真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』

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1.原文

 四顯示畢竟甚深功德分

汝等比丘。於諸功德。常當一心。捨諸放逸。如離怨賊。大悲世尊。所說利益皆已究竟。汝等但當勤而行之。若於山間。若空澤中。若在樹下。閒處靜室。念所受法。勿令忘失。常當自勉。精進修之。無爲空死後致有悔。我如良醫。知病說藥。服與不服非醫咎也。又如善導。導人善道。聞之不行。非導過也。

 五顯示入證決定分

汝等。若於苦等四諦。有所疑者。可疾問之。無得懷疑。不求決也。爾時世尊。如是三唱。人無問者。所以者何。衆無疑故。時阿㝹樓駄。觀察衆心。而白佛言。世尊月可令熱。日可令冷。佛說四諦。不可令異。佛說苦諦實苦。不可令樂。集眞是因。更無異因。苦若滅者。卽是因滅。因滅故果滅。滅苦之道。實是眞道。更無餘道。世尊是諸比丘於四諦中決定無疑。

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2.読み下し

  四顕示畢竟甚深功徳分

汝等比丘、諸の功徳に於いて、常にまさに一心に諸の放逸を捨てること、怨賊を離るるが如くすべし。

大悲世尊、所説の利益は皆な已に究竟す。

汝等、但だまさに勤めて之を行ずべし。若しは山間、若しは空沢の中に於いても、若しは樹下・閒処・静室に於いても、所受の法を念じて忘失せしめること勿れ。常にまさに自ら勉め、精進して之を修すべし。

為すこと無くして空しく死せば、後に悔いあることを致さん1

我は良医の病を知って薬を説くが如し2。服すと服せざるとは医の咎に非ず。また善く導く者の、人を善道に導くが如し。之を聞いて行かざるは、導く者の過に非ず。

  五顯示入證決定分

汝等、若し苦等の四諦3に於いて、疑う所ある者は、疾く之を問うべし。疑いを懐いて決を求めざることを得ること無し。

爾の時世尊、是の如く三たび唱へ玉う4に、人、問い上つる者の無し。所以者何、衆、疑い無きが故に。

時に阿㝹樓駄5、衆の心を観察して、而も仏に白して言さく。

世尊、月は熱からしむべく、日は冷やかならしむべくといえども、仏の説き玉う四諦は異ならしむべからず。

仏の説き玉う苦諦は実に苦ななり。楽ならしむべからず。集は真に是れ因なり。更に異因無し。苦若し滅すれば、即ち是れ因滅す。因滅するが故に果滅す。滅苦の道6は、実に是れ真道なり。更に余道無し7

世尊、是の諸の比丘、四諦の中に於いて決定して疑い無し。

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3.現代語訳

  四.顕示畢竟甚深功徳分

「比丘達よ、諸々の功徳ある行いの中でも、常に一心に諸々の放逸なる心を捨て去ることは、あたかも怨敵を自らに近づけないようにするがよい」

大悲世尊がお説きになったこれら数数の利益ある行いは、仏陀自らはすでに悉く窮め尽くされた。

「修行者達よ、ただまさに勤め励み、これらを行ずるがよい。あるいは山間、あるいは空沢にても、もしくは樹下やひっそりとした人気無き地、静かな部屋にあっても、示された教えを心に留めて忘れ去ることのないように。常にまさに自ら勤め励み、精進してこれら教えに順って修行せよ」

「人生において何事も成し遂げず、虚しく過ごして死を迎えることになれば、後に悔み憂いることとなろう」

「私は、あたかも良医のように患者の病をよく知って適した薬を処方するのかのように説くのである。その薬を服用するか服用しないかは、(患者本人の責任であって)医者の責任ではない。また、善く導く者が、人を善く導くようなものである。この(善なる道への道程を)聞いて行かないのは、導く者の過失ではないのだ」

 五.顕示入證決定分

「修行者達よ、もし苦諦・集諦・滅諦・道諦の四聖諦について、疑問や解らぬ所があるのであれば、速やかにこれを問え。疑問を残して答えを求めないことの無いように」

その時、世尊はこのように三度問いかけられたが、誰一人として問いを発する者は無かった。なんとなれば、(世尊の臨終に集った)比丘達には(四聖諦についての)疑いを残した者が無かったためである。

その時、アヌルッダは、比丘達の心を察してブッダに申し上げた。

「世尊、月を熱きものとし、太陽を冷たきものと出来たとしても、仏陀のお説きになった四聖諦は決して変えることの出来ないものです」

「仏陀のお説きになった苦諦は真実に苦であります。これを楽とすることは出来ません。集諦は、まさに(苦の)原因であって、さらに異なった原因などありません。苦がもし滅するならば、それはすなわちその原因が滅したためです。原因が滅するからこそ、その結果も滅する。苦を滅する道は、まことに真実の道です。他に(苦を滅するための)道はありません」

「世尊、ここに集まる諸々の比丘らは皆、四聖諦について確信して疑いがありません」

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4.語注

  • 為すこと無くして空しく死せば…人はどれだけ長く生きられたとしても120年。日本での平均はそれが比較的長いとはいえ88歳程度。しかし、それもその後半は思うままに動くことも出来ず、あるいは老いに、あるいは病に苦しみ、漠然とした不安と不満とが途切れること無く時を過ごしていく。
     悶々とした十代を終え、大学に行って短い青春を謳歌出来たとしても、それもせいぜい四年から八年程。多くの場合、それが終われば否応なく日本的会社組織ですり潰され、家庭をもって月並みながらもその幸せとその苦しみとを味わいつつ三十を過ぎてあきらめの気持ちが出、その後もおよそ己がしたいことの五分の一、いや十分の一ほども出来ずに定年を迎える。最終的に楽しみといえば、食べることと酒を呑むこと、そして寝ること。あるいは日がなボーっとテレビを見つつ、誰に言うともなく無意味にボヤくのみ。
     あるいは、趣味に没頭して遅い青春を謳歌せんとし、実際に楽しむ人もあろうが、それは決して多くないであろう。特に芯から没入できる趣味を持つこともなく、精神的支柱とした思想や信条、理想なども持つことなく生きてきたがために、ほとんど精神的に成熟することもなく、ただ老いていく一方の心と身体と共に、生活にまつわる様々な不満を抱え、ついに死を迎えていくのであろう。
     ただ平々凡々と、何事も成し遂げること無く、大した病も事故も災害にも遇うこと無くその人生を終える人もあろう、それで良いと満足する人もあろう。しかし、そのような人など極少数。多くは、あの時ああすれば良かった、もっと自由にやっておけば良かった、あれをしておくのだった、これをしておくのだったと多くの、そして虚しい後悔を死の床にて抱え、漫然と死を迎える。
     人生とは、ときに果てしなく長いように思えることもあるが、しかしそれは実に短い。
     これは別段、人生を実際に八十年も九十年も生きなくとも、人が三十年も生きてみたならば容易に知られることであろう。またそれは、洋の東西、時の古今を問わず、人の思想・信条を問わず、人が常に言い続けてきたことであるのだから。
     我が死は、我が親しい人たちの死はすぐそこにある。すぐそこに迫っている。これは誰も否定できぬ事実である。そのゆえに人は、出来る限り最大限、いずれ虚しく後悔せぬように生きたほうが良い。たとえば、青年から老年まで富裕な、そして人から尊敬される人生を送れたとしても、突如として病や死によって、それらは虚しく壊れさる。その時、はじめて我が生涯を振り返って後悔したとしても、それはあまりにも苦しく、あまりに虚しい。
     しかし、我々人は、それをもし頭でわかっているつもりでいても、実際は自らが死を真に意識するまで決してワカラナイ。故にこれを常に意識し、芯から知り行動していいる人は、其の点で賢人であると称するべきであろう。→本文に戻る
  • 我は良医の病を知って薬を説くが如し…巷間しばしば、「すべての人が平等に救われる教えでなければ宗教とは言えない。真の宗教とは、すべての人を幸福にするものである」などと言う者がある。しかし、そんな宗教はない。そして、やはり仏教はそのような宗教でもない。
     仏教はすべての人にその門を開いており、来るものは拒まず、去る者も追わない。信仰の強制もすることはない。仏陀が人を(なにか不可思議なる救済力を発揮して)直接救うようなことはなく、(本来的には)仏教徒は祈りによって絶対者の救済を俟つこともない。仏教を信仰したからと言って、たちまち人生一転してバラ色になることも、幸福の絶頂にいたることもない。我々はこの人生を、いままでの人生の延長として、ただ軌道修正出来るに過ぎない。誰もそれまでの人生をリセットすることなど出来はしない。
     しかし、仏教はその軌道修正の仕方を提示する。その優れた方法を示す。そして、それが譬え遙かに思えたとしても、行くべき道の歩き方を教える。その道を行くか行かぬかは、あくまでその本人次第。
     誰も、自分は他人ではなく、他人は自分ではない。他人の人生を生きることは出来ず、他人の代わりに人生を生きることも決して出来はしない。→本文に戻る
  • 四諦[したい]…釈迦牟尼の根本教説。諦は「真理」の意。一般には苦集滅道[くじゅうめつどう]の四諦と云われる。あるいは、それが人をして苦海から脱さしめる聖なるものであるから、特に四聖諦[ししょうたい]という。
     それぞれ、この世の全ては苦であるという真理・苦の原因は(渇愛や無明を主とする)煩悩であるという真理・煩悩の滅があるという真理・煩悩を滅するに道という真理。仏陀のすべての教説は畢竟、すべてこの四聖諦に集約される。→本文に戻る
  • 三たび唱え玉う…なにか一つの事を尋ねるのに、三度同様の質問を繰り返すことがインド以来の伝統であった。
     なお、これを肯定するときは言葉を発せず、無言によって答える。この伝統は、現在も諸々の戒律関係の行事の中に引き継がれている。→本文に戻る
  • 阿㝹樓駄[あぬるっだ]…サンスクリット名Aniruddha[アニルッダ]もしくはAnaruddha[アナルッダ]、パーリ語Anuruddha[アヌルッダ]の音写名。仏陀の直弟子の一人。
     『維摩経』に基づき、支那・日本においては釈尊の十大弟子の一人として尊敬される人。釈尊の従兄弟であったという。漢訳経典では、多くの音写語名があって統一されていないが、阿那律との音写語名が一般的か。
     漢語仏教圏では、釈尊の説法の座にあって居眠りしたことを、釈尊から叱責され、以来決して眠らぬとの誓願を立てて実行したため、視力を失ったとされている。しかし、肉眼の視力は失ったが、かわりにモノの真なる有り様を見通す智慧の眼を得たという。→本文に戻る
  • 滅苦の道…八正道。サンスクリットāryâṣṭâṅga-mārga、もしくはパーリ語ariya-aṭṭhāṅgika-maggaなど原語に基づけば、正確には八聖道あるいは八支聖道である。本来は「正しい」ではなく「聖なる」である。
     八正道とはすなわち、①正見・②正思惟・③正語・④正業・⑤正命・⑥正精進・⑦正念・⑧正定の八つの修習。すべて「正しい」との語が冠されているが、それでは実に不明瞭であろう。実際、日本の俗間では、日本の僧職者や仏教学者などによって、例えば「正見とは正しくモノゴトを見ること、正しい見解のことです」などと、なんの説明にもなっていないことを平然と言うのみで済ます者が多々ある。
     けれども、伝統的にはそれらそれぞれが全く具体的に何であるかが説かれている。
     ①正見…苦についての知識、苦の根源についての知識、苦の滅尽についての知識、苦の滅尽へと導く道についての知識。すなわち四聖諦について正しく知り、理解すること。
     ②正思惟…離欲の思惟(俗世間で良しとされる価値観から離れた、離れんとする思い)、無瞋恚の思惟(怒りなき思い)、無害の思惟(害意なき思い)。思考についての戒め。
     ③正語…妄語(嘘)からの遠離、両舌・離間語(中傷)からの遠離、悪口・麁悪語(誹謗)からの遠離、綺語(無駄口・虚飾した言葉)からの遠離。発言についての戒め。
     ④正業…殺生からの遠離、偸盗(窃盗)からの遠離、邪淫(不倫や不特定多数の対象との性関係など不道徳な男女関係)からの遠離。身体的行為についての戒め。
     ⑤正命…邪な生業を捨て、正しい生業によって生計を立てること。
     在家者は正語・正業に従った職業に従事すること。出家者は四依法を原則とし、律や経の説く戒に従って生活すること。生活手段についての戒め。
     ⑥正精進…すでに生じ、あるいは未だ生じていない諸々の不善なる我が身心の有り様・行為を捨てるため、又はすでに生じ、あるいは未だ生じていない諸々の善なる身心の有り様・行為をさらに強め育むため、懸命に努力し、心を引き締めて克服すること。すなわち四正勤の修習。
     ⑦正念…身随観(身体は不浄に満ちていると随観)・受随観(すべての感受は畢竟苦であると随観)・心随観(心は無常であると随観)・法随観(すべてのモノゴトは非我であると随観)に住して、これらを熱心に、明らかに意識し、注意深く、この世における貪りと憂いとを調伏すること。すなわち四念住の修習。
     ⑧正定…欲と不善の法から離れ、尋・伺あって、離生の喜・楽を具える初禅に達し住すること。尋・伺が静まり内に信あり一心にして、尋・伺なく、定生の喜・楽を具える第二禅に達し住すること。喜を離れて捨に住し、念あり正知して、身楽を知る第三禅に達し住すること。苦楽を離れ、先の喜憂を滅し、不苦不楽・捨念清浄なる第四禅に達し住すること。すなわち四禅の修習。→本文に戻る
  • 更に余道なし…仏陀は人それぞれの能力と時機に応じて説法され、その教えは八万四千の法門とまで言われるまでに様々であると言われる。しかし、それは畢竟、四諦八正道に集約される。
     大乗において、空性・唯識・仏性・如来蔵等々が説かれ、悟りの内容あるいは諸法の真実相はそれぞれ相異なって説かれていたとして、結局それぞれで説かれる修修法が、八正道を逸脱することはない。世界の真相が四聖諦と異なることはないのである。→本文に戻る

現代語訳・脚注: 非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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