真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Kesamuttisutta (Kālāma sutta)  ―カーラーマへの教え

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1.原文

Kesamuttisutta (4)

‘‘Sa kho so, kālāmā, ariyasāvako evaṃ vigatābhijjho vigatabyāpādo asammūḷho sampajāno patissato mettāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati, tathā dutiyaṃ, tathā tatiyaṃ, tathā catutthaṃ, iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ mettāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjhena pharitvā viharati.

‘‘Karuṇāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati, tathā dutiyaṃ, tathā tatiyaṃ, tathā catutthaṃ, iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ karuṇāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjhena pharitvā viharati.

‘‘Muditāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati, tathā dutiyaṃ, tathā tatiyaṃ, tathā catutthaṃ, iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ muditāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjhena pharitvā viharati.

‘‘Upekkhāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati, tathā dutiyaṃ, tathā tatiyaṃ, tathā catutthaṃ, iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ upekkhāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjhena pharitvā viharati.

‘‘Sa kho so, kālāmā, ariyasāvako evaṃ averacitto evaṃ abyāpajjhacitto evaṃ asaṃkiliṭṭhacitto evaṃ visuddhacitto. Tassa diṭṭheva dhamme cattāro assāsā adhigatā honti. ‘Sace kho pana atthi paro loko, atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, athāhaṃ kāyassa bhedā paraṃ maraṇā sugatiṃ saggaṃ lokaṃ upapajjissāmī’ti, ayamassa paṭhamo assāso adhigato hoti.

‘‘‘Sace kho pana natthi paro loko, natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, athāhaṃ diṭṭheva dhamme averaṃ abyāpajjhaṃ anīghaṃ sukhiṃ attānaṃ pariharāmī’ti, ayamassa dutiyo assāso adhigato hoti.

‘‘‘Sace kho pana karoto karīyati pāpaṃ, na kho panāhaṃ kassaci pāpaṃ cetemi. Akarontaṃ kho pana maṃ pāpakammaṃ kuto dukkhaṃ phusissatī’ti, ayamassa tatiyo assāso adhigato hoti.

‘‘‘Sace kho pana karoto na karīyati pāpaṃ, athāhaṃ ubhayeneva visuddhaṃ attānaṃ samanupassāmī’ti, ayamassa catuttho assāso adhigato hoti.

‘‘Sa kho so, kālāmā, ariyasāvako evaṃ averacitto evaṃ abyāpajjhacitto evaṃ asaṃkiliṭṭhacitto evaṃ visuddhacitto. Tassa diṭṭheva dhamme ime cattāro assāsā adhigatā hontī’’ti.

‘‘Evametaṃ, bhagavā, evametaṃ, sugata! Sa kho so, bhante, ariyasāvako evaṃ averacitto evaṃ abyāpajjhacitto evaṃ asaṃkiliṭṭhacitto evaṃ visuddhacitto. Tassa diṭṭheva dhamme cattāro assāsā adhigatā honti. ‘Sace kho pana atthi paro loko, atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, athāhaṃ kāyassa bhedā paraṃ maraṇā sugatiṃ saggaṃ lokaṃ upapajjissāmī’ti, ayamassa paṭhamo assāso adhigato hoti.

‘‘‘Sace kho pana natthi paro loko, natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, athāhaṃ diṭṭheva dhamme averaṃ abyāpajjhaṃ anīghaṃ sukhiṃ attānaṃ pariharāmī’ti, ayamassa dutiyo assāso adhigato hoti.

‘‘Sace kho pana karoto karīyati pāpaṃ, na kho panāhaṃ – kassaci pāpaṃ cetemi, akarontaṃ kho pana maṃ pāpakammaṃ kuto dukkhaṃ phusissatī’ti, ayamassa tatiyo assāso adhigato hoti.

‘‘‘Sace kho pana karoto na karīyati pāpaṃ, athāhaṃ ubhayeneva visuddhaṃ attānaṃ samanupassāmī’ti, ayamassa catuttho assāso adhigato hoti.

‘‘Sa kho so, bhante, ariyasāvako evaṃ averacitto evaṃ abyāpajjhacitto evaṃ asaṃkiliṭṭhacitto evaṃ visuddhacitto. Tassa diṭṭheva dhamme ime cattāro assāsā adhigatā honti.

‘‘Abhikkantaṃ, bhante! Abhikkantaṃ, bhante, seyyathāpi, bhante, nikkujjitaṃ vā ukkujjeyya, paṭicchannaṃ vā vivareyya, mūḷhassa vā maggaṃ ācikkheyya, andhakāre vā telapajjotaṃ dhāreyya – ‘cakkhumanto rūpāni dakkhantī’ti. Evamevaṃ bhagavatā anekapariyāyena dhammo pakāsito. Ete mayaṃ, bhante, bhagavantaṃ saraṇaṃ gacchāma dhammañca bhikkhusaṅghañca. Upāsake no, bhante, bhagavā dhāretu ajjatagge pāṇupete saraṇaṃ gate’’ti.

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2.日本語訳

『迦羅摩経』(四無量心を修めることの功徳)

「さて、カーラーマ達よ、かの聖なる弟子1は、このように貪欲から離れ去り、悪意から離れ去り、愚かしきことなく、正しく意識を保って2注意深く3慈しみと共なる思いを4、一つの方角に満たして住している。同様に第二の、同様に第三の、同様に第四の方角に(慈しみと共なる思いを満たして住している)。そのように、上に下に横に、あらゆる方角・すべての場所・すべての世界に、慈しみと共なる思いを、拡げ広大として限りなく、敵意なく悪意なくして、満たし住している」

思いやり5と共なる思いを、一つの方角に満たして住している。同様に第二の、同様に第三の、同様に第四の方角に(慈しみと共なる思いを満たして住している)。そのように、上に下に横に、あらゆる方角・すべての場所・すべての世界に、慈しみと共なる思いを、拡げ広大として限りなく、敵意なく悪意なくして、満たし住している」

「(他の幸福への)喜び6と共なる思いを、一つの方角に満たして住している。同様に第二の、同様に第三の、同様に第四の方角に(慈しみと共なる思いを満たして住している)。そのように、上に下に横に、あらゆる方角・すべての場所・すべての世界に、慈しみと共なる思いを、拡げ広大として限りなく、敵意なく悪意なくして、満たし住している」

「(自他に頓着すること無い)平静7と共なる思いを、一つの方角に満たして住している。同様に第二の、同様に第三の、同様に第四の方角に(平静と共なる思いを満たして住している)。そのように、上に下に横に、あらゆる方角・すべての場所・すべての世界に、平静と共なる思いを、拡げ広大として限りなく、敵意なく悪意なくして、満たし住している」

「さて、カーラーマ達よ、かの聖なる弟子は、このように敵意なく8、このように悪意なく9、このように心に穢れなく10、このように心清らか11である。彼には12今まさにこの世において13、四つの安堵14の証得がある。『もし、(死後の)他世15があり、善と悪との業16果報17があるならば、では私は、身体が壊れ死んだ後には、幸いなる天の世界に生まれ変わるであろう。』と、これが彼の証得した第一の安堵である」

「『もし、(死後の)他世など無く、善と悪との業の果報など無いならば、では私は今まさにこの世において、敵意なく、悪意なく、困難なく18安楽19であろうと、みずから気をつけていよう。』と、これが彼の証得した第二の安堵である」

「『もし、(誰かの手による)行いによって悪が為されていても、けれども私は誰かに対して悪を思いはしない。悪しき業が為されることがなければ 何処から苦しみが私に触れるであろうか?(いや、触れ得はしない。)』と、これが彼の証得した第三の安堵である」

「『もし、(誰かの手による)行いによって悪が為されていなければ、私は自らを清浄であると、双方の点で認める。』と、これが彼の証得した第四の安堵である。」

「カーラーマ達よ、かの聖なる弟子は、このように敵意なく、このように悪意なく、このように心に穢れなく、このように心清らかである。彼には、今まさにこの世において、これら四つの安堵の証得がある」

「そのとおりです、世尊よ、そのとおりです、善逝よ!かの聖なる弟子は、大徳よ、このように敵意なく、このように悪意なく、このように心に穢れなく、このように心清らかです。彼には、今まさにこの世において、四つの安堵の証得があります。『もし、(死後の)他世があり、善と悪との業の果報があるならば、では私は、身体が壊れ死んだ後には、幸いなる天の世界に生まれ変わるであろう。』と、これが彼の証得した第一の安堵です」

「『もし、(死後の)他世など無く、善と悪との業の果報など無いならば、では私は今まさにこの世において、敵意なく、悪意なく、困難なく、安楽であろうと、みずから気をつけていよう。』と、これが彼の証得した第二の安堵です」

「『もし、(誰かの手による)行いによって悪が為されていても、けれども私は――誰かに対して悪を思いはしない。悪しき業が為されることがなければ 何処から苦しみが私に触れるであろうか?(いや、触れ得はしない。)』と、これが彼の証得した第三の安堵です」

「『もし、(誰かの手による)行いによって悪が為されていなければ、私は自らを清浄であると、双方の点で認める。』と、これが彼の証得した第四の安堵です」

「かの聖なる弟子は、大徳よ、このように敵意なく、このように悪意なく、このように心に穢れなく、このように心清らかです。彼には、今まさにこの世において、これら四つの安堵の証得があります」

「大徳よ!すばらしいことです。大徳よ!すばらしいことです。大徳よ、あたかも倒れたものを起すかのように、覆い隠されたものを明らかにするかのように、迷った者に道を示すかのように、暗闇で灯火をかかげ、――『眼ある者は諸々のものを見るであろう』とするかのように、まさしくそのように、世尊は様々な仕方で法を明らめて下さいました。大徳よ、この我らは世尊に、また法に、また比丘僧伽に帰依します。大徳よ、我々を優婆塞20 として、今より以降一生涯にわたって、世尊は受け入れて下さいますように」

日本語訳:沙門覺應 (慧照)
(Translated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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3.脚注

  • 聖なる弟子ariyasāvaka. 仏陀の弟子。声聞。ここでは特に出家在家の別を問わず、ただ仏陀の弟子を意味するものであろう。→本文に戻る
  • 正しく意識を保って‘sampajāno’. 正知して。→本文に戻る
  • 注意深く‘patissato’(=paṭissata). 憶念して。今現在、自らが行なっていることに対して注意を向け、忘れずにいて、他のこと(「現在」と関しない妄想)に心を奪われないこと。→本文に戻る
  • 慈しみと共なる思いを…注釈書はこれを慈観の修習として“Visuddhimagga”(『清浄道論』)に説くところに譲っている。
     この慈しみから以下、思いやり・喜び・平静のいわゆる四無量心が説かれる。四無量心についての詳細は、別項“四無量心観”を参照のこと。また、関連する項に“Metta sutta(慈経)”ならびに“Metta bhāvanā(慈観)”、“Patthanā(願文)”がある。参照せよ。→本文に戻る
  • 思いやりKaruṇā. 漢訳では一般に悲。(自他の人々、その他あらゆる生物に対する)哀れみ、同情。→本文に戻る
  • 喜びmuditā. 漢訳では一般に喜。自他の幸福を喜ぶこと。→本文に戻る
  • 平静upekkhā. 漢訳では一般に捨。いかなることに対しても愛好・嫌悪せず、執着しないこと。怨親平等であること。→本文に戻る
  • このように敵意なくMA.‘evaṃ averacittoti evaṃ akusalaverassa ca puggalaverino ca natthitāya averacitto.’evaṃ averacitto[このように怨みなき心が]とは、このように不善で怨みある、怨みを晴らすべき人の不在によって、恨みなき心が、ということである。)
     誰に対しても恨み憎しみの思いを持たず、彼奴こそ敵であると心中に思うことがないこと。→本文に戻る
  • 悪意なくMA.‘Abyābajjhacittoti kodhacittassa abhāvena niddukkhacitto.’Abyābajjhacitto[悪意のない心が]とは、怒りの心が消え去ることによって、苦しみから自由である心が、ということである。)
     怒りに囚われた心は、己を拘束して狭く固いものとなって不自由である。心が固くなると身体も固くなり、思うままに動けなくなってさらに怒る。→本文に戻る
  • 心に穢れなくMA.‘Asaṃkiliṭṭhacittoti kilesassa natthitāya asaṃkiliṭṭhacitto.’Asaṃkiliṭṭhacitto[穢れのない心が]とは、煩悩の不在によって穢れのない心が、ということである。)→本文に戻る
  • 心清らかMA.‘Visuddhacittoti kilesamalābhāvena visuddhacitto hotīti attho.’Visuddhacitto[清らかな心が]とは、煩悩魔が消え去ることによって清らかな心がある、ということである。)→本文に戻る
  • 彼にはMA.‘Tassāti tassa evarūpassa ariyasāvakassa.’Tassa[彼には]とは、その如き聖なる弟子には、ということである。)→本文に戻る
  • 今まさにこの世において‘diṭṭheva dhamme’. diṭṭhadhammaは、一般に「現世」の意とされる。しかし直訳すれば「まさに見られるところの法(モノゴト)において」。そのようなことから「まさに現世において」、あるいは直訳を少々噛み砕いて「今、ここにおいて」と解しえる。→本文に戻る
  • 安堵assāsaをそのまま解すると「入息」あるいは「出息」であるが、転じて「安息する」「安心する」「慰め」との意としても用いられる。assāsaを出息の意と捉えた時、何故に安心・安堵を意味するのかを察するに、人は安心した時、息をついて「ホッとする」ことからきたのであろうか。注釈書ではこのように言う。MA.‘Assāsāti avassayā patiṭṭhā.’Assāsā[安堵が]とは、保護[助け]の拠り所が、ということである。)
     これを「確信」などと訳すのは違うように思われるし、ただ安心[あんしん]としたのでは少々語感として軽くなってしまうように思われ、好ましくない。あるいは安心[あんじん]と訓じて当てても良いかもしれないけれども、浄土教(真宗)が言うようなそれとは異なる意味であるので、やはり適切でない。ということで、今は一応、(なんのことはない)安堵と訳しておいた。あるいは注釈書の解釈を汲んで、「拠り所」としてもいいかも知れない。→本文に戻る
  • 他世[たせ]para loka. 来世。死んで後に生まれ変わる世界。→本文に戻る
  • 善と悪との業sukatadukkaṭa kamma. 業(kamma)とは行為の意。→本文に戻る
  • 果報phala vipāka. 異なって結果すること。原因となる行為の性質と、結果として生じる現象の性質とが、同じでなく現れること。例えば善なる行為に基づく結果は安楽であり、悪なる行為に基づく結果は苦しみとなること。→本文に戻る
  • 困難なくMA.‘Anīghanti niddukkhaṃ.’Anīghan[困難なく]とは、苦しみの無いことである。)→本文に戻る
  • 安楽MA.‘Sukhinti sukhitaṃ.’sukhiṃ[安楽]とは、幸福なることである。)→本文に戻る
  • 優婆塞[うばそく]Upāsaka. 漢訳では優婆塞と音写され、信士などと漢訳される。仏教の在家男性信者のこと。仏教徒のあり方、構成については別項“仏教徒とは何か(七衆)”を参照のこと。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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