来たとしても、仏陀のお説きになった四聖諦は決して変えることの出来ないものです」

「仏陀のお説きになった苦諦は真実に苦であります。これを楽とすることは出来ません。集諦は、まさに(苦の)原因であって、さらに異なった原因などありません。苦がもし滅するならば、それはすなわちその原因が滅したためです。原因が滅するからこそ、その結果も滅する。苦を滅する道は、まことに真実の道です。他に(苦を滅するための)道はありません」

「世尊、ここに集まる諸々の比丘らは皆、四聖諦について確信して疑いがありません」

  六.分別未入上上證為断疑分

「この比丘たちの集いにおいて、もしいまだ修行を完成していない者であれば、仏陀のご入滅に際して悲しみに打ちひしがれることでしょう」

「もし、初めて(預流果など聖者の)道に入った者であれば、仏陀の説法をお聞きしたことによって、皆が救いを見出しています。それは譬えば暗闇の夜にあり、稲光が走ったことによって、道の所在を知ることが出来たようなものです」

「もしすでに成すべき事を成し終え、すでに苦しみの海を渡り越えた者であれば、(仏陀のご入滅に際して)ただこの様な思いをなすでしょう。『嗚呼、世尊の滅度は、なんと速やかなことであろう』と」

アヌルッダは、このように仏陀に申し上げ、(仏陀のご入滅に集った)修行者達は、その皆すべてが四聖諦の意義を知り終わっていた。けれども、世尊は、この大勢の修行者達の皆の理解を、さらに堅固にさせようと思われ、大悲心によって再び修行者達の為にお説きになったのである。

「比丘達よ、悲しみ憂いることなかれ。もし私がこの世に極めて長大な時間をさらに生きたとしても、誰でも会う者には必ずその終わりがあるのだ。(因と縁によって)成立したものは必ず滅びるものである。(因と縁によって)成立したにも関わらず滅びないということなど、決してありはしないのだ」

「自らを利益し他者を利益する教えを全て私は説き尽くし、修行者達は受持している。もし私が久しくこの世に命を留めたとしても、これ以上説き示して益することなど無いであろう」

「まさに(道を示すことによって)救うべき者は、あるいは神々あるいは人々でも、その皆すべてをすでに救ったのだ。いまだ(私の示した道によって)救いに到らなかった者には、皆すでにいずれ救いに到る因縁を遺しておいた」

「これより後、私の諸々の弟子で、(各地あるいは後世に)伝え広めて私の道を修行したならば、そこには如来の法身が常にあって滅することはない」

「このことからまさに知るべきである、世界はすべて無常であって、会う者は必ず離れる定めであることを」

「(我が滅度に接して)憂いを抱くことのないように。世界の姿はこのような(変化し流転する)ものである。まさに勤め励み、精進して早く解脱を求め、智慧の明かりによって諸々の無智という暗闇を消し去れ」

「世界とは実に危うく脆いものであり、堅牢にして不変なものなど存在しない。私が今ここに入滅を迎えることは、あたかも悪しき病を取り除くようなものである。この身体、苦しみの世に生を受け続けることは、まさに捨てるべき罪悪のものである。ただ仮に名づけて我が身としたものに過ぎない。それは老いと病、生まれて死ぬという(苦しみの)大海に溺れ、沈んでいるようなものである。どうして智慧ある者で、(その苦しみを)除滅することは怨賊を殺すかのようにして、(果たしてついに除滅したならば)歓喜しないでいることがあろうか」

 七.離種種自性清浄無我分

「比丘達よ、常にまさに一心に勤め励んで、出離の道を求めよ。あらゆる世間の動くモノ・動かぬモノにせよ、すべてはいずれ敗北して壊れる不完全なる有り様である」

「修行者達よ、しばらく止めよ。もはや言葉を発することのないように。我が時はまさに過ぎ去っていく。私はここに滅度する。これが我が最後の教誨である」

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