真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』

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1.原文

 五誡瞋恚

汝等比丘。若有人來。節節支解。當自攝心。無令瞋恨。亦當護口勿。出惡言。若縱恚心。則自妨道。失功德利。忍之爲德。持戒苦行。所不能及。能行忍者。乃可名爲有力大人。若其不能歡喜。忍受。惡罵之毒。如飮甘露者。不名入道智慧人也。所以者何。瞋恚之害。則破諸善法。壞好名聞。今世後世。人不喜見。當知瞋心。甚於猛火。常當防護。勿令得入。劫功德賊。無過瞋恚。白衣受欲。非行道人。無法自制。瞋猶可恕。出家行道。無欲之人。而懷瞋恚。甚不可也。譬如冷雲中。霹靂起火。非所應也。

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2.訓読文

  五誡瞋恚

汝等比丘、若し人あり来たって節節に支解1するも、まさに自ら心を摂めて、瞋恨1せしむること無かるべし。

またまさに口を護って悪言を出すこと勿るべし。若し恚心を縱にすれば、則ち自ら道を妨げ、功徳の利を失す。忍の徳2たること、持戒苦行も及ぶこと能わざる所なり。能く忍を行ずる者は、乃ち名づけて有力の大人3と為すべし。

若し其れ悪罵の毒を、歓喜し忍受して甘露を飲むが如くすること能わざれば、入道智慧の人と名づけず。所以者何、瞋恚の害は則ち諸の善法を破り、好名聞を壊ぶる。今世後世、人見んことを喜わず。

まさに知るべし、瞋心は猛火よりも甚し。常にまさに防護して、入ることを得せしむること勿るべし。

功徳を劫る賊は、瞋恚に過ぎたるは無し。白衣4は受欲、非行道の人なり。法として自ら制すること無きすら、瞋なお恕むべし。出家行道、無欲の人にして而も瞋恚を懐くは甚だ不可なり。譬えば青冷の雲の中に、霹靂火を起こす5は所応に非ざるが如し。

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3.現代語訳

 五.瞋恚の誡め

「比丘達よ、もし何者かによって自らの手足をバラバラに切り裂かれたとしても、よく自分の心を制して、怒り・怨んではならない」

「また、まさによく口を慎み、粗暴な言葉を発してはならない。もし怒りの心を制しなければ、それは自ら仏道を妨げて、諸々の功徳を失うこととなるのだ。堪え忍ぶという徳には、戒を持って苦行することすらも及ばないほどである。よく堪え忍ぶことを行う者は、これを名づけて有力の大人とするべきである」

「もし他者からの罵詈雑言という毒をむしろ喜んで受け、あたかも甘露を飲むように受け入れることが出来ないならば、入道智慧の人とは言えないのである。なんとなれば、怒りの害は、よく諸々の善法を破り評判を損なうのだから。そして、現世だけでなく来世においても、(怒りを制せられない者など)人々は眼にすることすら嫌うであろう」

「まさに知るべきである、怒りの心は猛火よりも甚だしい破壊をもたらすものであると。常によく(自心を怒りから)護って支配されぬように」

「功徳を盗み取る賊の中で、怒りに勝るものは無い。在家者は欲を楽しみ、道を修することのない人々である。宗教的徳義から自ら制することが無くとも、怒りは抑えるべきものとされているのである。出家して道を修め無欲を奉じる人であるのに、怒りの心を抱くことなど全くあってはならない。それは譬えば、澄み切った青空に浮かぶ白い雲であるのに、稲妻を発することがおかしいようなものである」

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4.語注

  • 瞋恨[しんこん]…怒り、恨むこと。場合によっては怒っても良い、ではない。どのような場合でも怒らないこと、それが仏教の勧めるところである。巷間では「仏の顔も三度まで」の意がまったく誤解されて理解されているが、それは決して同じお過ちを四度以上繰り返すような者に対しては怒っても良い、などという意味では全くない。
      叱ることと怒ることを混同する者がままある。その両者は見た目に違いがないことがある。しかし、そこに怒りの心があるかどうかで、両者は異なる。
     また、自身に怒りが無ければ、他者は怒りを持ち得ない、という者がある。仏陀は完全に怒りを起こさない人であったから、誰も仏陀に対して怒りを覚えることはないのだ、という人があるのだ。しかし、そのようなことはない。「釈迦に提婆」との諺があるように、いかに仏陀であっても、何者かからの憎悪の対象となったのである。→本文に戻る
  • 忍の徳…仏陀は説かれた、“Khantī paramaṃ tapo titikkhā, nibbānaṃ paramaṃ vadanti buddhā; Na hi pabbajito parūpaghātī, na samaṇo hoti paraṃ viheṭhayanto.(「忍辱は最上の苦行である。涅槃は最高のものである」と、諸々の仏陀は説く。他人を害する者は出家者ではない。他者を悩ます人は沙門ではない)”と(KN. Dhammapada, Buddhavaggo 184)。
     また、チベット仏教では一般に、自分に仇なす者、罵詈雑言を吐く者を「教師」であると思え、と教えられる。なんとなれば、そのような時にこそ自分本当の心の状態がわかり、その真価が問われるからであり、また忍辱[にんにく]という修行の場が提供されるからである。
     平常時、この世は娑婆すなわち忍土であるとは言え、人はそれほど「堪え忍ぶ」状況にはない。しかしながら、常には怒らず・怨まず、平穏に暮らせていても、自身に仇なす者が出現したとき、心はまったく乱れる。その時こそ、まさに修行の時である。どれだけ誹謗中傷の言葉を浴び去れたとしても、むしろその貴重な時を提供されたことを喜ぶのである。
     それは決して容易く出来ることではない。しかし、であるからが故にそれは最上の苦行となり、それを行うことの徳は高きものとなるのである。→本文に戻る
  • 有力[うりき]の大人[だいにん]…暴力や暴言をもって他者を圧する人ではなく、それらをよく耐え忍び、怒りを抑える人、よく忍辱を行う人こそ有力の大人、すなわち力ある立派な人であると賞賛される。
     もっとも、しばしばこれについて極端に理解する愚か者が生じるために敢えて言及するが、このような態度はあくまで個人においての話であり、これを組織や国家などに敷衍して言うことは現実として決して出来ない。実際、その昔、仏教徒であった国家の長たる王が望まぬ戦に臨んだ時、このような仏教の教えと葛藤したことがあった。己が決して望まぬとも、避けられない争いや戦が生じるのである。この世が忍土と呼ばれる所以である。→本文に戻る
  • 白衣[びゃくえ]…在家生活者。
     インドでは出家は壊色の袈裟を、在家は白い色の服装が一般的であったために、このように言う。これは支那でも同様である。
     玄人・素人という言葉があるが、これは本来「出家者・在家者」の意である。玄は鼠色・濃灰色で僧侶が着用していた墨染めの衣を、素は白色で在家者が着用していた服を表している。→本文に戻る
  • 霹靂[びゃくりゃく]火を起す…霹靂とは雷・稲妻のこと。
     普通、地上で雷鳴がとどろくのは、真っ黒な雲に覆われた時であって、澄み渡る青空で観察されるものではないからかく言う。一般に言われる「晴天の霹靂」とは意味が異なる。→本文に戻る

現代語訳・脚注: 非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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