真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』

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1.原文

 六分別未入上上證爲斷疑分

於此衆中。若所作未辯者。見佛滅度。當有悲感。若有初入法者。聞佛所說。卽皆得度。譬如夜見電光。卽得見道。若所作已辯。已度苦海者。但作是念。世尊滅度。一何疾哉。阿㝹樓駄。雖說此語衆中皆悉了達四聖諦義。世尊欲令此諸大衆。皆得堅固。以大悲心。復爲衆說。汝等比丘。勿懷悲惱。若我住世一劫。會亦當滅。會而不離。終不可得。自利利人法皆具足。若我久住更無所益。應可度者。若天上人間。皆悉已度。其未度者。皆亦已作得度因縁。自今已後。我諸弟子展転行之。則是如來法身常在而不滅也。是故當知。世皆無常。會必有離。勿懷憂也。世相如是。當勤精進。早求解脫。以智慧明滅諸癡闇。世實危脆。無牢強者。我今得滅。如除惡病。此是應捨罪惡之物。假名爲身。没在老病生死大海。何有智者。得除滅之如殺怨賊。而不歡喜。

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2.読み下し

  六分別未入上上證為断疑分

此の衆中に於いて、若し所作未だ弁ぜざる者1は、仏の滅度を見て、まさに悲感あるべし。

若し初めて法に入ること有る者2は、仏の所説を聞いて、即ち皆な得度す。譬えば夜電光を見て即ち道を見ることを得るが如し。

若し所作已に弁じて已に苦海を度る者3は、但だ是の念を作さん。世尊の滅度、一えに何ぞ疾かなるやと。

阿㝹樓駄、此の語を説いて、衆中皆な悉く四聖諦の義を了達すと雖も、世尊、此の諸の大衆をして皆な堅固なることを得せしめんと欲して、大悲心4を以て、また衆の為に説き玉う。

汝等比丘、悲悩を懐くこと勿れ。若し我れ世に住すること一劫5するといえども、会う者はまたまさに滅すべし。会うて離れざること、終に得べからず。

自利利人の法6、皆な具足す。若し我れ久しく住するといえども、更に所益無けん。

まさに度すべき者の、若しは天上・人間、皆な悉く已に度す7。其の未だ度せざる者も、皆なまた已に得度の因縁8を作す。

自今已後、我が諸の弟子、展転して之を行ぜば、則ち是れ如来の法身9常に在して滅せざるなり。

是の故にまさに知るべし、世は皆な無常なり。会う者は必ず離るることあり。

憂悩を懐くこと勿れ10。世相、是の如し。まさに勤め精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て諸の癡闇を滅すべし。

世は実に危脆なり。牢強なる者の無し。我れ今、滅を得ること悪病を除くが如し11。此れは是れまさに捨つべき罪悪の物、仮に名づけて身と為す。老病生死の大海に没在す。何ぞ智者あって、之を除滅すること怨賊を殺すが如くして、而も歓喜せざらんや。

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3.現代語訳

  六.分別未入上上證為断疑分

「この比丘たちの集いにおいて、もしいまだ修行を完成していない者であれば、仏陀のご入滅に際して悲しみに打ちひしがれることでしょう」

「もし、初めて(預流果など聖者の)道に入った者であれば、仏陀の説法をお聞きしたことによって、皆が救いを見出しています。それは譬えば暗闇の夜にあり、稲光が走ったことによって、道の所在を知ることが出来たようなものです」

「もしすでに成すべき事を成し終え、すでに苦しみの海を渡り越えた者であれば、(仏陀のご入滅に際して)ただこの様な思いをなすでしょう。『嗚呼、世尊の滅度は、なんと速やかなことであろう』と」

アヌルッダは、このように仏陀に申し上げ、(仏陀のご入滅に集った)修行者達は、その皆すべてが四聖諦の意義を知り終わっていた。けれども、世尊は、この大勢の修行者達の皆の理解を、さらに堅固にさせようと思われ、大悲心によって再び修行者達の為にお説きになったのである。

「比丘達よ、悲しみ憂いることなかれ。もし私がこの世に極めて長大な時間をさらに生きたとしても、誰でも会う者には必ずその終わりがあるのだ。(因と縁によって)成立したものは必ず滅びるものである。(因と縁によって)成立したにも関わらず滅びないということなど、決してありはしないのだ」

「自らを利益し他者を利益する教えを全て私は説き尽くし、修行者達は受持している。もし私が久しくこの世に命を留めたとしても、これ以上説き示して益することなど無いであろう」

「まさに(道を示すことによって)救うべき者は、あるいは神々あるいは人々でも、その皆すべてをすでに救ったのだ。いまだ(私の示した道によって)救いに到らなかった者には、皆すでにいずれ救いに到る因縁を遺しておいた」

「これより後、私の諸々の弟子で、(各地あるいは後世に)伝え広めて私の道を修行したならば、そこには如来の法身が常にあって滅することはない」

「このことからまさに知るべきである、世界はすべて無常であって、会う者は必ず離れる定めであることを」

「(我が滅度に接して)憂いを抱くことのないように。世界の姿はこのような(変化し流転する)ものである。まさに勤め励み、精進して早く解脱を求め、智慧の明かりによって諸々の無智という暗闇を消し去れ」

「世界とは実に危うく脆いものであり、堅牢にして不変なものなど存在しない。私が今ここに入滅を迎えることは、あたかも悪しき病を取り除くようなものである。この身体、苦しみの世に生を受け続けることは、まさに捨てるべき罪悪のものである。ただ仮に名づけて我が身としたものに過ぎない。それは老いと病、生まれて死ぬという(苦しみの)大海に溺れ、沈んでいるようなものである。どうして智慧ある者で、(その苦しみを)除滅することは怨賊を殺すかのようにして、(果たしてついに除滅したならば)歓喜しないでいることがあろうか」

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4.語注

  • 所作未だ弁ぜざる者…悟りを求めて出家した修行者として、なすべきことを未だ成し終えていない者。解脱していない者、凡夫。あるいは凡夫ではなく賢者・聖者の流れに入ってはいても、いまだ阿羅漢果に至っていない者を言う。
     いまだ学ぶべきこと、成し遂げるべきこと有る者であることから、有学とも言われる。→本文に戻る
  • 初めて法に入ること有る者…仏陀の教えに触れたことによって、あたかも雷に打たれた如くにその教えの得難く尊いものであることを理解し、たちまち初果を得た者。その初果とはすなわち、四双八輩といわれる聖者の階梯の第一たる預流果(須陀洹果)である。仏教では、預流に至った者をして聖者の初めとされる。
     なお、これと同様の理解は天台の湛然によってもなされている。『止観輔行伝弘決』「彼經云。初入法者聞佛所説。即皆得度譬如電光。正當初果也。初得無漏故云初入」(T46. P413c)。→本文に戻る
  • 所作已に弁じて已に苦海を度る者…阿羅漢果に達し、もはや再びいかなる世界にも生まれ変わることのない者。修行完成者。
     成すべき事を成し終え、学ぶべき事がもはや無い者であることから、無学とも言われる。→本文に戻る
  • 大悲心[だいひしん]…大いなる悲心。悲心とは、他者が苦の最中にあってもがくのをあわれみ、その苦しみを取り除かんとする大いなる思い。
     ただ思うだけで実行力や影響力がないそのような思いは小悲であって、ただ悲心といわれる。しかし、大菩薩や仏陀のようにその実行力や影響力を伴う思いを大悲といって区別される。→本文に戻る
  • 一劫[いっこう]…劫は、サンスクリットKalpa[カルパ]の音写語、劫波[こうは]の略で、古代インドの時間単位のうち、最長のもの。想像すら出来ないほどの宇宙的長大なる時間。これがどれほどの長さであるかは、芥子粒の譬えや天衣の譬えによって表される。→本文に戻る
  • 自利利人の法…仏教には、小乗と大乗という二つの教えの流れがある。一般に、小乗は自己を利するのみの教えであって、大乗は利他を先とする教えである、とされる。あるいは、小乗は人など個々の事物は原因と結果とによって形成された不完全なもの、無常なものとするが、本質的なモノは不変とする教えであり、対して大乗ではそのいずれもが空なるもの、無常・無我のものとするなどとされている。
     古来、小乗と大乗という言葉自体が一人歩きし、やがて実体不明のものとなってきたようだが、仏教はいずれにせよ自己を利し、他者を利する教えである。→本文に戻る
  • 若しは天上・人間、皆な悉く已に度す…釈迦牟尼はその生涯の中で、人間だけでなく、神々にも法を説いて道を示した。仏教の教義としては、仏陀や阿羅漢果に至り得るのは、人間に限られるとされる。しかし、仏陀は神々に対しても法を説き、神々はその教えを受持して仏教に伏した。故に仏陀にはその異称として人天師、すなわち「人と神との師」とするものがある。→本文に戻る
  • 得度の因縁…ここに言われる得度とは、出家することではない。そのまま度を得ること、すなわち解脱(への道筋)を得ることである。
     そもそも、出家することを得度というのはこの意に基づく。出家したならば、「世俗を離れて修道に励み、ついには解脱を得る」であろうことから、出家することを得度というのである。
     なお、ここに言われる得度の因縁とは、遺された仏陀の教えである。→本文に戻る
  • 如来の法身…ここに言われる法身とは、仏陀の教え・仏陀の悟りそのものを擬人化して言ったもの。仏陀が入滅しても、あるいは仏陀がこの世に生まれ出でていなかったとしても、真理そのものは変わることがない。
     「すべては移ろいゆく、変わり行くものであり、いかなるものも金剛不壊ではない」という真理は金剛不壊である。ただし、これは「有る」とか「無い」とかいうものではない。→本文に戻る
  • 憂悩を懐くこと勿れ…仏陀はただ世間が無常であって、誰にも死が逃れがたいものであることを示そうとし、重ね重ねこのように説かれただけではなかっただろう。それは、いくら無常なることが真実であるとは言え、自分を失うことを悲しむ弟子達を思いやり、いたわっての言でもあったであろう。弟子達にとってそれが師との別れであることは、釈尊にとっても弟子達との別れでもあったのだから。
     伝えによれば、この経にて尊者アヌルッダによって言われているように、修行を完成された阿羅漢らは釈尊の滅度に際して涙を流すことはなかったという。しかし、いまだ修行途上であった人、たとえば尊者アーナンダなどはとめどなく流れる涙を止めることが出来なかったという。これは後代、多くの仏教美術などでも描かれたところである。
     仏教における心の理解に基づけば、悲しみは小さな怒りである。故に大きな悲しみはたちまち怒りに転じることとなる。故に阿羅漢らに悲しみは無かった、そのように理解されている。
     しかし、その偉大な師の人生の終わりに立ち会った阿羅漢たちが、一滴も涙を流さず、悲嘆にくれることはなかったと言え、愛する者との別れが苦しみであることもまた真実。私は阿羅漢ではないからあくまで推測するに、悲しみは感ぜずとも、しかし良いようのない淋しさを感じたこともあったであろう。→本文に戻る
  • 我れ今、滅を得ること悪病を除くが如し…釈迦牟尼は、自身が死に逝くことを喜びをもって迎えることを表明している。この身体は我がものであって我がものでなく、不浄なるものであり、老いるもの、病むもの、死に逝くものであって、執着愛好するものではない。
     今ここに仏陀はその身体は滅び、もはや再び生まれ変わることのない完全な涅槃を迎えられる。それは最高の平安である。→本文に戻る

現代語訳・脚注: 非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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