真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』

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1.原文

 三成就出世間大人功德分八初少欲功德

汝等比丘。當知多欲之人。多求利故。苦悩亦多。少欲之人。無求無欲。則無此患。直爾少欲。尚應修習。何況少欲。能生諸功德。少欲之人。則無諂曲。以求人意。亦復不爲諸根所牽。行少欲者。心則坦然。無所憂畏。觸事有餘。常無不足。有少欲者。則有涅槃。是名少欲。

 二知足功德

汝等比丘。若欲脫諸苦悩。當觀知足。知足之法。卽是富樂安隱之處。知足之人。雖臥地上。猶爲安樂。不知足者。雖處天堂。亦不稱意。不知足者。雖富而貧。知足之人。雖貧而富。不知足者。常爲五欲所牽。爲知足者之所憐愍。是名知足。

 三遠離功德

汝等比丘。欲求寂静。無爲安樂。當離憒閙。獨處閒居。靜處之人。帝釋諸天。所共敬重。是故當捨己衆他衆。空閒獨處。思滅苦本。若樂衆者。則受衆惱。譬如大樹衆鳥集之。則有枯折之患。世間縛著。没於衆苦。譬如老象溺泥。不能自出。是名遠離。

 四精進功德

汝等比丘。若勤精進。則事無難者。是故汝等。當勤精進。譬如少水常流。則能穿石。若行者之心。數數懈廢。譬如鑽火未熱而息。雖欲得火。火難可得。是名精進。

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2.読み下し

  三成就出世間大人功徳分八初少欲功徳

汝等比丘、まさに知るべし、多欲の人は多く利を求むるが故に苦悩もまた多し。少欲の人は求め無く欲無ければ、則ち此の患い無し。直爾少欲すら尚おまさに修習すべし。何に況や少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。

少欲の人は、則ち諂曲して以て人の意を求めること無し。また諸根の為に牽かれず。少欲を行ずる者は心則ち坦然として、憂畏する所無し。事に触れて余りあり。常に足らざること無し。少欲ある者は、則ち涅槃1あり。是を少欲と名づく。

  二知足功徳

汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すと雖も、なお安楽とす。不知足の者は天堂に処すると雖も、また意に称わず。不知足の者は富むと雖も、而も貧しし2

知足の人は貧ししと雖も、而も富めり。不知足の者は常に五欲の為に牽かれて、知足の者の為に憐愍せらる。是を知足と名づく。

 三遠離功徳

汝等比丘、寂静・無為・安楽を求めんと欲せば、まさに憒閙3を離れて独処閒居4すべし。静處の人は帝釋5諸天6共に敬重する所なり。是の故にまさに己衆・他衆を捨てて空閒に独処して、苦の本を滅せんことを思うべし。

若し衆を楽う者は、則ち衆悩を受く。譬えば大樹の衆鳥、之に集まれば則ち枯折の患いあるが如し。

世間の縛著は衆苦に没す7。譬えば老象の泥に溺れて、自ら出ること能わざるが如し。是を遠離と名づく。

  四精進功徳

汝等比丘、若し勤め精進するときは、則ち事として難き者の無し。是の故に汝等、まさに勤め精進すべし。譬えば少水も常に流るるときは則ち能く石を穿つが如し。

若し行者の心、数数懈廢すれば、譬えば火を鑽るに未だ熱からずして而も息めば、火を得んと欲すと雖も火得べきこと難きが如し。是を精進と名づく。

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3.現代語訳

 三.成就出世間大人功徳分八
 初.少欲の功徳

「比丘達よ、まさに知るべきである、多欲の人は、多くを求めるがために苦悩もまた多い。少欲の人は、求めることなく欲することないために多欲の人のような憂いがない。すぐにでも少欲をこそ修習すべきである。少欲がよく諸々の善功徳を生じることは言うまでもない」

「少欲の人は、諂いおもねって他者に気に入られようとすることは無い。また、(色形や香り等の)諸々の感覚に心を囚われることもない。少欲を行じる者は、心が坦々として憂いや恐れることが無い。何事につけゆとりあり、常に足りないと不満であることが無い。少欲の者にはすなわち涅槃がある。これを少欲と名づけるのである」

  二.知足の功徳

「比丘達よ、もし諸々の苦悩から脱却せんと欲するならば、よく知足の教えを観ぜよ。知足の法とは、富楽にして安穏へと導くものである。足ることを知る人は、地面で寝るような暮らしであっても、なお安楽である。足ることを知らない者は、たとえ神々の家で暮らしたとしても満足することはない。足ることを知らない者は裕福であっても(心が)貧しい」

「足ることを知る人は、貧しくとも心豊かである。足ることを知らない者は、常に五欲に振り回され、足ることを知る者から憐まれる。これを知足と名づけるのである」

 三.遠離の功徳

「比丘達よ、もし寂静にして無為なる安楽を求めるならば、まさに喧噪を離れて人気の無き閑静な地に住まうがよい。静寂な地を好んで道を修める人は、帝釈天や諸々の神々が篤く敬うところである。このことから、家族や友人など様々な人々との関わり交わりを捨て、ひっそりとして静かな地に独り住まい、苦の根源を滅することを願うが良い」

「もし人々との交わりを喜ぶようであれば、様々な悩みに苛まれるであろう。譬えば、大きな樹に多くの鳥が群がれば、折れたり枯れたりする患いがあるようなものである」

「世間への束縛・執着は、諸々の苦悩に沈ませるものである。譬えば、老いた象が泥沼にはまって溺れ、自分で出ることが出来なくなるようなものである。これを遠離と名づけるのである」

 四.精進の功徳

「比丘達よ、もし勤め励んで精進したならば、事として成就できないことはない。このことから、修行者たちよ、まさに勤め励んで精進せよ。譬えば、少量の水であっても常に流れつづければ、石に穴を穿つようなものである」

「もし行者の心が度々なまけて怠ったならば、それは譬えば、火を摩擦熱によって起こそうとしているのに途中で止め、火を起こそうとしているのに火を得ることが出来なくなるようなものである。これを精進と名づけるのである」

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4.語注

  • 涅槃[ねはん]…涅槃とは、サンスクリットnirvāṇaあるいはパーリ語nibbānaなどの音写語。サンスクリットの語源解釈からするとnir + √vāであって、その原意は「吹き消すこと」である。
     仏教においては一般に、輪廻〈saṃsāra〉を継続する業が全く滅された状態、あるいはそのような状態になったままで死を迎えることを涅槃という。それはそれぞれ、まだ業果としての生きるべき身体があることから有余依涅槃、そのような身体も無くなることから無余依涅槃と言われる。
     もっとも、ここに「少欲ある者は、則ち涅槃あり」と説かれているように、涅槃とはどこか遠くに存在する、たとえば一般に天国と言われるような場所、桃源郷、異次元の理想郷などではない。
     そして、仏教で一般的に言われるように全く解脱した者の心的状態やその死だけを意味するものでもなく、それがたとい全きものでなく、またそれが一時であったとしても満足を知る人の心には、その原義どおりに「心に煩悩の炎が吹き消された状態」・「心騒がず平安である状態」があり、それもまた時に涅槃と言われるのである。→本文に戻る
  • 不知足の者は云云…足らない、満足しない者とは一体どういう者であろうか。それは我々ほとんど皆全てである。我々は、「欲しがる者」である。
     欲しい、まだ足りない、もっと、という欲望が、人に非建設・非現実的な方向で現出し、それに基づいた行為が行われたならば、結果するのは結局不満足、苦しみのみである。そしてそれを満たすためにまたさらに求め続け、不満足をやり通す。
    夏目漱石は、小説『吾輩は猫である』の中でかくのように言う。「積極的と云ったって際限がない話だ。いつ迄積極的にやり通したって、満足と云ふ域とか完全とか云ふ域にいけるものぢゃない。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないが、つまりは不満足で一生を暮らす人の作った文明さ」。これは、作中に登場する八木独歩の言である。漱石は作中の人の口を使って、当時自らがイギリスで見て感じたこと、そして当時の日本で流行したなんでも西洋流をすることがありがたくて高尚であるとあるとする潮流の中で思ったことを述べさせているのであろう。
     さて、反面、そのような人の欲求が文明社会の「進歩」を支え、我々はその利を享受しつづけているのも事実である。
     欲、と一口に言ってもそれは生命が生来備えるあたりまえの精神活動であり、またその現れ方は様々である。悟りを求めることも欲求で、およそ人は欲求なしに何事かを為すことなど出来はしない。故にこれは方向性の問題でもある。それが結局、いかなる果をもたらすかということが大事であって、その場合、近代より言われるような合理不合理をやたらと持ちだしても意味は無い。→本文に戻る
  • 憒閙[かいにょう]…憒は「みだれている」・「混乱している」の意、閙は「さわがしい」の意。→本文に戻る
  • 独処閒居[どくしょげんご]…ひっそりとした山林、ひと気の無い静かな土地で独り修行することを勧めることは、特に仏教に限って説かれることではない。それは古代インドの大叙事詩Mahābharata(『マハーバーラタ』)にも見られるように、バラモン教の修行者も等しく説いていたことである。
     仏典ではこの様な場所をサンスクリットでaraṇyaといい、漢訳仏典では音写語として阿蘭若[あらんにゃ]という。遠離処・寂静処などはその漢訳語。
     もっとも、そのような場所は、都会や町村からあまり遠くにあってはならない。僧侶が托鉢するにも在家の集落があまりに遠く、また在家者が布施しに来るにもあまりに不便であるからである。世俗から隔絶された場所でなく、かつ世俗の喧噪からは離れた場所がもっとも良いとされている。一般にイメージされるような、人里から遠く離れ隔絶された地で修行など、現実として出来はしないのである。→本文に戻る
  • 帝釈[たいしゃく]…インドの神indra。一説に神々の王、天空の王などと言われ雷槌をその武器とするとされる。仏教においては、仏陀が成道後、人々に説法することを躊躇われていたのを梵天と共にその前に現れ、その説法を乞い願ったのが帝釈天であったとされる。このことから、特に梵天と帝釈天とは、仏教を守護する神として見なされてきた。→本文に戻る
  • 諸天[しょてん]…もろもろの神々。仏教において、神とは人々に救いをもたらす存在などではない。それは人より長大な寿命と能力を有する霊的存在とはされるものの、やがては死すべき者、いまだ悩み苦しみある存在であって、その点では我々とまったく同一であるとされる。
     そのような存在たる神々が、解脱を求めて静処において独り修行に励む人々を敬し護るであろうと仏教では考えられている。→本文に戻る
  • 世間の縛著は衆苦に没す…仏教において世間における諸々の活動は、畢竟すべて無価値なものでしかない。世界は美しい、そのように人に感じられることは事実である。実際、仏陀釈尊もまた、ご自身の滅度を意識された最後の旅において、世界の美しさを歎じられたのであった。そして、人の懸命なる営みはときに美しく崇高である、そのように人に感じられることも事実であろう。けれども、いくら人がそこに懸命に何かを見出そうとしても、人生に生来的な意味などないのである。
     これを無理に「いや、世間はすばらしい」「人の、社会の営みはすばらしい」「仏教は、そのような世間に積極的に働きかけるものでなければならない」などと主張する者もあろう。そのようは主張を主として経済的理由から、社会的役割・存在意義を拡大させようとしなければならないこともあるのだろう。しかし、本来的に仏教はそのようなものではないのである。
     無論、仏教が世間での価値観、一般社会における諸々の慣習や義務などを、一概に否定することはない。けれどももし、解脱を求め、ましてや在家から出家して修行者となったならば、それらはもはやその目的を成就するための足かせ、苦しみのもといとしかならない。
     世界の人皆が解脱を求めることなどないであろう。また、解脱に対する憧憬を懐く者はあっても、しかし世俗の様々なしがらみを全く捨てて出家するほどの決意や強い欲求を持てない者のほうが多くあろう。いや、たとい出家したとしてもそのような世間への未練や執着を捨てきれず、断ち切れない者も多くある。しかし、それは無論ここでも説かれているように、出家者としてあるべきでない有り様なのである。
     その故に仏教では、在家と出家とのあり方がある。仏陀は、闇雲に誰かれ構わず悟り・解脱を勧めたわけではなかった。ある場合には、ただ後世の少しでも安楽なる処、たとえば天に転生することを勧めるのみに留めた。無論、解脱は仏教徒にとっての究極的な目的であるけれども、概して人はすべからく悟りを目指すべき、ともされなかったのである。
     何故か。それは、人の気根は万差であるから。現実に人すべてがいくらそれが究極の平安だからと言っても、それを望まず、またそれを果たせないものが多くあるためである。同じ人であっても、その時の状況や心情などによって、ままならないことがあるは言うまでもないであろう。その故に、それを果たせない、あるいはそこまでは望めない在家信者が出家修行者を経済的に支え、また出家修者は後世に伝えるべく法を護持し、また在家信者に折々にその法を説き示して娑婆の苦しみを減らすことを勧めるのである。
     現代の日本における僧職者らに決定的に欠けているのは、自身らが本来は僧宝のうちの一員であるということの自覚である。その故に、地縁や血縁などの縁故を持たない僧侶相手にはほとんど歯牙にもかけず、敬意などまったく払わないということがあるのであろう。
     もっとも、そのような僧宝の一員となるのに絶対必要不可欠な具足戒を受けてもおらず、たとえば現在の律宗の人々がそうしているように万一受けたとしてもそれをたちまち端から破ってしまうようでは、決して僧宝たりえないのだけれども。
     それにしても、そのようなあり方をし続けているにも関わらず、自身をして仏教僧であると自称することは、まったく恥を知らぬ者だということになるであろう。→本文に戻る

現代語訳・脚注: 非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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