真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』

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1.原文

 五不忘念功德

汝等比丘。求善知識。求善護助。無如不忘念。若有不忘念者。諸煩悩賊。則不能入。是故汝等。常當攝念在心。若失念者。則失諸功德。若念力堅強。雖入五欲賊中。不爲所害。譬如著鎧入陣。則無所畏。是名不忘念。

 六禪定功德

汝等比丘。若攝心者。心則在定。心在定故。能知世間生滅法相。是故汝等。常當精進。修習諸定。若得定者。心則不散。譬如惜水之家。善治隄塘。行者亦爾。爲智慧水故。善修禪定。令不漏失。是名爲定。

 七智慧功德

汝等比丘。若有智慧。則無貪著。常自省察。不令有失。是則於我法中。能得解脫。若不爾者。既非道人。又非白衣。無所名也。實智慧者。則是度老病死海。堅牢船也。亦是無明黒暗大明燈也。一切病苦之良藥也。伐煩惱樹之利斧也。是故汝等。當以聞思修慧而自增益。若人有智慧之照。雖是肉眼而是明見人也。是名智慧。

 八究竟功德

汝等比丘。若種種戲論。其心則亂。雖復出家。猶未得脫。是故比丘。當急捨離亂心戲論。若汝欲得寂滅樂者。唯當善滅戲論之患。是名不戲論。

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2.読み下し

  五不忘念功徳

汝等比丘、善知識1を求め、善護助2を求めることは、不忘念3に如くは無し。若し不忘念ある者は、諸の煩悩の賊、則ち入ること能わず。是の故に汝等、常にまさに念を摂めて心に在くべし。

若し念を失する者は、則ち諸の功徳を失う。若し念力堅強なれば、五欲の賊中に入ると雖も、為に害せられず。譬えば鎧を著て陣に入れば、則ち畏るる所無きが如し。是を不忘念と名づく。

  六禅定功徳

汝等比丘、若し心を摂むる者は、心則ち4に在り。心定に在るが故に、能く世間生滅の法相を知る5。是の故に汝等、常にまさに精進して諸の定を修習すべし。

若し定を得る者は、心則ち散ぜず。譬えば水を惜しむの家は、善く隄塘6を治するが如し。行者もまた爾なり。智慧の水の為の故に、善く禅定を修め漏失せざらしむ。是を名づけて定と為す。

 七智慧功徳

汝等比丘、若し智慧7あれば則ち貪著無し。常に自ら省察して、失わることあらせしめず。是れ則ち我が法の中に於いて、能く解脱を得。若し爾らざる者は、既に道人に非ず。また白衣に非ず。名づくる所無し。

実智慧は、則ち是れ老病死海8を度る堅牢の船なり。また是れ無明黒暗の大明燈なり。一切病者の良薬なり。煩悩の樹を伐るの利斧なり。

是の故に汝等、まさに聞思修の慧9を以て而も自ら増益すべし。若し人智慧の照あれば、是れ肉眼なりと雖も而も是れ明見の人10なり。是を智慧と名づく。

  八究竟功徳

汝等比丘、若し種種の戯論11は其の心則ち乱る。また出家すと雖も、なお未だ脱することを得ず。

是の故に比丘、まさに急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝、寂滅の楽を得んと欲わば、唯だまさに善く戯論の患を滅すべし。是を不戯論と名づく。

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3.現代語訳

 五.不忘念の功徳

「比丘達よ、善知識を求め、善護助を求めることも大切であるが、不妄念ほどではない。もし不忘念があれば、諸々の煩悩の賊が(その心に)侵入することは出来ない。このことから、修行者達よ、常に集中して心を静かにせよ」

「もし念を失したならば、諸々の功徳を失うであろう。もし念の力が強固であれば、五欲という賊に侵入されたとしても、これに害されることはない。譬えば、鎧を着けて戦場に赴いたならば、畏れることがないようなものである。これを不忘念と名づけるのである」

 六.禅定の功徳

「比丘達よ、もし心をよく制したならば、心はすなわち定にある。心に定があれば、よく世間の生滅するモノゴトの真実なる姿を知る。このことから、修行者たちよ、常に精進して諸々の定を修習するべきである」

「もし定を得たならば、心が乱れることはない。譬えば水を大切にする家は、よく堤防を管理保全するようなものである。行者もまた同様である。智慧の水を得るために、正しく禅定を修めて(智慧という水を)漏らして失わせないのである。これを名づけて定というのである」

  七.智慧の功徳

「比丘達よ、もし智慧があれば(モノゴトを)貪り執着することはない。常に自らを省察し、智慧を失うことのないようにしない。そのような者は、私の教えの中において解脱を得るであろう。もしそうでない者ならば、すでに出家修行者ではない。また在家信者でもない。名づけようのない者である」

「真実の智慧とは、この老い・病い・死の海を渡る堅牢な舟である。または無明という暗闇における大いなる灯明である。すべての病苦の良薬である。煩悩という樹を伐採する鋭利な斧である」

「このことから、修行者達よ、まさに聞・思・修の智慧をもって、自らまたそれを磨き強めなければならない。もし人に智慧の輝きがあるならば、それがたとい肉眼であったとしても、その人は真理を明らかに見る人である。これを智慧というのである」

  八.究竟の功徳

「比丘達よ、もし様々に無意味な議論をしたならば、その心は乱れる。(心が乱れたままであれば)出家したといっても解脱することは出来ない」

「このことから、修行者たちよ、まさに速やかに心を乱す無意味な議論を止めるべきである。もし汝が、寂滅の安楽を得ようと願うならば、ただまさに無意味な議論による患いを滅ぼすべきである。これを不戯論と名づけるのである」

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4.語注

  • 善知識[ぜんちしき]…仏道に導き、悟りへと誘う師。知識とあるが、これはただ単に知識量が豊富な人を意味しない。あくまで人の師として涅槃に導き得る、善き豊かな智慧を持つ人のこと。→本文に戻る
  • 善護助[ぜんごじょ]…善護助なる語は一般的でなく、その他の経典にある語でないためにその意味は判然としない。世親菩薩によると伝説される『仏遺教経』の注釈書『遺教経論』にも、善護助とは何かを説明しない。
     しかし、文脈から見てこれは、仏道を共に歩み切磋琢磨する友、同法侶のことであろう。→本文に戻る
  • 不忘念[ふもうねん]…念とは、サンスクリットsmṛti、あるいはsatiの漢訳語。心に留めて忘れないこと。不忘とは念の働き、すなわち「忘れないこと」「失わないこと」をそのまま形容した語。
     たとえば今現在己が行っている諸々の動作、自分の身心の動き、たとえば呼吸あるいは歩く動作などに意識を向け、注意深くすること。そうすると経文にある通り、念の確立されているときは、五欲に心が囚われ惑わされることはない。それは譬えば、なにかを手に固く握って離さないでいるときには、他の何ものも掴み得ないようなものである。
     念を保っている間は、五欲の賊が付け入る隙はない。しかし、念を失えばたちまち五欲がその掌中に入り込み、自らもそれを望んで掴み離さないこととなり、ついに自らを利す筈が自らを傷つけることとなる。
     念についての詳細は、別項“念とは何か・sati/マインドフルネスとは何か”を参照のこと。→本文に戻る
  • 定[じょう]…サンスクリットもしくはパーリ語samādhiの漢訳語。これにはまた三昧もしくは等持との音写語もあって共によく用いられる。同義語に、心一境性〈cittaikāgratā〉・等引〈samāhita〉・等至〈samāpatti〉・止〈śamatha〉、そして現法楽住〈dṛṣṭadharmasukha-vihāra〉がある。
     サンスクリットdhyāna、あるいはパーリ語jhānaの漢訳語である禅那すなわち禅もまた、まぎれもない定すなわち三昧ではあるが、仏教では特に定の内でも特定の深い冥想の境地、深く集中した心の状態を指す。詳細は別項“禅について”を参照のこと。→本文に戻る
  • 心定に在るが故に…ここで言われていることは、逆に心が定になければ「能く世間生滅の法相を知る」ことが出来ないということである。止観についての理解に通じるものである。→本文に戻る
  • 隄塘[たいとう]…堤防。→本文に戻る
  • 智慧[ちえ]…サンスクリットprajñā あるいはパーリ語paññāの漢訳語。この場合、音写語として般若がある。あるいはまた、サンスクリットjñānaの漢訳語。時にjñānaが智prajñāが慧と訳されることがあるが、その逆もまたあり一定しない。
     智慧とは、一般的な知識も含めて言われるのであるが、特には無常・苦・空・無我なるモノゴトの真実を認識する心の働きのこと。解脱に益する知恵、洞察力、知識のことを般若すなわち智慧という。→本文に戻る
  • 老病死海[ろうびょうしかい]…生まれ・老い・病み・死ぬことを、あたかも果てしなく押し寄せる波のごとくに繰り返して脱することが出来ない我々の人生が、否定的な意味で海のようなものであることを言う言葉。同じ意味で苦海ともいわれる。→本文に戻る
  • 聞思修[もんししゅ]の慧…仏陀の教えについて聞き(聞法)、考え(思量)、それらに基づいて定を修する(修定)ことによって生じる三種の智慧。三慧という。→本文に戻る
  • 是れ肉眼なりと雖も云云…「肉眼なりと雖も」とは、仏陀や菩薩・阿羅漢はもとより四禅に至った瑜伽行者が備えるという五神通の一つたる、天眼通に対しての語。天眼通を得たものは、例えば遠く離れた場所で起こっていることなど、普通は見ることができないものを見ることが出来るという。
     ここでは、しかしそのような天眼通を得てはいなくとも「若し人智慧の照あれば」、明見すなわちモノゴトの真理を達見する人であると説かれているのである。→本文に戻る
  • 戯論[けろん]…サンスクリットprapañca、あるいはabhilāpyaまたはākhyāyakaなどの漢訳語。概念によって念入りに作り上げられたもの。すなわち形而上学あるいは形而上学的義論のこと。
     あるいは、形而上学に関わらずとも決定的結論を出し得ない無意味な論争。それらは証明することも出来ず、また両者ともに結論することも出来ないために不毛である。それに関わり拘る者には心の平安がない。
     巷間、やたらと自説に対する事物・人物にむしろ積極的に関心を持ち、それを論難・論破することに血道を挙げる者がある。しかし、それらは結局徒労であって意味をなさない。ただその者の傲慢・驕慢をはぐくむに過ぎないであろう。→本文に戻る

現代語訳・脚注: 非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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